昭和を走り続けた急行バス甲府-静岡線に乗って富士川下り | ごんたのつれづれ旅日記

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さあ、御一緒に紙上旅行に出かけましょう!

子供の頃から時刻表を読むのが好きだった。

小学4年生で鉄道ファンになってから、50歳を過ぎた現在に至るまで変わることがない。


世の中にも時刻表のファンがいて、毎月の時刻表を全てを購入し、本棚にずらりと並べる御仁が少なくないらしい。



『鉄道の「時刻表」にも愛読者がいる』


紀行作家宮脇俊三氏の処女作「時刻表2万キロ」の冒頭は、このような書き出しで始まる。


『時刻表本来の用途からすれば、愛読の対象となるべき書物ではないが、とにかくいる。

しかも、その数は少なくないという。

私もそのひとりである。

真底からの愛読者となると、旅行などいっさいしない。

生まれ故郷から一歩も外に出なかったカントのような趣があるから、もっとも純粋な愛読者であろう。

それにくらべると私など、時刻表を眺めていると汽車に乗りたくなってしまう質だから、純度は低い。

しかし、毎月、新しい時刻表が発売になると、その晩は何時間も読み耽るから、愛読者にはちがいない』


同氏の「時刻表ひとり旅」では、もう少し詳しく解説されている。


『「時刻表」は、乗りものの時刻を調べる人のために発行される。

その役割は辞書や電話帳に似ている。

適当な列車が見つかれば、それで用は足りたのであり、少し使い慣れた人なら、営業案内の欄を開いて運賃の計算などもするが、その程度までが時刻表の使われ方の一般である。

けれども、図や表の類いはデータを生のまま表現するから、見方、使われ方、あるいは受ける印象が人によって大きく異なる。

表現というものは、多かれ少なかれ、そうした差異なしに受け手に伝わることはないが、文章や話し言葉のもたらす差異に比して、図表類のそれは、はるかに幅が広いように思われる。

地図、株式欄、賃借対照表、競馬新聞等々、すべてそうであろう。

「時刻表」の場合も、大きな幅がある。

けれども、一方の極には、あの数字を見ると頭が痛くなると言う人がある。

かと思うと、もう一方の極には、旅行の当てもないのに時刻表を開いて、ひたすら眺める人たちがいる。

時刻表ほど変わりばえのしない月刊誌は他にないだろうし、毎月発行する必要があるのかとの疑問もあるが、これを毎月欠かさず買って読みふける。

「読む」とは主として文章に対する用言であり、時刻表は「見る」か「調べる」ものであろう。

言葉は正しく使わなければならぬと思うけれど、この人たちの態様は「読む」としか言いようがない。

私も時刻表の愛読者の1人で、つい「時刻表を読む」と言っては、ひとに笑われてきた。

時刻表の世界に閉じこもり読みふけり、旅に出るときは時刻表を鞆として鉄道に乗るだけが目的のひとり旅、そうした人は意外に多数存在するのだが、趣味としての市民権を獲得するほどの数はいないらしい』


中公新書から出版された本だけのことはあり、文化論、人間論に発展するかのような導入部である。



『3本の松を前景に砂浜を行く汽車、水平線には汽船が煙をたなびかせている。

私の記憶にある最初の「時間表」の表紙には、そんな色刷りの絵が載っていた。

護岸も路盤もなく、自然のままのやわらかい砂の上を汽車が走っているように見えるのはおかしいが、旅心をそそる絵ではある。

これは父が愛用していた「ポケット汽車汽船旅行案内」という旅行案内者発行の時刻表で、左右9センチ、天地15センチ、厚さ2センチほどの小型判であった』


『私が父の愛用していた時刻表をいじくりはじめた時期については、ひとつの記憶がある。

というのは、「白木屋の火事」と時刻表の記憶が重なっているからである。

夕食後の茶の間で白木屋の火事が話題になったとき、私はなぜか追い払われた。

子供はあっちへ行きなさい、もう寝なさいとでも言われたのであろう。

退け者にされた私は、1人しょんぼりと布団の上で3本松の絵のある時刻表を手にしていた。

そういうときの記憶は鮮明に残るものなのであろう。

歴史年表を見ると、日本橋にあった白木屋デパートで昼火事が起こったのは昭和7年12月16日となっている。

多数の死者を出したわけでもない1百貨店の火事が昭和史に名をとどめることになったのは、言うまでもなく女性服飾史に一時期を画した事件だったからであるが、とにかく昭和7年12月といえば、私は6歳になったばかりである』


