中央高速バス新宿-身延線と東京-富士宮間高速バスで富士山周遊と富士宮やきそばの旅 | ごんたのつれづれ旅日記

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「身延」と行先標示を掲げた京王バスのハイデッカーは、定刻7時40分に、新宿駅西口の高速バスターミナルを発車した。

 

平成17年8月の休日のことである。

空には雲が多く、時々思い出したように陽が射すものの、前日までの猛暑が少しばかり和らいだように感じられた1日だった。

 

 

「中央高速バス」新宿-身延線のバスが発車したのは、安田生命第2ビルに接する1~3番乗り場ではなく、駅前ロータリーに面した26番乗り場だったので、乗り場の案内放送を聞いた時には、ちょっぴりがっかりした。

 

家電量販店などがひしめく狭い路地に面した1~3番乗り場を発車する便に乗ると、

 

「バスが通りまーす!道をあけて下さーい!」

 

と、窓を閉め切っている車内にも聞こえんばかりの大声を張り上げながら、警備員さんが人混みを掻き分け始める。

歩行者の動きは鈍く、眺めているとハラハラさせられるが、バスの巨体はのっそりと進み、軒先を擦らんばかりの狭隘な角を曲がって、ロータリーに出ていく。

 

 

新宿高速バスターミナルから始まる旅の導入部は、他のバスターミナルに比べて、圧倒的に面白かった。

座席を占めている乗客の大半は、乗ってしまえば後は目的地に連れていってくれれば良い、と取り澄ましていて、きょろきょろと周囲を見回しているのは僕くらいだったが、「中央高速バス」に乗った以上は、新宿高速バスターミナル独特の発車風景を楽しまなければ意味がない、とすら考えている。

 

狭い道路を運行する路線バスを「キリキリ路線」と名付けて愛好したのは、コピーライターの泉麻人氏であったが、僕もそのケが大いにあるらしい。

平成29年に新宿駅南口に「バスタ新宿」が完成し、「中央高速バス」が新宿高速バスターミナルを使わなくなると、高速バスでは珍しい「キリキリ」の発車体験が出来なくなったことが惜しまれた。

 

 

この頃の「中央高速バス」は、僕にとって、久しく食傷気味であった。

 

新宿と富士五湖を結ぶ一般道経由の急行バスが運行を開始した昭和31年が、「中央高速バス」の始まりとされている。

昭和34年に新宿-甲府・昇仙峡を結ぶ急行バスが加わり、中央自動車道に乗せ換える際に「中央高速バス」を名乗ったのである。

その後、中央道の延伸に合わせて、

 

昭和59年12月:新宿-伊那・飯田線

昭和61年11月:新宿-中央道茅野線

昭和62年7月:新宿-諏訪・岡谷線(新宿-茅野線の延伸)

平成元年4月:新宿-松本線

同年12月:八王子-沼津線「スキッパー」号

平成4年4月:新宿-長野線(後に関越・上信越自動車道経由に変更)

平成10年3月:新宿-高山線

平成13年7月:新宿-白馬線

平成14年12月:新宿-名古屋線

平成15年4月:新宿-木曽福島線

平成16年8月:新宿-南アルプス・身延線

 

と、順次路線網を拡大していく。

 

 

大学の教養学部が富士吉田市に置かれていたので、新宿-富士五湖線は、それこそ数え切れないほど利用したことがある。

加えて、父の故郷である飯田市に向かう新宿-飯田線を皮切りに、山梨・長野方面に次々と新路線が新設されたのは、僕がバスファンになった時期とほぼ一致していた。

 

故郷の長野市には、東京からの高速バスがなかなか開業しなかったので、少しばかり遠回りになろうとも、信州各地に向かう「中央高速バス」を使い、終点から鉄道に乗り換えて帰省したものだった。

それだけに、長野市に「中央高速バス」が乗り入れた時には、飛び上がるほど嬉しかった。

 

 

「中央高速バス」は、東京側の受け入れ事業者である京王バスの登録商標である。

 

