浅草は歌舞伎発祥の地。

江戸の頃。浮き世を芝居で愉しむ庶民、

浮き世の愉しみを描く浮世絵師。

浅草寺には、市川団十郎の「暫」の銅像

があり、浅草神社には、歌舞伎俳優寄進

の石碑がある。

 

 

浅草寺境内の市川団十郎(九代目)銅像(東京都台東区)

 

浅草寺には「山東京伝机塚」があり、戯作

者山東京伝・狂歌人太田南畝と縁がある。

山東京伝、太田南畝(四方赤良)を介して

蔦屋重三郎(版元)、喜多川歌麿、葛飾北

斎をはじめとした浮世絵師らがいる。

 

 

浅草神社鳥居横市川猿之助(初代市川猿翁)寄進の石碑

 

<蔦屋重三郎・山東京伝『教訓絵本』>

寛政期(1789-1801)に「白河の清きに

魚もすみかねて 元のにごり田沼こひしき」

と落集がでる。松平定信の改革以後も老中に

より、博打にはじまり女芸者までお一掃され

る。寛政2(1790)年出版される草双紙、

浮世絵は、出版前に検閲したうえ内容を改め

る制度ができる。翌年寛政3年山東京伝の洒

落本3冊が蔦屋重三郎版元『教訓絵本』とし

て出版。これにより幕府より蔦屋は身上半減、

京伝は手鎖50日の刑を受ける。『教訓絵本』

の寛政3年以後町の女の名を絵に入れるのを

禁じる(寛政5年)。

<蔦屋と東洲斎写楽(「役者絵」)>

出版統制のなか、寛政6年5月、蔦屋は江戸三座

の夏狂言に取材した役者絵28枚を売り出す。

 

 

東洲斎写楽の「大谷鬼次の江戸兵衛」(寛政6年)


絵師の名前は東洲斎写楽。誰も知らない名前だ

った。寛政6(1794)年から寛政7年の10ヶ月

の間だけ世に出たあと忽然と姿を消す。通常、

浮絵師ははじめに版元の本の挿絵を担当するの

だが、写楽にかぎって大判錦絵28図の大作がデ

ビュー作で、写楽の伝記は不明。蔦屋は写楽の

浮世絵出版後の寛政9(1797)年に没し(48歳)

、写楽は蔦屋重三郎という説もあり、斎藤十郎

兵衛という一説もあり、写楽について知るすべな

く、写楽の描いた絵が残る。

 

 

東洲斎写楽の「中山富三郎の宮城野」(寛政6年)


 

<歌川国貞と歌川広重『双筆五十三次』>

浮世絵師の歌川国貞、後の三代豊国。

国貞(1786-1865)は、江戸材木屋で生まれ、

15歳で初代歌川豊国門下に入る。号の五渡亭

は、太田南畝(四方赤良)による。

当時、「名所の広重、役者の国貞」といわれる。

「双筆五十三次」では、国貞(3代目豊国)が

歌舞伎役者などの人物を描く。画中に「応需」

とあり、当時の人気者の国貞と広重ふたりの合

作。通称「美人東海道」と称される。

 

 

歌川国貞と歌川広重『双筆五十三次』(三嶋之図、天保4年)

 

<浮世絵「枕絵」>

江戸に浮世の絵に華が咲いた頃。「浮世絵もま

ず巻頭は帯とかず」と枕絵は浮世絵と同じで公

然と販売されていた。あらゆる絵師が枕絵を描

き、また作者のほとんどが艶本の筆をとってい

た時代。その後取り締まりは、享保7(1722)

