この映画が出てきてすでに10年という事実が今更だ。
キム・デジュン前大統領とキム・ジョンイル国防委員長が堅く握手を交わした、
6.15南北首脳会談によって新しい南北関係が造成された2000年。
[共同警備区域JSA]は'時代の映画'になったし、パク・チャンウク監督は、
この映画を通じて商業映画圏に無事に到着する事ができた。
分断の現実と戦争の恐怖を話す[共同警備区域JSA]をまた見る。
この文にはスポイラーがあります。映画を見られない方は、参考にして下さい。
分断時代の悲しい肖像、パク・チャヌク監督の[共同警備区域JSA]を、
また見る事、反共映画、分断映画
韓国映画社でジャンルでないジャンルがあるならばすぐに'反共映画'であろう。
共産主義の非人間性と残酷さを表わす為に作られた反共映画は、
善悪の2分法的思考に立った映画らだった。
解放以後、たゆまなくさせた反共映画は国家によって支援されたし、
一時は大鐘賞授賞式に反共映画部門が別々にあった。
1990年代に入り込みながら反共から抜け出して分断を考える映画が登場する。
チョン・ジヨン監督の[南部軍](1990)は代表的な映画で、
朝鮮戦争当時パルチザンの姿をリアリズムの観点で描き出した。
イム・グォンテク監督の[太白(テベク)山脈](1994)も同じ脈絡がある映画で、
南と北の対立を表わして片方体制の優れるという事を表わすよりは、
歴史の悲劇の中で犠牲になる人々の姿を、
監督特有の人本主義的観点で見せてくれた。
一方1999年に[シュリ]と[スパイ リ・チョルジン]が登場しながら新しい局面が始まる。
この映画は商業的ジャンル映画の枠組みの中で分断を見せてくれた。
特に[シュリ]の興行症候群は韓国映画ルネサンスの信号弾になったし、
続いた[共同警備区域JSA](2000,以下[JSA])は6.15南北首脳会談という、
歴史的事件とかみ合わさって途方もない社会的波紋力を持つ事になった。
[JSA]は尖鋭な分断状況を背景にだが、
イデオロギーに振り回されたり歴史的重さに踏み付けられない。
かと言って分断を単に素材で使った映画でもない。
この映画は歴史と個人の葛藤よりは個人と個人の関係を通じて分断を話す。
'帰えらざる橋'を真中に置いて向かい合っている4名の韓国北朝鮮軍人は、
地下バンカーに自分たちだけのユートピアを作ったし、
空気遊びや闘鶏のような遊戯を楽しんで、
キム・グァンソクの音楽を聞いて感傷にひたる。
この映画は分断映画特有の理念中心的な思考から抜け出して、
ミステリージャンルの慣習を利用しながら一方ではヒューマニズムに寄り添って、
タブーに挑戦する。
[JSA]は板門店(パンムンジョム)という、みなぎる緊張感が流れながら、
他の見方をすればコメディとも同じ空間で起きる事ができる状況を見せる。
その空間に牽制と対立だけあるのではなく'友情'も可能になる事だ。
このように[JSA]の南北関係は極めて私的で、
故にその関係が壊れた時訪ねてくる悲しみははるかに大きくて具体的だ。
彼らの地下バンカーが北朝鮮軍将校に発覚して破局を迎えて、
結局はお互いに銃を向けなければならない状況が近づいた時、
イ・スヒョク(イ・ビョンホン)は涙を流して"結局、私たちは敵だった"と話す。
この場面は[JSA]が置かれた位置を見せる。
彼らが分けた人間的関係と、歴史的に蓄積された状況の間の葛藤。
[JSA]はその間で繰り広げられる悲喜劇だ。
境界線を行き来する事。
順序を破壊して自由に時間帯を行き来する話の構造ではあるが、
[JSA]のナレーティブは大きく3個のチャプターで構成される。
10月28日明け方2時16分の銃声で始まる映画は、
3日後中立国監視委員会のソフィー少佐(イ・ヨンエ)が板門店(パンムンジョム)で、