紀行作家の宮脇俊三氏が東京の大手私鉄について論評した「東京の私鉄七社乗りくらべ」(「終着駅は始発駅」所収)において、京王帝都電鉄を取り上げた一節は、西武と東急の不動産事業について記した後に、次のように書き出している。

 

『私鉄の不動産部門にも、自社の沿線を開発するタイプと、遠隔地で独立した不動産業を営むものとの2つの型がある。

京王帝都は多摩ニュータウンの開発など沿線に絞っており、他の兼業部門もホテル、百貨店など主なものはターミナルの新宿にある。

東急や西武の派手さはなく、ひたすら甲州街道への忠節を守っている、といった感じである』

 

後に子会社として独立したものの、京王帝都電鉄のバス部門が開発した「中央高速バス」のみならず、同社が展開した大阪、高松、松山、福岡方面への夜行高速バス路線も、当初は全て中央道を経由しており、「中央道への忠節を守っている」点は鉄道部門と同じなのだな、と独り頷いていたものだった。

 

 

ただし、中央道沿線地域だけでは新路線の展開に限度があったようで、新宿-長野線の開業後に、6年の空白期間が生じている。

久々の新路線となった新宿-高山線は、その手があったか、と、中央道を使って飛騨高山に向かう意外性に唸らされたものの、更に3年ほど新規の開業がなく、僕も「中央高速バス」に御無沙汰していた。

もちろん、既存の路線を維持していくこともバス事業者の大切な役割なのだが、趣味的な観点からは、「中央高速バス」に目新しさは感じられなくなっていた。

 

ところが、平成10年代に入ると、白馬線、名古屋線、木曽福島線と立て続けに新路線が開拓され、おやおや、「中央高速バス」も面白くなってきたではないか、と見直したのである。

 

 

そのような時期に、僕は新宿-身延線に乗車したのである。
 

ただし、開業当初は、午前の上り便と午後の下り便の1日1往復しか設定されず、これでは乗りにくいな、と思っているうちに1年が経ってしまった。

ところが、平成17年に入ると、下り便が午前に1本、午後に2本、上り便が午前2本、午後1本と、1日3往復に増便されたではないか。

乗客数が順調に推移しているのは御同慶の至りで、東京在住の僕にとっても、このダイヤならば行ける、と心が逸った。

 

 

「中央高速バス」は、その後も、

 

平成16年10月:新宿-下呂温泉線

平成22年10月:新宿-北杜・白州線

平成23年3月:多摩-河口湖線

平成25年10月:新宿-甲州塩山線「甲州ワインライナー」

同年11月:立川-飯田線

 

と新たな路線を仲間に加えたものの、既存路線の安定した需要には及ばず、平成16年以降に開業した5路線のうち3路線は、利用客数が振るわずに廃止されている。

それでも、その他の路線が健在で、頻回の運行本数を維持している路線も少なくないのは、さすが老舗、と言うべきか。

 

 
旅の冒頭で「キリキリ」ポイントの楽しみを逃し、物足りない思いの僕を乗せて、身延行きの「中央高速バス」は新宿駅西口のロータリーを後にして、高層ビル街を走り抜けていく。

雑居ビルがひしめき、幾重にも道路が折り重なる谷底のような甲州街道から、初台ランプで首都高速4号線の高架に駆け上がる瞬間は、何度体験しても爽快である。

左右に東京の街並みを広々と見渡せば、日常から一瞬で脱皮するような解放感に浸ることが出来る。

 

山国育ちの僕が都心で日々を過ごしていると、季節の移ろいを感じられる山々が見えないことを、物足りなく感じることがある。

首都高速4号線、そして高井戸からの中央道に乗り換えると、彼方にうっすらと見え始めた山並みがぐんぐん近づいて来て、八王子ICの先で、高尾から小仏に連なる山塊に踏み込んでいく演出も、手頃で申し分ない。

都心を出発し、関東平野から最も早く抜け出すことが出来る高速道路が、中央道なのである。

真夏の濃緑色に彩られた山野が、目に眩しい。

旅に出て来て良かった、と思う。

幾ら乗り慣れているからと言っても、「中央高速バス」に食傷したなどという考えは不遜であった。

 