宮脇氏が時刻表に親しむきっかけが「時刻表昭和史」に記されているけれど、僕の場合は、信州の実家の本棚に置いてあった、昭和45年12月号の時刻表だった。

おそらく、父が購入したものであろう。

父は、出身大学がある金沢まで頻りに出掛けていたから、長野から金沢まで直通する特急「白山」や夜行急行「越前」、もしくは直江津で乗り換える場合の時刻を調べていたものと思われる。



この頃の時刻表の表紙は、絵が描かれていた昭和初期とは異なって今と同様の写真であり、同号は新大阪と大分を結んでいた特急「みどり」だった。


その時刻表を初めて手に取ったときのことは、全く覚えていない。

気づいたら、各地の特急・急行・夜行列車が走っている線区を中心に、夢中でページをめくっていた。

宮脇氏も、初めての時刻表で真っ先に開いたのは、当時東京と大阪を結んでいた特別急行「燕」のページだったと書いているから、子供は優等列車に惹かれるものらしい。

小中学生の身では行けるはずもない旅行計画をノートに記して、独り悦に入っていたこともあるから、空想旅行を楽しんでいたものと思われる。



『ある日、主人が帰って汽車の時刻表を忘れて行った。

退屈まぎれに手にとってみた。

寝たきりの私には旅行などとても縁のないものだが、意外にこれが面白かった。

下手な小説よりずっと面白い。

主人も、仕事の上で出張が多いから、時刻表をよく買っている。

じっさいによく見なれているらしいが、それは実用からで、病床の私には非実用の面白さである。

時刻表には日本中の駅名がついているが、その1つ1つを読んでいると、その土地の風景までが私に想像されるのである。

豊津、犀川、崎山、油須原、勾金、伊田、後藤寺、これは九州のある田舎の線の駅名である。

心情、升形、津谷、古口、高屋、狩川、余目、これは東北のある支線である。

私は油須原という文字から南の樹林の茂った山峡の村を、余目という文字から灰色の空に覆われた荒涼たる東北の町を想像するのである。

私の目には、その村や町を囲んだ山のたたずまい、家なみの恰好、歩いている人まで浮かぶのである。

徒然草に「名を聞くより、やがて面影は推しはからるる心地するを」という文句があったことを覚えているが、私の心も同じである。

所在ないときは、時刻表のどこを開けても愉しくなった。

私は勝手に山陰や四国や北陸に遊んだ。

こんなことから、次に時間の世界に私の空想は発展した。

たとえば、私はふと自分の時計を見る、午後1時36分である。

私は時刻表を繰り、13時36分の数字のついた駅名を探す。

すると越後線の関屋という駅に122列車が到着しているのである。

鹿児島本線の阿久根にも139列車が乗客を降ろしている。

飛騨宮田では815列車が着いている。

山陽線の藤生、信州の飯田、常磐線の草野、奥羽本線の東能代、関西本線の王寺、みんな、それぞれ汽車がホームに静止している。

私がこうして床の上に自分の細い指を見ている一瞬の間に、全国の様々な土地で、汽車がいっせいに停まっている。

そこには大層な人が、それぞれの人生を追って降りたり乗ったりしている。

私は目を閉じて、その情景を想像する。

そのようなことから、この時刻には、各線のどの駅で汽車がすれ違っているかということまで発見するのだ。

たいへんに愉しい。

汽車の交差は時間的に必然だが、乗っている人びとの空間の行動の交差は偶然である。

私は、今の瞬間に、展がっている様々な土地の、行きずりの人生を果てしなく空想することができる。

他人の想像力でつくった小説よりも、自分のこの空想に、ずっと興味があった。

孤独な、夢の浮遊する楽しさである』


松本清張氏の「点と線」の登場人物が、同人誌に載せた随筆である。


時刻表から乗客の人生に思いを馳せるとは、如何にも清張氏が生み出した登場人物らしいが、僕の空想は列車が主体だった。

病床で身体を動かすことすら侭ならぬ人間と一緒にしては、罰が当たるかもしれないけれど、子供の身で気儘な旅行が出来ない境遇にあって、時刻表にいそしむ心理は同じではないか、と頷いたものだった。



大学生になると、時刻表の読み方ががらりと変わった。


予備校時代に偶然乗車した「東名ハイウェイバス」の車中が大変に愉快だったので(「僕の高速バス初体験記~東名ハイウェイバスと箱根高速バス・小田急SE車と国鉄バス専用形式の物語)、僕は、長距離高速バスが掲載されている巻末の会社線欄を、真っ先に開くようになったのである。

