第61章 平成28年 高速バス品川-大多喜線で房総半島を横断する小私鉄を訪ねる | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バス品川・羽田空港-大多喜線、新宿-木更津線、いすみ鉄道、小湊鉄道】

 

 

夜を徹して東海道を上ってきた寝台特急「サンライズ出雲」が、終点の東京駅に滑り込んだのは、定刻7時08分だった。


雨が上がったばかりらしく、端が濡れているホームに降り立って曇り空を見上げながら、旅が終わったな、と朝の空気を深呼吸しているうちに、真っ直ぐ帰るのが勿体ないような気分になった。

平成28年9月の連休のことで、まだ丸1日の休日が残されている。

 

車中2泊で九州と山陰を巡り、夜行バス1本、昼行高速バス2本、新幹線と在来線特急、そして寝台特急列車を1本ずつに乗り詰めという慌ただしい行程をこなしたので、通常ならば自宅に帰って泥のように眠るところであろう。

ところが、久しぶりに乗車した「サンライズ出雲」の12時間の車中があまりに快適で熟睡できたため、旅の終わりにつきものの気怠さがなく、頭が冴え冴えとしている。

夜行高速バスではこうは行かないので、さすがは寝台列車だと思う。

 

 

ちょっとだけ、近場の高速バスに乗ってから帰宅しよう、という誘惑が鎌首をもたげて来た。

 

僕は山手線外回りの電車に揺られ、品川駅高輪口に降り立った。

第一京浜国道を挟んだ正面の高台に、「京急EXホテル品川」の壮麗な建物が立ちはだかっている。

目指すは、前年の12月に開業したばかりの品川-大多喜間高速バスである。

京浜急行バスと小湊鉄道バスが運行する路線で、1日6往復が設定されていた。

 

 

時刻表は持参していないけれども、スマホで事業者のHPを開けば、運行時刻や乗り場の案内が瞬時に判明する。


路線バスの停留所の立地は事業者や行政の都合だけで決定すると言っても良いくらいで、必ずしも利用者に分かりやすいとは言えない場合がある。

鉄道で「○○駅」と言えば1つしかないけれど、バス停が「○○駅」を名乗っても、駅周辺の何処に置くのかという法則がある訳ではない。

駅前広場に設けられた乗降場であればまだ良い方で、駅から離れた路地に置かれたバス停が、平然と「○○駅」を名乗っていたりする。

 

僕が高速バスに乗り始めた昭和の終わり頃は、旅立ちの前に、必ずや時刻表やパンフレットで乗車場所を確かめる必要があった。

見知らぬ街で、高速バスの乗り場を求めて延々と歩いた記憶は幾つも思い浮かぶし、一緒に旅の情緒までが懐かしく蘇ってくるのだが、よくぞ迷ったり乗り遅れたりしなかったものだ、と背筋が寒くなることもある。


今では、何の準備もなくバス旅に出掛けても、スマホで調べれば迷うことはない。

だから何処にバス停を置いても良い、という理屈にはならないだろうけれど、世の中は確実に進歩しているのだな、と思う。

 

 

大多喜行き高速バスの乗り場は「シナガワグース」、終点は「オリブ駐車場」とHPに書かれている。

一見して、起終点の停留所名がこれほど意味不明の高速バスも珍しく、雁や、食用油の原料となる木の実が、なぜ出てくるのかさっぱり分からないけれども、地図を見れば、「シナガワグース」は「京急EXホテル品川」と一致した場所になっている。


なんだ、先祖返りだったのか、と思ったのには事情がある。

品川駅高輪口の正面に建つ30階建てのホテルは、かつて、昭和46年に開業した「ホテルパシフィック東京」であった。

平成23年に「京急EXホテル品川」へと新装され、敷地内に、ホテルと一体化したレストランや店舗が入居する複合商業施設「シナガワグース」が誕生したのである。

 

 

昭和61年に登場した弘前行き夜行高速バス「ノクターン」号と、昭和63年5月に開業した鳥取・米子行き「キャメル」号は、第一京浜沿いに品川バスターミナルが完成する平成元年1月まで、「ホテルパシフィック東京」を発着していた。

品川駅から400mほど離れた品川バスターミナルの立地が若干不便であったためか、比較的近距離の昼行高速バスとして平成14年に開業した品川-木更津線は、再び「ホテルパシフィック東京」を起終点として、一部の便が品川駅東口を経由するようになり、平成20年に開業した品川-袖ケ浦線も追従した。

 

つまり、品川発着房総半島方面路線の第3弾である品川-大多喜線が「シナガワグース」を使用するのは、運行する京浜急行バスの先祖返りか、と感じ入った次第である。

僕は「ホテルパシフィック東京」が名称を変更したことも、付属する複合施設が「シナガワグース」と名乗っていたことも寡聞にして知らなかったので、それだけ品川を出入りする高速バスと御無沙汰していたのか、と思う。

 

 

