蒼き山なみを越えて 第37章 平成8年 長野-松本空港リムジンバス「信州ウィングライナー」 | ごんたのつれづれ旅日記

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故郷の信州で、高速交通網が発達していく時代に生きていて良かった、と感慨深く思い出されるのは、平成8年の1月である。

 

平成7年の年末に帰省していた僕と弟は、母と一緒に父の墓参りを済ませた。

盆に帰省することが出来ず、また3月の彼岸に帰れるかどうかも分からなかったので、年の瀬の墓参となった。

金沢に住む弟が自家用車を購入し、長野へも自分で運転して来たので、1~2時間に1本程度の運行である路線バス長野-高府線を使う必要もなく、快適に往復できた。

僕が大学を卒業した翌年に建てた墓石は、雪に埋もれて、まだ黒々と光沢を残していた。

 

母と弟と炬燵を囲みながら観た年末の報道番組は、1月に発生した阪神・淡路大震災と、3月に発生したオウム真理教による地下鉄サリン事件一色と言っても良かった。

流行語大賞は、自社政権成立に抵抗感を覚える国民が多かった世相を反映した「無党派層」と、震災後の合言葉とも言える「頑張ろう神戸」の2つが選ばれた。

 

 

報道で見る限り、神戸の復興は目覚ましいものがあったが、僕は、平成8年の3月に開業した徳島発大阪行きのバスに乗車した時の車窓が忘れられない。

 

明石海峡大橋がまだ建設中の時代であったが、このバスは備讃瀬戸大橋を通らず、徳島駅前を発車すると、鳴門撫養で乗車扱いをしてから大小の鳴門橋を渡り、淡路島を縦断して、東浦港と須磨港の間をフェリーで航送される経路を使っていた。

定期高速バスがフェリーを利用するのは、昭和63年に開業した夜行高速バス品川-徳島線「エディ」号でも経験済みだったが、バス旅と船旅をいっぺんに楽しめる路線がもう1本加わったのだから、乗らずにはいられなかった。

 

 

徳島と大阪を結ぶ高速バスは徳島バスと阪神電鉄、南海電鉄の共同運行で、1日4往復のうち、14時45分に発車する上り便は、阪神電鉄「サラダエクスプレス」号の担当だった。

阪神電鉄は、自社の高速バスの車体に、野菜を擬人化したイラストを描いていた。

 

淡路島を走っている最中は、震災の爪痕に全く気づかなかった。

東浦港からの船旅も、いい息抜きになったのだろう、と思う。

あやふやであるのは、あれほど楽しみにしていたフェリー航送を含む旅の前半部分が、僕の記憶から、すっぽりと抜け落ちているからである。

須磨港でフェリーを降り、足音を忍ばせる思いで通り抜けた神戸の街の様子が、あまりにも凄まじかったからであろうか。 

 

バスの車内は外界から閉ざされて、殆んど音も聞こえなかったが、あちこちで重機が活躍し、復興の兆しはあった。

しかし、道端の随所に残る瓦礫の山や焼け跡に、僕は思わず息を呑んだ。

傾いたままの家やビルも目立った。

街を行き交う人々の表情が、それほど暗くないように見受けられたことが、せめてもの救いだった。 

 

阪神高速3号線が倒壊したままだったので、バスは、国道2号線の激しい渋滞の中を、匍匐前進のようにノロノロと進んだ。

車内はしん、と静まり返り、乗り合わせた乗客がどのような表情をしていたのかを窺う勇気もなかった。

予定では17時40分に三宮に停まるはずだったが、立ち寄ったのかどうかすら覚えていない。

何処のランプから阪神高速道路に乗ったのかも定かではないが、大阪に向かって、とっぷりと日が暮れたハイウェイを走り始めた時には、深い溜め息が出た。

重苦しい空気を残しながら梅田のホテル阪神前を経由して、終点のなんば高速バスターミナルに到着したのは、定刻19時05分より1時間ほど遅れていた。

 

 

「頑張ろう神戸」で思い浮かぶのは、プロ野球の阪急球団を祖にするオリックスブルーウェーブである。

平成2年から神戸に本拠地を移していたのだが、何よりもイチロー選手の活躍が目覚ましく、平成7年は首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最高出塁率を記録し、打者五冠王に輝いて、震災からの復興を目指す神戸のシンボル的存在となった。

