
「障がい者の文化芸術フェスティバル」の中四国ブロック大会での鑑賞記録、興味ある方はお読みください。
◾️ 『「マクベス」からさまよい出たもの』(じゆう劇場)
本作品はシェイクスピアの『マクベス』を題材に、障がいがある人の立場から見た「権力」への欲望と抱える「壁」を、それぞれ織り込んで展開している。冒頭には、本作の演出家である中島諒人氏による、作品説明があった。氏は鳥取県鹿野町で、廃校になった学校を劇場にして「鳥の劇場」という活動をしており、本作を演じるじゆう劇場はその一つ。障害のある人、ない人がいっしょに舞台を作りあげている。参加者は毎年公募しており、今年は13人プラス、鳥の劇場から3人の役者が合流。「マクベス」を大枠にしながら、他の戯曲や参加者の体験をのせて、マイノリティの人たちと権力の関係を表現している。
幕が開くと、まずは障がいを持つ役者たち個々が抱える「壁」の叫びから始まる。社会と関わりが持てない、人間関係が築けない、将来の居場所が不安など、一般社会との間にはだかる越え難い「壁」を示す。これが「権力」とともに主題となり、『マクベス』のストーリーを主軸にしつつ、シーンにより個々の役者が抱える「壁」が織り込まれていく展開である。
・権力を持たない非力さ、持つことの空虚さ
『マクベス』に則った物語は、戦いに勝って帰還する将軍マクベスが、三人の魔女と出会い王となる予言を受ける流れから入っていく。立場により善し悪しや強者弱者の見方が変わることを示す「きれいは汚い、汚いはきれい」の台詞に、日本の童謡「かごめかごめ」が被り、囃しながらマクベスを取り巻く者たちが増殖。彼らは弱者の念を表しているかのようで、各々の持つ欲望、悩み、苦しみなどがマクベスに委ねられ、権力者になり解決してもらうべく崇め上げられる。「壁」に阻まれるマイノリティーの自己実現は、権力に委ねざるを得ないという、現代社会の構図が見える場面といえる。
後のシーンではストーリー通り、マクベスは自身の邸宅にやってきたダンカン王を殺害、権力を奪取する。妻をはじめ家の者たちや魔女ら、取り巻く者たちに不気味にけしかけられ行為に至るのだが、予言に従してや自らの意思でなく、取り巻く者すなわち弱者の念にいざなわれてのことだ。その結果、権力の奪取と引き換えに失ったものは、自らの安穏。取り巻く者たちに強迫された、権力者という立場を演じていくことで心が病み、勝ち続けることの意味のなさ、押しつけられた人生と最後まで戦う空虚さが伝わってくる。
・マイノリティーの「配役」とは?
この物語は後半になると、主線となる『マクベス』に短編の戯曲『配役』が、挿入劇として絡んでくる。世の中に出たいのに社会から阻まれるため、「壁」となる人の心を変える権力が欲しいと訴えた車椅子の役者が、劇中では日本初の障がいを持つ総理大臣を演じる。権力を得たことで、ボーダーレスな社会を築く実績を残した一方、障がい者であることを利用していると見られたり、弱者として官房長官に操られているとも。政治家批判、障がい者の聖人視や売名利用など、リアルな世の風刺も絡んでいるが、こちらも権力者を演じることの虚しさと諦めへと、物語が帰結していく。
挿入劇は一連のシーンが、実は官房長官の人物が空想して書いた漫画だった、という結末に。自分が変えられる世界は所詮、漫画の中だけという現実。障がい者の総理はそれを認識しつつ、その中ながら権力が持てたことに感謝しつつ、物語はこれで終わり現実世界へ目を向ける時、と諭す。そこに自分の役割すなわち「配役」があるのだろうか、と不安げに語る二人。社会において「壁」に阻まれるマイノリティの居場所を、浮き彫りにしているようである。
・「きれいは汚い…」が比喩するものの意味
このストーリーにおけるマクベスは、取り巻く者すなわち弱者たちの意思が委ねられ、彼らの自己実現を可能にするための、権力の象徴ではなかろうか。マイノリティーは権力を持つことで、世に出られる可能性を示しているように思える。また繰り返される「きれいは汚い…」の台詞は、権力者とマイノリティーそれぞれの物事の捉え方が、善し悪し紙一重であることの象徴。どちらが表面化するかは置かれた立場次第で、作品の締めくくりがこの台詞だったことが、深く印象づけている。
自己実現を阻む、きれいと汚いの間にはだかる「壁」を壊すこと。じゆう劇場の目標である「心の壁、見えない壁を壊していく」こととして、本作から受け取れたメッセージである。