紀伊半島飛び石バス紀行 後編~南海高野線各駅停車と特急こうや・締めは大阪発新潟行おけさ号~ | ごんたのつれづれ旅日記
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橋本駅を発車した南海21000系極楽橋駅行き各駅停車は、緩やかに左右のカーブを描きながらJR和歌山線と国道24号線のガードをくぐり、続け様に、色褪せた草木が広い河川敷に生い茂っている紀ノ川を渡る。
 
 
しばらくは田園地帯と住宅地が混在し、紀伊清水駅を過ぎると、右側に国道370号線が並走する。
受験シーズンともなれば入場券が縁起物として販売される学文路駅を過ぎ、右側から丹生川が寄り添うと、九度山駅である。
高野山の山中に源を発する丹生川は、紀ノ川に流れ込む支流であるが、最初は南海高野線と国道370号線が川筋を遡っていくものの、高野下駅の付近で袂を分かち、東側の山腹を九十九折りで登っていく国道371号線が沿うようになる。
 
 
九度山と言えば、誰もが、この地に配流されていた真田幸村のことを思い浮かべるのではないだろうか。
 
僕の故郷が輩出した真田一族の人気は説明するまでもないけれど、その名声を不動のものとしたのは、関ヶ原の合戦を前に中山道を進軍してきた3万8000名にも及ぶ徳川秀忠の大軍を、父の昌幸と上田城に籠って迎え撃ち、秀忠を関ヶ原の本戦に遅参させたという逸話であろう。
関ヶ原の合戦は徳川方の勝利で終わるが、東軍に加わっていた兄の真田信之の取り成しにより昌幸、幸村親子は配流を命じられ、高野山に入った後に九度山に移っている。
 
 
幸村は、大坂冬の陣で、真田の赤備えと呼ばれる鎧を赤で統一した真田家旧臣を中心とする軍勢を率いて、豊臣方につき、京を制圧して近江国瀬田まで討って出る積極策を上奏するも、採用されなかった。
大阪城では、現在の上町台地の中央部にあたる三の丸の南側、玉造口の外に真田丸と呼ばれる出城を築き、徳川方の寄せ手を幾度も撃退して、武名を天下に知らしめる。
 
引き分けに終わった冬の陣の講和で、真田丸は堀の埋め立てと合わせて取り壊されてしまう。
豊臣方の弱体化を謀る徳川家康は、「信州で十万石下さるべく候」との条件を提示し、更に「信濃一国を与える」と報償を釣り上げて寝返りを説得したが、幸村は「信濃一国どころか、日本国中の半分をいただけるとしても気持ちは変わらない」と拒絶したと言われている。
 
大坂夏の陣で、幸村は、士気を高めるために豊臣秀頼の出陣を懇願したが、淀君や豊臣普代衆に一蹴されてしまう。
幸村は道明寺の戦いに参加し、伊達政宗軍の先鋒を銃撃戦の末に一時後退させたが、濃霧のために遅れた真田隊の到着前に、先行した後藤又兵衛の軍勢が壊滅する。
幸村は、友軍を率いる毛利勝永に「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛殿らを死なせてしまったことを恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、討死を覚悟したが、毛利勝永から「ここで死んでも益はない。願わくば秀頼様の馬前で華々しく死のうではないか」との慰留を受ける。
幸村は殿軍を務め、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と追撃隊を撃破しつつ悠々と退却し、全軍の撤収を成功させた。
 
最後の決戦では、四天王寺付近の茶臼山を背にして、右翼に真田隊、左翼に毛利隊を配し、家康の本陣を孤立させ、明石全登の騎兵団を横撃させる作戦を立てたが、毛利隊と徳川方の激しい射撃戦に突撃を阻まれたまま本格的な戦闘に突入したため、断念せざるを得なくなる。
己の武運拙きことを悟り、死を覚悟した幸村は、家康本陣を目掛けて決死の突撃を敢行する。
真田隊のみならず毛利、明石など諸部隊の奮戦により徳川勢は総崩れとなり、真田隊は、1万5000もの松平忠直隊を筆頭に、10部隊を超える徳川勢と交戦しつつ、遂に家康本陣に肉迫、精鋭で知られる徳川の親衛隊、旗本、重臣勢を蹂躙した上で2度も本陣に突入、家康も自害を覚悟した程だったという。
 