打点王と盗塁王の同時獲得は日本プロ野球史上唯一無二で、全試合フル出場での首位打者獲得は、巨人の王貞治に次ぐ史上2人目の快挙だった。

本塁打はリーグ3位の25本で、28本で本塁打王を獲得した小久保裕紀選手と3本差であり、日本プロ野球史上前例のない打撃タイトル独占の六冠王にあと一歩だった。

この年にオリックスが悲願のリーグ優勝を達成した時には、巨人ファンの僕も快哉を叫んだものだったが、ヤクルトとの日本シリーズに敗退し、日本一達成はならなかった。

オリックスが日本一に輝くのは、翌年である。

 

 

流行語と言えば、ニュースもワイドショーもこぞって取り上げたオウム真理教関連で、教団の広報担当者を揶揄した「ああ言えば上祐」や、教祖の言葉である「ハルマゲドン」、「ポアする」などが取り上げられている。

松本サリン事件や弁護士一家殺人事件など、教団の他の犯罪も次々に明るみに出て、山梨県上九一色村の教団本部の強制捜査や、幹部の刺殺事件、そして解散命令発動など、話題には事欠かなかったが、宗教団体が無差別テロを起こした事実への戸惑いや怒りとともに、嘘や言い訳ばかりの教団広報や、何処か深刻さに欠けた報道姿勢が感じられたり、とてもテレビを観る気分にはなれなかった。

社会人になった頃から、僕は、続き物のドラマをもどかしく感じるようになって、ニュースや映画以外にテレビをつけない傾向があったけれども、一層拍車がかかったのがこの頃だった。

 

 

映画では、終戦後50年という区切りの年であり、「ひめゆりの塔」「きけ、わだつみの声 Last Friends」「THE WINDS OF GOD」と、沖縄戦や特攻隊を取り上げた邦画が公開されているが、僕は観ていない。

僕がこの年に映画館に足を運んだのは、米映画「トゥルークライム」と「アポロ13」だけで、前者はファンであるクリント・イーストウッドのサスペンスの佳作であり、後者は、実際に起こった「アポロ13号」の事故を題材にした大作であった。

 

特に「アポロ13」では、事故を起こした宇宙船で、空調の二酸化炭素吸収フィルターの濾過能力が追いつかず、船内の二酸化炭素濃度が致死量に達する危機に見舞われる場面が印象的だった。

故障して居住不能になった司令船用の新品のフィルターはあるものの、3人の宇宙飛行士が避難している月着陸船用と形状が異なるため、ヒューストンの管制室の担当者たちは、宇宙船内にある物品を全て地上で再現した上で、司令船用フィルターを月着陸船に繋ぐアダプターを自分たちで作り出し、通信で宇宙飛行士に再現させたのである。

 

 

「さあ、これがアポロにある物品の全てだ。これを使って、絶対にアダプターを作り出すんだ」

 

と物品を床にぶちまける場面には、なるほど、アメリカ人はこうやって危機を乗り越えていくのか、と心から感服した。

管制室に、急ごしらえのアダプターを持参したスタッフの疲れているけれども得意そうな顔と、何だこれは、と掃除機の出来損ないのような代物に唖然としている管制官の表情の対比は、この映画で唯一吹き出した場面だった。

日本人ならば、まず頭と図面だけで考案しようとするのではないだろうか。

 


平成8年が明けたばかりのある日、母と弟と僕は、自宅のすぐ近くにある長野県庁停留所に立っていた。

停留所に掲げられた案内板が、県内各地への高速バスの時刻と路線図をずらりと並べて、堂々とした風格を備えたことが無性に嬉しく、そのようなことで喜んでいることを母と弟に察しられないようにするのがひと苦労だった。

 

3人で待っているのは、松本空港行きリムジンバスである。

 

 

平成6年の7月26日に、松本空港がジェット化されてリニューアルオープンした。

プロペラ機のYS-11型機が就航していた松本と大阪を結ぶ空路に、MD-87型ジェット旅客機が投入され、同時に札幌・福岡にも隔日で航空路線が開設され、同時に、長野県庁を起点とするリムジンバス「信州ウィングライナー」が、松本空港まで所要1時間10分で走り始めた。

松本空港から大阪伊丹空港までの飛行時間は55分。

乗り継ぎ時間を加算しても2時間半あまりという史上空前の最短時間で、長野と大阪が結ばれたのだ。

 

この交通革命は、平成5年3月の長野道の全通と、高速バスの存在なくしては実現できなかった。

YS-11型機の時代に存在してもおかしくないリムジンバスだったが、平成5年の長野自動車道の開通がなければ絵空事であった。

 

