第3章 昭和61年 新潟-青森「いなほ」の6時間半~2つの新幹線と2本の特急列車で東北を1周~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

どうして、今回の旅に出たのか、その動機は完全に忘却の彼方である。

長い距離を走る列車に乗りたかったのか。

加えて、未乗の線区の車窓を味わいたくなったのか。

北国への憧憬が後押ししたのか。

 

この旅から30年も経過した今となっては、あやふやな推測でしかないけれども、様々な理由が重なり合って出掛けたのだろうな、と思う。

 

 
1つだけ気づいたことがある。

僕は小学生の頃に、突如として鉄道ファンに目覚め、予備校生時代に初体験した高速バスの魅力に取り憑かれた。

以来、鉄道と高速バスそのものを目的とする旅を好むようになり、1度は鉄道で、2度目は高速バスで訪ねた土地も少なくない。

特急列車と高速バスが平行して運行されている区間は多いけれども、二番煎じと感じたことはないし、利用する交通機関が異なると全く違う土地に来たかのような新鮮味を感じたから、両方のファンになって得をしているな、と思う。

 

ところが、今回の旅の主目的であった特急「いなほ」1号が運転する新潟と青森の間を走る高速バスは登場していない。

それだけに、動機は不明であっても、旅の印象は、今もって鮮やかなのである。

 

 

昭和61年の初夏の週末、上野駅の地下ホームを6時22分に発車した「とき」401号は、定刻8時42分に新潟駅に滑り込んだ。

開業から4年が経過しても、真新しさが抜けない新幹線ホームは閑散としていて、列車から降りた乗客は予想より遥かに少なかった。

途中で下車した客が多いのだろうか。

もともと、東京駅を発車した時から、大して混雑していなかったのは確かである。

 

首都圏と新潟県を結ぶために建設された上越新幹線は、大都市や複数の県を結んでいる東海道、山陽、東北新幹線に比べれば、沿線人口が少ない。

そこに高額な金銭を投じて新幹線を建設して成り立つのか、と首を捻ったことがある。

高度経済成長期の昭和45年に策定された「全国新幹線鉄道整備法」の図面を目にすれば、このような区間に新幹線を造るつもりだったのか、と苦笑したくなる線も少なくないのだが、それは、結果を知っている現代人の傲慢かもしれない。

明治期に建設された線区が多い我が国の鉄道は、軌間が狭く、線形は曲がりくねって、高速運転が難しい箇所が多い。

そのような鉄道を、世の中の進歩に合わせて更新するのが新幹線であると考えれば、意義を見出だせない訳ではない。

 

加えて、交通網の整備が、地方の活性化に繋がる、と頑なに信じられていた時代である。

 

 

僕が愛読したSF作家の小松左京氏が、我が国の全国総合計画によって国土がどのように変貌するのかを予想した「日本タイムトラベル」は、当時の我が国の勢いを感じさせて印象深い。

 

『「これで見ると、鉄道もなかなか頑張っとるですねえ……」

 

白山喜照が感に堪えたように唸った。

 

「青函トンネル、山陽新幹線、東北新幹線、いずれも昭和50年に完成、首都圏高速鉄道網、46年度から50年度にかけて完成予定、50年度からは、いよいよ第二東海道新幹線にとりかかりますか……」

「これ見たかね。鉄道による時間距離は、46年度に大体4分の3に短縮され、新幹線網が完成整備されたあかつきには、東京=旭川間が6時間20分、東京=鹿児島間7時間10分と、日本全国、3分の1になっちまうよ」

 

まったくそれは「鉄道」とか「旅」という感覚を、変えてしまいそうな数字だった。

全国新幹線網は、現在の東海道新幹線のような最高時速250キロ、平均時速200キロの列車を使い、東京=札幌間現行19時間25分が5時間50分に、青森までの10時間24分が3時間50分、以下新幹線完成後の新ダイヤは仙台までの所要時間が1時間50分、新潟まで1時間半、四国高松まで3時間40分、岡山3時間20分、九州博多まで5時間40分──なにしろ、新幹線ですもンの……と博多芸者の自慢する声が聞こえてきそうな感じだ。

