悟の領への恋心は


日に日につのるばかりであった。


また領も。


客間を与えられているにもかかわらず


悟のベッドで


柔らかな身体を抱きしめて眠るという


甘い誘惑には到底逆らえなかった。


その温もりを手にして


胸の甘いトキメキに身を任せ


幸せな微睡みの中で朝を迎えた。


惹かれあう若いふたりには


男同士であるということさえ


それほど大きな壁に見えていなかった。







一方、芦屋の家には。


この人もいた。


悟の母親、律である。


律にとって


硬質のピアノは律そのものであった。





いや・・・本当は。


ピアノ以外にもかけがえのないものを


たくさん持っていたのだが・・・


ただ当たり前に在り過ぎた。


愛すべき息子も。


優しい夫も。


自分以上に完璧すぎる祖母、和も。






悟の母、律は。


元来とても真面目で硬質な人である。


結婚する時には


グランドピアノが大きなお荷物となった。


夫の実家には夫の兄夫婦が居たし


当時夫が住んでいた伊丹の教員住宅には


大き過ぎて持ち込めなかった。


しかも当時の伊丹は。


住宅密集地の空港問題


飛行機の騒音への集団訴訟など


「音」についてセンシティブな面があった。


夫のアップライトピアノがあるというが


若い日の律にとって唯一の財産である


「学」入りグランドピアノを


そう簡単に手離せる訳がなかった。





グランドピアノか、結婚か。





京都の実家では皆が結婚を勧めた。


三人姉妹の真ん中


下の妹も結婚を控えている。


折角の縁談である。


しかもお相手も音楽を解している。


難しい律にとって他のどんな人よりも


律の硬いピアノを包み込んでくれる


心安らぐ相手であった。





律「だけどグランドピアノが・・・」





いつまでも結婚に踏み込めない孫娘に


とうとう祖母である和が声をかけた。





和「ほんなら、うちに来るか。


グランドピアノごと、旦那ごと


律ちゃんも幸せにおなり」





和も律の幸せを心から願っていた。


伊丹の教員住宅からよりも


芦屋の岩園町からの方が


律の夫の勤務先も実家も近かった。


岩園のお屋敷には防音工事が施された。


窓は二重になり


ピアノを運び入れる為に床も補強された。





誰かの思惑が働いた訳ではないが


台所仕事も育児も


律の仕事ではなかった。


一家に主婦はふたり要らなかった。


そのことは幸か不幸か


ますます律にピアノの道を極めさせた。





悟は生まれたその日から


母である律よりも


曾祖母である和に懐いた。


なにしろ律だけでなくその親も含めて


多くの赤子の世話をしてきた和である。


律以上に完璧なのだ。


早朝から洗濯・掃除を済ませてしまう。


糠床から佃煮までも手作りしてしまう。


明治から昭和にかけての


激動の時代を生き延びてきた和には


円熟した大人の思慮分別が備わり


根底には何より大きな愛があった。





そんなスーパー婆さん和の家に。


本家筋の大事な子息がやってくる。


律は温かく迎えようとした。


親切に、丁寧に、を心がけた。


はじめのうちは。





しかしそう長くは続かなかった。


そこまで成熟できていなかった。


律もまだ子どもだったのだ。


明治生まれの和からしたら


まだまだ若くまだまだ未熟なまま


それでも律は赦されていたのだ。





領との冷戦は図らずも始まっていた。





まず。


音楽室の取り合いになった。





ピアノ教室を営んでいる以上


日中の防音室は生徒さんのお稽古優先だ。


それに加えて


それぞれのピアニストが基礎練習をする。


夫には勤め先中学校のピアノがあった。


領も夜中に弾くことで


なんとか折り合いをつけようとした。





律「いや・・・ダメよ。


そんな練習量じゃ・・・ダメなのよ」





律はピアノへの拘りが強過ぎた。


ピアノの硬さ、音質、調律。


そして何より絶対的な練習量。


それら全てが律の思う基準以上でないと


許せなかった。


完璧主義は律のピアノを研ぎ澄ませたが


諸刃の剣でもあった。






領の弾くピアノに対して


苦言を呈したいにもかかわらず


それを言ってしまってはいけない、と


なんとか自制しようとした。




なんといっても「律」である。


名は体を表す。


自分をも律する人なのだ。





「今の16分休符・・・遅かったわ」


「どうして楽譜通りに弾かないのかしら」





律の心の声は漏れ始めていた。





自分の産んだ息子であれば。


ナイフのような感情もそのまま


ヒステリックにぶつけられたものを。




自分以外の家族は


穏やかな領とうまくやっている。


夫は領のピアノを認めている。


息子の悟も領に夢中になっている。


領の家から届く北海道のめぐみ。


和への遠慮。


だけど許せない領のピアノ・・・


領の弾くピアノのリズムも強弱も何もかもが


律の何かを狂わせた。


悟の母親は心と身体のバランスを


崩してしまった。





それはまだ領が芦屋の家に来て僅かな


最初の春のことだった。


静かな朝を破るヒステリックな声が


芦屋の岩園に轟いたのは。





律「あなた達!!何をしているの?」





いつも通り


領の腕の中で目を覚ました悟は


ワナワナと震える母親に気付いた。





悟「母さん、おはよう」


領「おはようございます」





律は壊れてしまっていた。





そしてそのことは


若く睦まじいふたりの仲を


無情にも引き裂いていく。





*ララァさんのお写真です*





芦屋には


ひらひらと桜舞う弥生のこと


高校の卒業式のために


領が一時的に北海道へと帰った。





そしてその後。


領が再び芦屋の家に足を運ぶのは


ずっと先のことになる・・・





悟の切ない恋心は


ひらひらと舞う桜の花弁の中を


京都に


そして淡路へと向かわせる。





他でもない領の面影を求めて・・・






《第一章お終い》





明日から第二章『銀波』をお送りします。