第12章 平成元年 高速バス「かしま」号で我が国の高度経済成長を支えた工業地帯へ | ごんたのつれづれ旅日記

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【主な乗り物:高速バス「かしま」号、特急「あやめ」】 

 

 

平成元年の春の週末、昼下がりの東京駅八重洲南口バスターミナルを定刻に発車したばかりの高速バス「かしま」号の車内で、僕は最前列の席を占めて乙に澄ましている。

 

文字通りの鹿島立ち、である。

かつて、防人や武士が出立に当たって道中の平穏無事を鹿島神宮や香取神宮に祈願したところから、旅立ちや門出を意味する慣用句になった。

鹿島神宮に祀られている建御雷神、香取神宮に祀られている経津主神は、ともに記紀における国譲りの神話で知られ、天孫である瓊瓊杵尊の降臨に先立ち、大国主神が治める葦原中国を平定した故事に因む言葉とされているが、香取ではなく鹿島だけが取り上げられたのは何故だろうか。

 

東京駅と鹿島神宮駅を結ぶ「かしま」号は、この年の3月に開業したばかりの新しい高速バスで、東京から東関東自動車道方面に向かう初めての路線だった。

八重洲通りを東へ向かい、宝町ランプから首都高速都心環状線に入っていく旅の導入部は、「東名ハイウェイバス」や「常磐高速バス」といった東京駅を発着する高速バスの定番である。

宝町ランプの料金所は2つのレーンが併設されているが、バスは、八重洲通りの側道に逸れ、すぐ先で左へ直角に曲がる狭隘な曲線を、右車線にはみ出しながら大きく舵を切り、料金所の左側のレーンをくぐり抜けるという大技を見せてくれる。

 

最前列の席に座り、バスが左へ曲がるときに、身体が受ける遠心力に耐えながら、窓外の景色がぐるぐるっと右へ流れていくのを眺めていると、眩暈がするような気分になる。

バスの最前列席は前輪よりも前方に位置しているので、乗用車よりも振れ幅が大きいのだろう。

ハンドルを握っている身ともなれば、自分の身体が前輪よりも前に飛び出している感覚とは、どのようなものなのだろう、と思いながら、運転手の見事な操車ぶりを眺めるのは楽しい。

 

 

楓川と築地川の水を干して造られた首都高速都心環状線に向かって、急峻な下り坂を駆け下りれば、本線は堀割から日本橋川の上に設けられた江戸橋JCTの高架に向かう登り坂になっていて、更に首都高速6号向島線に分岐するために右へ車線を渡っていく必要がある。

下ったり登ったり、左に右にハンドルを切ったり、運転手はさぞかし忙しいことであろう。

初めてここを走った時には、何という凄まじい道路なのか、と驚嘆したことを覚えている。

 

首都高速都心環状線は昭和37年から部分的に順次開通し、昭和42年に全線開通を迎えているが、東京五輪を挟んだ高度経済成長期に、過密都市に都市高速道路を建設するための様々な工夫が、ぎっしりと詰まっている区間と言える。

注目すべきなのは川との関わり合いで、水を抜いたり蓋を被せたり、当時の東京には高速道路を造るスペースが河川くらいしかなかったのだろうと推察する。

江戸橋をはじめ、呉服橋、神田橋、竹橋、京橋、浜崎橋、一ノ橋など、首都高速のランプやジャンクションに橋の名前が多いのは、その表れであろう。

 

 

現在の日本橋から銀座にかけての中央区一帯は、江戸時代の初期に江戸前島と呼ばれた半島のような地形で、神田川や隅田川によって形成された砂州であったという。

江戸前島の西岸である日比谷入江は、後に日比谷濠や外濠など一部を残して埋め立てられた。

江戸前島の東側の海を埋め立てたのが現在の八丁堀で、その間に江戸前島の東の海岸線にほぼ一致する水路として残されたのが、楓川である。

 

車や鉄道がない時代、水路は生活物資を運ぶ重要な交通手段であり、特に日本橋川から分岐して江戸市中に物資を運ぶ楓川周辺には、商人や職人が数多く住み、河岸や蔵が並んで、近代に至るまで経済の中心として栄えたという。

 

 

築地川は、隅田川から明石堀付近で分流し、入船橋を経て築地の南で隅田川に再び合流する運河であり、築地川と楓川を結ぶ連絡運河が、関東大震災後の帝都復興事業の一環として昭和5年に掘削されていることを思えば、舟運が都市を支えていたのはそれほど昔のことではない。