小仏トンネルを抜けて、左手を流れ行く木立ちの合間に覗く相模湖と、桂川のほとりに寄り添う上野原、四方津、猿橋の集落を見下ろしているうちに、バスは早くも大月JCTに差し掛かった。

高速バスでも自家用車でも、ここで分岐する中央道富士吉田線を頻回に利用するためであろうか、大月から甲府方面に進むと、いっぺんによそ行きの気分になる。

 

 

笹子峠を4717mのトンネルで抜ければ、カーブで左右に身体を揺さぶられながら、甲府盆地に駆け降りていく長い下り坂が続く。

急勾配で速度は上がるし、これまでにも増して曲線が急であるため、自分でハンドルを握っていても決して走りやすい区間ではないけれども、運転手さんの巧みなハンドルさばきに身を任せているうちに、車窓は傾斜地に広がる勝沼、一宮、塩山のブドウ畑一色になる。

 

甲府盆地を見下ろす境川PAで、バスは一憩した。

「中央高速バス」の途中休憩と言えば、甲府盆地を過ぎて信州への登り坂が始まる双葉SAが定番だった。

その手前が終点となる新宿-富士五湖線や新宿-甲府線には休憩が設けられていなかったので、新宿-身延線が途中休憩を設けているとは思わなかった。

時計の針は午前9時を大きく回っていて、かなり先まで進んで来たように感じていたが、休憩するということは、中間地点ということなのであろう。

まだまだ先は長いのだな、と何となく嬉しくなる。

 

 

中央道を初めて通ったのは、昭和59年に「中央高速バス」新宿-甲府線を初乗りした時である。

「東名ハイウェイバス」東京-静岡系統で高速バスを生まれて初めて体験し、一発で魅入られた直後だった。

 

何事でも、初体験の記憶は鮮烈であるが、2度目ともなると、途端にあやふやになってしまう。

おそらく、「中央高速バス」新宿-甲府線は、僕にとって人生で2度目の高速バス体験であったはずなのだが、確信は持てない。

その前に「東名ハイウェイバス」に乗り直している可能性がないとは、断言できないのだ。

 

初めて足を踏み入れた新宿高速バスターミナルの佇まいや、その便を担当した山梨交通バスのフルデッカー車両と座席構造まで、ありありと思い浮かべることが出来るのだが、不思議と車窓の記憶に乏しいのは、「東名ハイウェイバス」よりも座席が狭く、座席指定制で好みの席に座れなかったためかもしれない。

昭和44年から運行している「東名ハイウェイバス」は、乗車便だけを指定する定員制であったが、「中央高速バス」は全ての系統が座席指定制で、乗車券を購入するまで、どの席を引き当てるのか、宝くじの当選発表を待つような気分で過ごすことが多かった。

 

あれから20年以上が経つのか、と思う。

 

 

昭和59年に乗車した甲府行き「中央高速バス」は甲府南ICで中央道を降りたが、平成16年に開業したばかりの身延行きのバスは、その先の甲府昭和ICまで足を伸ばしてから本線を離脱し、県道5号線で釜無川を渡って、国道52号線・富士川街道に左折して進路を南に向ける。

平行する中部横断自動車道は、平成14年3月に中央道と接続する双葉JCT-白根ICの開通を皮切りに、平成16年3月に白根IC-南アルプスICが開通したばかりだった。

「中央高速バス」新宿-身延線がその5ヶ月後に開業したことで、僕は、てっきり中部横断道を使うものと楽しみにしていた。

甲府昭和ICでバスが料金所を出た時には、運転手さんが間違えたのではないか、と腰を浮かせたくらいである。

 

国道52号線は、昭和60年代に、甲府と静岡を結ぶ急行バス「信玄」号で走った懐かしい道だった(「昭和を走り続けた急行バス甲府-静岡線に乗って富士川下り」 )。

その頃から、僕は、未乗の高速バス路線を手当たり次第に乗り潰すという一種の収集癖に取り憑かれて、「中央高速バス」新宿-甲府線、「信玄」号、「東名ハイウェイバス」東京-静岡系統という日帰りの旅程を組んだのである。