駅前の広い横断歩道で第一京浜を渡ると、正面に、高輪の高台に登る柘榴坂が真っ直ぐ伸びている。

 

柘榴坂の名を聞けば、浅田次郎の小説を原作にした映画「柘榴坂の仇討」を思い出す。

舞台は江戸時代末期、桜田門外の変で大老井伊直弼を討たれた中井貴一演じる彦根藩士が、討手である水戸藩士の仇討ちを命じられる。

江戸幕府が瓦解し、彦根藩も水戸藩も消滅、明治新政府が誕生する世の趨勢の中でも、彼は武士としての矜持を保ち続けた。

討手側も殆んどが幕末に命を落とし、唯一生き残った阿部寛扮する元水戸藩士は人力車の車夫になっていた。

主人公は主君の仇を柘榴坂で追い詰めたものの、「命懸けで国を想う者を無下にするな」という主君の言葉と、「国を想う者に不当な処罰を与えれば、誰も国を想わなくなる」という協力者の警察官の言葉を思い浮かべて、「新しい人生を生きてくれ」と告げる。

2人とも、それぞれ自分を待つ家族の元へ帰るという大団円なのだが、奇しくも、新政府が「仇討禁止令」を布告した日のことであった。

 

小説は未読であるが、映画を観て、動乱の時代を生きる人々の姿に深く感動した覚えがある。

明治維新や太平洋戦争ほどではなくても、現在も先が見えにくい激動の時代だよな、と自分の生き方を振り返ってみたりする。

後世の人々は、平成の御世のことを、どのように評するのだろうか。

 

 

柘榴坂を少しばかり登って「シナガワグース」の敷地に入ると、まだ開いている店舗が1軒もなく、建物内の通路もおざなりの照明だけで、真っ暗だった。


どのような名称であろうと、ホテルのロビーから玄関に出てみれば、紛れもなく、僕が弘前や鳥取、米子に夜行高速バスで旅立った場所である。

あれから30年近くが過ぎたのか、と月日の容赦のない流れに、しばし呆然とした。

 

次の大多喜行き高速バスの発車時刻は、7時50分である。

夜行明けでは、色々な用件を済ませても、まだこのような頃合いなのか、と嬉しい驚きに見舞われることが多い。

早起きは三文の徳、という諺が脳裏に浮かんできたりするのだが、それを実感するのは旅先のことが多く、東京でそのように感じたのは初めてだった。

日常では、いくら早起きしても、同じように前向きな気分は湧いてこない。


足掛け2泊3日の旅を終えてもまだ乗り足りないのか、物好きめ、と自嘲していたのだが、自宅でごろごろ過ごすよりも、よほど有意義ではないか、と気持ちが一新する。

 


僕がホテルの玄関に着いた時から、小湊鉄道バスのハイデッカーが、少し離れた場所に待機していた。

発車時刻の寸前に、どこか大儀そうに乗り場に横づけされたバスに乗り込んだ乗客は、10名にも満たない。

 

車内前方には「羽田空港 国内線 ターミナルご案内 バスは第1ターミナル→第2ターミナルの順に停車します 第1ターミナル 日本航空 日本トランスオーシャン航空 スカイマーク スターフライヤー(北九州空港行) 第2ターミナル 全日空 ソラシドエア エア・ドゥ スターフライヤー(福岡・山口宇部・関西空港行)」と羽田空港の案内が掲げられている。

このバスは空港リムジンにも運用されるのか、と早合点したが、調べてみると、品川-大多喜線は羽田空港を経由するではないか。

 

ただし、下りの始発から2便と最終便、そして上り最終便は羽田空港を通過するので、この便は羽田空港に寄港しない。

つまり、これ以上乗客が増えることもないわけで、車内を見渡せば、これで採算が合うのかと多少心配になるけれども、ゆったりと寛げるのはありがたい。

大多喜までの1時間20分を、せいぜい楽しもうと思う。

 

品川-大多喜線は大多喜町の要望で開設され、同町が赤字分を補塡する協定が結ばれていると言う。

僕のような大多喜町に何の用事もない人間でも、高速バスに乗れば、それだけ町の負担が減る訳だから、わざわざ乗りに来た甲斐があったというものである。

 

 

京成バスと小湊鉄道、日東交通が平成14年から運行している浜松町・東京-勝浦・小湊・御宿線も大多喜に停車し、町のHPや停留所でも双方の高速バスを案内しているのだが、大多喜町民は、1日6往復が運行される東京-勝浦・小湊・御宿線だけでは不足だったのだろうか。

 

東京-勝浦・小湊・御宿線における大多喜町内の停留所は、「ヤックス前」と「たけゆら前」になっている。

乗車したこともあるけれど、途中の大多喜町の記憶が定かではない。

「オリブ」同様、所在不明の停留所であり、スマホで調べられないこともないけれど、現地に着いての楽しみに取っておくとしよう。


 