早速、弟と相談して、古都巡りが好きな母を京都見物に連れ出すことにした。

乗り物に弱い母の体力を慮って、乗り物に乗る時間をできるだけ減らすために、高速バスと空路の乗り継ぎを選んだのである。

伊丹空港からは、レンタカーで京都に向かう予定だった。

 

 

松本空港へは、特急「しなの」と松本駅からの路線バスを使う方法もあったが、曲線における速度向上を図るために、我が国で初めて振り子式台車を使用する381系車両を採用していたので、きついカーブに差し掛かると、身体がぐぐっと沈み込み、遠心力で外側に振られるような独特の乗り心地だった。

僕は面白く感じたものだったが、母は苦手な列車であったらしい。

 

寺社巡りが好きで、京都や奈良に旅行をさせてあげるのが僕の念願だったが、平成7年に、カーブを記憶させる制御式振り子方式で乗り心地が改善された383系車両に更新されても、「しなの」に乗るとなれば、母は尻込みしていた。

 

 

母が高速バスに乗車した回数は、それほど多くはない。

僕の大学の教養学部があった富士吉田に、学校が用意したバスで新宿から往復したことと、長野と飯田を結ぶ「みすずハイウェイバス」を親戚を訪ねた復路だけ利用したこと、そして「信州ウィングライナー」くらいではなかったか。

母が自発的に高速バスを選んだことはなく、「みすずハイウェイバス」も、程良い時刻の列車がなかったという理由であった。

 

「いいよ、バスにするよ」

 

と、諦め顔で母が乗車したのは、長野道の全通前のことで、案の定、明科ICから長野市内へ至る国道19号線の山道でひどく車酔いしたのである。

 

松本空港へ向かう時には、大丈夫だろうか、と固唾を飲んで見守ったが、揺れが少ない長野自動車道ならば、母も平然と過ごせたようで、胸をなで下ろした。

話が後に飛ぶけれども、平成9年に長野新幹線ができてから、母は頻繁に東京へ出てきて、様々な催し物に出かけたりするようになった。

信越本線の特急列車で往復6時間を要した時代では考えられなかったことだった。

友人と泊まりがけのバスツアーにも平気で行くようになっていた。

 

冬季五輪をきっかけに完成した高速交通網は、年老いた母の行動範囲を画期的に広げる恩恵をもたらしたのである。

 

 

定時に発車した松本空港行きリムジンバスは、犀川にかかる丹波島橋を越えるまで、新幹線の陸橋工事や国道の拡張工事の影響で、かなりの渋滞に巻き込まれた。

このあたりは昔から有名な渋滞多発区間だったけれども、高速道路の開通で更に交通量が増えたようである。

 

長野ICから高速道路に乗ってしまえば、バスの走りは極めて順調で、冬晴れにも恵まれて、車窓を存分に楽しむことができた。

幾つもの長いトンネルで、次々と険しい山々を貫いていく長野道を走るたびに、贅沢な道を造ったものだと思う。

北アルプスに抱かれた安曇野に飛び出していく解放感もまた、格別だった。

 

「便利になったねえ。大したもんだよ」

 

と、母が感に堪えたように呟くのが聞こえた。

この高速道路を、亡き父に運転させてあげたかったな、とふと思った。

 

 

松本城を真ん中に置いてビルが林立している松本市街を左手に遠望しながら通り過ぎると、バスは減速して、塩尻北ICを降りた。

標識に飛行機のマークが併記されて、松本空港の最寄りの出入口であることを示している。

 

長野県のほぼ中央、松本市の中心部から南西約9kmに位置する松本空港は、我が国で最も高い657.5mの標高に置かれ、内陸県に位置する空港としても唯一の存在で、他の内陸県である埼玉、栃木、群馬、山梨、岐阜、滋賀、奈良には空港がない。

 

 

子供の頃から、なぜ松本に空港があって、県都の長野にないのか、と思っていた。

 

長野にも、所在地の名をとって「大豆島(まめじま)の空港」と地元で呼ばれる空港があるにはあったのだが、文字通り自家用小型機が発着するだけの小規模なものだった。

この空港は、昭和14年3月に長野市営愛国長野飛行場として開港し、625mの滑走路を備え、東京・大阪などに小型機の定期便が運航されたこともあったと聞くが、利用者は少なかったようである。

昭和16年に陸軍に接収されて軍用飛行場となり、練習機が配備された。

太平洋戦争の敗色が濃くなり、本土決戦に備えて天皇と政府機関、大本営を松代の地下壕に移す計画が持ち上がった昭和20年1月に、地主から土地を接収して、滑走路を2000mに延長、誘導路や、飛行機を隠すための掩体壕の建設工事が行われたが、終戦とともに、空港は長野市に返還され、拡張部分も地主に返還されている。