 

僕の高速バス趣味の原点とも言うべき2路線を乗り直し、間を結ぶ「信玄」号の車中も愉快に過ごせたことから、思い出深い小旅行になったのだが、なにしろ20年も前の話であるから、「中央高速バス」新宿-身延線の車窓は、懐かしさよりも新鮮さが先立っている。

 

 

バスが走る釜無川と赤石山脈に挟まれた地域は、この旅の2年前、平成15年に中巨摩郡の櫛形町、若草町、白根町、甲西町、八田村、芦安村が合併して発足した南アルプス市域である。

 

市名にカタカナを使用するのは、沖縄県コザ市に続く2番目で、外来語を使用した市名は日本初と聞いたことがあったが、市名を耳にした時には、それで良いのか、と首を傾げたものだった。

僕は、日本の地名は漢字を用いるべきと考える保守的な人間で、近年増加した平仮名地名にも抵抗を感じてしまう。

南アルプスの市名は一般公募で最多だったとされているが、旧郡名である「巨摩野」と「こまの」を合わせた票数の方が多かったという。

 

「巨摩」は古くは巨麻とも表記され、8世紀の「正倉院文書」の「甲斐国司解」にも見られる古い地名である。

響きも字面も申し分ないではないか、と僕は思うのだが、古代に多くの御牧が存在したことから「駒」を産出した地という説や、同時代の高句麗の滅亡により、甲斐や関東、中部地方に朝鮮半島からの帰化人が渡来したことで、「高麗」が由来となったという説があるらしい。

 

我が国で韓流ブームがひと段落し、逆に、当時の韓国大統領の竹島上陸をきっかけに嫌韓なる言葉が囁かれ始めたのは平成25年前後であるから、朝鮮由来の地名をつけることに強い抵抗感があったとは考えにくいが、いずれにしろ、南アルプス市とは、様々な感慨を呼び覚ます市名であるのは間違いない。

 

 

バスは、西八幡、上今諏訪、白根IC西、南アルプス市役所と、市内の停留所に丹念に停車していく。

道端には郊外店舗が途切れることなく連なり、落ち着かない光景が続くが、桃やさくらんぼなどの果樹園も垣間見える。

 

このあたりは、釜無川の支流の御勅使川によって形成された国内最大級の扇状地で、かつては河川が少なく、地下水も深すぎて、「月夜にも灼ける」と言われた旱魃地帯であったと言う。

それでも、人間は、懸命に土地にしがみついて生活を築き上げて来たのだな、と思う。

北には八ヶ岳、西には甲斐駒ヶ岳や北岳を抱く南アルプス市まで来れば、故郷の信州は赤石山脈のすぐ裏側であり、仄かな郷愁が湧いてくる。

 
 

行く手に山嶺が迫る青柳と鰍沢本町の停留所を過ぎれば、バスは甲府盆地に別れを告げて、山中に足を踏み入れる。

 

甲府から青柳まで、山梨交通の電車が走っていた時代がある。

昭和7年に開業し、僕が生まれる前の昭和37年に廃止された私鉄線であるが、鉄道書籍で何度か写真を見掛けたものだった。

駅舎をはじめとする施設が古く、駅でトロリーポールを付け替えると停電したり、混雑しているのに単車の運転であるなど、地域の人々に「ボロ電」と呼ばれながらも愛された鉄道であったらしい。

甲府と鰍沢や勝沼を結んでいた山梨馬車鉄道も「ガタ馬車」と呼ばれていたことから、蔑視とも受け取られかねない表現は、甲州地方独特の親しみが込められていると言う。

 

 
落語「鰍沢」にもあるように、日蓮宗の総本山久遠寺を行き来する身延詣での旅人にとって、当時駿州往還と呼ばれた富士川街道は、大変な難所であったとされている。
悠然とした富士川の流れは、いつの時代も変わりはないのだろうが、川沿いを行く国道52号線は、かつての峻険さを全く感じさせない、気持ちの良い道路だった。