太平洋戦争後のモータリゼーションによって水路の役割は縮小し、首都高速道路を建設するために、京橋川、桜川とともに、楓川と築地川も、連絡運河もろとも埋め立られたのである。

 

昨今の環境保全を重視する風潮ならば、川を埋め立てて道路にするなどもってのほか、と抗議の声が挙がりそうであるが、江戸の物流を支えてきた河川が、そのまま首都高速道路となった変遷は感慨深いものがあるし、僕は、川を干して道路にする発想を編み出した設計者の着眼点に敬服する。

 

 

箱崎JCTで再度右車線に寄って首都高速9号深川線に入り、墨田川を渡って中の堀川、平久川を続け様に横切ると、木場ランプの先で90度に近い右への急カーブが現れる。

このカーブは半径120mというきつさで、きちんと制限速度で走るバスに乗っていても、ハッと息を呑む。

 

深川という地名を聞けば江戸時代からの下町を想起させられるけれども、昭和55年と比較的遅い完成であった首都高速9号線の、背の高い防音壁の合間に除くのは、ひしめく町工場や倉庫の大きな屋根ばかりである。

殺風景な埋立地を進みながら、大横川、汐浜運河、汐見運河、砂町運河を次々と渡って辰巳JCTで首都高速湾岸線に突き当たると、正面に、有明と新木場、若洲に挟まれた東京湾がちらりと顔を覗かせる。

「かしま」号の最初の車窓を占めるのは、川と海が織りなす水の都の車窓だった。

 

東京湾、という名前は、当然のことながら、明治維新で江戸が東京と改称された時に生まれたものであり、ならば江戸時代より前は何と呼ばれてきたのか、と調べてみると、幕末や明治初期の文献類に登場する湾の名称は単に「内海」だった。

江戸湾、という名を耳にすることもあるけれど、近年になって造られた造語であるとされ、「江戸前」や「江戸前海」などといった呼び名も、前者は佃沖の漁場を、後者は品川沖から葛西沖までを指していたに過ぎないという。

 

 

片側3車線と余裕のある造りの首都高速湾岸線に飛び出すと、車の量は9号深川線に比べて飛躍的に増えたものの、「かしま」号は一気呵成に速度を上げていく。

右手に、京葉線の電車が並走する。

京葉線の東京駅と新木場駅の間が完成するのは、平成2年のことであるから、この頃の京葉線の電車は比較的すいていて、車内の人影は疎らだった。

 

首都高速湾岸線が産声を上げたのは、大井ランプと13号地ランプの間で東京港トンネルが完成した昭和51年であった。

昭和53年には新木場-浦安、昭和55年に辰巳JCT-新木場、昭和56年に辰巳JCT-有明、昭和57年に浦安-高谷と順次開通して東関道と接続し、まずは都心と千葉方面を結ぶ有明ランプと高谷JCTの間が先行して整備されたのである。

 

昭和58年に大井-東海JCT、昭和59年に有明-13号地と神奈川方面の建設も進み、僕が「かしま」号で出掛けた平成元年には、横浜ベイブリッジの完成とともに大黒JCT-本牧埠頭間が開通している。

平成5年にはレインボーブリッジを含む首都高速11号台場線が有明JCTで接続し、羽田空港の新しいターミナルビルであるビッグバードの竣工と合わせて東海JCT-空港中央間が開通、平成6年には鶴見つばさ橋とともに空港中央-大黒JCT間が開通、平成9年には浮島JCTで東京湾アクアラインと接続し、平成11年には杉田-並木・幸浦間の開通で横浜横須賀道路と接続、同年に本牧埠頭-三渓園間、平成13年に三渓園-杉田間が開通することで、高谷から並木・幸浦まで東京湾を半周する全線が完成したのである。

 

首都高速湾岸線では、西半分の神奈川方面の方が、羽田空港やアクアラインとのアクセス、そして鶴見つばさ橋やベイブリッジなどの存在で華やかに感じられるけれども、平成初頭から利用していた者としては、湾岸線は千葉への道、という思い込みがある。

大学時代に、友人たちと、

 

「彼女を助手席に乗っけて湾岸線をドライブできたら最高だよな」

 

と語り合ったのも、千葉方面だけが部分開通という時代であった。

残念なことに、付き合っている彼女がいて車を持っている奴など、僕の親友にはいなかったのである。

 