定刻に発車した大多喜行きのバスは、ホテルが建つ高台を下ると、第一京浜を南へ走り始めた。

 

赤い京浜急行電車が行き交う高架を左に眺めながら、青物横丁駅の手前の交差点を左折して、都道421号線・ジュネーヴ平和通りへ足を踏み入れる。

スイスのジュネーヴ市にある本場の平和通りと言えば、赤十字国際委員会の本部が置かれていることで有名だが、なぜ青物横丁に?──と、大井町に住んでいた学生の頃から不思議に思っていた。

江戸時代末期に品川寺の梵鐘が海外に流出して行方不明となった事件が契機らしく、大正時代にジュネーヴの美術館で発見されて返還され、品川区から新しい梵鐘を贈ったことがきっかけで、品川区とジュネーヴ市は友好都市となった。

その際に、ジュネーヴ市から、フランス語で平和通りを意味する「Avenue de la Paix」と書かれた標識が贈られ、青物横丁交差点から海岸通りまでをジュネーヴ平和通りと名づけたのだという。

 

学生時代には、当時の大井町になかったドーナツ屋や、大井町の店舗より品揃えの多いレンタルビデオ店などを目当てに、また何よりも旧東海道品川宿の風情を残す街並みに惹かれて、途中の3.5%という急傾斜のゼームズ坂をものともせず、ちょくちょく自転車で出掛けて来たものだった。

 

 

海岸通りを横切って、大型店舗が並ぶ品川シーサイドを横目に首都高速1号羽田線の高架をくぐり、京浜運河と東京モノレールを跨ぐ北埠頭橋に登ると、広大な八潮の埋立地が一望の下に開ける。


都道316号線に右折して品川清掃工場をぐるりと回り込み、国道357号線・湾岸道路を首都高速湾岸線に沿ってしばらく走った後に、大井南ランプから高速に入る経路は、10年前に品川-木更津線でたどったことがある。

大井町駅と羽田空港を結ぶリムジンバスも、湾岸道路まで全く同じ経路であるから、僕にとって馴染みの道行きであるけれど、大井町発着路線は首都高速湾岸線に入らず、そのまま湾岸道路を進んで羽田空港まで行く。

それほど羽田空港は近いのだが、高速道路を利用すると、瞬く間に城南島と京浜島を駆け抜けて、羽田空港の敷地に差し掛かり、多摩川トンネルをくぐるなり、東京湾アクアラインに分岐する。

旅の導入部にしてはあまりに呆気なく感じるのは、以前に乗車した品川-木更津線と何ら変わりはなかった。

 


この日の東京湾は、曇り空だった。

緩やかな起伏を成すアクアブリッジの彼方が霞んでいる。

晴れていれば見通せるはずの房総の地も、真っ白な霞の中に隠れ、果てのない外洋を渡っているかのようである。

 

東京湾アクアラインを渡る高速バスは、横浜・羽田空港-茂原線と羽田空港-大網線以来10年ぶりだったが、その時も曇が低く垂れ込めていたことを思い出す。

高速バスとしては御無沙汰だけれど、この間、全く東京湾を渡らなかった訳ではなく、自分でハンドルを握って何度も行き来しているから、真新しさを感じることはない。

それでも、乗用車よりは高い視点で、よそ見をしても何の心配も要らない高速バスから眺める東京湾は、ひと味違うな、と思う。

 


10年前と異なることは、もっとある。

 

東京から大多喜を経由して勝浦・御宿に向かう高速バスや、横浜と茂原を結ぶ高速バスは、アクア連絡自動車道から館山自動車道に入り、木更津北ICで国道409号線・房総横断道路を東に向かった。

僕が乗る大多喜行きのバスは、アクア連絡道と館山道が交差する木更津JCTを真っ直ぐに進み、平成25年に開通した首都圏中央連絡自動車道に入って、房総丘陵の懐深く分け入っていく。

幾重にも折り重なる山肌を縫い、立ち塞がる小高い起伏は躊躇なくトンネルで貫いていく贅沢な高架道路を猛進しながら、このような道路が出来ていたのか、と思う。


 

思えば、10年前までの房総のバス旅は、東京湾アクアラインを渡り終えれば、山の中や海岸線をのんびりとたどる一般道ばかりであった。

房総半島の意外な山深さに感心し、それが旅の程良い味つけにもなっていた。

 

その頃は、木更津北ICから大多喜まで1時間以上を費やしていたが、今や木更津JCTから大多喜まで40分たらずという韋駄天ぶりである。

世の中はここでも確実に進歩しているのだな、と独り頷きながらも、何か大切なものを失ってしまったような気がしないでもない。

ただし、それは通りすがりの人間の無責任な感傷に過ぎず、圏央道が房総半島にもたらした恩恵を無視してはならないだろう。

 

 

圏央道を20kmほど走ったところにある市原鶴舞ICは、丘陵に囲まれた水田地帯の真っ只中だった。

豊かに実った稲穂が首を垂れて、吹き渡る風に揺られている。

今年も豊作だな、と思う。

 