昭和28年に運輸省が場外離着陸場長野飛行場に指定し、民間空港として改めて開港、自家用小型機や報道機関、長野県警のヘリポートとして利用されていたが、平成2年に閉鎖された。

 

定期便まで飛んでいた時代があったとは驚きであるが、幼少の頃には、長野空港から羽田、大阪などへ定期便が飛ばないものかと夢想したこともあった。

ところが、長野から松本空港へのリムジンバスが登場すると、大豆島空港は僕の脳裏から消え去り、松本空港が「おらが町の空港」という意識になったのだから、不思議な話である。 

 

 

長野県の飛行場と言えば、上田にも存在した。

千曲川の水害で農地として使用できなくなった上田市中之条地区に、昭和6年に飛行場が建設され、昭和8年に帝国陸軍に譲渡されている。

軍用機の練習飛行に使われたらしいが、太平洋戦争の戦局が悪化した昭和20年6月に、空襲で破壊された名古屋の三菱重工の航空機工場を移転すべく、近くの仁古田地区に地下壕の掘削が開始され、地元民ばかりでなく、徴収された朝鮮人4400名が工事に従事したという。

今では、地下壕の殆んどが陥没して窪地になってしまい、1ヶ所だけ、立ち入り不能でありながらも戦跡として残されている。

 

ここにも、長野市の松代大本営跡と同様の戦争の爪痕が残されていたのである。

 

 
松本空港は、弱小ローカル空港としての苦難の歴史を歩んできた。
 

昭和40年7月に開港してすぐに定期便が就航した訳ではなく、昭和41年8月から東亜航空が伊丹空港との間に1日1往復のコンベア240型機を用いて、夏季を中心とした不定期便を開設したのが始まりで、昭和57年から東亜国内航空のYS-11型機が1日2往復で通年運航されるようになる。

羽田空港への航空路線を開設する動きもあったらしいが、在日米軍立川基地上空の飛行制限により迂回ルートとなるため、採算が望めないという理由で断念されたという。

 

僕は、YS-11型機の時代の伊丹-松本線を何回か利用している。

故郷へ飛行機で向かうという体験にわくわくしたこと、まだ関西空港がなかった時代で国際線も数多く乗り入れていた伊丹空港を、小さなYS-11型機で離陸することが何となく気恥ずかしく感じられたことなど、短時間でありながらも新鮮な空の旅だった。

国産のYS-11型機に乗るのもこの時が初めてで、何よりもジェット機よりも客室の騒音が大きいことに驚かされた。


到着予定時刻よりかなり早い時間に安曇野が眼下に見え始め、早着するのか、と早とちりしたのだが、そこからぐるりと空港の周りを旋回しながら高度を下げていくサークリング・アプローチに入り、空港の上空に達してから着陸まで10~20分を費やした記憶がある。

高い山岳に囲まれているために計器着陸装置が使用できず、パイロットは目視のみで着陸するため、日本一着陸の難しい空港と呼ばれていることなど露知らず、僕は上空から北アルプスや南アルプス、塩尻峠の向こうに除く諏訪湖などの眺望に夢中になりながら、なるほど、高山に囲まれた空港にはこのように着陸するのか、と大いに感心した。

 

 

長野冬季五輪を4年後に控えた平成6年に、滑走路が1500mから2000mに延長され、ジェット機が就航可能となったことで、大阪線はマクダネルダグラスMD-87型機に更新され、加えて福岡線と札幌線も開設の運びとなり、長野冬季五輪閉幕の翌日には、平成6年に開港したばかりの関西国際空港へ5便の臨時便を運航するという盛況を呈したのである。

平成7年には広島便、平成8年には関空便と仙台便、平成10年には高松便と松山便が運航を開始し、信州も本格的な空の時代を迎えたか、と心が躍った。

 

 

リムジンバスの空港への到着は予定より10分ほど遅れたけれども、接続に影響はなかった。

小型のプロペラ機であるYS-11型機ですら着陸に苦労する山あいの空港であるから、ジェット機はどうなるのか、と固唾を飲んだが、離陸は真っ直ぐに大空に上昇していくだけで、極めて滑らかだった。

 

日本エアシステムのMD-87型ジェット旅客機は、見る間に高度を上げると、木曽谷に沿って南下を始めた。

信州は山国である。

眼下に折り重なる幾重もの山々を見下ろしながら、胸の締め付けられる思いでそのことを実感した。

雪が白く山々を染めて、稜線が一段と逞しく見えている。

信濃の先人たちは、血のにじむような苦労をして、この峻険を越えたのだ。

 

