第5章 平成元年 夜行高速バス「パピヨン」号と中央道特急バス・中央高速バスで行ったり来たり | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
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 【主な乗り物:夜行高速バス「パピヨン」号、「中央道特急バス」名古屋-茅野線、「中央高速バス」新宿-諏訪・岡谷線】

 

 

平成元年10月の週末のこと、新宿駅西口ロータリーに面した小田急ハルク前の停留所を23時きっかりに発車した岐阜行き夜行高速バス「パピヨン」号は、ほぼ満席の乗客を乗せて走り出した。

踊る波をイメージしたという、白地に明るい青色のラインを並べた塗装の小田急バスである。

 

「パピヨン」とは蝶を意味するフランス語で、この路線とどのような関係があるのか、と首を傾げたのだが、「岐阜蝶(ギフチョウ)」に由来する愛称であるらしい。

江戸時代に存在が確認された頃には「錦蝶」と呼ばれていたが、明治期に岐阜県郡上郡で初めて採取されたので、県の名がつけられたという。

 

「パピヨン」号の始発地は、新宿高層ビル街の一角にあるホテルセンチュリーハイアットで、当時の運輸省が、事業者から申請された高速バス路線の認可にあたって、路上ではなく専用スペースを備えた停留所を起終点として推奨していたのである。

小田急バスが絡む夜行高速バスの大半は、ホテルセンチュリーハイアットを発着し、他社でも、新宿を発着する関東バスの高速路線は中野車庫を、池袋を発着する西武バスはサンシャインプリンスホテルを起終点にする、などといった例が見られた。


乗客に関係のない裏事情であるが、小田急電鉄バスの「箱根高速バス」や都営バスが使っているハルク前停留所が、専用スペースではないとする解釈には首を傾げざるを得ず、運輸省の指導ばかりでなく、自社系列のホテルに乗客を誘導する目的があったのかもしれない。

 

 

何処が起終点であろうと、都合の良い停車地で乗降すればいいだけの話であるが、「パピヨン」号にハルク前から乗る場合に、困ることが1つだけあった。

始発地ではないため、バスが、発車時刻の間際にならないと現れないのだ。

 

夜行高速バスに乗車する日は、嬉しくて、また乗り遅れが怖くて、自宅を早目に発ち、停留所に1時間以上も早く着いてしまうのが常であった。

作家の内田百閒も同様であったらしく、鉄道紀行「阿房列車」には、早くから駅にやって来て時間を持て余している場面が少なくない。

 

「賢い人はこのような乗り方はしないようである」

 

と、百閒先生は謙遜しておられるが、待ち時間も、旅の貴重な一部である。

前途への期待に胸を膨らませながらバスを待つのは、旅の過程における最も楽しい時間の1つではないだろうか。

 

まして、小田急ハルクの周辺で、時間を潰すのに困ることはない。

この日、僕が大井町から新宿に出て来たのは午後3時頃で、「パピヨン」号の発車時刻まで8時間もあったが、日本を舞台にしたハリウッド映画として話題になった「ブラック・レイン」を、友人と観る約束をしていた。

 

 

監督のリドリー・スコットは親日家で知られ、代表作「ブレードランナー」にも、近未来のロサンゼルスの日本風屋台の場面が冒頭にある。

 

屋台の主人「何にしましょうか」

デッカード「(カウンターのネタを指しながら)Give me four」

主人「2つで充分ですよ」

デッカード「No.Four.Two,two,four」

主人「2つで充分ですよ」

デッカード「And noodles」

主人「任せて下さいよ」

 

と、嚙み合っているのかいないのか判然としない和洋折衷の会話を交わしながら、主人公を演じるハリソン・フォードがうどんを啜り、未来都市のビルでは、芸者を大写しにした壁面のスクリーンから、日本語で「いいことあるー」と聞こえる妙な旋律の音楽が流れているなど、所々の日本風の味つけが印象的だった。

 

「ブラックレイン」は、光と影を絶妙に駆使する「ブレードランナー」と似た画風で、大阪の街並みが未来都市のように描かれている演出に酔いしれた。

主役のマイケル・ダグラスに負けない存在感を示した、高倉健と松田優作をはじめとする日本の俳優陣の演技にも魅入られた。

空前の好景気を謳歌して、活気に溢れ、工業製品ばかりでなく我が国の文化に世界が注目を始めた時代を象徴する映画だったと思う。

 