 

 

身延の町は、鰍沢から富士川街道の終点である興津までの、およそ真ん中にあたる山あいに位置している。

 

国道52号線を右に折れて、久遠寺の参道に入り込んだバスの前方に、いきなり古めかしい木造りの門が姿を現した時には、思わず息を飲んだ。

久遠寺の総門である。

間口6.4m、奥行3.6m、高さ9.4mという17世紀の建築物で、頭上に掲げられた「開会関」の扁額は、全ての人々が法華経の下に救われる関門を意味すると言う。

まさにこれ以上はない「キリキリ」ポイントで、バスが通れるのか、と首をすくめたが、寺の門をくぐり抜ける高速バスも珍しいのではないだろうか。

 
急坂の両側に並ぶ鄙びた門中商店街を進み、途中に位置する「身延山」停留所で数人の客を降ろすと、バスは来た道を折り返す。
新宿-身延線の開業当初は、ここが終点であった。

 

 

再び総門をくぐったバスは、国道52号線との立体交差を横切ると、そのまま県道9号線の身延橋で富士川を渡り、対岸にある身延駅に向かう。
 
橋桁に錆が浮いていて古色蒼然としているけれど、身延橋が架かる前は、身延線の前身である富士身延鉄道の身延駅と、富士川を隔てた身延市街や久遠寺への行き来は、渡し船に頼るしかなかったという。
そのために富士身延鉄道が架設したのが、完成当時は東洋一の吊橋と呼ばれた長さ237mの旧身延橋であった。
富士身延鉄道が国有化された昭和16年に、身延橋は県道となり、昭和47年に現在のワーレントラス橋に架け替えられたのである。
 
人影が少なくひっそりとした身延駅前にバスが滑り込んだのは、きっかり11時11分だった。
一般道の区間が多いにも関わらず、奇跡のような定刻通りの運行であった。

 

 

僕は、JR身延線の富士行き各駅停車に1時間ほど揺られて、富士宮駅に向かった。

 

20年前に急行バス「信玄」号で走った国道52号線は、終始冨士川の西岸を走り、山梨・静岡県境の手前の南部町で、東へ蛇行する富士川と離れてしまうが、東岸に敷設された身延線は、河口まで富士川に寄り添っている。

集落は西岸の街道沿いに多く、どうして鉄道は対岸に敷設されたのだろう、と「信玄」号の車内でも首を傾げたものだった。

西岸の地形が険しくて、当時の建設技術では鉄道を敷けなかったのかな、と推察してみても、身延線はカーブやトンネルが多く、国道よりも山深く感じられる。

 

 

明治44年に太平洋岸と甲府を結ぶ鉄道の計画が持ち上がった時には、富士と甲府を富士川の東岸を伝って結ぶ富士身延鉄道と、興津から西岸を身延に至る甲駿軽便鉄道の2案があったと言われている。

免許申請の段階で後者が却下され、大正2年に富士-富士宮間が、大正9年に富士宮-身延間が開通、政府の援助を受け、陸軍の鉄道連隊も関与する工事となって、昭和3年に身延-甲府間が開通したのである。

甲府の街は、富士川の源流である釜無川の東に位置している。

つまり、鉄道は最初から富士川の渡河を計画せず、地形よりも、架橋の技術もしくは資金がなかったものと解釈すべきであろう。

 

車窓をさえぎる山々から垣間見える富士川は、上流とは思えないほど川幅が広い。

身延橋のような人車が渡る橋ならばともかく、この大河を横断する鉄道橋を設けるのは、私鉄には至難の技だったろう。

 

エメラルドを思わせる深緑色に染まった川面と、白い河原には靄が漂い、低く垂れ込めた雲と相まって、空と地の境がはっきりしない。

雨が降るのではないか、と危ぶむような雲行きだったが、富士宮駅に降り立てば、時折り陽も射す高曇りに変わっていた。

身延駅とは異なる明るい構内風景に、東海道に出てきたのだな、と思う。

 

 