大阪からの時間距離の短縮ぶりは、もっと劇的な感じがする。

全国新幹線が完成すると、大阪から金沢までが、なんと1時間20分、広島まで1時間40分、松江まで1時間30分(現在急行で6時間かかる)、高松まで1時間10分、九州博多3時間40分、長崎、熊本3時間50分、大分3時間20分、宮崎4時間10分、西郷どンが、桜島の煙ばにらんじょる鹿児島まで約4時間40分……。

 

「これみたかい、もしこれが本当に実現すると、昭和60年頃には、東京なら新潟、名古屋、大阪なら松江、高松、金沢が通勤距離に入ってくるぜ」

「やだな、運賃を考えてごらんなさいよ」

 

と白山喜照は笑った。

 

「あなた、そそっかしいんで困るね」

「てやんでえ──今だって東京=大阪間、ジェット機で月4、5回ぐらい往復して、定期券が欲しいくらいだ。このくらいの時間距離に短縮されるなら、その時には国鉄も、全国周遊通勤定期ぐらい出したって悪くなかろう。出さなきゃ代議士にでもなって、無料パスもらってやる」

「まあ、御随意に──20年たちゃ、あなただって菊の花のバッジをつけて、赤い絨毯を踏みたくなるお年頃ですな。その時は不肖白山、選挙応援演説には駆けつけますから、当選のあかつきには何とぞよしなに」』

 

まだ東海道新幹線や東名・名神高速道路しかなかった時代に、日本人はこのような夢を思い描き、実現を信じていたのだな、と思う。

半世紀が過ぎても、この計画が未達であることを知っている僕らとしては、苦笑するしかないのだが、坂の上の雲を信じることが出来た時代が羨ましくもある。

 

 

一方で、少しばかりキナ臭い裏話もあって、おそらく全国新幹線網を立案する場面であったろうか、時の田中角栄首相が日本地図に真っ先に直線を書いたのが、東京と新潟の間であった、と書かれていたことが忘れられない。

続けて、「〇〇君がいる盛岡、△△君がいる福岡……」と、配下の政治家の選挙区に向けて、次々と線が加えられたという記述であったように記憶している。

 

新潟出身の田中首相の郷土愛と、地元への異常なまでの国費の投入は広く知られており、批判的な論調も多い。

この旅の数年後に、上越新幹線の浦佐駅が最寄りの町に数日間滞在したことがある。

除雪用のスプリンクラーや舗装が完備し、立派なトンネルが穿たれた道路を車で走りながら、昔は山奥の集落で急病人が出ても、病院に行く道路が未整備だったので、いたずらに死を待つしかなかったのです、と地元の人から聞かされれば、批判だけで済ませられる話ではないような気もする。

交通網が人間の生活や生命を支える基盤であるならば、昨今のように、道路や鉄道の建設に費用対効果を求め過ぎる風潮に、危うさを感じない訳にはいかない。

 

いや、政治を論じるために、わざわざ上越新幹線で新潟へ出てきたのではない。

「とき」401号は各駅停車であったが、関東平野から新清水トンネルを抜けて越後平野まで、333.9kmを僅か2時間20分で駆け抜けてきた余韻を噛み締めながら、僕は橋上にある新幹線改札口を出て、地平の古めかしい在来線ホームに降り立った。

 

 

8時52分発の青森行き「いなほ」1号は、既に入線して扉を開けている。

何の代わり映えもしない485系交直流両用特急電車であるが、当時の僕はまだまだ旅慣れていなかったし、15時28分着の青森まで442.3km、6時間半をこの車中で過ごせるのだから、心が踊る。

 

『この列車は特別急行「いなほ」1号青森行きでございます。新発田、中条、坂町、村上の順に停車して参ります。御乗車には乗車券の他に特急券が必要です。列車は前から6号車、5号車の順で、1番後ろが1号車です。指定席は前寄りの5号車、6号車、自由席は後ろ寄り4両、1号車から4号車です。発車まで5分程お待ち下さい』

 

思い出したように繰り返される案内放送も、旅の気分を盛り上げてくれる。

長距離列車の座席に腰を下ろせば、発車前の待ち時間ですら楽しくてしょうがない。

 