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僕が憧れの首都高速湾岸線を初めて走ったのは、昭和63年に開業した羽田空港と千葉中央駅を結ぶリムジンバスであった。

羽田空港には開港当初から都心や横浜を結ぶリムジンバスが出入りしていたけれども、千葉方面へ向かう路線は初めてだった。

羽田空港は旧ターミナルビルだった時代で、首都高速1号羽田線から東海JCTで湾岸線に合流し、千葉まで走り込む高速走行は爽快の一語に尽きた。

 

「かしま」号は、それ以来の首都高速湾岸線体験ということになる。

夜になると光が溢れて幻想的な雰囲気が醸し出されるのかもしれないが、日中の湾岸線は、広々と気持ちの良い車窓であるものの、埋立地独特の画一的で荒削りな新開地といった趣が抜けず、彼女を乗せて走っても大して喜ばれないのではないだろうか、と首を傾げたくなったのは、独り者のひがみであろうか。

 

 

高谷JCTでバスは東関道に乗り換えるが、道幅も構造もそれほど変化がある訳ではなく、「ここより別料金」という標識がなければ、東関道に入ったことも判らなかったかもしれない。

高速道路から都市高速に入ると、途端に車線や路肩の幅が狭くなり、舗装の継ぎ目の間隔が短くなって、乗り心地だけでその違いが明確に感じられることが多い。

逆の場合は、窮屈そうな走りっぷりだったバスが、水を得た魚のように速度を上げたりするのだが、首都高速湾岸線と東関道ではそのような差異が生じない。

 

東関道の歴史は、昭和46年に宮野木JCTと富里ICの間の開通まで遡り、当時は新空港自動車道と呼ばれていた。

昭和47年に富里-成田間が、昭和53年に成田-新空港間が開通し、当初は新東京国際空港へのアクセス道路として整備されたと理解すれば、首都高速湾岸線の東半分が優先的に建設されたのも頷ける。

 

僕が「かしま」号で走った当時、首都高速湾岸線と東関道を使う高速バスと言えば、成田空港を行き来する東京空港交通のリムジンバスばかりだった。

アクセス鉄道がターミナルビルと接続していなかった成田空港に向けて、新線が建設され、JRの「成田エクスプレス」や京成電鉄の「スカイライナー」が直接乗り入れるようになるのは、平成3年のことであるから、この旅の時代はリムジンバスの全盛期であった。

 

海外から来日した人々は、この車窓を、初めて接する日本の風景として眺めるのか、と思う。

ただし、東関道や首都高速湾岸線の流れは良くても、その先の9号深川線や箱崎JCT、江戸橋JCT付近で渋滞に嵌まるのは目に見えている。

対向車線を、白地にオレンジのラインが入ったリムジンバスが次々とすれ違っていく眺めは、バスファンとしてこよなく楽しいけれども、成田空港が、当時の我が国の国力にそぐわない不便な国際空港として世界に名を轟かせてしまっていることは耳にしていたから、何とかならないものか、と心が傷んだのも事実である。

 

新谷かおるの漫画「砂の薔薇」で、女性だけで構成される対テロ戦闘部隊の日本出身の隊長が里帰りした時に、成田空港から東京へ向かうタクシーが渋滞に巻き込まれ、同行したドイツ出身の副隊長が洩らす一言が、いつまでも忘れられない。

 

「言いたかないけどね。最低ね……ここは」

「ごめん……ね」

 

我が国の道路行政が遅れていることに内心不満を抱いていても、おそらく大半の日本人が、ここで謝ってしまうことだろう。

あんたの国と違って、過密な国土に空港や高速道路を造る苦労は並大抵ではないのよ、これくらい我慢しなさい、と反論してもいいと思うのだが、僕らはそのような国民性を持ち合わせていないようである。

 

 

東関道の成田以北も着々と建設が進められ、宮野木JCT-成田間が東関東自動車道へと名称が変更されたのは昭和54年、昭和57年に首都高速湾岸線と接続する高谷JCT-宮野木JCTの間が完成し、昭和60年に成田-大栄間、昭和61年に大栄-佐原香取間、昭和62年に佐原香取-潮来間がそれぞれ開通している。

 