 

映画館を出てから数人の友人が加わり、小田急ハルクの裏通りに店を構える居酒屋「やまと」になだれ込んだ。

 

「やまと」は、どこか「ブレードランナー」冒頭の屋台を彷彿とさせる。

古びた店内に足を踏み入れれば、ガヤガヤとした喧噪や、威勢の良い店員の声で溢れ返り、もうもうと紫煙が漂っているという、昔ながらの大衆居酒屋である。

生ビールが180円など、飲み物の値段が安いことが評判で、人気No.1メニューの焼きそばナポリ味をはじめ、軟骨揚げ、活き鰺のたたき、トロたく、もつ煮などの料理も豊富である。

 

3フロアに300席もある店内で、見知らぬ客と詰め合って痛飲し、夜行に乗るからと中座して、ハルク前に足を運んだ時には、いささか酩酊していた。

友人たちもしたたかに聞こし召していて、見送りに行くなどと言い出す輩がいなかったのは幸いとも言うべきで、岐阜に何しに行くのか、と突っ込まれたら口ごもったことであろう。

 

 

そもそも岐阜に用事などないのである。

 

いや、ない、と言うのは語弊があるかもしれない。

翌朝、岐阜に着いたら名古屋に折り返して、別の高速バスに乗るつもりであったから、乗り継ぎも立派な用事と解釈すれば、用事はある。

次のバスが名古屋から出るのに、その先の岐阜まで足を伸ばしてしまうのは、平成元年9月に開業したばかりの「パピヨン」号に乗りたい一心だった。

やっぱり、岐阜に用事がある、とは言い難い。

 
小田急ハルク前のペデストリアンデッキの下に置かれた停留所は、ポールが立っているだけの、何の変哲もないバス乗り場だった。

日中は、「小田急箱根高速バス」がひっきりなしに出入りして、ハルク1階の案内窓口も賑わっているが、夜ともなれば窓口は閉まり、待合室も見あたらず、自分でも吐く息が酒臭いな、と辟易しながら歩道に佇んでいるより仕方がない。

周辺にはネオンが輝く煌びやかな繁華街が広がっているのだが、不夜城の如き新宿でも、ハルク前だけは、ぽっかりと穴があいたように閑散とした暗がりであった。

 

大きな荷物を抱えた、夜行高速バスに乗ると覚しき人もチラホラと見受けられるが、

 

「岐阜まで行かれますか?」

 

などと聞く勇気もなく、乗り場はここで合っているのか、と不安な時間を過ごすことになった。

 

 

それだけに、「パピヨン」号が姿を現した時には、安心した。

横3列独立シートの1席に収まった僕を乗せて、バスが、甲州街道から首都高速4号線に駆け上がったあたりまでは覚えているけれども、酔いも手伝って、僕は、いつしかまどろんだ。

 

ふと目を覚ますと、物凄く熟睡したような心持ちがした。

「パピヨン」号が猛烈な勢いで走り続けていることは、気配で分かった。

消灯されて、漆黒の闇に包まれた客室に、エンジン音だけが低く響いている。

トイレ使用中のランプや、デジタル時計の緑色の数字だけが、かすかに浮かび上がっている。

 

そっとカーテンの隅をめくると、いきなり、水銀灯の眩い光茫が怒涛のごとく射し込んできて、「八王子」の標識が、窓外を矢のように過ぎ去った。

慌ててカーテンを戻し、周囲の様子を窺ったが、眼を覚ました乗客はいないようだったので、胸を撫で下ろした。

よく眠ったつもりだったのに、まだ八王子か、と思う。

 

もう1度、おそるおそるカーテンをめくると、窓外から街の灯が遠ざかり、カーブが連続する登り坂に差し掛かっていた。

カーテンを持つ手の力を緩めれば、鼻をつままれても分からないほどの暗黒が押し寄せて、眼を瞑っているのか開けているのかすら定かではない。

 

 

僕は、夜行高速バスで味わう真の闇に、強い旅情を感じる。

母親の腹にいる胎児に通じる感覚だからであろうか。

 