しかし大勢は好転せず、やがて本丸で火の手が上がると、大坂方の戦意は鈍った。
家康本陣へ救援に駆けつけた井伊直孝の軍勢が疲弊していた真田隊を突き崩し、幸村も撤退を余儀なくされ、総崩れとなる。
四天王寺に近い安居神社の境内で、木にもたれて、傷つき疲労困憊した身体を休ませていた幸村は、越前松平家の兵に見つかり、「この首を手柄にされよ」との言葉を最後に討ち取られたのである。
 
 
真田幸村が人気を博すのは、江戸時代に書かれた軍記物「難波戦記」が起源と言われ、江戸後期には真田昌幸、幸村、大助の3代に渡って徳川家を相手に奮戦する小説「真田三代記」が発表される。
「真田三代記」では、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊左入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎といった幸村の部下が多数登場し、真田ものを扱う講談が流行することで、真田主従は民衆にとっての英雄となる。
 
明治期の講談師が忍術使いの猿飛佐助を生み出し、真田家の英雄談を膨らませていく中で、明治44年に講談を読み物として編集し、後の大衆文学に大きな影響を与えた立川文庫が刊行され、今日に至る真田十勇士の枠組みが完成したのである。
 
僕が幼少の頃、猿飛佐助をはじめとする真田十勇士は、当時の児童文学に何かと取り上げられて、馴染みとなっていた。
真田十勇士の名を知らない男の子は皆無と言っても過言ではなく、「猿飛佐助だぞ」と叫びながら折紙で作った手裏剣を投げ合い、霧隠才蔵ごっこと称して、水蜘蛛の術で使う輪かんじきに見立てた2枚の浮き板をプールに浮かべ、その上に立とうとしては派手な水飛沫を上げて引っくり返る、などという遊びに興じた思い出が、こよなく懐かしい。
 
僕は、真田幸村と十勇士の物語、いわゆる「真田もの」を系統立って読んだことがなく、断片的な知識だけだったのだが、1つの完成した物語として接したのは、昭和54年に東映が製作した映画「真田幸村の謀略」をビデオで観た時である。
主役の真田幸村に松方弘樹、霧隠才蔵が寺田農、猿飛佐助があおい輝彦、海野六郎がガッツ石松、望月六郎が野口貴史、筧十蔵が森田健作、穴山小助が火野正平、由利鎌之助が岩尾正隆、根津甚八が岡本富士太、三好伊三入道が真田広之、三好清海入道が秋野暢子と個性的な俳優を配し、更に真田昌幸に片岡千恵蔵、真田信幸に梅宮辰夫、徳川家康に萬屋錦之介、本多正純に小林昭二、淀君に高峰三枝子、大野治長に戸浦六宏、後藤又兵衛に成田三樹夫、加藤清正に丹波哲郎など重厚な演技陣を脇に据えた映画は、演技を観ているだけでも飽きが来なかった。
 
脚本を担当した笠原和夫は、海野六郎、望月六郎、筧十蔵、由利鎌之助を関ヶ原浪人、根津甚八は山窩、三好伊三入道は朝鮮王族の従者、三好清海入道は朝鮮王族の娘ジュリアなどと、歴史の表舞台には現れない影の役柄を加味している。
十勇士の中で、真田家の家臣は霧隠才蔵と小者の倅の穴山小助だけ、猿飛佐助に至っては異星人という、如何にも昭和50年代らしく突拍子もない設定だった。
 
 
もとより江戸時代の講談の流れを汲む空想物語であるから、史実と懸け離れていても構わないけれど、この映画は、隕石が地球に落ちてくる奇想天外な始まり方をする。
公開の何年か後のことだと思うのだが、時代劇と思って親と一緒にテレビを観始めたら、いきなりの隕石落下シーンに度肝を抜かれ、無性に怖くなって、茶の間から出てしまった記憶がある。
あれが「真田幸村の謀略」だったのか、と思う。
 