広がった事件を捜査する為に入国しながら本格的に始まる。
1953年以後初めて板門店(パンムンジョム)地域に足を踏み出した女性軍の、
ソフィー少佐は、軍法務官としてお父さんは韓国人でありお母さんはスイス人だ。
映画の観察者であり話を導くソフィー(左側写真)。
いわゆる'チョコパイシーン'とは[JSA]で最も印象的な場面の中の一つだ。
捜査をして言ったソフィー少佐は色々な疑問点を発見する。
だが、最も疑わしい部分は、韓国のイ・スヒョク兵長と、
北朝鮮のオ・ギョンピル中佐(ソン・ガンホ)が何かを隠しているという感じだ。
この時、事故が発生する。
イ・スヒョク兵長と共に捜査を受けたナム・ソンシク一等兵(キム・テウ)が、
窓で飛び降りて自殺を試みた事、ここで映画は突然過去の時点に帰って、
4名の韓国北朝鮮軍人の話を始める。
二番目チャプターは地雷を踏んだイ・スヒョクをオ・ギョンピルが助ける事で始まる。
イ・スヒョクは有り難みを伝える手紙を石にぶら下げて北朝鮮軍警戒所に投げて、
手紙をやりとりした終わりにイ・スヒョクは軍事境界線を越えて、
北朝鮮軍警戒所を訪問する'事故'を犯す。
以後ナム・ソンシクが加勢して、チョン・ウジンが戦死(シン・ハギュン)するまで、
4名の南北軍人らは地下バンカーで楽しい時間を送る。
だが、北朝鮮軍将校のチェ上尉(キム・ミョンス)に発覚する。
最後のチャプターはソフィーを中心に進行される。
彼女のお父さんチャン・ヨンウが人民軍であり、戦争捕虜にとらえられたが、
韓国も北朝鮮でもない中立国を選択したという事実が明らかになりながら、
ソフィーは捜査から手を切れとの命令を受ける。
彼女は最後にイ・スヒョクとオ・ギョンピルに会って事件の真実を聞く事になって、
その日夜北朝鮮軍警戒所でチョン・ウジンを銃で撃って殺したのは、
ナム・ソンシクでなくイ・スヒョクであったと知る事になる。
彼女はこの事実をイ・スヒョクにたいした事でなく伝えられ、
イ・スヒョクは罪悪感で自殺する。
かなり複雑に時間帯が絡まっている[JSA]を横切るどんなモチーフがあるならば、
それは境界線のイメージだ。
この映画は板門店の本質を'限度を越してはいけない空間'で把握する。
この映画の線は単純な境界でなく敵と味方、社会主義と共産主義、
そして生と死の岐路だ。
米国人観光客の帽子が北側に飛んで行って、
オ・ギョンピルが拾って渡す場面は代表的だ。
そして俯瞰ショートに強調された善意イメージは、
この映画が厳然な歴史的現実を基盤としている事を表わす。
[JSA]数多くの善意イメージがある。
イ・スヒョクは地雷の線を触る事によってオ・ギョンピルと縁を結ぶ(上段左側)。
軍事境界線を向き合ったスヒョクとソンシク。スヒョクの影が境界線の限度を越していた(上段右側)。
北朝鮮警戒所の敷居を越えるスヒョク(下段左側)。
迷うソンシクと限度を越して来いとのスヒョク(下段右側)。
ここでおもしろいのは、この映画のカメラが見せる'境界線'の戦略だ。
その中一つがパンニング(panning. カメラを三脚台に固定させたまま左右で動く物、
[JSA]で唯一パンニングで撮影された場面が多いが、
この場面らは空間的統一性を散らかして、
一つの空間の中に韓国、北朝鮮の軍人らを表わす。
ナム・ソンシクが初めて北朝鮮警戒所を訪問する場面も印象的だ。
彼は限度を越すことを躊躇するが、パンニング ショートが続きながら、
いつのまにか北朝鮮警戒所に到着しているナム・ソンシクを見せる。
このような境界線を越える事はソフィーがイ・スヒョクとオ・ギョンピルに、
共に尋問する場面でも目立つ。
この場面でカメラは180度法則を違反する。