ここから国道297号線・大多喜街道を12km、20分も掛からずに南下すれば、大多喜の町である。

走り詰めだったバスが、静かに停車した終点「オリブ」とは、「おおたきショッピングプラザオリブ」のことで、食料品店、名産品店、洋装店、理髪店などといった各種店舗やゲームセンターなどが軒を並べる複合商業施設であった。

「シナガワグース」と比べて欠けているのは宿泊施設であるが、店先の段ボールに獲れたてらしい野菜が無造作に置かれているような店が「シナガワグース」にあるはずもない。

今回のバス旅は複合商業施設を結んでいたのか、と思うと、可笑しさが込み上げてきた。

 

ちなみに東京-勝浦・小湊・御宿線が停車する「ヤックス前」とは、「オリブ」と通りを挟んだドラッグストアであり、「オリブ」を名乗っても良いくらいの停留所であった。

案内板を見ると、「たけゆら前」は、南に少し離れた国道沿いの道の駅「たけゆらの里おおたき」のことで、たけゆら、とは竹、遊、楽を合わせた造語らしい。

そう言えば、大多喜街道沿いには竹林が多かったな、と思う。

 

 

眠りを貪っていた「シナガワグース」と違って、「おおたきショッピングプラザオリブ」は開店準備が進み、制服を身につけた人々が忙しく出入りしている。

仕入れのトラックが駐車場の水たまりを跳ね飛ばしていく。

東京は雨がやんでしばらく経ったような濡れ具合だったが、大多喜は、たった今雨が降り止んだばかりのようである。

国道沿いには早々と開いている店も見受けられるが、ここで買い物をするつもりはない。

 

地図を見ると、ここは、いすみ鉄道の大多喜駅や市役所のある中心街と、夷隅川で隔てられた区画のようである。

どうせならば高速バスが大多喜駅まで乗り入れればいいのに、と思ったけれど、この旅の直後に大多喜駅まで延伸された。

開業後、程なくして路線に梃入れが行われるのは、利用客が少ない路線によく見られることである。

品川-大多喜線も苦戦しているのかな、と心配になった。

 

「おおたきショッピングプラザオリブ」は、いすみ鉄道の城見ヶ丘駅に近かった。

この駅は、JR外房線の大原駅と上総中野駅を結ぶ国鉄木原線が、昭和63年第三セクターいすみ鉄道に変換された時点では存在せず、平成20年に新設されるにあたって、大多喜城を見晴るかす場所であったために名づけられたと聞く。

 

 

住宅地に囲まれた城見ヶ丘駅の片面ホームに立ち、さて、大原方面の列車に乗るか、それとも小湊鉄道と接続する上総中野方面に向かうのかを迷った挙げ句、最初に来る列車の方向に進むことに決めた。

僕はいすみ鉄道も小湊鉄道も乗ったことがなく、西に進めばその大部分を乗り通すことが出来るし、東に進んで外房に出たならば、小湊まで電車で足を伸ばし、未乗の東京行き高速バスに初乗りするという旅程が可能になる。

旅の途上におけるこのような迷いは、楽しい。

 

カタカタとレールを鳴らして現れたのは、「大多喜」と行先を掲げた単両のレールバスだった。

西へ1駅だけ進んだワンマン運転のレールバスは、

 

『次は終点、大多喜です』

 

と短いアナウンスを流して、速度を落とした。

 

 

大多喜駅は、時ならぬ賑わいを見せていた。

何が起きているのか、とたじろいでしまうが、カメラを手にホームを走り回っている男性ばかりで、どうやら鉄道ファンらしい。

 

お目当ては、国鉄時代の昭和39年に製造されたキハ28形と、昭和40年製造のキハ52形の気動車が連結された編成のようである。

前者は、米子、新潟、千葉で仕事をし、後者は富山で活躍した後に、それぞれ平成23年と24年にいすみ鉄道に譲渡され、キハ28形は国鉄の急行色に塗り替えられて「そと房」のヘッドマークを掲げ、キハ52形は国鉄気動車標準色にお色直ししている。

ヘッドマークは、他に「犬吠」「みさき」「なぎさ」など、往年の房総地区の急行列車名が用意されているらしい。

 

 

「外房」とは、昭和37年に準急列車として登場し、昭和41年に急行に昇格して、昭和47年まで新宿から外房線に乗り入れていた列車で、一時期「そと房」と表記されていたことがある。

国鉄木原線に乗り入れたことのない急行列車のヘッドマークを掲げた列車に、大多喜駅でカメラを向けるのは、自宅で架空の鉄道を楽しむ鉄道模型と似たような趣向に思えてならないのだが、全国でこのような商売が増えたな、と思う。

 