 

窓際の席を占めた母は、無言で機窓を見つめていた。

信州の空を飛ぶのは、初体験だったはずである。

飛行機そのものが初めてだったのかもしれない。

山中を縫う貧弱な鉄路や道路を、酔いに悩まされながら行き来していた昔を、思い浮かべていたのだろうか。

 

信州の内外を縦横に貫くハイウェイと高速バス、そして松本空港のジェット化は、信州の交通史に新たな1ページを記した。

その歩みを目の当たりにしながら体験することができた僕は、地元の乗り物ファンとして幸せだったと思う。

伊丹までの55分は、あっという間だった。

 

 

ジェット化されてからの数年間が松本空港の最盛期で、後の話になるが、長野冬季五輪が終了すると、利用者数は減少の一途をたどることになる。

 

MD-87型機が退役し、平均搭乗率が40%まで減少したことから、大阪線は小型のターボプロップDHC-8型機に格下げされ、札幌線が週4往復、福岡便が週3往復へと減便されてしまう。

またプロペラ機に逆戻りか、とがっかりしたが、それどころか、平成9年に仙台便、平成10年に広島便と関空便、平成11年に高松便、平成13年に松山便が次々と廃止され、日本エアシステムを統合した日本航空の経営破綻の影響で、平成22年に既存の札幌、伊丹、福岡線まで姿を消してしまい、松本空港から定期路線が消滅しかねない事態を迎えたのである。

 

 

長野-松本空港リムジンバスの歩みも同様だった。

当初は1日2往復の伊丹便だけに接続していれば良かったが、それ以上に複数の路線が就航しても、全ての便にリムジンバスを接続させるほどの需要は見込めず、だからと言って、伊丹からの便が松本に着くと次は札幌に飛んでいく、といった機体運用だったので、リムジンバスの需要が読みにくくなったものと思われる。

 

僕は、松本空港が信州全域の空の玄関として、長野ばかりでなく、東信や南信などへもリムジンバスが運行されることを夢見ていたのだが、長野-松本空港線は平成14年11月に廃止された。

母を奈良旅行や愛知万博に連れ出す時には、長野新幹線と東海道新幹線を乗り継ぐ遠回りの方法を使わざるを得なくなった。

数年前に自家用車で松本空港を訪れた際に、ターミナルビルのバス乗り場に掲げられているのが、松本駅方面への路線バスの時刻表だけになっているのを目にして、これほどアクセスが貧弱な空港が他にあるだろうかと、胸が塞がる思いだった。

 

 

長野県が、フジドリームエアラインズ及び静岡県知事と協議の上、松本-千歳線と松本-札幌線、松本-福岡線の運航を、JALと入れ替りの平成22年6月1日から、FDAが引き継ぐことが決定した。

当時の保有機数が僅か3機であった同社は、静岡-福岡-松本-千歳-松本-福岡-静岡という綱渡りのような機体運用で、松本-千歳線と松本-福岡線を維持することになったのである。

おそらく、他県の人が見れば、そこまでして松本空港を維持する必要があるのか、と言われかねない状況と思うのだが、一時は、松本空港に就航する航空路線が皆無になるのではないかと危ぶんでいた僕ら信州人にとって、FDAは、足を向けては寝られないほど恩義を感じている航空会社である。

 

JALの撤退と同時に廃止されていた松本-伊丹線は、平成26年8月から1ヶ月限定の季節便として1日1往復が再就航し、期間中の利用率が約90%と好調であったことから、その後もJALのエンブラエル170型機による毎年8月の運航が継続されている。

 

 

長野と松本空港を結ぶリムジンバスは、平成22年に運行を再開したと聞いたが、どのような運行本数で、どの便に接続しているのか、令和の時代になってアルピコ交通のHPを見たのだが、判然としなかった。

高速バスの一覧に「信州まつもと空港-長野・善光寺」の項目は存在するのだが、ページを開けても「error」と表示されるだけだった。

 

廃止されたのか、新型コロナ禍で運休しているのであろうか、と心配していたら、最近は、松本空港-長野の項目そのものが消えてしまった。

松本空港と松本駅を結ぶシャトルバスや路線バスの案内は、長野県のHPに移されていて、松本と長野を結ぶ高速バスと松本と上田を結ぶ直行バスが一緒に掲載されているので、松本バスターミナルで乗り換えて下さい、ということなのだろう。

松本空港が信州の空の玄関であるという体裁は、かろうじて保たれているようだった。

 

  

 

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