ところが、「真田幸村の謀略」の16年前に製作された同じ東映の「真田風雲録」も、冒頭に隕石が地球に落下するシーンがあるというから、僕の幼心を困惑させたのは、そちらのテレビ放映だったかも知れない。
「真田風雲録」では、隕石の放射能の影響で猿飛佐助が特殊能力を身につけ、「真田幸村の謀略」ではエイリアンの猿飛佐助が隕石に乗って来た、という設定らしい。
東映は、猿飛佐助と隕石を結びつける設定が、よほど好きと見える。
 
「真田もの」の系譜として、霧隠才蔵を主人公に据え、テレビドラマにもなった司馬遼太郎の「風神の門」を読んだことがある。
同氏の他の正統派歴史小説を何冊も読破した後であっただけに、同じ文体で、水遁の術や水蜘蛛の術といった忍法を平然と描写している部分に、この作家はこのような伝奇小説も書くのか、と意外に感じたものだった。
 
 
現代の「真田もの」に何かと驚かされてばかりで、この分野では何でもありだぞ、と覚悟していた僕も、映画「真田幸村の謀略」のラスト、幸村と家康の一騎打ちで家康の首が飛ぶシーンには、さすがに仰け反った。
幸村の軍勢が家康本陣に肉迫した史実は承知していたし、娯楽時代劇であることは理解しているつもりでも、そこまで史実を変えてしまってどうする、と慌ててしまった当時の僕は、まだまだ狭量だったと言うべきか。
 
ところが、世の中には、家康が大阪の陣で討ち取られたと信じている御仁も少なくないらしく、堺の南宗寺に家康の墓が実存すると言うのだから、現在に伝わる虚実とは、案外に不確実と考えるべきなのかもしれない。
仮に、大阪の陣で家康が死んでいるとしても、その後に二百数十年続く徳川幕府の盤石の体制は揺らぎもしなかった訳で、冷徹な観察者ならば、真田幸村や十勇士の活躍も、戦国時代の終焉と安定した江戸時代の幕開けという時代の趨勢に対しては、蟷螂の斧でしかなかったということになるのだろう。
 
 
僕らの国では、敗者であっても己の信念を貫き、勝者に一泡吹かせた人物を持て囃す風潮が根強く見受けられるけれど、実際、その身になってみれば、なかなか辛い人生ではないかと思う。
 
この旅の数年後に、僕は友人と東京から車を走らせて、九度山の真田庵を訪れる機会を得た。
森閑とした静寂が支配する庵の佇まいには、心が洗われた。
稀代の梟雄であった父に従い、合戦に明け暮れていた幸村にとって、九度山で過ごした十数年間は、人生で唯一の平穏な日々であったのかもしれない。
 
 
乗降客も少なく、ひっそりと静まり返る九度山駅を発車した電車が大きくカーブすると、左の窓は、見上げるように急峻な山肌と鬱蒼たる木々の繁みに覆われてしまう。
清らかな渓流を抱く丹生川を渡りながら別れを告げ、高野線で最長となる399mの椎出トンネルを抜けると、高野下駅である。
この駅が人界と霊界の境でもあるかのように、そこから先は急カーブやトンネルの連続となり、時に小さな集落が見え隠れするだけとなる。
 
行き違い設備がある上古沢駅を過ぎると、全長67.6m・高さ33.4mの中古沢橋梁に差し掛かる。
下を覗き込むと、生い繁る木々の枝に遮られて川面がはっきりと見えないだけに、奈落の底を覗いているような気分になった。
 
 
峻険な線区とは聞いていたものの、高野の山々の想像以上の奥深さには、目を見張らされた。
最大50‰の勾配や、半径100m以下の急曲線、大小24ヶ所のトンネルが次々と現れ、21000系電車は時速33kmの制限速度でのろのろと登っていく。
さながら秘境の様相を呈する、人跡稀な車窓に眼を釘づけにしていると、速度などは問題ではなく、よくぞこのような場所に鉄道を通したものだ、と舌を巻いてしまう。
 