東関道に入ると、沿線の居住人口が増えるのか、首都高速湾岸線では殆ど見られなかった高い側壁が視界を遮るようになる。

東京湾に沿って線形がなだらかな印象のある首都高速湾岸線と東関道であるけれども、地図を見ると、東京ディズニーランドの先で左へ、市川ICの先で右へ、そして湾岸千葉ICの先で再び右へと、それぞれ直角に近いカーブがある。

道幅が広いので都心部の首都高速ほど急な曲線ではないにせよ、見上げるような防音壁で目隠しをされている道路では、やはり迫力がある。

 

 

京葉道路と交差する宮野木JCTを過ぎると、側壁がところどころで途切れるようになり、四街道、佐倉、酒々井、冨里と歩を進めれば、集落が散らばる広大な田園地帯のあちこちに、小高い丘陵がぽっこりと盛り上がっている光景が目立つようになる。

特に珍しい地形ではないように思えるのだが、僕は、他の地方でこのような眺めに接した記憶がない。

北総地域独特の風景のように感じられる。

千葉に来たなあ、と嬉しくなっているうちに、大栄IC、佐原香取ICが過ぎ、行き交う車の数もめっきりと減って、「かしま」号は利根川、与田浦、常陸利根川と幅の広い川を何本も渡っていく。

緑の水田と湿地ばかりになった大らかな車窓を眺めながら、水郷に来たな、と思う。

 

水郷とは、水のほとりの集落や、河川や湖沼が多い景勝地を意味する一般名詞であると思っていたけれど、その意味の場合は、昭和の初期まで「すいごう」ではなく「すいきょう」と読んでいたらしい。

利根川下流から霞ヶ浦にかけての低湿地帯を、他の地域と区別して「すいごう」と呼ぶようになり、香取、潮来、鹿嶋は「水郷三都」と称されている。

 

 

水郷観光で名高い十二橋は、利根川とその支流の常陸利根川に挟まれた三角州に位置し、並行するJR鹿島線に十二橋駅が設けられているけれど、東関道は延々と伸びる高架道路のまま、何食わぬ顔で川と湿地帯を次々と跨いでいくから、水郷の風情とは懸け離れている。

ましてや、長年の開拓の努力の成果なのか、道路から見えるのは整った水田ばかりで、水郷とはとても思えない。

昭和45年に完成した鹿島線も同様であるが、惜しげもなく連ねられた高架橋でも、底なし沼のような湿地に橋を架ける工事は決して生やさしいものではなかったはずで、地下の硬い岩盤まで何十メートルも支柱が打ち込まれているに違いない。

 

茨城県との県境を過ぎたばかりの潮来ICで、高谷JCTから68.5kmの東関道の旅は終点を迎える。

 

 

潮来ICと繋がっている県道50号線の水郷潮来停留所に、「かしま」号が停車すると、満席に近い乗客のうち、10人ほどが席を立った。

「かしま」号の利用客が増加したことから、後にバスターミナルや利用者用の駐車場が整備されたと聞いているが、この時の水郷潮来はありきたりな道端のバス停に過ぎなかった。

潮来駅方面の路線バスでも接続しているのであろうか。

 

せっかく水郷に来たというのに、「かしま」号は素知らぬ顔で背を向けて県道50号線を東へ進み、北浦と外浪逆浦を結ぶ水路を渡り、見上げるように巨大な白亜の鹿島セントラルホテルに停車する。

ここで大半の乗客が降りてしまったのには驚いた。

何か催し物でも開かれるのか、と身を乗り出したが、ホテルの玄関にそれらしき看板が置かれている訳でもない。

ポールが置かれているだけの乗降場では、大勢の用務客らしい装いの人々がバスを見上げていて、多くは東京行きの上り便を待っているのかもしれないけれど、中には、バスから降りた乗客と挨拶を交わしている人もいる。

 

鹿島セントラルホテルは、「かしま」号の登場によって、鹿島工業地域への出張や、神栖町と波崎町を行き来する人、その送迎などの需要が惹起されて、あたかも鉄道駅のような地域のターミナルに発展していったと聞く。

確かに、ホテルには駐車場も整備されていれば各種の売店もあり、ロビーは駅やバスターミナルなどとは比べ物にならないほど居心地の良い待合空間である。

平成12年に増築された新館には、バスターミナルが併設されたという。

それまで空港リムジンバスがホテルを発着するケースはあっても、ホテルが地域の交通拠点としての機能を果たすことも出来るものなのか、と感心した。

 

 