カーテンを閉められる寝台ならば別であるが、夜行列車の座席車では、防犯上の都合でもあるのか、減光が中途半端である。

眼を射るような強烈さではないものの、瞑目しても瞼の裏に明るさが残る微妙な光加減で、これで熟睡しろと言われても、なかなか難しい。

決して豊かな光量ではなく、減光後に車内を見渡すと、世の終わりが到来したかのような不気味な明るさ、としか表現の仕様がない。

夜行列車に比べれば、バスの消灯は徹底している。

 

夜を突いて疾走する「パピヨン」号のカーテンを、時々、鈍いオレンジ色に染め上げるのは、トンネルである。

夜のハイウェイでは、外よりもトンネル内の方が明るい。

 

最初が小仏トンネル、上野原のあたりで太田トンネル、その先に斧窪という恐ろしげな名称のトンネルがあったっけ、などと思い浮かべているうちに、そうか、この道路は故郷に通じていたのだっけ、と思い当たって、なぜか眼が冴えてしまった。

 

 

中央道を全線走破する「パピヨン」号は、信州を横断する。

故郷を通り過ぎる旅の形とは、近代交通機関の発達がもたらした特有の現象の1つではないだろうか。

かつて、人々が徒歩で旅をしていた時代は、故郷を通って遠方に向かう場合でも、生まれ育った土地を無下に通過してしまうことなど、あり得なかったに違いない。

 

故郷を離れて暮らしている人間が、故郷を経由する交通機関を利用すると、車窓から生まれ育った町並みを見つめながら、何を思うのだろうか。

 

岡山の出身である内田百閒は、「阿房列車」で、山陽本線の列車に乗って岡山を通るたびに、必ず何らかの感慨を記している。

僕にとって最も印象深いのは、「阿呆列車」最終章となる「列車寝台の猿」で、東京発博多行き急行「筑紫」に乗っている記述である。

 

『岡山は私の生まれ故郷でなつかしい。

しかしちっとも省みる事なしに何十年か過ぎた。

今思い出す1番の最近は、大正12年の関東大地震の後1、2年経った時と、もっと近いのは今度の戦争の直前とであるが、しかしその時は岡山に2時間余りしかいなかった。

中学の時教わった大事な先生がなくなられたので、お別れに行って、御霊前にお辞儀をしただけですぐに東京へ帰って来た。

駅から人力車に乗って行き、門前に待たせたその俥で駅へ戻る行き帰りの道筋だけの岡山を見たが、それももう十何年以前の事になった。

時々汽車で岡山を通る時は、夜半や夜明けでない限り、車室からホームに降り改札の所へ行って駅の外を見る。

改札の柵に手を突き、眺め廻して見る景色は、旅の途中のどこか知らない町の様子と変わるところはない。

どこにも昔の面影は残っていない』

 

『古い記憶はあるが、その記憶を辿って今の岡山に連想をつなぐのは困難の様である。

何事なく過ぎても、長い歳月の間に変化は免れない。

況んや岡山は昭和20年6月末の空襲で、当時3万3千戸あった市街の周辺に3千戸を残しただけで、3万軒は焼けてしまい、お城の烏城も烏有に帰して、昔のものはなんにもない。

しかし岡山で生まれて、岡山で育った私の子供の時からの記憶はそっくり残っている。

空襲の劫火も私の記憶を焼く事は出来なかった。

その私が今の変わった岡山を見れば、或いは記憶に矛盾や混乱が起こるかも知れない。

私に取っては、今の現実の岡山よりも、記憶に残る古里の方が大事である。

見ない方がいいかも知れない。

帰って行かない方が、見残した遠い夢の尾を断ち切らずに済むだろう、と岡山を通る度にそんな事を考えては、遠ざかっていく汽車に揺られて、江山洵美是吾郷の美しい空の下を離れてしまう』

 

 

僕の故郷である信州は、長年、通過されるだけの流動と、ほぼ無縁であったに等しい。

我が国の主要な街道筋から外れていたことがその一因で、京都から江戸まで、東海道を使わず中山道を選ぶ旅人は皆無だったのではないか。

 

近代になると、東京と北陸を結ぶ列車が東信と北信を貫く信越本線を経由したり、名古屋と新潟を結ぶ列車が中央西線・篠ノ井線・信越本線を経由して信州を南北に縦断するなど、太平洋側と日本海側を繋ぐメインルートを担っていた時代があった。

