奥州街道から南へ歩くと、現在の高田の市街地風景が続く。あたりはかつての武家屋敷で、高田城の城郭と、街道と関川が囲む範囲の間に広がっていた。突き当たった水濠は外堀にあたり、ここから内側の本丸にかけての部分が、当時の城郭の形を留めている。高田城は徳川家康の六男、松平忠輝公の居城として築城。明治期に旧陸軍第十三師団が置かれた際に南側と東側の堀の一部が埋められ、現在の高田城址公園の姿となっている。天守閣は置かず石垣もない、土塁と堀に囲まれた平城だったのは、材料や資金がなかったことや、太平期のため戦用の天守は不要だったなど、諸説あるとされる。

外堀は北堀から西堀、大手堀、南堀の一部が残り、さらに関川や青田川の自然の河川も、堀の役割をしていた。一面に植わっているハスは、明治期に士族の食い扶持として、レンコン栽培を奨励したためで、8月末には一面に花を咲かせる。堀端には陸軍が入った時に植えられた3000本のサクラが続き、日本の桜100選に挙げられる名所となっている。水鳥の声を聞きつつ、土橋で西堀を渡り二ノ丸へ。堀端はアートスペースになっていて、建畠覚造や佐藤忠良、楊原義達らの作品が並んでいる。上越市立歴史博物館、小林古径記念美術館を見て本城堀端を行くと、本丸の南西に復元された三重櫓が見えてくる。

天守のない高田城で、三重櫓は実質の天守閣の役割を持っていた。城郭の創建時は二重だったが、松平光長が城主だった1665(寛文5)年の高田地震で倒壊、再建時に三重にされた。現在の櫓は1993年(平成5年)に、上越市発足20周年記念事業として再建されたものである。本城堀を渡りながら見る姿、本丸で直下から見上げる姿、極楽橋を渡り司令部通りから堀越しに見る姿など。高さ15メートルの御殿風造り、入母屋と寄棟の屋根が組み合わされた外観は、威厳ある重厚な雰囲気を感じさせる。

本丸にはかつては本丸御殿が建てられ、その場所に旧陸軍第十三師団司令部が置かれていた。三重櫓のたもとには極楽橋の橋台の石のほか、司令部の建物に関連ありげな赤煉瓦の遺構も見られる。かつて二ノ丸と本丸を結んだ極楽橋を渡り、本城堀を外側から回り再び西堀端へ出ると、銅像や記念塔がが集まる一角に高田の作家・小川未明の「赤い蝋燭と人魚」の碑も見られる。赤い橋の西堀橋は、通称蓮見橋。たもとには、町田太郎作詞の「高田の四季」の四季それぞれの歌詞碑が配されている。