自分で考える価値観は、誰であっても自身の中で無視できないある種の正義であると思います。


その価値観にそって考えて行動して結果を出す。自分が生きるための指標のようなものだよね。

でもやっぱりそれがすべてではない。10人いれば10通りの価値観があって当たり前だ。


最近仕事で、知恵遅れ(あまり好きな言い方ではない)というか発達障害の人たちと接することがあります。

直接その人たちと仕事の打ち合わせをしたりするわけではないのですが、その人たちのちょっとした行動が時々はっとさせられることがあります。素直に笑ったり怒ったり泣いたり。たしかに人より出来ることは少ないのかもしれないけど、今の自分にはないものをたくさん持っているように感じるためです。


そういった人たちであってもやっぱり価値観をきちんと持っている。自分だけの正義。

自分の価値観だけを押し通そうとすれば、当然摩擦も起きるし反感も買う。相手にだって価値観があるわけだから当然のこと。お互いの価値観を尊重しあいながら妥協点を探るか、どちらを選択するか正劣を討論するか。そこから逃げれば社会からは取り残されるし、自分の中のちっぽけな価値観がすべての人生になることだろう。


自分自身を振り返ってみて、上司や先輩から怒られたり嫌味を言われたりしたとき、むかついたりやる気を失ったりします。まあ多分オイラだけではないと思うけど。


でも最近思うのです。「俺は何でむかついてるんだろう」「俺は何でやる気を失ってるんだろう」と。


そこには自分自身の価値観やプライドが大きく居座って、まわりの意見を排除していないだろうか。つらいことや面倒なことから逃げ回ってあーだこーだと言い訳していないだろうか。見て見ぬフリをしていないだろうか。感情のままむかついて悪態をついて、それを抑えられない人にはなりたくないものです。そんな感情のまま突っ走る人も仕事関係の人でいます。でもその人にだってやっぱり自分の正義があるわけです。その価値観が「感情のまま突っ走れ」と命令するからそうなるんだろうからね。


その人が望むものは何なのか。何に対して怒りを持つのか。どうしてほしいのか。

言葉だけでは表しきれない様々な価値観を汲み取ってあげることがコミュニケーションの真髄なのかもしれない。今の自分には到底無理なんだろうけど、それをするためには自分自身が何色にも染まっていない状態でなければ、相手の価値観を正しく汲み取ることはできない。


「心が綺麗な人」というと「やさしい」とか「温厚」みたいな良いイメージが思い浮かびますが、本当はそういった澄んでいて正しく相手の価値観を把握できる心の持ち主のことを言うのかもしれないなと。