やがて、そのような移動は、もっぱら航空機や線形の良い他県の路線に移り、信州へ向かう交通機関を利用するのは、大半が信州止まりの人々になっていたように思われる。

中央東線と中央西線を直通して東西を行き来する列車は、おそらく、存在したことがないのではないか。

 

ところが、昭和59年に中央自動車道が全線開通すると、東西を結ぶ長距離高速バスが、続々と信州を通過するようになった。

昭和63年12月に開業した池袋と伊勢を結ぶ高速バスと、平成元年6月に開業した池袋と大津を結ぶ高速バスが、中央道を全線走破する先駆けとなった路線である。

その後、中央道経由で東西を結ぶ高速バス路線が次々と開業することになるのだが、平成元年9月に開業した「パピヨン」号は3番手であった。

その後、首都圏と中京、関西どころか、山陽山陰、四国、九州まで足を伸ばす 路線まで、中央道を経由するようになったので、仰天したものである。

 

  

この頃に、中央道を使用する高速バスが増えたのは、東京側の交通事情が主因であろう。

中央道に直結している首都高速4号線の初台ランプから、中央道が東名高速道路と合流する小牧JCTまでの距離は351km、首都高速3号線の大橋ランプから東名高速を経由して小牧JCTまで347kmで、距離的には大差がない。

新宿や池袋から、山手通りや明治通りを通って大橋ランプまで行き来すると、渋滞に引っ掛かれば、瞬く間に20~30分を費やしてしまう。


ただし、八王子を過ぎて、小仏、笹子の峠を越えて甲府盆地に駆け下り、信州に向けて標高1015mの中央道最高地点まで登り詰め、諏訪湖と伊那谷を経て、美濃との境にそびえる恵那山を越えていく行程の高低差は馬鹿にならず、さぞかし燃費が悪いことだろう。

降雪や霧などの気象条件も、中央道は東名高速より厳しい。

 

後の話になるが、山手通りの地下に掘られた首都高速中央環状線が完成して、池袋や新宿から東名高速との行き来が容易になり、また、新東名高速道路が開通すると、中央道から東名高速へ移る高速バスが増えたのも、やむを得ないことであった。



中央道以外にも、信州を縦横に通過する高速バス路線が、幾つも登場している。

平成10年に、新宿から中央道と長野道、国道158号線と安房トンネルを経由して、信州を東西に横断して高山に至る高速バスが登場した時には、そのようなルートがあったのか、と眼を見張った。

 

平成11年の上信越自動車道全線開通に伴って、それまで関越自動車道を経由していた東京と北陸を結ぶ高速バスが、上信越道経由に乗せ換えられた。

平成9年の長野新幹線開業まで、上野と金沢を長野経由で結んでいた特急列車「白山」を彷彿とさせるルート変更だから、信州出身の人間としては嬉しかった。

だが、長野駅で停車する「白山」と異なり、東京から金沢に向かう高速バスは、上信越道の長野ICの前後で、遠くに長野市街を望みながら通り過ぎてしまうだけである。

夜行高速バスの中には、長野ICの近くの松代PAで休憩する便があり、束の間、故郷の空気を深呼吸することが出来た。

 

平成16年に開業した名古屋から草津温泉に抜ける「スパライナー草津」号と、平成17年に開業した名古屋と新潟を結ぶ高速バスのように、中央道、長野道と上信越自動車道を使って信州を縦断する路線も登場した。

こちらは、かつて名古屋と新潟を長野経由で結んでいた急行「赤倉」の再来のように思えた。

どちらも、長野道の姨捨PAで休憩するので、僕が育った善光寺平を一望することになる。

 

†ごんたのつれづれ旅日記†

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしやうらぶれて異土の乞食となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

 

室生犀星の代表作「小景異情」について、萩原朔太郎は、「これは年少時代の作者が都会に零落放浪して居た頃の作品」として、東京にいる犀星が遠い故郷金沢に帰りたいという望郷の抒情詩と解釈し、世の中には同様に受け止めている人も少なくない。

 

 

生まれ育った土地を高速バスで駆け抜ける行為は、遠方にあって、望郷の念に駆られている境遇に通じるものがある。

窓ガラス1枚を隔てて、故郷の山河が嫌でも目に入ってくるのだから、東京にとどまって故郷を思っているよりも生々しい。

 