工場や倉庫が広く間隔を開けながら並ぶ県道を進み、右側にフェンスと並木に囲まれて一段と広い敷地の工場が現れると、そこが次に停車する鹿島製鉄所停留所である。

ここが名にしおう鹿島工業地域か、と僕は身を乗り出した。

 

小・中学校の社会科で習った日本各地の工業地域の中でも、鹿島灘と北浦に挟まれた砂丘に、長さ2.7km・幅600mの中央航路、その先端に長さ2.5km・幅300mの北航路と、長さ3.6km・幅300mの南航路をY字型に掘り込んだ人工の大型港を配する鹿島工業地域は、地図を見ただけでも、高度経済成長期の我が国の勢いを、子供心に感じたものだった。

戦後の昭和30年代に、茨城県知事が、生産性の低い砂丘地帯の農業所得の向上と工場誘致による農外所得の増大を唱え、鹿島工業港の建設と霞ヶ浦を水源とする工業用水整備とともに、4000haに及ぶ鉄鋼、石油、化学、機械等の総合的臨海工業地域を造成し、更に交通網の整備と大規模な住宅地を開発する計画が策定されて、「農工両全」「貧困からの解放」をスローガンとした国家的事業が推進されていく。

昭和44年に鹿島製鉄所が操業を開始、同年に鹿島港も開港し、昭和46年に石油化学関連企業の操業も始まり、鹿島工業地帯における鉄鋼・石油コンビナートの形が整ったのである。

 

 

鹿島工業地域の開発は我が国有数のビッグ・プロジェクトであり、同時期に鹿島を舞台とする2本の映画が製作されていることも、様々な明暗をもたらした激しい変貌の証と言えるだろう。

 

昭和46年に公開された石原裕次郎主演の「甦える大地」では、様々な欲望や思惑が渦巻く中で、不毛の砂丘を一大工業地帯にするという理想を一途に実現していく人々を描いている。

昭和47年に製作された「鹿島パラダイス」は、ベニー・デスワルト監督とヤン・レ・マッソン監督が共同で撮影したフランス映画で、昭和45年に来日した2人の監督が、鹿島工業地域を舞台に、高度経済成長期における日本の現実を記録した映画である。

開発景気に沸く一方で、農民が土地を手放して工場労働者に変わっていく様子を、成田空港反対運動で土地を死守する三里塚の農民の姿も交えながら描いているという。

僕は未見であるが、「鹿島は資本主義のパラダイスだ」との文言で締めくくられている映画は、フランスの映画賞を受賞している。

そう言えば、巨大タンカーが着岸可能な鹿島港は、成田空港への燃料輸送の拠点だったな、と思う。

 

鹿島臨海工業地帯への原料及び生産品輸送を目的として、昭和45年に貨物専用鉄道として鹿島臨海鉄道の北鹿島駅-奥野谷浜駅の間が開業した。

昭和53年に成田空港への航空燃料輸送が開始され、同時に、鹿島神宮-北鹿島-鹿島港南間で旅客営業が始められている。

千葉港にある燃料貯蔵施設から総延長47kmもの燃料パイプラインが成田空港まで完成した昭和58年に、鉄道による航空燃料輸送は終わりを告げ、旅客営業も一緒に廃止されてしまう。

 

 

紀行作家宮脇俊三の「時刻表おくの細道」に記された当時の鹿島臨海鉄道の描写は、国家的事業だった鹿島工業地域開発と新東京国際空港建設における奇妙な側面を端的に描写して興味深い。

 

『鹿島臨海鉄道は、これまで乗ってきた各私鉄とちがって歴史が浅く、昭和45年11月の開業である。

鹿島臨海工業地帯のための貨物用線として敷かれた北鹿島-奥野谷浜19.2キロの新しい私鉄で、北鹿島から国鉄の貨物線に乗り入れて成田への燃料などを運んでいる。

営業成績もよいという。

したがって、ほんらいならば旅客列車を走らせたくはないのだが、引火物と言う物騒なものを輸送する関係上、地元への見返りとして、1日3往復の旅客列車を運転している。

この旅客列車の運転区間はちょっと変っていて、北鹿島-奥野谷浜間ではなく、鹿島神宮-鹿島港南間である。

鹿島神宮から北鹿島までは国鉄の貨物線を借用して走り、北鹿島から自社の路線に入るが、終点の奥野谷浜まで行かずに、その3.8キロ手前の鹿島港南を終着駅としている。

聞くところによると、臨海工業地帯の中枢部にある奥野谷浜まで不特定多数の乗客を運ぶと、何をされるかわからないので、鹿島港南を終着駅にしたのだそうだ』

 