もちろん、時刻表を毎月購入するほどののめり込みではなかったが、書店に行っては、店頭に積んである時刻表を立ち読みした。


僕が高速バスファンになった昭和60年代初頭は、まだ高速バス路線も少なく、国鉄の「東名ハイウェイバス」「名神ハイウェイバス」「中国ハイウェイバス」以外の路線は、国鉄線のページよりも字が細かく乱雑な私鉄線のページに紛れ込んでいた。


毎月、時刻表の発売日が待ち遠しくなり、鉄道ファンだった時代よりも熱心なった理由は、この頃から雨後の筍の如く各地で長距離高速バスが増え始めたことに尽きる。

今月はどのような新しい路線が開業したのか、ということが楽しみになった。

そして、乗ってみたくなる。

バイトの稼ぎを注ぎ込めば、貧乏旅行ではあるものの、旅に出掛けられる身分にもなっていた。


そのうちに、長距離高速バスは専用の欄が設けられるようになり、そのページ数は鰻登りに増えていった。

専用の時刻表も定期的に売り出されるようになった。

長距離高速バスの利便性や廉価さが少しずつ世間に認識されていくブームが始まり、時刻表ばかりではなく、「旅」などの旅行雑誌も特集を組むようになった時代に、僕はファンになったのである。


数を急激に増やした主役は、東京、名古屋、大阪と言った大都市と地方を結ぶ路線であったけれども、やがて僕は、地方で同一県内もしくは隣県を地道に結ぶローカルな長距離高速路線に心を惹かれるようになった。


函館-洞爺湖、洞爺湖-室蘭、帯広-釧路、釧路-根室・羅臼・北見、北見-網走、稚内-音威子府青森-弘前、弘前-八戸、青森-秋田、盛岡-宮古・釜石・水沢、秋田-横手、山形-鶴岡・酒田、福島-郡山・会津若松・平、平-会津若松、長岡-直江津、千葉-成東・館山、長野-佐久・松本・飯田・諏訪、松本-飯田、長野-甲府、静岡-甲府、静岡-浜松、富山-金沢、岐阜-高山、津-尾鷲・熊野市・紀伊勝浦、和歌山-白浜、鳥取-米子・出雲、米子-松江、山口-津和野、山口-下関、高松-高知、高松-松山、高松-徳島、徳島-松山、徳島-高知、高知-松山、松山-今治・新居浜、松山-宇和島・宿毛、高知-中村・宿毛・足摺岬、長崎-佐世保、熊本-大分、宮崎-延岡、宮崎-鹿児島……


札幌、旭川、仙台、新潟、岡山、広島、福岡などの中核都市を発着する路線を省いても、気になる路線が、時刻表の巻末に散りばめられていた。


大都市以上にモータリゼーションが進んだ地方で、しかも比較的短距離であるから、競合相手が自家用車であることも多く、採算が合う路線の方が少ないくらいで、廃止された路線もある。

一般の路線バスと区別がつかないようなバスも多く、実際に乗ってみれば、車内設備の豪華さを売りにしている長距離高速バスとは大違いの、古い車両が用いられていることもあった。

このような区間を行き来する客がいるのか、と心配になってしまうような路線で頑張っているバスこそ、普段着の乗り物であり、旅行者にとってはひときわ味わい深いと思っている。



甲府と静岡を結ぶ急行バスも、気になる路線の1つだった。

時刻表巻末の会社線のページの、なぜか「奥大井渓谷」の欄に掲載されていたこのバス路線を見つけてからのことである。

大井川とは何の関係もない路線であるけれど、当時の時刻表には、同じ静岡県なのだから細かいことは気にしないで下さい、と言わんばかりのおおらかさがあった。


どれほど心に留めていたのか、と言えば、わざわざ半日を費やして乗りに行った程である。



昭和60年代初頭の秋の日曜日、新宿高速バスターミナルを発つ「中央高速バス」甲府線に乗り、2時間後に昼下がりの甲府駅前に降り立った僕は、最初に静岡行きの乗り場を探さなければならなかった。