南海電鉄は、平成21年に、同様の急勾配区間を持つ箱根登山鉄道、富士急行、大井川鐵道、叡山電鉄、神戸電鉄と、全国登山鉄道パーミル会を結成している。
南海高野線の車中から眺める景観は、確かに、大井川鐵道の末端区間とよく似ているように思えた。
 
 
友人と車で九度山を訪ねた時は、その足で高野山に向かった。
どの道で登ろうかと迷った挙げ句、僕らは国道371号線を使うことにした。
高野山へ向かう登山道路としては、有料道路だった高野山道路が無料開放された県道(現在の国道370号線と480号線)という選択肢もあったのだが、友人も僕も、国道の方が無難だろうと考えたのである。
 
この読みが甘かったと気づいた時には、遅すぎた。
国道371号線は、大阪府河内長野市から和歌山県串本町まで、紀伊半島を縦断している。
河内長野から橋本にかけての区間は、平安時代から参詣道として利用された高野街道であり、橋本以南も、高野七口に通じる高野参詣道の1つで、平成28年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された黒河道に沿っている。
 
ところが、山中に分け入った途端に舗装が切れ、乗用車同士のすれ違いにも苦労する狭隘路と化したのである。
それでいて、降りてくる車は決して少なくない。
勘弁してくれ、と悲鳴を上げたくても、Uターンできるスペースすら見当たらないのである。
登る側が丹生川に面した崖っぷちとなっている区間も数知れず、対向車が現れると、助手席の友人が窓を開けて、
 
「大丈夫、もう少し寄れる、もうちょい、ストップ、今が限界!」
 
などと大声で誘導し、ハンドルを握る僕は、路肩を踏み外して転落しないかと冷や汗のかき通しであった。
登る側の人間は、まだ、崖の高さに慣れていないのである。
対向車が崖側になると、こちらがバックしたり、斜面へ乗り上げるほど車を寄せなければならなかったが、山側ならばまだ心の余裕が保てた。
 
丹生川に架かる橋の先にある河合トンネルは、幅4m、高さ3.8mしかない。
どうしてこのような設計で良しとしてしまったのか、と恨みたくなるほど口径が小さく、内部も凸凹の地肌にコンクリートを吹きつけただけの粗末な代物だった。
このトンネルは大型車の通行が禁止されているが、トラックやバスがくぐることなど、物理的に不可能としか思えないのである。
実際、地元の人の話では、マイクロバスなどが中にすっぽりと嵌まってしまい、引き出すのにひと苦労、という出来事が少なくなかったという。
 
 
国道371号線が、いわゆる酷道として名を馳せていると知ったのは、後年のことである。
僕にとって酷道の初体験となった訳で、車内で交わされたのは、
 
「こんな国道ありかよ」
 
という溜息まじりの文句ばかりであった。
 
あのような悪路は行きだけでこりごり、と帰り道に選んだ県道も、決して走りやすくはなかったけれど、幅員は遥かに余裕があった。
県道が国道370号線と480号線に昇格した現在では、国道371号線の入口に、国道371号線の利用を推奨する看板が立てられていると聞く。
麓に降り立つと、友人がぽつりと呟いた。
 
「国道より県道の方が良いなんて、絶対おかしいよな」
 
僕は、数年前に乗車した南海高野線の車窓を思い出し、高野山に詣でるならば鉄道に限る、と心の中で頷いたのである。
 
 
並行する道路で散々な目に遭う将来のことなど、想像もしていない僕を乗せた21000系電車は、連続するトンネルの合間に設けられた紀伊細川駅、紀伊神谷駅を乗り降りのないままに過ぎ、鈍足ではあるが着実に高度を稼いでいく。
右側に朱塗りの極楽橋がちらりと見えれば、正面に巨大な山塊が立ち塞がる極楽橋駅で、もうこれ以上は進めません、と音を上げるかのように、電車は歩みを止めた。
 