 

やがて発車ベルが鳴り始め、

 

『間もなく発車です。お見送りの方はホームでお願いします』

 

という放送がせわしくなったかと思うと、ベルが鳴り止んだ一瞬の静寂の合間に、ホイッスルが鋭く空気を切り裂き、ごとり、とホームの柱やベンチ、自販機が後方へ動き始めた。

 

瞬く間に速度を上げた「いなほ」1号は、新潟の街並みを吹き飛ばすような勢いで走り抜けて、広大な水田地帯に出た。

あいにくの曇り空であったが、田植えを終えたばかりで整然と苗が生え揃っている田圃を見れば、今年も豊作になりますように、と思う。

 
 
僕は、新潟駅で購入した「えびずし」を食べるのに余念がない。

上野駅で朝食を買い求めることも出来たが、せっかく旅に出るのだから、東京で手に入るような駅弁を食べるのが勿体なく、新潟まで空きっ腹を抱えて来たのである。

「えびずし」を作っているのは新発田の会社で、今は「えび千両寿司」と商品名も中身も変わっているらしいが、時刻表を見れば、新発田駅には他にも海老の弁当が幾つか掲載されており、名産品なのであろうか。

 

新潟県の細長さは認識しているつもりでも、新潟市まで来ると、だいぶ北に来たつもりになっていたので、駅弁を食べ終える前に県境を越えるのかな、と思う。

ところが、9時13分着の新発田、9時25分着の中条、9時33分着の坂町、9時43分着の村上と、小まめに停車していく駅を数えれば、まだまだ新潟県なのか、と驚いてしまう。

新潟ばかりでなく、これから山形、秋田の2県を縦断するのだから、青森は遠い。

 

 

日本海縦貫線、という鉄道用語に、僕は幼少時から憧れていた。

その代表列車は、大阪と青森を結ぶ特急「白鳥」と寝台特急「日本海」、そして夜行急行「きたぐに」であるが、いずれも利用する機会に恵まれなかった。

 

当時の「白鳥」の下り列車は、大阪発10時40分・青森着23時40分という所要13時間、運転距離が1040.0kmにも及ぶ我が国で最も長い距離を走る昼行特急列車であった。

紀行作家の宮脇俊三氏は、「白鳥」について、

 

『国鉄の特急は近年とみに格が下がり、房総半島のような近郊区間も走る始末で、運転距離や停車駅は戦前の準急並み、というのが増えてきた。

荷物も持たないサンダル履きの客が、気軽にひょいと乗ってくるから、戦前の「つばめ」や「富士」の時代を知るオールドファンを嘆かせている。

(中略)

数の上から言っても昔の大学と今の大学ほどの違いがあり、「特別急行」の風格をとどめるのは食堂車つきの寝台専用特急「さくら」「はやぶさ」「みずほ」「富士」「出雲」「あさかぜ」ぐらいしかないが、そんななかにあって、この「白鳥」は昼間特急としては凡百に抽ん出ている。

車両は他の特急と同じだが、運転距離が長く停車駅も少ない。

もちろん食堂車も連結しているし、名前もよい(「最長片道きっぷの旅」)』

 

と称賛している。

 

 

宮脇氏の論法ならば、「特別急行」の範疇に入るのは、運転距離が1000km前後、編成に食堂車を組み込み、停車駅が絞られていることのようであるが、今や1000kmどころか、もっと短い距離でも利用客は航空機に奪われ、停車駅は、かつて同じ区間を運転していた急行と同じ、という特急が増えている。

 

戦前の特別急行「つばめ」や「富士」は、高額な運賃から格差社会の象徴のようなものであり、大半の人々が、時間は掛かるし狭苦しく硬い座席の急行や普通列車で長距離・長時間旅行に耐えていたことを思えば、戦後の大衆化社会にあって、特急列車が運転区間も本数も増やした気軽な乗り物になったのは、決して悪いこととは言い切れないだろう。

 

 

食堂車については、僕の故郷・信州との絡みで、想起することがある。

昭和41年に上野-長野間に特急「あさま」が走り始めた際に、投入された181系特急用電車が、9両以上の編成では横川-軽井沢間の碓氷峠を越えられないため、当時の特急で初めて食堂車を連結しなかったと聞いたことがある。