ふるさとは遠くにありて思ふもの

そして悲しく通るもの

 

「パピヨン」号は、信州の街に停まることなく、深夜に通過するだけであるから、航空機で飛び越えて行くのと何ら変わりはない。

眠っている間に通り抜けることが、せめてもの救いと言えよう。

 

 

余談になるが、この詩について、評論家の岡庭昇は、

 

「ふるさとが遠くからしみじみと想い出されたりしているわけではない。とてもじゃないがふるさとなんてものは、遠くにあってこそ想い得るもので、そうでなければまっぴらだ……という以外に、ほんらい解釈のしようがない作品なのである」

 

と主張する。

国文学者の吉田精一も、

 

「これを東京の作でなく、故郷金沢での作品と見る方が妥当だろう。東京にいれば故郷はなつかしい。しかし、故郷に帰れば『帰るところにあるまじ』き感情にくるしむ。東京にいるとき『ふるさとおもひ涙ぐむ』その心をせめて抱いて、再び遠き東京に帰ろう、と見る方が、詩句の上で無理が少ない」

と解説している。

 

犀星自身は、この詩を東京で作ったのか、それとも金沢かという問いに対して、

 

「このごろ中学校の教科書にのっているので、先生方からよくそういった質問が来る。ある人には『東京で』と答え、またある人には『金沢で』と答えてしまった。芭蕉の『閑さや岩にしみ入る蝉の声』の『蝉』と同じで、その人がこれぞと思う方をとればいいんですね」

 

と、言っていたらしい。

 

 

物思いに沈んでいるうちに、僕は再び深い眠りに誘われた。

だが、中央道を走る夜行高速バスに乗ると、必ず目が覚めてしまう区間がある。

 

ダン、ダン、ダン。

ダン、ダン、ダン。

ダンダンダンダン、ダン、ダン、ダン。

 

ドライバーの眠気覚ましと、急カーブ・急勾配を知らせる路面の帯状の突起が、三三七拍子を打つ間隔で敷かれている区間があるからだ。

しかも、三三七拍子を2度繰り返してから、

 

ダダダダダダダ……。

 

と、最後の拍手まで入る。

日本道路公団、悪乗りし過ぎではないだろうか。

 

 

リズムがついた薄層舗装は、平成元年に中国道の小月-下関間下り線に設置されたのが最初と言われている。

現在では、中央道の大月-勝沼間など、全国で40ヶ所を超える区間に設けられているらしい。

中央道では岡谷JCT付近にもある、と書かれた情報を見たこともあるのだが、僕は、もっと西寄りの、長野と岐阜の県境付近で聞いた気がしてならない。

何回も中央道を行き来しているが、三三七拍子が記憶に残っているのは「パピヨン」号である。

深夜のことだから、思い違いをしていてもおかしくないのだけれど、夜行高速バスの座席に身を任せながら聞いた三三七拍子は、漆黒の闇に包まれた車内の記憶と相まって、今でも懐かしい思い出である。

 

長野と岐阜の県境は、恵那山トンネルをはさんで、右に左に、かなりの急カーブが続く。

足もとから奈落の底に吸い込まれていくような揺さぶられ方で、時々目を覚ました。

愛知県の小牧JCTで、名神高速道路に合流した「パピヨン」号は、岐阜県にもう1度入り直して一宮ICを降り、国道22号線・名岐バイパスを北上する。

その後のダイヤ改正で、美濃加茂や関などに停車してから岐阜に向かうようになったが、当時は、名鉄新岐阜駅前までノンストップだった。

 

 

到着予定の5時30分よりかなり早着し、午前5時を過ぎたばかりの新岐阜駅前に降り立てば、よく眠ったような、寝不足のような、極めて曖昧な気分だった。

ひらひらと舞う蝶のような、取り留めがなく、呆気ない6時間だったな、と思う。

 

「パピヨン」号の開業当初は、1往復の昼行便が運行されていて、新宿と岐阜の双方を8時に発車し、終点に14時に着くダイヤだった。

途中のサービスエリアで30分もの昼食休憩があるなど、あまりに間延びした走りっぷりだったためか、利用者が少なく、運行時刻を調整したり、昼食休憩をやめて所要時間の短縮を図ったりしたのだが、昼行便は平成7年に廃止されてしまった。

 

