待賢門院璋子の子、後白河法皇が
熊野詣の途中、和泉国(大坂)で
熊取谷に立ち寄った行宮の行幸を
手描き友禅で描く。
 
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       後白河法皇が立ち寄った熊取谷中家(現大阪府泉南郡熊取町)行宮
 
後白河帝は鳥羽上皇と璋子のあいだに
できた第4皇子で、崇徳帝は璋子の長男。
 
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 崇徳帝・後白河帝の母、璋子 
 
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崇徳帝(1119-1164)
 
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後白河帝(1127-1192)
 
 
 
璋子(たまこ)は、祇園女御(ぎお
のにょうご)の養女となり、白河院に
寵愛受け、鳥羽天皇に入内する。
「待賢門院」は崇徳帝が生母の璋子に
贈った女院(にょいん)号
 
鳥羽法皇は崇徳帝を、璋子と白河法皇
との子と看做し、「叔父子」(祖父白
河法皇の子という意味)と呼び、11
41(永治元)年崇徳天皇(5歳で即
位)を譲位させる。
 
鳥羽法皇はもうひとりの妻得子(とく
こ)とのあいだに産んだ皇子、3歳の
近衛(このえ)天皇を即位させる。
崇徳上皇は新天皇の兄とされ、将来父
権にもとづく院政の道を閉ざされる。
 
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保元・平治合戦図屏風
 
1156(保元元)年7月鳥羽上皇が
死去し、皇位継承をめぐって後白河帝
と崇徳帝は争う。
戦いは半日で終息し、結果崇徳帝が讃
岐に流される。
 
700年後、幕末・維新の時代に崇徳
帝の流刑地、讃岐を訪れる和泉国熊取
谷の尊皇志士中瑞雲斎は後白河帝が行
宮とした屋敷の中家当主である。
 
 
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 後白河帝行宮の中家屋敷の御門(大阪府泉南郡熊取町)
 
保元の乱の翌年1157(保元2)年
10月23日三井寺の法印覚讃(かく
さん)を先達にして、平清盛らを伴に
して熊野詣に出発。
京から淀川を下り、後白河法皇は、和泉
にはいり佐野王子に詣り中家(現大阪府
熊取町)に立ち寄る。
 
 
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熊取谷の「54人座」の人が後白河帝
の輿(こし)を交代しながらかついだ
といわれている。
熊取谷は熊野街道の佐野王子から近く、
約2㎞ほどで、後白河帝は、熊取谷
の原野にて一日狩をするために中家
屋敷を行宮にしたのではないかと想
像できる。
熊取のこの辺は、以後「御門村」と
呼んでいたが、後にお恐れありと「
五門村」と改称する。
 
和泉から大阪最南端の馬目王子社を
詣り、雄山峠を越えて、紀州熊野ま
で約百里の道のり、今様を道中の王
子に捧げながら、11月25日に本
宮に到着。
 
時は700年を経て幕末・維新の時
代に熊取谷・中家の当主中瑞雲斎
配流された崇徳帝の廟を京都に遷還
するよう朝廷に働きかけ、明治元(
1868)年、崇徳帝を讃岐から京都
に遷還することになります。
 
熊取の地域(大阪府泉南郡熊取町)の
歴史を布に手描友禅で描く。
絵巻物の場面は4~5の場面と考えて
おり、場面ごとに1枚の布に描き、
最終的には描いた場面を縫い付けて
絵巻物にする。
1場面の布38cm×81cmのサイ
ズで、今日はすでに線描きした「後白
河帝の熊取谷中家行宮」の場面の唐門
・御門に色を塗る。
 
熊取谷と後白河院(メモ)
 
□中家の由緒
ー『大阪府全誌巻五』の一部抜粋要約ー
中家の先代盛秀のとき、後白河法皇熊野行
幸の途中、中家邸に車寄せの御門を建てる。
(後門村と呼んでいたが、後お恐れありと
五門村と改称)
奥家の由緒書では、中家先代高瀬佐勝のと
き、後白河法皇熊野行幸を建てられ、これ
を中家(高瀬佐勝)の宅地として賜る。
唐門、棟門など五門あって、家居はなはだ
広大である。(このあと敷地・屋敷の広さ
記す。300畳の客室、東西南の3面をめ
ぐらす塀等。)
 
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中家屋敷内から見た唐門
 
中家の記録によると、盛秀のとき、
嘉応元(1169)年後白河法皇熊野
行幸の途次、中家邸にこられ、車寄
せの御門を建てさせ、盛秀を左近将
鑑に任じ、これより先「左近」と名
乗る。
 
 
 
奈良時代
757年(天平勝宝9)
和泉国(大鳥・和泉・日根の三郡)の
日根郡に属する。
 
平安時代 
794(延歴13)年 垣武天皇は都を京都の平安京に移す。
805(延歴24)年 桓武天皇が「熊取野」に狩猟。
           熊取はまだ未開の原野。
1016(長和5)年 藤原道長が摂政となる。(貴族政治の時代)      
1086(応徳3)年 白河上皇が院政をはじめる。(院政時代)
1127(大治2)年 第4皇子として誕生、雅仁親王。(後に後白河天皇)
1129(大治4)年 白河法皇が崩御し、鳥羽院政が始まる
1155(久寿元)年 後白河天皇即位。(28歳)
1156(久寿2)年 鳥羽法皇死去。(後白河帝30歳)
           崇徳上皇(37歳)と後白河天皇の対立
           保元の乱
           清盛の後白河天皇方が崇徳上皇方を破る。
           崇徳上皇は讃岐に流される
           清盛(39歳)は播磨守に任ぜられる。
           平氏の知行国が4ヵ国になる。
1157(保元2)年 後白河帝熊野行幸(31歳)
           後白河帝が熊野詣、中家に立寄る(伝承)
1158(保元3)年 後白河上皇院政を始める(二条天皇に譲位)
          (後白河帝32歳)       
1159(平治元)年  平治の乱(後白河帝33歳、)            
           源義朝と藤原信頼が挙兵し、後白河上皇と二条天皇を
           幽閉。清盛は義朝軍を破る。
1160(永暦元)年    後白河上皇熊野行幸(34歳)              
1180(治承4)年    安徳天皇誕生(安徳3歳)、後白河院(54歳)
1181(治承5)年    高倉帝(亨年21歳)崩御、清盛64歳の生涯を閉じる
1183(寿永2)年    平氏一門都落ち、木曾義仲入京。
1184(元暦元)年    後鳥羽帝(院の第4皇子、4歳)が即位
1185(文治元)年    平氏滅亡(後白河帝59歳)
1192(建久3)年    後白河法皇死去(66歳)
 
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6月23日