外房線の優等列車の歴史は、昭和27年から昭和29年まで夏季の臨時快速として新宿-安房鴨川間に登場した「黒潮」に遡る。

昭和30年には、蒸気機関車ではなく気動車を投入し、平日は千葉発、休日は新宿発で、午前に新宿-千葉-木更津-館山-安房鴨川-大網-千葉と房総半島を循環運転し、午後に千葉から逆に回る定期快速列車が登場する。

昭和33年に、新宿・両国と銚子を結ぶ準急「犬吠」を、外房線経由安房鴨川行き、内房線経由館山行きの車両を併結する多層建て列車に仕立てて、列車名を「房総」に変更、昭和34年に「房総」を「京葉」に改称した上で、総武本線・外房線・内房線の臨時準急列車を「房総」と命名、新宿発着で「京葉」と同じ循環運転を開始、昭和35年に定期化されている。

昭和37年に新宿・両国-千葉間における「京葉」と「房総」の併結運転を中止し、外房線に向かう列車は「外房」、内房線の列車は「内房」と改められたが、循環運転も継続され、両線の境となる安房鴨川駅で「外房」と「内房」の愛称を切り替えていたという。

 

この時、いわゆる湯桶読みを避けたのか、「外房」は「がいぼう」、「内房」は「ないぼう」と呼ばれていたというから、当時の国鉄は列車名にきちんとした拘りを持っていたのだな、と思う。

 

 

昭和38年には、外房線で夏季に臨時で運転されていた準急「千鳥」や「清澄」を「黒潮」に統合、その後のシーズンオフに両国-安房鴨川駅間に全車座席指定の準急列車を「くろしお」と名付けて新設、両国-千葉間で同じ内容で内房線に新設された両国-館山間の「さざなみ」と併結して運転された。

翌年からは、夏季の臨時準急の名称を「清澄」に戻している。

 

昭和40年に「くろしお」に自由席を連結して「外房」に統合し、読みは「そとぼう」に改められて、昭和41年に「外房」と「清澄」は急行に昇格する。

昭和42年に夏季臨時急行の名称を「清澄」から「そとうみ」に改称、シーズン後に「外房」のうち循環運転を行う列車を「そとうみ」と改称、昭和43年に「そとうみ」と「外房」を「そと房」に統合した。

この年の夏季から臨時急行も「そと房」を名乗ることになった。

 

昭和30年代から40年代の高度成長期に、首都圏の海水浴と言えば房総半島であり、昭和42年には海水浴輸送が約1200万人と頂点を極め、キハ28形も急行列車の主力車両として活躍したのである。

その最盛期を担ったのが、急行「そと房」だった。

「がいぼう」だの「そとぼう」だのと読み方を変えたり、「外房」「そと房」と漢字にしたり仮名混じりにしたり、国鉄が湯桶読みへの拘りをなくし、利用者に分かりやすく迎合していったような、ある意味で昭和らしい変遷と言える。

 

 

昭和47年に外房線が安房鴨川まで電化され、総武本線快速列車が東京駅に乗り入れを開始すると同時に、特急「わかしお」が東京-安房鴨川間で運転を開始、同時に急行「そと房」は廃止され、内房線から外房線に入る循環急行「なぎさ」と、外房線から内房線に入る循環急行「みさき」が登場する。

ところが、昭和50年に循環運転を取り止め、外房線の急行列車は再び「外房」を名乗る。

昭和57年に特急「わかしお」を増発する形で急行「外房」が統合され、房総地区の急行列車は全て廃止されたのである。

 

国鉄時代から働き続けている旧式車両を眺めるのは嫌いではないし、僕と年齢がほぼ同じ車両が歩んできた時代を偲べば、様々な感慨が胸中に湧き上がって来るけれども、だからと言って、そのために遙々出掛けてきたりはしないから、右往左往している鉄道ファンを横目に見ながら、御苦労様、と思う。

 

 

この旧国鉄編成が次の上総中野行きになり、車中に乗り込んだ大勢の鉄道ファンと一緒に大多喜駅を発車した。

せっかくなので、キハ28形の席に納まってみれば、今や我が国でほぼ絶滅してしまった急行用車両の乗り心地はこよなく懐かしい。

子供の頃に故郷信州で乗った幾つかのディーゼル急行のことが、思い出される。

僕も節操がないな、と苦笑いが込み上げてくる。

 

大原駅から夷隅川に沿って西へ進んできたいすみ鉄道は、城見ヶ丘駅と大多喜駅の間で、南に方向を転じている。

夷隅川が紆余曲折の蛇行を繰り返しながら山中を流れていることが一因だが、いすみ鉄道は蛇行にいちいち付き合っている訳ではなく、大原と木更津を結ぶために建設された国鉄木原線の後継でありながら、木更津にそっぽを向いて、大きく南に鼻先を向ける線形になっている。

 

木原線が目指したのは久留里線の上総亀山駅であり、建設された昭和初期の技術では、川に沿う以外に山を越える鉄道を設けることが困難だったものと思われる。

地図を開けば、いすみ鉄道は、夷隅川に刻まれたなだらかな地形を選んで敷かれていることがよく判る。

 