所要4時間足らずという短時間の運転であったことも、そのような判断に繋がったのだろうが、駅弁など乗客が持ち込む食事に圧されて食堂車が衰退した現況を振り返れば、「あさま」が、食堂車がなくても旅が出来ると証明してしまったような気がしてならない。

 

僕が乗る「いなほ」1号は、「あさま」より長いものの、運転距離は500kmに満たないし、食堂車もなく、宮脇氏が言うところの「特別急行」には相当しないのだろう。

それでも、日本海縦貫線を使って新潟と青森を直通する列車は、「白鳥」の1往復と、下りの「いなほ」1号と上りの「いなほ」10号しかないのであるから、「いなほ」は「白鳥」に匹敵する特別な列車と思っている。

特別急行だろうが大衆特急だろうが、「いなほ」1号から眺める車窓は「白鳥」と代わりはないはずである。

 

 

村上駅構内には、直流1500ボルトから交流2万ボルトに電化が切り替わるデッドセクションがあり、車内灯が消え、低く鳴っていた電動機の音まで消えて、一瞬の静寂が訪れる。

架線は張られているものの、電流が流れていないため、ここで停車したら大事になるな、と緊張する。

 

長さ2333mの村上トンネルで新潟平野が尽きると、羽越本線は、右手から押し寄せてくる山並みに追いやられて、日本海の波打ち際を走り始める。

山国出身の僕は、車窓から海を眺めるだけで御機嫌になる。

日本海は、太平洋に比べて何処か暗い印象があり、重々しく質感が高いように感じることが多いのだが、この頃から雲に切れ間が覗くようになり、陽の光に輝く海原がひたすら眩しかった。

 

線路端に生い繁る木立ちに陽射しが遮られて、車内が翳ったり明るくなったり、なかなか目まぐるしい。

彼方に伸びる岬に囲まれた入り江に、ひっそりと集落が身を寄せ合っている。

 

桑川駅、今川駅、越後寒川駅のあたりは「笹川流れ」の名勝として知られ、鳥越山や蓬莱山、眼鏡岩、屏風岩、恐竜岩などと名づけられた無数の奇岩が潮の流れに洗われている。

列車からは見えない絶壁や岸壁もあるらしく、観光するには船に乗るのが良いとされているが、真っ青な空と海を背景に、岩の名前を想像しながら眺めるだけでも眼福である。

 

 

時折りすれ違うのは、長い編成の貨物列車が多い。

北海道や東北から関西へ運ばれる貨物は、太平洋側ではなく、日本海縦貫線を使うことが多く、往年の北前船の伝統を継いでいるのだな、と思う。

 

駅のホームの向かいで「いなほ」1号を待つ普通列車もしばしば見受けられ、こちらは短い警笛で挨拶をしながら通過する。

ぽつり、ぽつりと乗っている普通列車の客が、眠そうな眼差しでこちらを見送っている。

 

 

全線が複線化されている東北本線や東海道本線と異なり、羽越本線は部分的に単線区間も多く、太平洋岸より旅客列車は少なくても、貨物列車が多いので、運転ダイヤの作成には熟練が必要であると聞いたことがある。

膨大な本数の列車を走らせながら、上り下りの列車を限られた複線区間で邂逅させるのであるから、世界一と称される我が国のダイヤ作成者でないと捌き切れないのだろう。

 

海と山に挟まれた複線区間では、後に増設されたのであろうか、上り線がトンネルに入ってしまう箇所も見受けられる。

そのような場所は例外なく車窓が見事で、下り線を走っているこちらは得をした気分になる。

 

 

9時45分に発車した村上駅の次の停車駅は10時18分着の府屋駅で、「いなほ」1号は30分以上も無停車で走り続ける。

特急列車ですら停車駅が増えた昨今、半時間も停まらないのは、「白鳥」に比肩する「いなほ」1号の面目躍如であるが、それだけ新潟と山形の県境が鄙びているという証しであろう。

山塊がこれだけ海に迫っていては、住めと言われても困難な地形であるのは確かである。

 