冬も近いと言うのに、あっけらかんとした駅前ロータリーに照り付ける日差しが眩しい午後だった。


ここでバスを待つのは、初めてではない。

「中央高速バス」ばかりではなく、富士吉田にある大学の教養部で1年間を過ごしたことで、信州の実家との行き来に、富士急行の甲府-富士吉田線を何度か利用したのである。

路線バスと共用の乗り場に「身延・静岡」と書かれたポールを見つけ、市内近郊に向かう山梨交通や富士急行の路線バスが出入りする光景をぼんやりと眺めながら、30分近くも無為に乗り場で佇んでいたのは、最前列の特等席を確保したいがためであった。


ところが、同じ乗り場でバスを待つ人々は、みんな別の路線バスに乗ってしまう。

運転手さんが、乗らんのか、と怪訝そうな表情で僕を見遣りながら扉を閉める、ということが何回か繰り返された後に、他のバスとは色合いが異なる静岡鉄道のハイデッカー車両が、颯爽と姿を現した。



急行バス甲府-静岡線が開業したのは昭和29年7月のことで、山梨交通と静岡鉄道の共同運行であった。

昭和39年の時刻表を開けば、1日6往復のバスが所要4時間15分で運行されていたことが分かる。


並行する国鉄身延線には、当時、甲府を朝に発車し、富士を午後に発つ準急列車が1日1往復だけ、所要2時間程度で運転され、その他の普通列車は2時間半程度であったから、バスは普通列車よりも時間がかかっていた。

当時の特別急行列車や急行列車は高嶺の花で、普通列車は硬いボックス席に加えて大層な混み具合を呈するため、乗車時間は長くても、リクライニングシートを備えたバスに移行する客は少なくなかったようである。


ところが、昭和50年の時刻表では、「下部温泉と身延山」の欄が設けられて、大井川と一緒にされていた時代よりはマシになっているものの、1日3往復に減便されている。

欄外には「難読駅 鰍沢(かじかざわ)・宍原(ししはら)」と注釈が入っていて、なかなか親切であり、かつ楽しい。


道路が改修されたのであろう、所要時間は2時間55分と大幅に短縮されたが、この頃の身延線は、所要2時間30分あまりの急行「富士川」が甲府-静岡間を1日5往復に増強されている。

これではバスは勝てないな、と思うけれど、急行列車でありながら「富士川」が準急時代よりも所要時間が長くなっているのはどうしたことか。

普通列車の所要時間も30分程度延びているので、不思議な現象である。



この頃の急行「富士川」は5往復で据え置かれ、所要時間も殆ど変わっていないが、昭和30年代に1日16往復が運転されていた身延線全線を直通する普通列車が10往復に減らされているから、甲府と静岡を行き来する流動そのものが減少していたのかもしれない。


中部山岳地帯の南端を越えていく身延線の線形は、最大25‰の急勾配と、半径200mというきつい曲線が連続し、列車の交換待ちなどで長時間の停車があるため、冗長とも言うべき所要時間を余儀なくされていた。

ほぼ同じ距離で、3段式スイッチバックで知られる中国地方随一の山岳路線木次線に匹敵する所要時間と聞く。



『身延線は富士-甲府間88.4km、戦時中、国鉄に買収されるまでは富士身延鉄道であった。

だから駅間距離が短く、2.3キロに1駅の割りとなっている。

甲府駅の発着ホームは私鉄時代そのままで、1番線の片隅にある。

私はこの線の鈍行電車に1度だけ乗ったことがあるが、あまりちょこちょこ停まるので少々うんざりした。

今日は急行なので有難い。

それでも10分も走ると停車する。

国鉄のつくった線なら各駅停車なみの間隔だが、その間に小さな駅を3つぐらい、いつのまにか通過している』


宮脇俊三氏の「最長片道きっぷの旅」では、身延線の鈍足ぶりの理由が多数の停車駅に帰されている。


僕も身延線に乗車した経験がある。

小学校3年生の家族旅行で伊豆に出掛け、往路は長野から東京に出て東海道新幹線に乗り継いだが、帰路は身延線、中央東線、篠ノ井線と北上した。

当時の時刻表をめくると、中央東線では、甲府を13時31分に発車する新宿発の下り臨時急行「たてしな」1号を、小淵沢14時15分発の長野に直通する「天竜」4号に乗り換えたものと思われるが、車内が大変混雑していて座れなかった記憶ばかりが鮮烈で、身延線のことは全く覚えていない。