『(タクシーの)運転手は鹿島港南駅の所在を知らない。

駅どころか、鹿島臨海鉄道の存在さえ知らない。

「そういえば、あのへんで線路を見かけたことがありましたな」

と言う。

私は地図を見せたが、これが古いもので、鹿島臨海鉄道は乗っていないし、道路も現在とは違っている。

「どの工場のそばにあるかがわかれば行けるんですがなあ」

と運転手が言う。

この地域では工場さえ知っていれば用がたりるのであろう』

 

『(鹿島港南駅は)松林を背景にして金網に囲まれた短い片面ホームがあり、改札口の上だけにスレートの屋根がかけてある。

もちろん無人駅で、駅舎はない。

駅前には500平米くらいの広場があるが、売店も何もなく、唯一の建物は公衆電話ボックスである。

駅前広場の向うは広い産業道路が一直線に通じ、それと直角に交差して幾本もの道がある。

工場用地を造成したのだろうが、はるかに煙突群が望まれるだけで付近に工場はなく、空地が広がるばかりである。

人家はまったくない。

これほど何もない終着駅は珍しい。

北海道の釧路の近くにある白糠線の北進ぐらいであろう。

どうしてこんなところに駅をつくり、旅客列車の終着駅にしたのだろうかと思う。

バス停もないから、車がなくてはこの駅に来られない。

車に乗るくらいならば鹿島神宮駅へ直接行ってしまったほうが手っとり早いだろう。

しかも、わずか1日3往復である。

地元との話し合いの行きがかり上、旅客列車を走らさざるを得なくなった、しかたがない、どこでもいいから駅をつくってやれ、乗れるものなら乗ってみろ、と居直っているかに見えないでもない』

 

 

『発車時刻の10分前になると、北鹿島寄りの松林の陰から真赤な車体に白帯を巻いた1両のディーゼルカーが姿を現した。

 

「来た来た」

 

しかし、ディーゼルカーは鹿島港南のホームをかすめて走り去った。

明円君は怪訝な顔をしている。

私もはじめて乗ったとき、これには驚いている。

鹿島臨海鉄道の本社は北鹿島と鹿島港南の中間の神栖というところにあり、車両基地もそこにある。

いま走り去ったディーゼルカーは、神栖から私たちを乗せるべく回送されてきたのだが、鹿島港南で折り返すことはできないのである。

面倒な説明になるが、鉄道は急ブレーキをかけてもすぐには停まれないから、追突や正面衝突を避けるため、線路を一定の間隔ごとに区切って、その区間に絶対に1本の列車しか入れないようにしている。

これを「閉塞区間」と言い、複線以上の場合は信号機で閉塞状況を知らせるが、単線区間ではタブレットという独占通行手形のようなものの授受によって1閉塞区間に2本の列車が入らないようにしている。

鹿島臨海鉄道は単線なのでタブレット方式によっているのだが、鹿島港南は閉塞区間の途中に新設した駅なので、ここではタブレットの授受ができない。

少し先の知手という信号場まで行って下りのタブレットを渡し、あらためて上りのタブレットを受け取らないと引き返せないのである。

どうも、この1両の旅客用「列車」は何かと無駄が多いようだ。

知手から引き返してきた赤いディーゼルカーは、今度は鹿島港南に停車し、定刻7時52分に発車した』

 

『20分ほど走ると、北鹿島に着く。

貨物専用駅でホームはなく、線路上に立った国鉄の助役が背伸びをしてタブレットを渡すと、鹿島臨海鉄道の1両のディーゼルカーはスイッチ・バックして国鉄線に乗り入れる。

北鹿島-鹿島神宮間の3.2キロは国鉄の路線であるが、国鉄の旅客列車は1本も走っていない。

貨物列車のみである。

そこへ私鉄の旅客列車が乗り入れている。

国鉄・私鉄の相互乗り入れは数多いが、国鉄の線路上を走る旅客列車は私鉄だけというケースは、北鹿島-鹿島神宮間のほかにはない。

鹿島神宮の森が左窓に見え、8時17分、定刻より2分早く鹿島神宮駅に着いた。

長いホームの高架駅である。

さすがに鹿島臨海鉄道は間借人らしく、ホームの端っこに遠慮して停車した』

 