もし木更津方面へ短絡するならば、城見ヶ丘駅付近から県道132号線に沿って真西へ向かい、小湊鉄道の月崎駅付近を横切り、県道32号線沿いに西進すれば、久留里駅付近に出る。

しかし、このルートはかなり峻険な地形であることが予想され、県道もくねくねした細い山道である。


品川から大多喜への高速バスでも、国道297号線で大多喜の町に入る寸前に、九十九折りのヘアピンカーブで急斜面を駆け下る区間があったことを思い出す。

前方を行く車が鋭角のカーブを曲がり終えると、バスのすぐ隣りをすれ違って下りて行くような曲線が連続し、右に左に揺られながら、このような地形に鉄道を敷くのは無理だな、と感じ入ったものだった。

 

 

上総中野駅は、猫の額のような山あいの平地に設けられた長閑な駅で、ホームに降り立てば山間の冷気が肌に心地良い。

木造の古びた駅舎に足を踏み入れてみれば、古めかしいけれども優しさを感じさせる出札口や待合室の造りにホッとする。

どうして、人は、切り捨ててきたはずの古きモノに惹かれるのだろうか。

 

それほど待たずに小湊鉄道の下り列車が姿を現し、そのまま五井方面へ折り返した。

鉄道ファンはいすみ鉄道で戻るつもりらしく、誰も乗って来ない。

車内には、数人の地元客が思い思いに席を占めているだけである。

 

 

上総中野駅から次の養老渓谷駅までが、小湊鉄道線最大の難所と思われる。

 

小湊鉄道も、養老川が織りなす平坦な地形を上手に利用しながら、五井から養老渓谷まで敷設されているのだが、会社名の通りに小湊を目指すならば、そのまま養老川を遡れば良い話である。

ただし、養老川は小湊の遥か手前で尽きてしまい、そこから先の山間部の建設が容易でないことは、養老渓谷から小湊に出る県道178号線を自分の運転で走った経験があるので、充分に理解できる。

 

小湊鉄道の歴史を記した文献には、以下のように書かれている。

 

『大正14年3月7日に五井駅-里見駅間で開業。

大正15年9月1日に里見駅-月崎駅間、昭和3年5月16日に上総中野駅までの全線が開通した。

上総中野駅から先の延伸工事、並びに終点として想定されていた小湊駅(現在の安房小湊駅付近に設置される予定だった)近辺の工事も一部着手されていたが、資金難のため昭和4年5月頃に中止された。

資金面の問題に加え、昭和初期の土木技術では延伸区間の清澄山付近で難工事が予想されたこと、加えて昭和9年に上総中野駅まで延伸した国有鉄道木原線と接続して房総半島の横断ができるようになったことから、最終的に延伸は断念された』

 

 

あたかも、計画当初から上総中野駅を経由して小湊に向かうような文面であるけれど、養老渓谷駅から清澄山の東麓を経て安房小湊駅を結ぶ直線上から、上総中野駅は大きく東へ外れている。

 

上総中野駅までの区間を設計する前の段階で、小湊への延伸が資金的にも技術的にも難しいとの見通しになり、それならば大正12年に着工が承認された国鉄木原線に繋げてしまえ、という算段になったのではないか、と推察したくなる。

実際の木原線の建設は小湊鉄道よりも遅く、昭和5年に大原-大多喜間、昭和8年に大多喜-総元間と少しずつ工事が進められて、総元-上総中野間が開通したのは、小湊鉄道月崎-上総中野間の完成の6年後であるから、僕の推測は外れているのかも知れない。

 

地形図を見ると、上総中野駅から、平沢川の支流の西畑川に沿って僅かながら土地が平坦になっており、その先で川は尽きてしまうけれども、ひと踏ん張りして山中を南に進めば、蛇行してきた夷隅川の本流と出会い、清澄山東麓にある水源を過ぎても、ひと山越えるだけで小湊に出る。

現在の県道177号線と県道82号線に沿った経路である。

最初からこちらを通る計画だったのかもしれない。

 

実際の推移は、小湊鉄道の社史を紐解かない限り判明しないが、確かであるのは、房総半島縦断を目指した小湊鉄道が、養老川と夷隅川、2つの複雑な水系を巧みに利用しようと意図していたことである。

 

 

いずれにしろ、頼りに出来る河川がない上総中野-養老渓谷間の峻険さに変わりはなく、大多喜町と市原市の境界に掘削された板谷隧道は、千葉県内における鉄道の最高地点になっているという。


鉄道の立案と建設、完成、もしくは計画の断念とは、まさに関わった人々のドラマだと思うのだが、小湊鉄道が誕生して既に90年近くの歳月が流れ、車窓に眼を凝らしても、線路と周囲の景色が一体化して、それほど地形の険しさは感じられない。

鉄道と川の関わりを考慮すれば、以前は、よくぞ養老水系を離れて山向こうの夷隅水系まで線路を敷いたものだ、と感心した。

 