「たてしな」1号に間に合うのは、富士発10時06分・甲府着12時02分の急行「富士川」2号で、身延線は安逸に通過してしまったのだろう。

急行電車の窓を全開にして、青々とした木々の葉に煌めく陽の光に眼を細めた断片的な記憶だけが、脳裏に浮かぶ。


「天竜」4号の長野着は17時11分で、富士から所要7時間あまり、経路は直線的で最短に見えるものの、家族旅行でよくもこのような長い旅程を組んだものと思う。



バスの利用客は更に振るわなかったようで、昭和53年に山梨交通が運行から撤退して静岡鉄道の単独運行となり、「信玄」号と愛称が与えられたものの、僕が乗車した昭和60年代には、午前に静岡を発つ2本と、午後に甲府を発つ2本の1日2往復という有様になっていた。

時刻表では、ごった煮のような会社線欄から長距離バスの専用ページに移されていたので、出世と言っても良いのであるが、他の路線に比べれば空欄が目立つ寂しい存在だった。



思い出の鉄路に沿う長距離バスであるから、最前列の特等席で存分に車窓を楽しもうと意気込んで、早くから乗り場で待機していたのだが、


「静岡行きです」


と、にこやかに運転手さんが扉を開けたバスのステップを上がったのは、僕1人だった。


バスは、伊勢1丁目、花輪、南湖 青柳と幾つかの市内停留所を車内放送で案内しながら甲府の市街地を進んでいくが、乗って来る客は誰もいない。

広い車内で独りぼっちという状態は、未経験ではないけれど、困惑してしまう。

これでは、まるでタクシーではないか。


列車の車両に1人だけという経験もあるけれど、特に気詰まりに感じたことはない。

無駄に並んでいる空の座席を見回して、勿体ないな、と感じることはあっても、伸び伸びと過ごしたものだった。


バスでも、タクシーよりも遥かに安い金額で、他人に気兼ねすることなく貸切状態を満喫できるのだから、これほどの贅沢はないではないか、と自分に言い聞かせていれば良いものを、そのような開放的な気分に浸ることが難しいのは、限られた空間を運転手さんと共有しているからだろう。

ましてや、視線を少しずらすだけで互いの姿が視界に入る最前列席に座っているのである。


何か話さなければいけないのではないか。

話に夢中になって、バスの巨体を操る運転操作が疎かになったりしないものなのか。

無愛想で気難しい運転手さんだったらどうしよう。


そこまで思い悩むならば後方の席に移ってしまえば良いではないか、とも思うし、実際にそのようにした時もあるけれど、それはそれで、バックミラーで運転手さんがこちらを覗っているような気がしたり、運転手さんを忌避したと思われないか気を揉んだり、なかなかどうして気が休まることはない。

何らかの所用があって、バスに乗る正統な理由があるならば、胸を張っていれば良いのだろうが、僕は、バスに乗ってみたいという、世間では認知されにくい動機だけである。


バスファンとは、景色を眺める席を確保でき、自分の気配を紛れ込ませられる程度の同乗者を望む、我が儘な性格なのだな、と苦笑したくなる。



甲府駅前から南下する国道358号線は、最初に中央分離帯があったり余裕のあるつくりで気持ちが良い。

同じく甲府駅を発着する新宿行き「中央高速バス」が使う国道411号線・城東通りは、駅から左手の線路沿いに進み、城下町らしく鉤状に曲がっている狭い道路だから、別の街かと思うほど趣が異なっている。


身延線も善光寺駅まで中央東線と並走してから、バスの経路より遥か東で針路を南へ向ける。

このあとも、急行バスと身延線の道行きが交わることはないことが判明したのは、かなり後になってからのことだった。


バスは、市街地の南を東西に流れる笛吹川の手前で右に折れ、盆地の西側を南北に流れる釜無川を渡り、韮崎方面から南下してきた国道52号線を走り始める。


山梨・埼玉・長野県が境を接する甲武信ヶ岳と国師ヶ岳に源を発する笛吹川は、笛吹権三郎の民話が由来とされていて、川の音が権三郎の吹く篠笛の音のように聞こえたから、と伝えられている。

笛を吹くようなせせらぎを聴いてみたいと思っていたけれど、バスは笛吹川を通らない。


山梨県と長野県の県境に位置する赤石山脈の鋸岳に源を発する釜無川の名は、上流の釜無山に因むと言う説、釜のような深い淵がないことに因ると言う説、川の水が温かく釜が必要ないからと言う説、水量が多く流れが速いために釜を洗おうとすると流されて無くなってしまうという伝承に基づく説、絶え間なく流れる様子を表した隈無しに由来する説など、愉快な言われが幾つもあるらしい。