読後の感想は、お役所仕事だなあ、の一言に尽きる。

国と茨城県、そして神栖町の間で、新東京国際空港への航空燃料輸送協定が締結された際に、神栖町議会は見返りとしての旅客輸送を要求する旨を議決し、その実現に努力する条文が協定に加えられた。

運輸省航空局長から鹿島臨海鉄道に対して旅客列車の運行が依頼され、旅客需要は寡少という見込みであったために同社は躊躇していたものの、航空燃料輸送終了時点で再検討し、収支改善の見込みがなく地域交通機関として充分に機能を果たす見込みもなかった場合は、旅客営業廃止のために航空局や新東京国際空港公団に「特段の配慮」を求める、という条件で、旅客列車の運行を開始したのである。

その結果は、5年4か月に渡る旅客営業期間中の1日平均輸送人員は20人に満たず、同社の社史でも、不本意な旅客営業であったことを強く示唆する記載が残っていると聞く。

 

新しくモノをつくる、ということは、それを利用し、利益を享受する人間がいて然るべきであろうと思う。

我が国の玄関となるべき国際空港の燃料輸送を急ぐあまりに、形式だけでもいいから旅客列車を走らせることに固執した行政が、「乗れるものなら乗ってみろ」と言わんばかりの事業者の姿勢を生み、無駄の多い列車が5年以上も存続してしまったところに、鹿島や成田における開発事業の実態が象徴されているような気がしてならないのである。

 

 

「かしま」号の終点である鹿島神宮駅は、昭和45年に鹿島線が建設された際に建設された新しい駅であるから、高架造りで素っ気ない建物であるけれども、神宮の木立ちを背にした穏やかな佇まいに感じられた。

 

全国にある鹿島神社の総本社である鹿島神宮は、「常陸国風土記」に、

 

『高天の原より降り来りし大神、名を香島天の大神と称す。天にてはすなはち日の香島の宮と号け、地にてはすなはち豊香島の宮と名づく』

 

と記された東国随一の古社である。

 

古い神社が鎮座する土地の空気が、僕は好きである。

張りつめた清冽さが感じられるとともに、優しく肌を撫でていく風の爽やかさに、素敵な土地に来たじゃないか、と嬉しくなる。

ふと気づけば、「かしま」号を降りた僅かばかりの乗客は、駅前から姿を消して何処にも見当たらない。

鹿島セントラルホテルを出た後の「かしま」号には、数人しか残っていなかったのだ。

 

 

ここまで来れば、鹿島神宮に参拝するのは勿論であるけれども、その後はどうしようか、と思う。

 

魅力的な案は、鹿島臨海鉄道に乗り継ぐことである。

そうは言っても、鹿島港南駅へ1日3本の列車が運転されていた鹿島臨港線は、この旅の6年前に旅客列車が消え失せているから、乗りたくても乗れなくなっている。

国鉄鹿島線の延長として建設された北鹿島-水戸間の新線を、昭和60年に、鹿島臨海鉄道が大洗鹿島線の名で引き継いだ。

もともと北鹿島-水戸間の収支予想は悪くないとされていたが、国鉄の財政赤字のために実現が困難になったという経緯であり、鹿島臨海鉄道も、今度こそは、地域交通機関として充分に機能を果たせると見込んだのであろう。

 

『右窓に鹿島神宮の杜を眺めながら丘陵へと上り、右から鹿島臨海工業地帯へつながる貨物線が合流して北鹿島の閑散とした構内を通過する』

 

『鹿島臨海鉄道は鹿島灘に沿う路線であるが、海は見えず、砂丘や湿地帯を、まっすぐに北へ坦々と走る線である。

ただし、そう感じるのは線路の敷設のしかたによるのであって、開放的な運転席の脇に立って前方を眺めるに、砂丘があれば切通し、低地があれば高架で、スイスイとまっすぐ進む』

 

宮脇俊三氏の「車窓はテレビより面白い」に記された鹿島臨海鉄道大洗鹿島線の一節には、鹿島線や東関道と同様の贅沢な構造について、「その建設ぶりが新幹線そっくりなのに驚いた」と付け加えられている。

 

 

乗ってみたいと思うけれども、ちょうどその時に、コンクリートの高架をかすかに震わせて姿を現した特急電車を目にした僕は、大急ぎで鹿島神宮の本殿を往復してから、駅の切符売り場で東京までの乗車券と特急券を衝動的に購入してしまったのである。

 

