っていうかぁ、新陳代謝? | 木村和人、パパ木村、或いは、キムキムと呼ばれる男。

木村和人、パパ木村、或いは、キムキムと呼ばれる男。

ほぼ三つの呼び名が存在しますが、ほぼ同一人物かと思います。

ここ三日ほど更新していないのにいつもより沢山のアクセスをいただいているようで、申し訳ありません・・・。
というわけで、内容如何にかかわらず、本日は怒涛の連投をする所存であります。

先日フラメンコのリハーサルの為草津市へ。
機材がカホンだけだったので久々の電車移動であります。
いつもより長い時間の乗車につき、何か本を読むべく書棚を物色。
ハードボイルドな気分であります。
学生時代に集めたチャンドラーものから、『さらば愛しき女よ』をチョイス。
軽妙と言うか皮肉交じりと言うか、こういうのをウィットっていうのですか?なんせ洒落た会話の妙と、乾いた空気感(いつも同じこと言ってるような気がしますがお許しを)に魅せられて、当時翻訳が出ているものは皆手に入れました。

それがどうでしょう、何か面白くないというか、当時のようにするすると文章が頭に入ってくる感じがしません。
これは、私の読解力が落ちたのかどうか、よく分りませんが、軽妙と思っていた会話すらもまどろっこしい。

ということで、私の読解力の低下云々と言うのを前提としますと、話が終わってしまいますので、無理矢理にでもそれは無いということにしてお話を進めますと、なんでしょう、文章から伝わってくるリズム感でしょうか。
言葉ってコミュニュケーションの道具として、意味をつかさどるものですが、その前に音なわけで、すぐ上の文では「リズム感」と書きましたが、リズムであると同時にメロディのようでもあって、だから韻を踏んだりとか、五七五みたいなルールであったり、が心地よかったりするのですが、どうもそういった感覚に乏しいような気がしてしまったのです。

ここで問題は、件の本が翻訳である、ということで、学生時代によく言われた「原語に当たれ」と言うのはこういうことだったかと、ま、ちょっと私の勝手な感触かも分りませんが、そのようなことではないかと合点した次第であります。

というわけで、また次回電車で移動がある際には、同じ頃に読んで感銘を受けた名訳といわれるものにチャレンジしてみようかと思いますが、どうも、大口をたたきすぎたので、今一度先ほどの書物を繰ってみましたところ、ごく数ページを読んだだけではありますが大変面白く進めることができましたので、さっきまでのは気のせいです。



イタリアオペラを原語で読む カヴァレリア・ルスティカーナ/武田 好