笛吹川と釜無川が合流して名を変える富士川は、日本三大急流の1つとして、また源平の古戦場としても知られている。


身延線の急行列車の愛称は「富士川」であったが、平成7年に特急に昇格するにあたって、平仮名表記の「ふじかわ」と改められた。

国土交通省による富士川の正式な河川名も、「ふじかわ」と濁らない発音で、東海道新幹線の富士川鉄橋の標識にも「FUJIKAWA」と記載されている。

平家物語を読んで、ふじがわの合戦、と子供の頃から言い慣れてきた身としては驚愕してしまうが、辞書でも表記はまちまちで、講談社の日本語大辞典と三省堂の大辞林は「ふじかわ」、岩波書店の広辞苑と小学館の大辞泉では「ふじがわ」と書かれているらしい。


広々とした甲府盆地が次第に狭まると、国道52号線をたどるバスは、富士山に連なる御坂山地と、赤石山脈に連なる巨摩山地に挟まれた山峡に分け入っていく。


その入口に当たるのが、鰍沢である。

甲斐国と駿河国を結ぶ駿州往還の宿場が置かれ、富士川水運の船着き場となっていた鰍沢は、古くから交通の要衝として栄えた。

富士川水運の始まりは、幕府直轄領となっていた甲斐国をはじめ、信濃国の高遠藩、諏訪藩、松本藩の年貢米を江戸へ運ぶために、徳川家康の命を受けた角倉了以が富士川を開削した17世紀に遡る。

鰍沢河岸に集積された年貢米は、今の富士川の河口にある岩淵から清水港を経て、江戸へ運ばれたのである。

帰り舟では塩、米穀、海産物などの食料、生活物資や、身延山久遠寺への参詣客などを輸送したことから「下げ米、上げ塩」と呼ばれ、鰍沢に陸揚げされた塩は、「鰍沢塩」と称して甲州一円はもとより信州まで運ばれたと言う。

明治8年には富士川運輸会社が創立されて、東海道線からの乗り換えで甲州へ向かう人や物資を運び、昭和初期まで舟運は続けられたが、明治44年の中央東線の開通、昭和3年の身延線の開業により衰微していく。


葛飾北斎の冨嶽三十六景に「甲州石班澤」と題された絵がある。

石班澤とは鰍沢のことで、鰍沢の南にある禹之瀬渓谷を描いたものとされているが、富士川の急流の様子がよく描かれている。



鰍沢、と言われれば、僕は同名の落語を思い浮かべる。


子供の頃、家に書棚にあった落語の速記本を手にとって、繰り返し読み耽ったことがある。

「粗忽長屋」「寿限無」「時そば」「目黒の秋刀魚」などの題目は、読んでいるだけで笑い転げたものだったが、「鰍沢」だけは暗い読後感に戸惑った。

落語とは面白いもの、笑えるもの、と決めつけていた幼い僕は、「ああ、この大難を逃れたのも祖師の御利益、一本のお材木(一遍のお題目)で助かった」、このオチに至るまでの何処で笑えと言うのか、と不思議だった。


それから40年余、何となく敬遠してしまって1度も「鰍沢」を観賞しなかったが、このブログを書くに当たって、6代目三遊亭圓生演じる「鰍沢」をYoutubeで再生してみた(三遊亭圓生「鰍沢」)。

惹き込まれた。

夢中になって、時が経つのを忘れた。

落語とは凄いものだ、と思った。


僕は落語が大好きで、テレビやラジオでも「○○演芸会」「××名人会」などと題された番組が始まると、チャンネルを換えられなくなる。

生で見る落語は殊更に好きである。

僕の大学の先輩が落語家の面倒をよく見ていたという縁で、毎年の学園祭で寄席が開かれるのが常だった。

柳家小さん、三遊亭円歌、春風亭柳昇、橘家圓蔵、柳家小三治、林家木久蔵など錚々たる顔ぶれが揃い、眼前で繰り広げられる名人芸に酔いしれたものだったが、僕の在学中に「鰍沢」は演じられなかった。



圓生師匠は、まくらを語りながら羽織を脱ぎ、お茶をすすり、口を拭うのが定番であるけれど、Youtubeの「鰍沢」では、身延山を開いた日蓮上人の逸話に始まり、続いて富士川水運に触れている。


「御信心の方は必ず、身延には御参詣になりますが、大抵、この乗り物と言うものは、どちらにもありますが、あそこはもう恐ろしく不自由なところで、今は電車が出来ておりますが、以前は何にも乗り物と言うものはございません。

