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前世に

いいも悪いも

ない。
前世は前世。






私には前世の記憶がいくつかあって、
だいたいは性悪だったり悲惨だったり
なんかもうひどい感じなのだけど、
ひとつだけ、

とても気に入ってるものがあった。


それは、チベット密教の僧侶だった前世。


これはマジでそうだったと思う。
というのは、体感が伴っていたから。




30代の頃、

チベット文化の地を旅したことがあって、
たまたま立ち寄った僧院で
私は体の芯から震えが来て、涙が出る、

という体験をした。

懐かしくてうれしくて
やっと帰ってこられた、という感じがした。

旅の目的は
SDGsとかサスティナビリティ的なもので
仏教とは何の関係もなかったんだけど、
私はとにかく寺が、お坊さんたちが、

気になり過ぎて
旅の趣旨をすっかり忘れて
寺の文化に触れるたびに
一人でしびれていた。

寺に入ると異様に落ち着いた。
ここぞ我が居場所なり、と思えた。

その時に確信した。


私は絶対、
いつかの過去に

こういう場所で過ごしたことがある。


そして、その生き方を

心から誇りに思い、愛していた。



私は幼少期から
誰に教わったわけでもなく
輪廻転生や解脱を知っていたし
それを当然のことと思っていた。
そういうのも
前世の記憶が体に染みついていたのかなと思う。

私の前世の中で、唯一かもしれない
幸せで満足な人生。
それがチベット僧侶としての人生だった。

 

 

画像はイメージです。
 
 
 
 

が。



この間、気が付いた。

その幸せで誇りに思うほどの前世こそが
今の私を苦しめている原因であること。


だって私は、死ぬほど転生が怖い。
解脱したくてたまらないのだ。

普通の人がそこまで考えないようなことを
こんなにも深刻に悩んでしまう。


ま、いっか、また生まれ変わっても、

って思えない。

それは、
この僧侶時代に染みついた
密教の概念によるものなんじゃないのか。



わー・・・・・



幸せな前世なら、
今世にも悪影響なんて及ぼすはずないと

思っていた。

だけど、
どんなに満ち足りていようが、
非業の死を遂げようが、
前世は前世、なのだ。

それを今世にどう使うかは
自分次第なのだ。


僧侶の私は、もしかして
死ぬのが怖かったかもしれないなぁ。
下手に知識があるからこそ
自分はちゃんと輪廻から抜けられるのか、
めちゃくちゃプレッシャーに

思っていたのかもしれないなぁ。
そしてまんまと転生している今よw


その記憶を持ってるから
私はこんなにも解脱に拘るのかもしれないなぁ。

幸せな生涯だったと思う。
それは、あの時の体感からして間違いない。

でも、やっぱり、
怖いこともあったんだなぁ。


そして、
幸せだったことも怖かったことも、
同じように私の魂に刻み込まれていて、
だから今、どちらも感じている。

チベット系の寺を見れば幸福感にあふれて
死を思えば転生の恐怖に駆られる。

でも、それはどちらも
私の人生ではない。


私の感情ではないのだ。

 

 

既視感だらけのこんな風景も、「私」の体験ではないのか。
 
 

 

 


前世を知ることのメリットは
こういうところにあるのかも。

つまり、
その感情が本来の自分のものなのか
前世やご先祖の記憶を

リピートしているだけなのかと

考えることができる。

見分けがつけば、翻弄されなくなる。


そして、
そういう自分のものじゃない記憶が
全部きれいになくなったら
もう、何を見ても純粋な喜びとして
ありのままに見ることが

できるのかもしれないなぁ。

ホ・オポノポノでいう「クリーニング」が
しっかりとされた状態。


まだまだクリーニングすべきことが

いっぱいある。

それが
現世を生きる私の使命。

そうすることで、
私も、前世も、ご先祖も、

みんなが報われるのだ。


だから今日も
こつこつと

私の人生を生きるのだ。