大塔宮護良親王を偲ぶ会 渡辺一美ブログ

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石津へゆく。
大阪の堺市だ。
北畠顕家最期の地。
僕には余暇がなく山梨からの日帰り。
トコトコ路面電車に乗り
石津駅に着いたのは昼頃。
そこは直ぐにわかった。



大塔宮さまに薫陶をうけ
民びと達の安寧のための
国づくりを目指した北畠顕家。
大塔宮さま御最期から3年後
延元3年(1338)5月22日
高師直との戦いで死す。

僕は供養塔の前でしばし佇む。
思いもよらなかった言葉があたまをよぎる。

「顕家

 大塔宮さまを何故たすけなかった」

「ひなづるは姉君だぞ」

「嫡男として北畠家の存続は

 、、わかってる」

「大塔宮さまをたすければ朝敵だ
 、、それもわかってる」

「顕家、鎌倉にゆかなくても
 手立てはあったはずだ」

顕家は僕を知っている。
石津川を渡るとき僕を見ていた。
懐かしそうだが
困ったような
目をあわせないような雰囲気が漂う。

 

DSC_0280.jpg

 

名和義高の名がある。

宮さまを捕縛した者。

検非違使の役目柄

致し方ないが

彼もここで死んだのか。
 

「そういう時代だったんだ」

「顕家、苦しかっただろう」

「諌奏文はたいしたもんだ」

顕家は泣いているようだった。

『諌奏文』
後醍醐帝の悪しき政を
痛烈に批判し命を賭した檄文。
帝は激怒して破り捨てただろう。
顕家は写しを遺した。
信頼できる者に託す。

かならず託す。

それは大塔宮さま御最期と

建武の中興の真実を伝えるため。

檄文の行間に真相はかくれている。

北畠顕家の知恵だ。
 

信用できる人間は誰だろう。
脳裏にうかんだのは

「万里小路藤房」
彼は隠遁し行方知れず。
しかし顕家は彼の人の居場所を

知っていたように思う。

ご婦人が言う

「どちらからお越しですか」

「山梨です」

「渡邊さんですね、
 主人が待っています」

そうだ昨夕
「顕家さん保存会」の
長谷川勲会長に連絡したんだ。
勲さんの父君の長谷川茂さんは
100歳で亡くなるまで
顕家に花を手向けつづけた方だ。
「俺とおなじだ」
このことは以前綴った。

妻が言う。
「もういちど、お参りしてゆこう」

「顕家さんのこと、すごく哀しかった」

「涙が出てきた」

「当時、俺とは立場がちがうからなあ」

 

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「行家塚」とあるのは

破壊されたり

あばかれたりするのを懸念した

後世の方々の知恵なのでしょう。

 

帰り

石津川を渡るとき

辺りを眺める。

多くの騎馬武者たちの声

きらめく刃

ふりそそぐ弓矢

斬りむすび飛び散る火花。

そう感じる。

 

北畠軍は連戦で

兵も少なく疲弊している。

敵は新手を含め怒涛の如く

川を越え襲いかかる。

文献や記録は知らないが

北畠軍は100人いたかどうか。

諌奏文を記し

死を覚悟し

死地をもとめていたとしても。

 

「顕家よ、よく戦った」

 

胸しめつけ目頭があつくなる。

 

「大塔宮さま

 宮さまの許に参ります」

 

北畠顕家のこころの声を感じた。

また石津へゆこう。

そしてもうひとつ

詳しくは綴れませんが
大切な御方とお逢いしました。
あの時の感覚と感傷は
1ヶ月以上経っても忘れていません。
ありがとう。

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