鹿島神宮駅に進入してきたのは東京駅を12時45分に発車した「あやめ」5号で、定刻通りの14時39分に到着し、15時27分発「あやめ」8号として折り返す。

JR鹿島線も特急「あやめ」も僕は未体験で、鹿島臨海鉄道よりも、初めて乗る特急列車の誘惑の方が強かった。

 

 

昭和36年に新宿駅・両国駅と佐倉駅を総武本線・成田線を経由して結ぶ準急列車「水郷」が登場し、昭和39年に小見川駅まで、昭和40年に銚子駅まで延長された上で、昭和41年に急行に昇格、昭和45年に香取-鹿島神宮間の鹿島線が開通すると同時に鹿島神宮発着の系統が設けられたのが、鹿島線の優等列車の始まりである。

鹿島神宮発着の「水郷」は、佐原-鹿島神宮間を普通列車として運行されていたが、昭和47年に全区間が急行運転となる。

昭和50年に、東京駅-鹿島神宮駅間に特急「あやめ」が4往復で登場した。

急行「水郷」は両国-銚子間だけを運転する鹿島線とは無縁の急行になり、新宿・両国-鹿島神宮間には新たに急行「鹿島」が運転されるようになった。

 

昭和57年に急行「鹿島」を編入して5往復に増え、新宿駅・両国発着の列車が運転されるようになった時代が、特急「あやめ」の最盛期であった。

 

 

昭和60年には、かつての急行「水郷」のように、「あやめ」の佐原-鹿島神宮間が普通列車として運転されるようになり、グリーン車の連結が中止されるなど、何となく影の薄い特急という印象がある。

当時の鉄道書籍では、114.5kmという運転距離が、国鉄で最も短い特急列車として取り上げられていたと記憶している。

たとえ短区間でも特急利用、という風潮を作り出した列車の1つと言えるだろう。

 

鉄道ファンだった子供の頃の僕は、「あやめ」の起終点として、鹿島神宮と言う地名と位置を知った。

 

 

昭和63年に「あやめ」の両国駅発着列車が廃止となり、東京-鹿島神宮間を4往復で運転されていた平成元年に、高速バス「かしま」号が登場する。

開業当初の「かしま」号は、「あやめ」との競合を避けて時間帯が重ならないよう1日6往復で控えめに運行していたが、JRの普通運賃よりも廉価で、所要2時間と速達性も引けをとらなかったことから利用者が急増、続行便や臨時便を多数設定しないと捌き切れないほどの盛況を呈する。

平成2年には一挙に1日18往復に増便され、鉄道から利用者が移る傾向に拍車がかかった。

平成4年に36往復、平成5年に45往復、平成10年に60往復、平成11年に63往復、平成13年に69往復、平成18年に75往復、平成19年に87往復、平成30年に88往復と、「かしま」号はみるみる急成長を遂げた。

 

その陰で、特急「あやめ」は、平成5年に新宿駅発着列車の運行が終了して3往復に減り、平成6年に1往復だけという寂しい運転形態となって、平成27年にひっそりと廃止されたのである。

末期の「あやめ」は、上りが鹿島神宮8時17分発・東京10時01分着、下りが東京19時15分発・鹿島神宮21時13分着であったから、乗りたくても難しい列車になっていた。

 

高速バス「かしま」号と特急列車「あやめ」が、かくも対照的な歩みを見せるとは予想もしなかったものの、平成元年に「あやめ」に乗っておいて良かったのである。

 

 

6両編成の183系特急電車に乗り込むと、僕が乗車した車両に乗客の姿は見受けられなかった。

ロマンスシートを備えた特急列車が、大して速度も上がらず、短い間隔で停車する各駅停車として運用されるのは奇妙な乗り心地だったけれども、高架の線路からは存分に水郷地帯を見渡す眺望を堪能することが出来た。

途中駅でぽつりぽつりと僅かながらの客が増えたものの、16時49分着の千葉駅で全員が降りてしまった。

あとは錦糸町と両国に停まるだけだから、誰かが新たに乗ってくる可能性は少ない。

僕は、暮れなずむ総武線沿線の街並みを見遣りながら、車掌さんが来たら恥ずかしいかな、と思いつつも、1人ぼっちの車内で歌を歌いながら過ごしたのである。

 

その後、僕は高速バス「かしま」号に何度か乗りに出掛け、鹿島臨海鉄道線も乗り通すことが出来た。

 

 

 

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