ただ、1つだけあったのが、鰍沢の舟という、急流を下ります。東海道の岩淵へ出るという。

ところが、まあ、舟というものは普通のと違いまして、底が平らでございます。俗にあれをベカ舟と言いますな。船頭が竿を持って、こう構えて、向こうの岩にぶつかりそうになるってえと、ペッ、と突っつく。またこっちへぶつかりそうになると、チョイッと突っつく。急流を、こう、岩を避けながら下って行く。

まあ、僅かな時間で、その当時岩淵まで来られるんですから、重宝には違いないが、1つ間違えると、こりゃあ危のうございます。まあ、あそこでどれくらい命を落とした者があるか知らないというので、この舟だけは、乗るも馬鹿、乗らぬも馬鹿という例えがありますが、1度は乗ってみるもいいが、たびたび乗るべきものではないと──」


ベカ舟とは高瀬舟のことである。

鰍沢から岩淵までの70kmあまりを半日で下り、帰りは舟に縄をつけて船頭たちが引っ張りながら4~5日かけて遡ったと言う。



落語「鰍沢」を聞けば、富士川に沿う駿州往還は、旅人が思わず「南無妙法蓮華経」とお経を唱えてしまうような厳しい難所を思い浮かべるが、国道52号線は、少しずつカーブと登り勾配が増えていくものの、意外と平坦である。

海へ下っていく川と対照的に、道路は幾つかの峠を越えなければならないから、高低差が増して崖っぷちの箇所が現れてもおかしくないと覚悟していたのだが、富士川は豊かな水をたっぷりと湛えながら、赤子の手を引く母親のように、優しく穏やかに国道52号線を導いている。

まさに大河の風格である。


富士川と言えば、東海道本線や新幹線、もしくは東名高速道路を下って箱根山系を抜け、富士山の雄姿と製紙工場の煙突群を望みながら、橋梁で広い河原に飛び出す解放感ばかりが思い浮かぶけれど、上流はこのように長閑であったのか、と思う。


地図を見れば、対岸を行く身延線は、峻険な山中に好んで迂回していくような敷かれ方で、ろくに集落もない場所に駅が置かれているようにも見受けられるから、家々が長く途切れることなく連なっている国道とは対照的である。

どうして、身延線を、駿州街道から大きく離して建設したのだろう。

川沿いの集落は限られているから、並行する道路と鉄道は同じ岸に造られることが多く、国道52号線と身延線ほど延々と離れている地域は珍しいのではないだろうか。

四国の国道32号線と土讃本線も、大歩危・小歩危のあたりで吉野川を挟んでいるけれど、互いに見える位置関係に過ぎず、身延線のように川から離れてわざわざ山奥に踏み込んでいくような線形ではない。

建設当初は、国道側の方が険しい地形だったのか。


平成23年9月に襲来した台風15号により、身延線の甲府-西富士宮間で盛土の崩壊、土砂流入、倒木などが発生して不通となり、特に被害が甚大だった身延-内船間は復旧が平成24年3月までずれ込んだ。

しかし、この甚大な災害で国道52号線が不通とならず、身延線のバス代行輸送で活躍できたのも、富士川を挟んで経路が異なっているためと言える。



「お客さんはお仕事ですか」


と運転手さんが話しかけて来た。

如何にも仕事絡みで乗っている風を装うために、学生でありながらネクタイに背広姿という生意気な出で立ちだったのだが、いざとなると、身分を偽ることが面倒になった。


「ええ、まあ、このバスに乗ってみたかったんです」


言外に、バスファンであることを匂わせたつもりだったから、大いに勇気を要する返答だったのだが、運転手さんは、


「ああ、いつもは身延線なんですね」


と、好意的に、常識的に、捉えたようである。


「見事なものですね」


ちょうど、路肩に停車していた大型車を、対向車との加減を見ながら避けたところだったので、運転手さんのハンドルさばきに話を向けると、


「いや、普通の車より楽ですよ。サイドミラーがでかいでしょ。だから、ほら」


と、いきなりぐいっとバスを路肩に寄せた。

後ろの車にしてみれば、居眠りかよそ見か、と思わずアクセルを緩めたのではないか。

川に突き出た岩を避けるベカ舟の船頭でもあるまいし、と僕も息を呑んだが、


「ね、ミラーで見えるから、幾らでも寄せられるんですよ」


と、運転手さんは涼しい顔であったが、道路工事の信号でバスを止めると、ふと空を見上げた。


「雨が降らんといいですが」


甲府駅ではあれほど日差しが眩しかったのに、と視線を上向けると同時に、辺りの景色が、ふっと翳った。

いつしか空は一面の雲に覆われていて、山河もいっぺんに色を失い、時雨でもやって来そうな薄ら寒い光景に変わった。



「この道から見る富士山は、何処が1番ですか」


この雲行きでは、富士山を見るのは無理かな、と思いながらも聞いてみたのは、宮脇俊三氏が「車窓から見る富士山としては、身延線の沼久保付近からがもっとも形がよい」と書いているからであった。