県境に置かれている駅は鼠ヶ関駅で、小さな岬の袂に集落があるものの、「いなほ」1号は目もくれずに通過する。

鼠ケ関は蝦夷に備えて東北地方に設置された防衛拠点の1つで、平安時代には白河関、勿来関とともに奥羽三関と呼ばれていたと言われている。

江戸時代には根津ヶ関と表記されて、こちらの方が地形に合っている気もするのだが、どのような人物が何を思って「鼠」の字を当てはめたのかを考えるのは楽しい。

 

鼠ケ関の集落は山形県側に存在しているが、新潟県側の伊呉野の集落と一体化しているため、町なかに敷かれている珍しい県境になっている。

 

 

10時32分発のあつみ温泉駅を過ぎると、「いなほ」1号は庄内平野に飛び出した。

 

新潟駅から2時間あまり、10時54分着の鶴岡駅でかなりの乗客が席を立ち、11時06分着の余目駅を経て、11時18分着の酒田駅で、殆んどの乗客が入れ替わったようである。

僕のような首都圏からの旅人にとって、この先の秋田や青森は東北新幹線を盛岡で乗り換えた方が早く着くので、「いなほ」の利用が多いのは新潟と庄内平野の間なのであろう。

 

当時、1日7往復が運転されていた「いなほ」のうち、青森まで直通するのは1往復、秋田止まりが2往復、残りの4往復が酒田折り返しであった。

 
 
特急「いなほ」は、昭和44年に上越線経由で上野駅と秋田駅を結ぶ特急列車として登場している。

 

昭和57年の上越新幹線開業に伴い、新潟発着の新幹線接続特急に生まれ変わり、東北側でも青森まで延伸された時代に、僕は「いなほ」に乗りに来たのである。

平成22年のダイヤ改正で、「いなほ」の運転区間は新潟-酒田・秋田に短縮されたので、乗っておいて良かった、と思っている。

 

 

「いなほ」の名は、庄内平野が我が国で有数の米作地帯であることから、と説明されているが、当時の僕が庄内に思い入れがあった訳ではなく、新潟平野も秋田平野も米どころではないか、と思ったりする。

 

鶴岡と酒田に挟まれて、庄内平野のど真ん中にある余目と言えば、鉄道ファンならば、有名な鉄橋のある山陰本線の餘部と取り違えてしまいかねないのだが、古代律令国家で50戸を1単位とする集落を「郷」と呼び、50戸に満たない集落を「余戸(あまりへ)」として、それが転訛したのが「余目」の由来とされている。

 

 

この旅の数年後、僕は余目町の自動車学校で合宿免許を取得し、また平成17年12月25日に起きた強風による「いなほ」14号の脱線転覆事故の直後にこの地を訪れ、雪深い余目駅で、不通となっていた羽越本線の鉄道代行バスから陸羽西線に乗り換えるなど、何かと縁が生じることになろうとは、この時、思いも寄らなかった。

すっかり晴れ渡った青空を背景にした鳥海山が見事だな、と思うくらいである。

心なしか、水田の苗の背が、新潟平野よりも低いように見えた。

 

11時30分着の遊佐駅を過ぎると、前方の鳥海山の山裾がこちらに急激に迫って来て庄内平野が終わり、山形と秋田の県境は再び海端を走る。

県境は遊佐駅から2つ目の女鹿駅の先にあり、鼠の次は鹿か、と口がむずむずするけれども、もちろん「いなほ」1号は停まらない。

 

 
このあたりに来れば「有耶無耶の関」を思い出すが、こちらの関址は三崎峠を越えた象潟の町なかに置かれていて県境ではないし、山中でもない。
 

鳥海山に棲んでいた「手長足長」と呼ばれる妖怪が旅人をさらったり、日本海を行く船を襲うといった悪事を働くため、鳥海山の神が三本足の鴉を遣わせて、手長足長が現れる時に「有や」、現れない時に「無や」と鳴かせて人々に知らせたのが、三崎峠を「有耶無耶の関」と呼ぶ由来と伝えられているが、関を峠に置いたら手遅れだよな、と1人で納得する。