朝が早かったので空腹であるけれど、身延で昼食を摂らず、富士宮まで空きっ腹を抱えて来たのは、是非とも「富士宮やきそば」を賞味してみたかったからである。

 

「富士宮やきそば」は、富士宮市の御当地グルメとして知られ、B級グルメの人気を決めるB-1グランプリの第1回と第2回で1位に輝いている。

それまで、僕は「富士宮やきそば」の名すら知らなかったのだが、調べてみると、B級と呼ぶのが躊躇われるような歴史がある。

 

太平洋戦争直後の食料難で、地元の食品会社の創業者が戦地で食べた台湾ビーフンを模した蒸し麺が、その起源とされている。

同時期の富士宮市内には、鉄板を備えた駄菓子屋やお好み焼き店が多く、メリケン粉の生地に刻みキャベツを入れ、ウスターソースで味付けした食事を「洋食」と称して安く売り出していたが、焼きそばも品書きに加わったのである。

明治期に養蚕が盛んになった土地柄から、市内の製糸工場の女工に廉価な焼きそばが好まれたことや、戦時中に富士宮で招集された出征兵士の大半が満州に派遣され、復員者に焼きそばが歓迎されたという側面もあった。

富士山本宮浅間大社の参拝客や富士の登山客、もしくは戦後の買い出し客が持ち帰れるよう、麺が傷みにくい工夫も施されたという。

 

「富士宮やきそば」の特徴は、一般的な天かすではなく「肉かす」を使っていることであろう。

戦後の天かす不足により、代わりに「肉かす」を使ってみると美味しさが増したことで、世間に「富士宮やきそば」の名を知らしめる一因となった。

 

キャベツなどの具を炒めた後に、蒸し麺を入れ、少量の水を注いで炒めてから、水分が飛んだところでソースを入れてかき混ぜ、サバやイワシの削り粉を振り掛けて食べるのが、「富士宮やきそば」のレシピである。

店や家庭によってはイカ、挽き肉、駿河湾の名産である桜エビを入れることもある。

 

 

せっかく本場に来たのだから、ここで「富士宮やきそば」を食べない手はない。

僕は商店街を彷徨い歩き、店頭に「富士宮やきそば」との看板を掲げている居酒屋を発見した。

メニューには桜えび丼、しらす丼、カレー、定食などのランチメニューや酒肴ばかりが並んでいて、本当に「富士宮やきそば」なのか、と不安になったが、

 

「大丈夫、指定された製麺所から麺を取り寄せてるから、れっきとした『富士宮やきそば』だよ」

 

とカウンターの奥で大将が笑う。

 

厨房からジュージューと鉄板で炒める音が聞こえ、出てきた焼きそばは、粉末イワシがこってり振り掛けられているから、見映えも普通の焼きそばと一線を画している。

口に含めば、麺がもったりとして歯応えがある。

きちんと肉かすが使われていて、キャベツ、イカ、桜えびも添えられているところまで、まさにレシピ通りだった。

 

「うちは昔っから焼きそばが定番メニューだったからね。飲み会の締めは、みんな焼きそばだよ。東京ではラーメンとか、うどんなんだってね」

 

 

陽気な大将と話も弾んで、思わずお酒を頼みたくなったが、僕は、14時40分に富士宮駅を発車する高速バスを予約している。

バスなんか1本や2本遅らせたっていいじゃないか、との誘惑に駆られたけれど、かろうじて思い止まった。

 

この旅の最終走者は、こちらも平成17年3月に開業したばかりの東京-富士宮間高速バスである。

当初は1日7往復が富士宮市内を発着するだけで、1往復が白糸の滝まで足を伸ばしていた。

 

 

この旅の4ヶ月後の同年12月に、隣接する富士市に向かう系統が1日6往復で加わり、東京-富士宮系統は「やきそばエクスプレス」号、東京-富士系統は「かぐや姫エクスプレス」号の愛称がつけられたのである。

 