 

実際に走ってみれば、この区間に人家はなく、鬱蒼と背の低い雑木林が覆う山肌が窓際まで迫り、曲線も多いけれども、ディーゼルカーがエンジンを震わせて登る勾配は、それほどきつく見えない。

2、3回トンネルをくぐれば下り坂に変わったような印象がある。

 

我が国には、もっと峻険な山岳を越えている鉄道が幾らでも存在する。

昭和初期に比べれば勾配に強い車両が開発され、トンネル掘削技術も進歩して、僕らは勾配に弱いと言われる鉄道に乗っていても、我が国の自然の厳しさに鈍感になってしまっているのかもしれない。

 

 

いつしか、養老川が線路の左手に寄り添っている。

少しばかり平地が広がったな、と感じるうちに、それまでは皆無だった家や田畑が沿線に姿を見せ始め、列車が小さな集落に入っていけば、養老渓谷駅である。

 

養老と聞けば、8世紀に元正天皇が「醴泉は、美泉なり。もって老を養うべし。蓋し水の精なればなり」と賞賛した名水で知られ、水が酒に変じたという養老伝説で知られる岐阜県の養老の滝を思い浮かべる。

房総半島にも同様の伝説があったのか、と勝手に思い込んでいたが、こちらの養老川は、膝の裏を表す古語の「膕(よほろ)」が、屈曲の多い川を表していることが由来で、江戸時代より以前は「与保呂」「用路」「勇露」の文字が当てられていたという。

 

滝が酒に変わらなくても、養老渓谷は房総半島有数の観光名所で、紅葉の季節ともなれば、小湊鉄道も紅葉狩りの観光客で賑わう。

僕も職員旅行で養老温泉に1泊したことがあり、駅周辺の集落の静かな佇まいや、そそり立つ崖を見上げながら散策した河原の情景が、今でも鮮やかに脳裏に蘇る。

 

 

養老川は蛇行を繰り返しながら北へと流れている。
 
ところが、小湊鉄道線は、付き合い切れません、と言わんばかりに、渓谷を抜けた後に第四養老川鉄橋で渓流の左岸に渡り、川が刻むジグザグの平地を横目に、西側の山中を真っ直ぐ突き抜けている。

なかなか果敢な線路の敷き方であるが、どうして川沿いの集落を経由しないのだろうと思う。

もちろん、養老川に忠実に沿うならば、路線長は何倍にも膨れ上がったに違いないが、これでは、小湊鉄道線が川を利用して敷設された、とする僕の推察が当てはまらないではないか。

 

第四養老川鉄橋とは、小湊鉄道線が上総中野駅から五井駅までの全線で4回、養老川を渡っていることを示している。

小湊鉄道には創業以来の歴史的建造物が多数残されていて、板谷隧道を筆頭に、養老渓谷駅舎、第四養老川鉄橋、大久保隧道、月崎駅舎とホーム、月崎第一隧道、里見駅舎、高滝駅舎、上総鶴舞駅貨物上屋、旧鶴舞発電所、上総鶴舞駅舎、上総牛久駅舎、第二養老川鉄橋、馬立駅舎、第一養老川鉄橋、第二柴の下橋梁、第一柴の下橋梁、上総山田駅舎、海士有木駅舎、上総村上駅舎、そして五井機関区機関庫及び鍛治小屋が、国の有形文化財に指定されている。

 

 

意外と橋梁やトンネルが多く、大正から昭和に掛けての技術が未熟な時代でも、当時の人々は、峻険な山岳地帯に敢然と立ち向かい、頑張って鉄道を建設したのだな、と胸が熱くなる。

各駅停車なので、鉄橋やトンネルばかりでなく、駅舎の大多数を列車の窓から眺めることが出来る。

長い年輪が刻まれたその佇まいに、我が国が歩んできた激動の時代を思い浮かべない訳にはいかない。

 

列車が養老川と再び寄り添うのは里見駅のあたりだが、その後も高滝湖を渡った先の上総鶴舞駅の手前まで、川とはつかず離れずであった。

 

 

上総鶴舞駅まで来れば、東京湾に面した平野が広がり始める。

稲刈りを待つ水田の間を伸びる畦道のような細い路床を、ゆらゆらと揺れながら列車は走る。

平野の中のあちこちにぽっこりと小高い丘が点在する様は、如何にも房総だな、と思う。

 

上総牛久駅から五井駅までは千葉・東京方面への通勤圏内であり、列車の運転本数も増える。

終点まであと2駅という地点で、海士有木なる駅が現れた。

『昔、1人のあまありき』などと古文書のような風情の駅名だが、この付近に海士(漁夫)の集落と、有木城(現在の泰安寺)が置かれていたことから命名されたという。

 

上総中野から1時間20分程度、列車は最後までのんびりした走りっぷりを崩さずに、五井駅の一角に滑り込んだ。

 