人々や船舶が妖怪にさらわれるとは、悪天候で荒れた海との関わりがある伝説なのだろうな、と思うけれども、海岸の松の木立ちの合間から眺めるこの日の日本海は極めて穏やかだった。

 

 

象潟と言えば、何を置いても、

 

松島や 雄島の磯も 何ならず ただきさがたの 秋の夜の月

 

と西行法師が歌に詠み、松尾芭蕉に「東の松島 西の象潟」と絶賛された景勝地が思い浮かぶ。

 

『江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸をせむ。

酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影ややかたぶくころ、汐風真砂を吹あげ、雨朦朧として鳥海の山かくる。

闇中に莫作して「雨もまた奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待つ。

其朝天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。

まず能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。

江上に御陵あり。

神功皇宮の御墓と云ふ。

寺を干満珠寺と云ふ。

此処に行幸ありし事いまだ聞ず。

いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をささえ、其陰うつりて江にあり。

西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云ふ。

江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。

松島は笑ふが如く、象潟は憾むがごとし。

寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり』

 

松島ですら例外なく短い描写で済ませている「奥の細道」にしては、珍しく詳細に描かれている。

 

象潟や 雨に西施が 合歓の花

 

と芭蕉が句に残した象潟を訪れるのは初めてで、電車の窓からも片鱗を窺えると小耳に挟んでいたので、僕は大いに楽しみにしていた。

 

 
当てが外れた。

11時53分発の象潟駅を発車した「いなほ」1号は、こんもりとした丘が散在する田園地帯を駆け抜けると、瞬く間に次の金浦駅を通過し、12時02分着の仁賀保駅に滑り込んだのである。

象潟は象潟駅と金浦駅の間にあるはずで、JR仙石線における松島と似た景観を期待していた僕は、呆気にとられた。

 

西行や芭蕉が愛でた象潟の島々は、鳥海山の大規模な山体崩壊により、約60億トンと推定される大量の土砂が海に流れ込んで生じたという説が有力である。

19世紀の初頭、文化元年6月4日の午後10時頃に、出羽国由利郡と庄内地方を中心とする巨大地震が発生し、津波が襲来、地盤が数メートルも隆起したため、象潟の入り江は完全に干上がってしまったことを、「奥の細道」の知識で止まっていた僕は知らなかったのである。

 

 

関取の雷電爲右エ門が地震の2ヶ月後に象潟を訪れて、「雷電日記」に以下のように記している。

 

『八月五日出立仕り候。

出羽鶴ヶ岡へ参り候ところ、道中にて六合より本庄塩越通り致し候ところ、まず六合より壁こわれ、家つぶれ、石の地蔵こわれ、石塔たおれ、塩越へ参り候ところ、家皆ひじゃけ、寺杉木地下へ入りこみ、喜サ形と申す所、前度は塩なき時にても足のひざのあたりまで水あり、塩参り節はくびまでもこれあり候。

その形九十九島あると申す事に御座候。

大地震より、下よりあがりおかとなり申し候。

その地に少しの舟入り申し候港もあり、これもおかとなり申し候。

六月四日、夜四つの事に御座候。

地割れて水わき出ず事甚だしきなり。

年寄、子供甚だ難渋の儀に候。

馬牛死す事多し。

酒田まで浜通り残りなしいたみ多し。

酒田にて蔵三千の余いたみ申し候と申す事に候。

酒田町中われ、北がわ三尺ばかり高くなり申し候とのことに候。

長鳥山(鳥海山)その夜、峰焼け出し、岩くづれ下ること甚だしきなり』

 

12年後にこの地を訪れた山伏の野田泉光院は、

 

象潟の 名のみ残りし 暑さかな

 

との句を残している。

 

羽越本線は緩やかに曲線を描きながら、象潟の西側に敷かれており、まさに、200年前に隆起した大地の上を走っている。

象潟駅の発車直後に目にした幾つもの丘が、かつての景勝地の痕跡だったのだが、長閑な田園地帯から「九十九島」と呼ばれた名勝を偲ぶのは難しくても、その形成から消滅まで、この土地を見舞った天変地異の凄まじさを思えば、見逃すほど平凡な光景であっても、心が和む。