もちろん僕が乗るのは、後に「やきそばエクスプレス」を名乗る富士宮系統であり、高速バスも町起こしの一翼を担っているのだが、後の話になるけれど、なぜ富士系統の愛称として「かぐや姫」が登場するのだろうか、と不思議に思ったものだった。

 

 

富士山は、古くから信仰の対象であり、富士宮市は富士山本宮浅間大社が鎮座する町としても知られている。

古くは「富士上方」と称し、浅間大社の旧社号の「富士の宮」に由来する地名は、「今昔物語集」や「新勅撰和歌集」など、平安・鎌倉時代の古文集にも見られる。

富士宮市や富士市など富士山南麓の寺社に伝わる「富士山縁起」に、「かぐや姫」の説話が数多く記述され、「かぐや姫」を浅間大菩薩の示現とする筋書きもあるという。

 

その由縁から、「竹取物語」の舞台として富士市が名乗りを上げたのである。

僕は、物語の推移から、竹藪の多い京都の嵯峨野あたりをぼんやりと思い浮かべていたのだが、「竹取物語」の候補地は他にもあって、京都府向日市、八幡市、長岡京市、奈良県広陵町、高取町、滋賀県長浜市といった畿内近辺のみならず、岡山県真備町、広島県竹原市、香川県長尾町、鹿児島県宮之城町などが挙げられ、「かぐや姫サミット」なる催しも開かれているらしい。

 

富士山南麓における「かぐや姫」伝説は、最後に月へ帰るのではなく、富士山に登って消えていく締めくくりになっていることが、最大の特徴である。

それでは「竹取物語」ではなく他の話ではないか、と思ってしまうのだが、「富士山縁起」には「赫夜妃」または「赫夜姫」と表記される「かぐや姫」の説話が確かに存在し、富士市内の滝川神社を「愛鷹 赫夜妃誕生之処」と記している。

富士宮の大宮・村山登山道にも、富士山の洞窟に入る「かぐや姫」と竹取翁が別れたという「中宮」や、「かぐや姫」の後を追って富士山に登った帝が落とした冠が石になったという「冠石」の伝説が残されている。

 

 

子供の頃から親しんできた「竹取物語」であるが、僕は、昭和58年に公開された市川昆監督の映画が強く印象に残っている。

かぐや姫を沢口靖子が演じ、竹取翁を三船敏郎、その妻を若尾文子、帝を石坂浩二、かぐや姫に求婚する3人の貴族を中井貴一、春風亭小朝、竹田高利が扮して、更に加藤武、中村嘉葎雄、伊東四朗、岸田今日子など豪華演技陣を配した大作だった。

かぐや姫は異星人という設定になっていて、最後に、蓮の花の形をした大型円盤が平安の都を圧するように降りてくる場面を観て、僕は掛け値なしに感動してしまったのである。

 

スティーブン・スピルバーグ監督の「未知との遭遇」を彷彿とさせるこのシーンは、評価が賛否両論に分かれたようだが、小松左京や星新一、筒井康隆、半村良、光瀬龍、豊田有恒、田中光二といった和製SF小説に夢中になった学生時代を過ごした僕は、平安初期に成立したこの物語が、世界でも最初期に創られたSFであったのか、と興奮したものだった。

 

 

富士宮駅南口で東京行きの高速バスを待っている間に、市内・近郊への路線バスのみならず、新富士駅と河口湖を結ぶ特急バスも姿を現した。

 

富士吉田で大学教養学部の1年を過ごしている間は、休日ともなれば、地元の様々な路線バスに乗ることが密かな楽しみだった。

その1つとして、富士急行線河口湖駅と東海道新幹線新富士駅を結ぶ特急バスを利用し、「こだま」に乗り継いで東京に向かったことは、今でも懐かしい。

富士吉田駅や河口湖駅からは「中央高速バス」新宿-富士五湖線が頻繁に発車していたし、富士急行線と中央本線の特急「あずさ」を乗り継ぐ友人もいたけれど、新富士経由で東京に向かうような遠回りをするのは、僕くらいだっただろう。

 

ただ、あの特急バスが富士宮駅に寄ったっけ、と記憶はあまり明瞭ではない。

何しろ、もう20年も前の話である。

 