僕は、夜行高速バスが醸し出す独特の雰囲気に惹かれて夜行便を選んだが、この旅で「パピヨン」号の昼行便に乗っておけば、少しは望郷の念が癒されたのか、それとも、思いが一層募っただろうか。

 

 

昭和の終わりから平成の初頭にかけて夜行高速バスが台頭すると、車両を日中に折り返す運用で、300~500kmを超える昼行便が少なからず登場した。

 

昭和60年:池袋-新潟線「関越高速バス」

昭和61年:池袋-富山線

昭和63年:池袋-金沢線

昭和63年:東京-盛岡線「らくちん」号

昭和63年:池袋-伊勢線「EXPRESS ISE」号

平成元年:新宿-岐阜「パピヨン」号

平成元年:池袋-大津線

平成元年:難波-富山線

平成元年:京都-広島線「もみじ」号

平成2年:八王子-京都線「きょうと」号

平成2年:大阪-高知線「よさこい」号

平成2年:大阪-広島線「ビーナス号

平成6年:池袋-高岡・氷見線

平成17年:名古屋-新潟線

 

 

夜行便だけの路線では、始発地を出発した運転手や車両が戻るまで足掛け2泊3日を要するが、昼夜行便を設定すれば1泊2日で回転するため、コストを軽減できるという事業者側の目論見があった。

車両も車内設備も充実したことで、バスによる長距離移動に抵抗が少なくなった、という読みもあったのだろう。

 

だが、世の中は、所要時間よりも運賃の安さを優先して、昼間の時間を潰してのんびりと旅をする時代には至っていなかった。

結果として、殆んどの昼行便が姿を消し、夜行便だけになった路線が少なくなかったが、東京と北陸の間や、大阪と四国の間など、昼行便を増便した区間も見受けられた。

 

 

栄養ドリンクのCMで、

 

「24時間戦えますか」

 

というキャッチフレーズが流行したのは平成元年であるけれども、高速バスが夜行明けに昼行で折り返す忙しい運用だからと言って、平成の初頭の世相が、高度経済成長期のように、昼夜を問わず働く猛烈な時代だった訳ではないと思う。

 

 

昭和35年に、日本航空が羽田-大阪-福岡に深夜便「ムーンライト」の運航を開始した際に、

 

「深夜まで東京で仕事をしても、目的地で充分な休養がとれ、翌朝には爽快な気分で活動できます。時間や宿泊費が節約でき、1日をフルに活用」

 

とアピールし、昭和44年に登場した東京と名古屋、関西を結ぶ夜行高速バス「ドリーム」号が、

 

「明日のスケジュールが楽になりました 今夜はドリーム号でお休みください」

 

とのキャッチコピーを打ち出したものだったが、平成の初頭に、ビジネスの効率化を宣伝した夜行高速バス路線はなかった。

 

テレビの24時間放送が当たり前になり、放送終了後の画面の「砂の嵐」が消え、深夜営業の店舗も増えて、世の中は夜更かしが促進される傾向にあったが、あくまで遊びが主体であり、仕事の延長ではなかったように思う。

無論のこと、深夜に及ぶ人々の生活スタイルを支えるべく、夜勤に従事する人々が増えたのも確かである。

 

 

「パピヨン」号を降りても、岐阜に所用はないので、僕はJR岐阜駅まで歩いて、5時27分発の浜松行き上り始発電車に乗って、名古屋に5時53分に着いた。

 

名鉄ではなく、JR線を利用したのは、名古屋駅のホームで立ち食いのきしめんを食べたかったからである。

名古屋駅では必ず寄ることにしていたのだが、国鉄の分割民営化の前後だったので、如何にも元鉄道員といった厳めしい風貌の店員が、無骨な手つきで、麺を茹で、丼に盛りつけていたものだった。

 

久しぶりの本場のきしめんに大いに満足して、名鉄バスセンターへ足を向けた。

目指しているのは、この年の7月に走り出したばかりの「中央道特急バス」名古屋-茅野線である。

何のことはない、「パピヨン」号で夜通し走ってきた中央道を、そのまま折り返そうという趣向である。

 

 

ビルの3階に設けられて、昼なのか夜なのか判然としない名鉄バスセンターの待合室で、僕はいったい何をしているのだろう、と正気に戻りかけたが、7時30分発の便を担当する名鉄バスが姿を現わすと、鬱々とした気分は何処かに吹き飛んだ。

