森家は明治11年に建造された船持ち肥料商だった家で、建造当時の面影を残す東岩瀬回船問屋型町屋のひとつ。玄関から裏の船着き場までまっすぐ通り庭(土間廊下)の通じる構造は、京都の町屋と同じ。囲炉裏のあるオイ(居間)を中心とした母屋、台所、土蔵と並ぶ。入ったところのオイは主の家族の部屋で、商取引の場でもあった。天窓付きで、釘を使わず松材を使った梁が幾重にも組まれる。母屋は襖をすべてはずすと60畳敷きの大広間に。北前船が戻ると大宴会をやったとか。土蔵は竜と虎の古いこて絵が見事。道具蔵の先にはかつて米倉、肥料蔵が続いていた。土蔵と主屋に囲まれた中庭。裏側の空き地もかつて森家の屋敷で、その裏手が船着場だったという。

北前船は船は弁材船、後に千石船と呼ばれ、岩瀬では「売買する」「倍儲かる」が語源の「バイ船」と呼ばれた。最盛期の森家では10隻所有、米を大阪に運び金にするのが主な役割。行きは米のほか塩、縄、むしろ、薬を積み、帰りはニシン、昆布、鮭などを仕入れて売りながら航行していた。年1回の航海で今の数億円稼ぐといわれ、それを元手に海産物や肥料問屋、運送業を興す者も。加賀百万石のうち、実質は85万石を富山が担っていたという。

隣接の馬場家は江戸後期に栄えた北前船主・廻船問屋の屋敷で、明治期には汽船海運業を営んだ。建物は東岩瀬で最大級で、長さ30mの通り庭、梁組が豪壮な33畳の広間、書院造りの座敷と庭も設けられている。前蔵、壱番蔵、弍番蔵、米蔵なども現存、当時の繁栄の面影を伝えている。大町の西側は神通川がすぐ背に流れ、船主と肥料商の屋敷が並んでいた。参勤交代の往還道でもあり、多くの商人や旅人で賑わっていた面影が残る。