 

富士急バス富士宮営業所が始発の高速バスは、発車する14時40分の数分前に、富士宮駅南口に姿を現した。

この便はJRバス関東の担当で、右1列・左2列の横3列構造になっている「Gシート」を前方に6席備え、僕は500円の追加料金を払って予約していた。

 

「御乗車ありがとうございます。お客様のお座席は6A、前から6列目の左の窓際ですね。はい、お次の方、御予約はされていないんですね。お待ち下さい。それでは7番のD席、前から7列目の右側の窓際にお座り下さい」

 

あみだに帽子をかぶった若い運転手さんは、気さくな人柄らしく、乗り込む乗客に懇切丁寧に席を案内していたが、僕が乗車券を示すと、一瞬、戸惑ったような表情を浮かべた。

 

「あー、1のA、ですね。ええと、1番前の左側窓際になります」

 

おやおや「Gシート」に乗るんですか、それは奇特な、と言わんばかりの素振りに見えたのは、僕の気のせいであろうか。

 

 

実際、この便で「Gシート」を利用した客は、僕だけだった。
自意識過剰かもしれないが、3列目以降の横4列の普通席に座る乗客の注目を常に浴びているような、くすぐったい気分で、東京駅までの2時間半を過ごす羽目になった。

この便の乗客数は20名にも満たず、空席も目立ったので、無駄な投資だった気がしないでもない。

 

しかし、腰を下ろしてみれば、ゆったりとした大型シートの座り心地は申し分なく、しかも最前列であるから、景色も存分に楽しめた。

 

 

バスは富士宮市役所に立ち寄った後に、富士ICから東名高速道路に乗った。

 

「中央高速バス」新宿-身延線では時々太陽が顔を出し、身延線では今にも泣き出しそうな湿り具合に変わり、富士宮では高曇りと、はっきりしない空模様の道行きだったが、東京-富士宮間高速バスで富士川橋梁を渡る頃になると、どんよりと低く垂れ込めた雲に、富士山はすっかり包まれていた。

 

それでも、東名高速を上って行く車窓は、静岡発東京行きの「東名ハイウェイバス」で高速バスを初体験した時から、すっかり馴染みとなっている。

沼津ICの先から御殿場越えの急勾配に差し掛かり、「東名ハイウェイバス」も立ち寄った足柄SAで休憩し、きつい曲線が連続する下り坂を関東平野に駆け下りていく車窓は、何度眺めても飽きが来ない。

 

 

富士山を周遊すると、「中央高速バス」に始まり、「信玄」号や河口湖-新富士間特急バス、そして「東名ハイウェイバス」など、20年前に乗ったバスばかりが思い浮かんで、どうしても旅が懐古調になってしまう。

それでも、似たような経路を全く異なる高速バス路線でなぞることが出来たのだから、二番煎じではなく、我が国における高速バス路線網の熟成と捉えるべきであろう。

 

「中央高速バス」で白馬、木曽福島、身延などに向かう新系統が登場し、「東名ハイウェイバス」が走る東名高速沿線でも、沼津、修善寺、三島、富士宮、富士、清水などと細分化された路線が出現した平成10年代は、全国で新路線の開拓が頭打ちになっていた高速バス業界に、新しい風が吹き始めた時代だった。

 

何よりも、20年前の「国鉄専用形式」と呼ばれた旧型車両に比べれば、「Gシート」の比類なき座り心地を、進化と呼ばずして何であろうか。

17時13分に到着する予定の東京駅まで、僅か2時間半で旅を終えるのが惜しくなってくる。

このまま夜行高速バスに変身して、一晩を過ごすことになっても構わないのに、とさえ思う。

 

進化には困ったところもあって、あまりの快適さに、睡魔が襲ってくる。

せっかく豪勢な座席で楽しんでいるのに、眠って過ごすのは勿体ない、と考えるのも、よく考えればおかしな話だった。

 

とろとろと過ごす僕を乗せて、バスは、黄昏の関東平野を走り続けた。

 

 

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