 

 
12時14分着の羽後本荘駅から、羽越本線は再び海沿いを走るが、それまでの岩が多い海岸と違って砂丘が広がっているので、荒々しさは感じられない。
 

秋田駅に着いたのは新潟から4時間半が過ぎた12時48分であった。

2分停車の間に僕が乗る車両の乗客は全て入れ替わり、乗り込んで来たのはそれまでの半数にも満たなかった。

 

青森まで残すところ185.8km、海と山に彩られた羽越本線の旅は終わり、ここからは奥羽本線と線名が変わる。

背の低い松林が広がる砂丘を抜け、13時15分発の八郎潟駅の前後で左手に広がる八郎潟干拓地をぼんやりと眺め、13時29分発の森岳、13時39分発の東能代、13時53分発の二ツ井、14時04分発の鷹ノ巣と、いきなり小まめに停車を繰り返すようになった。

この辺りの列車の運転本数が少なく、特急列車と言えども地域輸送に駆り出す必要があるのだろう。

 

 
これまで真北に向かっていた奥羽本線は、13時39分発の東能代駅でほぼ直角に東へ鼻先を向ける。

 

北へ伸びる海岸線を走るのは五能線で、白神山地と日本海に挟まれた風光明媚な車窓が有名で、後に観光列車も運転されるのだが、なかなか乗る機会に恵まれない。

東能代駅で乗り換える案も大いに心を惹かれたのだが、僕は「いなほ」1号が走る区間は羽越本線も奥羽本線もこの時点で未乗であったので、乗るべき線区として五能線に引けを取らない。

 

翌々年に、僕は上野と青森を結ぶ寝台特急「あけぼの」で奥羽本線を全線走破するのだが、そのような未来など知るべくもないし、今回の旅の主眼は新潟から青森まで特急「いなほ」1号に乗り通すことなので、途中で趣旨を変える訳には行かない。

乗り物を旅の主人公に据えると、何かと融通が利かないのは百も承知している。

 

 

白神山地の東の裾野を米代川に沿って走り、鉄橋で南岸から北岸に移れば、なだらかな山なみに伸びる一筋の川面は、なかなか良い風情を漂わせている。

 

奥羽山地の岩手県域から流れ出して日本海に注ぐ米代川の語源は、米の研ぎ汁のような白い川、という意味で、上流に住む「だんぶり長者」の元に集う人々が米を研ぐと、川の水が真っ白になるほどであったという話が言い伝えられている。

ちなみに「だんぶり」とはトンボのことで、「だんぶり長者」はトンボに教えられた泉に湧く美酒を元手に栄えたのである。

米どころで銘酒が多く、そして勤勉な東北の人々に相応しい伝説と言えるだろう。

 

10世紀に起きた我が国で最大級の十和田火山の噴火による火山灰で、川が白く濁ったことを指しているとの説もあるものの、現在の米代川の水は、澄んだ緑色である。

 

 
米代川のほとりの盆地に広がる大館市は、忠犬ハチ公をはじめ秋田犬の山地として知られているが、戊辰戦争で街並みが広く焼失し、大正・昭和期にも幾度となく大火に見舞われて、城下町としての面影は殆んど残っていないらしい。
比内鶏で有名なこの辺りの地域名は、「火内」から転じたとも言われている。

 

僕は、車内販売で比内地鶏を使った「鶏樽めし弁当」を手に入れて、遅めの昼食とした。

同じ列車で2度の食事を摂った経験は、東京から九州へ向かう寝台特急以外に思い浮かばず、改めて「いなほ」1号の長距離走者としての貫禄が実感されるではないか。

 

 

大館盆地を過ぎると、「いなほ」1号は再び進路を北に向け、いよいよ奥羽山脈の懐深く足を踏み入れて行く。

 

秋田と青森の県境は大館駅から2つ目の陣馬駅の先で、奥羽本線は3180mの矢立トンネルで越えている。

これまでの県境のように関はないのか、と思うが、10kmほど先の平川の谷間に碇ヶ関村がある。

ただし、江戸時代に弘前藩が設けた関所と言うだけで、蝦夷に備えた鼠ヶ関や、伝説的な難所であった有耶無耶の関ほどの凄みはない。

碇ヶ関駅に停車する特急列車もあるのだが、「いなほ」1号は素っ気なく通過する。

 