一般的に映画で左右の感覚を維持する為に180度の仮想線を設定しておいて、
その線を移らない。
だが、この場面でカメラは果敢に反対側に渡っていく。
その結果、イ・スヒョクとオ・ギョンピルを左右が変わる。
この部分はこの映画が韓国、北朝鮮の'違い'よりは、
'同様'に対して話している事を見せる。
分断の現実、戦争の恐怖
'線'のイメージの他にも[JSA]の色々なモチーフらが反復されて、
入り乱れた時間帯を構造的に構成する。
その中で最も著しく反復されるのは写真という対象だ。
一番最初に登場する写真は、ソフィーがお母さんとともに撮った、
額縁に入った写真だ。
この写真は以後その本物意味を表わすが、
折りたたまれた写真の見られない面にはお父さんの顔が入っている。
彼女のお父さんは人民軍であり、捕虜収容所から解放された時、
中立国に行く事を願ったし、アルゼンチンでスイス女性に会って結婚して、
ソフィーを産んだ。
韓国の強硬派軍人のピョ将軍(キ・ジュボン)はこの事実を明らかにして、
ソフィーは事件から手を切る事になる。
その他にも数多くの写真らが映画には登場する。
ナム・ソンシクの妹でありスヒョクの恋人の修正の写真、
ナム・ソンシクが自身の恋人としソンシクとウジンに見せるコ・ソヨン写真、
ウジンが見せる家族写真、
記念写真を撮る時画面上段に捕えられる額縁の中のキム・イルソンと、
キム・ジョンイル写真、スヒョクとソンイルとウジンが共に取った記念写真、
そして映画のエンディングを飾る4名の兵士たちが皆入っている白黒の写真。
ここでこの映画の写真のイメージはまるで幽霊とも同じ存在を連想させる。
ソフィーの写真の中に折りたたまれていたお父さんは、
消したいが認めなければならない存在で現在のソフィーにも影響を及ぼす。
北朝鮮軍警戒所に関わっているキム・イルソンとキム・ジョンイルの写真は、
分断現実を象徴するイメージなのにここでナム・ソンシクは写真を撮る時、
額縁がアングルにかからないようにしようと努める。
写真で存在するが抑圧的な存在である訳だ。
その他にもソンイルの口笛の声も反復されるモチーフで、
スヒョクのソンイルの話を繰り返したりもする(重要な事は銃を早く選ぶのではない、
との話をソンイルに聞いたスヒョクは、その話をソフィーにそのままする)。
キム・グァンソクの音楽はこの映画の最も音楽的モチーフとして、
心を打つ音楽と共に彼の若死した人生は主人公らの死と重なる。
兵士は自分たちだけのユートピアを作って、その中で遊戯を楽しむ。
だが、父の世代によって作られたタブーの法は彼らをまもなく破局に追い出して、
血を流すようにする。
ミステリーでコメディで、四人の男のメロドラマの[JSA]は、
単純なジャンル映画を越えて21世紀唯一の、
分断国家の韓国の本質的悩みを見せる。
父の世代の戦争と憎しみは次世代につながっている。
それは中立国の女性将校で混血人、
もしかしたらこの映画で徹底した異邦人にならざるをえないソフィーも、
避けられない巨大な歴史だ。
ここで兵士たちは空気遊びと闘鶏をしながら、
共に酒を分けてキム・グァンソクの歌を聞いて、
自分たちだけのユートピアを作るが、
窮極的に彼らをかばっているのは'戦争の恐怖'だ。
故にもしかしたらスヒョクとウジンが流した血は父母の世代の冤罪に対する、
贖罪の血かも知れなくて、お父さんの代わりをした息子の犠牲でもある。
10年が過ぎたがこの映画が相変らず重たい重量感を持つのは、
今私たちが生きている現実の為だ。
特に2010年、私たちは戦争をとても簡単に話す時代を生きている。
解放以後南北関係が最も和解ムードだった時登場した映画[JSA]。
この映画が投げた話題は、分断体制が維持される限り永遠に持続するだろう。