おお、スーパーハイデッカーを奮発したのか、と目を見張った。

先輩路線の「中央道特急バス」名古屋-飯田線も、名古屋-伊那線も、ハイデッカーが用いられ、同時発車の名古屋発金沢行き「北陸道特急バス」のスーパーハイデッカーを羨ましく見送ったこともあったので、名古屋-茅野線に力を入れているのだな、と嬉しくなった。

 

定刻に名鉄バスセンターを後にしたバスの席を占めているのは、十数人程度であった。

殆んどがラフな格好をした若い女性で、諏訪や美ヶ原高原ばかりでなく、清里や野辺山といった八ヶ岳山麓に足を伸ばすのかもしれない、と思わせる出で立ちである。

 

明るい話し声があちこちから聞こえる華やかな車中で、僕と通路を挟んだ反対の席に、御高齢のおばあさんが1人でちょこんと座っている。

孫にでも会いに行くのだろうか、きちんと膝を揃えて、背筋を伸ばし、じっと窓の外に目を遣っている品の良い姿に、こちらまで気持ちが落ち着くような気がした。

 

 

恵那山トンネルのすぐ先の阿智PAで、10分間の休憩がとられた。

山あいの駐車場でバスを降りると、東京や名古屋とは異なる、ひんやりとした秋風が頬を撫でた。

信州の風だ、と思う。

 

「うそ、こんな寒いんだ?」

「だから上着を持って来なさいって言ったでしょ」

「あるわよ、バスの中に置いてきただけやん」

 

と、若い女性客は、バスの外でも賑やかである。

この旅の数週間前、10月8日に台風25号が本州の南を通過した直後に、日本列島は西高東低の冬型の気圧配置となり、北日本から東日本の山岳部が初雪を観測したばかりだった。

 

 

阿智PAを発車すると、バスは、左右に中央アルプスと南アルプスを遠望しながら、延々と伊那谷を北上する。

名古屋発着の高速バスで、伊那谷を縦断するのは初めてだった。

高速道路のキロポストで、伊那谷の南端にある阿智PAから北端の辰野PAまでの距離を測ってみると、およそ67km、「中央道特急バス」は50分たらずで走破した。

 

100mおきに設置されている高速道路のキロポストには、別の使い道があり、36秒間に通過したキロポストの数を10倍すれば、おおよその速度が算出できる。

鉄道では、国鉄がレールの長さを10mで統一していた時代に、レールの継ぎ目を数えれば速度になる、と書かれた著書から編み出した方法であり、案外に車中の無聊が慰められる。

 

 

辰野町で伊那谷が尽きると、中央道は塩嶺高原と南アルプスの北端に挟まれた狭い谷間を抜けて、諏訪盆地に飛び出した。

岡谷JCTで長野自動車道に折れ、岡谷高架橋で岡谷市の街並みの頭上を越え、1450mの岡谷トンネルをくぐり、山腹にある岡谷ICを出たバスは、10時34分に着く予定の岡谷市役所前停留所に向かう。

 

中央道ならば諏訪湖の南の山腹から湖面を見渡すことになるが、「中央道特急バス」名古屋-茅野線は、10時44分着の下諏訪駅、10時55分着の上諏訪駅、そして11時10分着の茅野駅まで、湖の北岸の街なかをぐるりと回って行く。

距離にして16km程度、30分あまりの下道ドライブだが、肝心の諏訪湖は、沿道の建物に遮られて、殆んど見ることが出来ない。

 

 

諏訪湖には、子供の頃に、父が運転する車で訪れたことがある。

この頃の諏訪湖は、生活排水や工場排水により汚染が進み、ユスリカやアオコが大量に発生して湖水が緑色に染まり、家族でモーターボートに乗ったのだが、何と言う気味の悪い湖なのだろう、と顔をしかめたことを覚えている。

モーターボートの運転士が、

 

「見ての通り汚ねえけどな、水が撥ねないよう、この船はスクリューを特殊な構造にしてるんで、服は汚れねえから」

 

と両親に話していたのを覚えていたので、湖面を見たいような見たくないような、複雑な心境だった。

 

昭和50年代から平成の初頭にかけて、下水道や浄化設備が整備され、水質改善が進んではいるものの、漁業が行われていたと言う昭和初期の姿には戻っていないと聞く。

 