 

楽しい汽車旅だったな、と余韻に浸りながら、僕は内房線の電車で木更津駅に向かい、木更津発新宿行きの高速バスに乗り込んだ。

 

東京湾アクアラインが開通して20年近くが経ち、房総半島各地から東京、神奈川方面に行き来する高速バスが増えたが、その元祖は、開通と同時の平成9年12月に開業した、木更津を発着して川崎駅、横浜駅、羽田空港に向かう路線だった。

その後、木更津を起終点にして、

 

平成14年7月:品川駅

平成15年10月:東京駅

平成20年9月:新宿駅

平成30年7月:渋谷駅

 

と、都内各地に向かう高速バス路線が拡充している。

これほど都心向けの路線が充実している街は、房総半島では他に見当たらない。

東京湾アクアラインが完成する前の、フェリー航路の時代から変わることなく、木更津は、房総半島の玄関として君臨しているのだな、と思う。

 

この20年間、東京湾アクアラインを使う幾多の高速バスを使って房総各地に足を伸ばした旅は、本当に楽しかった。

遠くに行くばかりが旅ではない、という見本のようなものだったと思う。

しかし、バスファンにあるまじきことであるが、僕にとって、房総半島は自家用車で往来する土地になりつつあり、品川-大多喜線は、実に10年ぶりの房総高速バス旅だった。

乗りたい路線はまだまだ残されているけれども、おそらく、この時が、高速バスで房総半島へ向かう最後になるような予感がしていた。

木更津から新宿へ乗り換えなしに直通するという、高速バスならではの路線は、それに相応しいと思った。

 

駅前に待機していた小田急バスに乗り込み、東京湾アクアライン、首都高速湾岸線、そして大井JCTから首都高速中央環状線山手トンネルに潜り込んで新宿までの1時間20分は、あっという間だった。


 

この旅から4年後、令和2年1月22日付の千葉日報が、以下のように報じた。

 

『大多喜町と東京・品川を毎日6往復している高速バスが、4月1日から1日3往復に半減することが21日、同町などへの取材で分かった。

運行会社が同路線から撤退するためで、さらに9月30日には品川駅前の再開発に伴い残る3往復も乗り入れできなくなり、同町と品川を結ぶ高速バスは全て廃止される見通し。

町企画課によると、高速バスは町と小湊鉄道、京急バスが5年間の協定を結び2015年12月から運行。

町が赤字分を補塡していた。

協定の期間が切れる3月末で、1日3往復していた京急バスは「人員不足」を理由に撤退すること決めた。

このため、4月からは小湊鉄道の1日3往復だけに半減する。

さらに、10月以降に開始予定の品川駅前の再開発工事に伴い、同駅周辺のバス停が暫定的になくなるため高速バスの乗り入れができず、小湊鉄道便も9月末で運行終了となる。

品川路線の縮小を受け、町は、町民への通勤や通学、法人向けの運賃補助については9月末まで継続。

4月から通学利用者向けに、町内に停留所がある勝浦と東京駅を結ぶ高速バス利用で運賃補助を検討している。

品川を往復する高速バスは15年の運行当初、月平均の乗客数は約500人だったが、19年には約2000人と右肩上がりに増えていた。

人口減少が進む中、町としても移住定住は喫緊の課題として施策展開に力を入れており、同課は「都内の会社や学校に通え、交流人口を増やせる高速バスは不可欠」と説明。

10月以降の品川方面への新規路線についてバス会社と協議したいとしている』

 

 

そうか、あの路線がなくなるのか、と、僕は視線を宙に漂わせた。

品川から大多喜へ向かう高速バスばかりでなく、小湊鉄道線、そして木更津から新宿への高速バスの車中の光景が、走馬灯のように脳裏に蘇ってくる。

1ヶ月で2000人の利用者数とは、1便あたり平均5人程度に過ぎない計算になる。


結論から言えば、その後の新型コロナウィルス感染の流行もあって、東京と大多喜を結ぶ高速バスは運行を休止したままである。

この記事に書かれた再開発とは、品川-大多喜線の起終点であった「シナガワグース」の解体も含まれ、僕にとっても、「パシフィックホテル東京」の時代から高速バス旅と縁が深かった懐かしい場所が消滅することになった。

時代の進歩はありがたいが、引き替えに、思い出深き場所やモノが容赦なく切り捨てられていくのは寂しい。

 

浜松町バスターミナルも、再開発に伴っていったん営業を取りやめたが、乗り入れていた高速バス路線は他のターミナルに振り替えられている。

1便当たり5人の利用では路線の維持が難しかったのかもしれないが、乗降場の廃止とともに高速バスまで消えてしまうのは、初めてではないだろうか。

将来、大規模複合施設の建設が予定されているのであれば、完成の暁には、是非とも品川-大多喜間高速バスが地元の期待に応えて復活することを、切に願う。

 


 

ブログランキング・にほんブログ村へ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>