沼久保駅は、富士宮駅から2駅甲府寄りで、身延線がSの字に大きく蛇行している区間である。


「うーん、この道からは、富士はあんまり見えませんなあ。強いて言えば、静岡に入ってからの富士見峠かな」


北斎の富嶽三十六景には鰍沢からの富士山が描かれているけれども、駿州街道や身延線では静岡県に入らないと見えないらしい。


このやりとりが、甲府-静岡急行バスの車中で明確に覚えている唯一の記憶である。

運転手さんとの会話が弾み、休憩した相又峡ドライブインで2人で自販機の缶コーヒーを飲んだことは覚えているけれど、直後に通過したはずの身延の町並みも、停留所がある久遠寺総門も、鬱蒼と木々に覆われた標高199mの大和峠も、後に新東名高速道路新清水ICが設けられた標高250mの富士見峠も、全て忘却の彼方である。

記憶に残っていないということは、富士山も拝めなかったのだろう。



甲府-静岡急行バスは、この旅の数年後、平成2年に運休してしまう。

もう少し心して乗っておけば良かったと思うけれども、後の祭りである。


平成24年7月に、「22年ぶりの復活」と銘打って運行が再開され、当初は9月までの期間限定の予定であったが、以後も運行を継続、部分開通の中部横断自動車道に一部区間を乗せ換えて、所要2時間10分にスピードアップしているが、平成29年から土日曜日と祝祭日のみの運行となっている。


前代の急行バスの車窓左側に何処までも寄り添っていた、悠然たる富士川の流れは、今でも目に浮かぶ。

その富士川も、県境の手前の南部町万沢付近で国道から離れてしまい、富士駅へ向かう身延線も、川と共に姿を消した。

もう1度、生まれ変わった甲府-静岡線に乗ってみたいと思わないでもないけれど、おそらくトンネルと橋梁ばかりになっている高速道路から、どれだけ富士川が見えるのだろうか。



甲府から2時間あまり、興津川に沿ってなだらかな丘陵を上り下りしたバスが、ようやく太平洋岸に達して国道1号線を走り出した時、時計の針は午後6時を回っていた。

興津駅に立ち寄った時に、静岡まで東名高速を走ってくれないものか、と思ったけれど、僕が好きな景勝地である由比の海岸より西寄りだから、清水から静岡にかけての沿線風景は、国道でも高速でも大して変わり映えはしなかっただろう。


バスの終点は、静岡鉄道の新静岡駅である。


今回のささやかなバス旅では、新宿-甲府-静岡-東京と三角形を描いてみようと思っていた。

国鉄静岡駅を19時30分に発つ「東名ハイウェイバス」上り最終342便の発車時刻までには、たっぷりと時間が残されており、甲府-静岡急行バスは静岡駅にも寄るけれども、僕は18時35分に着く新静岡駅まで乗り通すことに決めた。


「お客さんは国鉄に乗るんじゃないんですね」

「はい」


このようなやりとりを交わした覚えがあるから、静岡駅は通らずに済ませたのかもしれない。

如何にも新静岡駅に用事がある、といった顔で泰然と座り続けている僕だけを乗せたバスは、ひしめく車の波に揉まれながら、暮れなずむ市街地をのろのろと進む。

軒を連ねる商店街の明かりと街灯がぎらぎらしている路地で、不意に乗降扉が開け放たれた。

信号待ちか何かだろうと決めつけていた僕は、


「終点です。お疲れさまでした」


と振り向いた運転手さんの言葉に、いささか慌ててしまった。

バスを降りてからも、何処に新静岡の駅舎があるのか、最初の1歩をどちらに向けて踏み出せばいいのか途方に暮れたから、運転手さんの目には、奇異に写ったかもしれない。


東京行きの「東名ハイウェイバス」に乗って間もなく、窓ガラスにぽつりぽつりと水滴が当たり始め、箱根越えの途中で激しい雨に変わった。



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