 

名古屋から4時間近くのバス旅を楽しませてくれた「中央道特急バス」を、終点の茅野駅まで乗り通し、茅野11時30分発の明科行きと言う珍しい区間運転の普通電車で、隣りの上諏訪駅に下車したのが11時36分だった。

 

諏訪バスの営業所に歩を運ぶと、折りよく上諏訪駅を12時00分に発車する新宿行きの便があって、空席もあると言う。

諏訪大社を訪ねたり、美味しい蕎麦の店でも探してのんびりしよう、と考えていたのだが、あまりにも接続が良い。

 

「中央高速バス」新宿-岡谷・諏訪線は、当時、1日11往復が運行されていたので、1便くらい見送っても何の弊害もないのだが、12時00分の便は、1日3往復しかない上諏訪駅-下諏訪駅-岡谷駅の順に停車する系統である。

残りの便は、岡谷駅を始発として下諏訪駅、上諏訪駅という順番に走るので、希少価値がある。

諏訪での観光を犠牲にするほどの価値なのか、と言われれば返事に困るけれども、僕はそのまま12時00分発の便の乗車券を購入してしまったので、マニアと呼ばれても仕方がない。

 

 

上諏訪駅を定時に発車した新宿行きの「中央高速バス」は、下諏訪駅、岡谷駅と、僕が数十分前に走ったばかりの道を折り返して、塩尻峠に通じる登り坂を駆け上がると、岡谷ICから長野道に入った。

 

岡谷ICから北に向かえば、長野道は豊科ICで尽きてしまうけれども、国道19号線で、実家がある長野市まで一本道である。

信州に来て、実家に見向きもせず東京へ戻るのか、と思えば、若干の後ろめたさが胸中に去来する。

 

『東京にいれば故郷はなつかしい。しかし、故郷に帰れば「帰るところにあるまじ」き感情にくるしむ』

 

室生犀星の「小景異情」に対する吉田精一氏の寸評が、実は、僕の心に鋭く突き刺さっている。

東京で離れて暮らしていれば、信州は懐かしいし、独り暮らしをさせている母を大切にしなければ、と思うのだが、実家に帰ると、母との距離感が掴みにくく、居心地は決して良くなかった。

帰るところにあるまじき、とまでは思わないけれども、社会人にもなっていない脛かじりの半人前、という自覚が、妙な遠慮を感じさせていたのかもしれない。

 

「中央高速バス」新宿-諏訪・岡谷線のバスが、長野市の方角に背を向けて、岡谷高架橋を渡り始めると、何となくホッとしたのも確かである。

 

 

中央道からの諏訪湖の眺望を楽しみ、高速道路上の茅野バスストップでも乗車扱いをするうちに、車内はほぼ満席となる盛況だった。

 

「中央高速バス」新宿-諏訪・岡谷線は、参入を希望するバス事業者の調整に手間取り、昭和61年に、新宿と茅野バスストップの間で暫定的に開業している。

足掛け2年間を費やした事業者間の調整がようやく決着し、晴れて、諏訪、岡谷市内に路線を伸ばしたのは、昭和62年のことだった。

「中央高速バス」新宿-茅野線の時代に利用したことはあったけれども、諏訪、岡谷まで延伸してから乗車するのは、今回が初めてだった。

 

 

このバスの新宿到着は、15時40分の予定である。

 

前日の午後11時に新宿を発つ夜行高速バスに乗り、岐阜で名古屋行きの電車で折り返し、更に茅野行きの高速バスに乗り換え、電車で上諏訪まで戻ったのは、新宿行きの高速バスに乗車するためだった。

しかも、合計で800km、17時間近くに及ぶ旅でありながら、中身は、通過した故郷に見向きもせず、中央道を往復しただけである。

冷静に振り返ってみれば、実に阿呆らしい行為としか言い様がない。

それでも、「パピヨン」号も「中央道特急バス」名古屋-茅野線も、是非とも乗っておきたい高速バスであった。

 

窓外を流れ行く信州と甲州の山河を見遣りながら、途中で下車した全ての土地で慌ただしく乗り継ぐだけだった今回の旅の目的地を、何処と言うべきなのか、と考えたが、新宿に着くまでに結論は出なかった。

 

 

 

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