それでも、「いなほ」1号が走るのは、紛れもなくこれまでで最も山深い地形であった。

並行して建設された東北自動車道で最後に開通したのも、碇ヶ関ICと十和田ICの間で、手前には東北道で最長となる4265mの坂梨トンネルが穿たれている。

 

 

山あいを東北道、国道7号線、平川の清流と絡み合いながら下って行くうちに、少しずつ山なみが左右に後退し、14時45分発の大鰐駅の辺りでは、すっかり平野の趣になっていた。

新潟から6時間、ついに津軽まで来たのか、という感慨が込み上げてくる。

長かったなあ、と思う一方で、楽しかった車窓を振り返ると、何だか名残惜しくなってきた。

 

14時56分に弘前駅に到着。

ここからの「いなほ」1号の記憶は、いきなり曖昧になる。

岩木山が綺麗に見えるな、と思ったことと、終点の青森から先の行程をどうしよう、と時刻表を開いたところまでは覚えている。

ところが、この日、どのように東京へ帰ったのか、全く忘却の彼方なのだ。

 

 

青函連絡船が健在だった時代であるから、これまでは、てっきり海路で函館を往復したものと思い込んでいたのだが、改めて調べてみると、「いなほ」1号に接続する連絡船はなく、下り5便が15時00分に出港したばかりで、次は17時05分の7便であり、片道の所要3時間50分の連絡船では、その日のうちに青森に戻れない。

そうか、特急「いなほ」は、せっかく青森まで足を伸ばしても、北海道連絡を期待されていた訳ではないのだな、と思う。

 

青函連絡船で函館に渡り、羽田行きの航空機を利用したことが1度だけあるけれど、別の旅であったことは明確に記憶しているし、青森空港を使った記憶もない。

 

 

「いなほ」1号の青森着が15時28分であるから、16時40分発の盛岡行き特急「はつかり」と、盛岡発19時13分の東北新幹線「やまびこ」80号を乗り継げば、22時34分に上野駅に戻れるので、おそらくそうしたのだろう、と推測するしかない。

 

上越新幹線と特急「いなほ」、特急「はつかり」と東北新幹線で東北を時計回りに1周し、その日のうちに東京に戻って来れるとは、何と壮大で贅沢な旅であったことだろう。

何もしないで延々18時間、列車に乗りっぱなしで旅の起点に戻っただけであるから、時間とお金の無駄の極致とも言えるが、僕は大いに満足していた。

 

 
ちなみに、上越・東北新幹線が開通する前の昭和53年の時刻表を紐解けば、特急「いなほ」1号は上野を7時19分に発車し、秋田に15時02分に着くものの、秋田から先の接続が悪く、17時00分発の急行「むつ」3号の青森着が20時09分と、それだけで1日が終わってしまう。

敢えて東北1周を試みるならば、昼間に青森と上野を結ぶ特急「はつかり」は14時25分発の12号が最終であるからとても間に合わず、青森21時15分発・上野6時35分着の寝台特急「ゆうづる」10号に乗るしかない。

 

上野から秋田まで8時間を費やす列車の旅にも憧れるし、東北1周に23時間も掛かっていた時代が懐かしいけれども、改めて新幹線の力は偉大なのだな、と思う。

 

 

津軽平野から青森平野へ渡って行く「いなほ」1号の締めの車中は、朦朧と過ごした。

帰路が定まって安心したのと、上越新幹線の始発列車に乗るために早起きしたこと、変化に乏しい水田とリンゴ畑の車窓に倦んで、睡魔に襲われたのだろうか。

 

はっきりしているのは、弘前駅から青森駅までを無停車、32分で駆け抜けた「いなほ」1号から降り、青森駅のホームに呆然と佇みながら、旅の終わりを噛み締めていたことである。

本州の北の果ての駅に吹く風は爽やかだったが、9時間前にいた東京と比べると遥かに涼しく、ほのかに潮の匂いがした。

 




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