年11月にはじまり、寛政2(1790)年、天保

12(1841年)と、三度あるなか「吾妻源氏」

の作品は天保7、8(1836-37)年に刊行され、

規制から逃れた作品。

<歌川国貞『吾妻源氏』)>

「吾妻源氏」は枕絵師・不器用又平作。

不器用又平は初代歌川国貞の枕絵の隠号で、

「吾妻源氏」を描く国貞はのち三代豊国を

名乗りは歌川派の大御所となり、江戸の当

代人気絵師となる。

<枕絵>

「吾妻源氏」の正式名は「花鳥余情吾妻源氏」

で国貞は源氏物語をもとに三源氏の作品を創る。

その枕絵のひとつが「吾妻源氏」で、多色摺木

版画の画を描いた天保期中頃(1836-37)の

国貞20代後半の枕絵である。

(光源氏と女三宮)

女三の宮の猫の条を描く。

暖簾の内の女三宮は、単衣を口に加え、

二匹の猫が交尾している様子を見、光

源氏が暖簾の外に顔を出して眺めている。

 

 

光源氏と女三宮(「吾妻源氏」上巻)

 

(料亭の夏の夜)

料亭の夏の夜。蚊帳が巻き上げられ、

敷布団の上に花蓆(はなむしろ)が

敷かれる。うつ伏せになった女に背

後から男が挑み、女は目を開けている。

 

 

料亭の夏の夜(「吾妻源氏」上巻)

 

(交歓のあと)

行為が終わった後の男と女。

屏風(左)に「婦喜用 又平画」とある。

 

 

交歓のあと(「吾妻源氏」下巻)

 

三代歌川豊国の若き歌川国貞のときの枕絵で、

一枚の絵には色板20枚以上、摺り40度を越

える多色摺木版画で、絵師・彫師・摺師によ

ってできた枕絵である。

三代歌川豊国は、役者絵、美人画の要素をと

りいれ、源氏絵など時代の流行をつくり、江

戸末期には歌川国芳(1797-1861)、歌川

広重(1797ー1858)とともに人気絵師となる。

 

<年譜:浅草寺(「山東京伝机塚」)

山東京伝(1761-1816) 北尾政寅

太田南畝(1749-1823) 四方赤良・蜀山

蔦屋重三郎(1750-1797)筆綾丸(吉原連)

喜多川歌麿(1753-1806)蔦唐丸(吉原連)

石川雅望(1754-1830) 宿屋飯盛(号:六樹園)  

葛飾北斎(1760-1849)

歌川国貞(1786-1865) 三代豊国(号:五渡亭)

 

天明元(1781)年  歌麿「身貌大通人略縁起」(版元蔦屋)

天明5(1785)年  京伝「艶本枕言葉」・「江戸生艶気椛焼」

天明6(1786)年  「吾妻曲狂歌文庫」(政寅画・宿屋撰)

天明7(1787)年  歌麿「三保の松原道中」

天明8(1788)年  「画本虫撰」(歌麿画)歌麿「歌まくら」

寛政1(1789)年

寛政2(1790)年  「百千鳥狂歌合」(版元蔦屋・歌麿画)

寛政3(1791)年  京伝50日・蔦屋筆禍

寛政4(1792)年  南畝・大坂銅座赴任

寛政5(1793)年  京伝・京伝店開店(銀座)

寛政6(1794)年  写楽「役者絵」

寛政9(1797)年  蔦屋没

寛政11(1799)年  歌麿「ねがひの糸口」

文化元(1804)年

文化3(1806)年  歌麿没

文化6(1809)年  石川『飛騨匠物語』(北斎画)

文化11(1814)年  南畝「住吉紀行」、「竹杖日記」(陳阿和尚、雅望)

文化13(1816)年  京伝没・雅望没

文化14(1817)年  浅草寺「山東京伝机塚」建立

文政6(1823)年    南畝没

天保2(1831)年  北斎「富嶽三十六景」 

天保4(1833)年  国貞・広重双筆五十三次

天保7(1836)年  国貞「吾妻源氏」

嘉永2(1849)年  北斎没

 

 

 

2022.7.23

北斎と北斎の娘「お栄」ー新東京物語(26)