乗り換えたケーブルカーで急斜面を這うように登り、終点の高野山駅に降りた僕は、思わず息を呑んだ。
標高900mの山頂とは信じられないほど、八葉の峰と呼ばれる山々に囲まれて、あたかも蓮の花が咲き開いたかのような広大な平地が、奇跡のように現れたのである。
そもそも、多くの伽藍がひしめき合う平地に、路線を張り巡らせているバスが行き来しているという山頂が、他にあるだろうか。
 
 
地形学には、河川の侵食により地形が変化して行く「地形輪廻」という考え方がある。
 
河川が原地形を掘り下げて急流や滝を伴う比較的浅めのV字谷となり、それ以外は高原状を呈する「幼年期地形」、地形の起伏が最大となって尾根が鋭く尖り、谷は深いV字を成す「壮年期地形」、地形の起伏が緩やかになり、谷の幅が広がって、尾根や山頂が丘陵となる「老年期地形」を経て、全体的に起伏の緩やかな平原が広がる「準平原」となる。
国土地理院は、準平原の一部に取り残された残丘が、山頂ごとに独立した小平坦面を形成する「準平原遺物」が、高野山の成り立ちと分類しているが、平凡社の世界大百科事典では、我が国に厳密な「準平原遺物」は存在せず、「老年期地形」に上部斜面から土砂が流入し堆積することで形作られた「山麓緩斜面」に過ぎない、と記述している。
 
いずれにしろ、この地を発見した空海の慧眼と幸運には、頭を垂れる以外にない。
 
 
僕はバスの1日乗車券を購入して歩き回ったのだが、中でも圧倒されたのは、一ノ橋から奥ノ院に至る2kmあまりの山道の両側にひしめく、大小10万余の墓石群だった。
皇室はもとより、平安時代の公家、歴史に名を馳せた戦国大名、太平洋戦争の戦死者、そして平成の現在まで、全国から年間何十万人もの人々が、宗旨や身分の違いに関係なく遺骨や遺髪を納めに来るという「骨のぼせ」の伝統が、この死都を生んだのである。
 
鬱蒼と空を覆う高野杉の下に立ち並ぶ、苔むした石塔群の間に佇むと、冷たく湿っぽい木の匂いとともに、死の雰囲気がひしひしと身に迫ってくるような気がした。
ここは、普段身を置いている日常とは、紛れもなく隔絶された場所であった。
僕が踏み締めているこの土の下には、日本中から集まった死者の魂が眠っている。
 
不意に、前夜に「ミルキーウェイ」号で目にした、深夜の高速道路で赤々と燃え盛る炎が、心に浮かんだ。
あれは、死者を黄泉の国へ誘う鬼火だったのか。
 
 
復路は、新型車両30000系に一新されていた特急「こうや」に乗り、南海難波駅まで一気に駆け下り、「ミルキーウェイ」号和歌山線と同じ年に開業した夜行高速バス「おけさ」号で、梅田三番街バスターミナルから新潟へと抜けた。
 
「こうや」の乗り心地は、新しい看板列車に相応しく快適だったが、往路の21000系の道中に比べると、どこか物足りなく感じたのは、贅沢と言うべきか。
 
 
僕は、冬の北国の旅が好きである。
初乗りの高速バスへの興味ばかりでなく、温暖な和歌山の地から、厳冬の新潟へ移動する対照の妙に心を惹かれていたのだが、難波から先の行程については、今や忘却の彼方である。
21時30分の「おけさ」号の発車時刻まで何処で何をしていたのか、翌朝6時50分に万代シティバスセンターに到着するまで9時間あまりの車中をどう過ごしたのか、また、新潟からどのように東京まで帰ってきたのか、どうしても思い出せないのだ。
高野山への往復が、あまりに強烈な印象として心に刻まれた反動なのか、それとも「ミルキーウェイ」号の車内で魔術にでもかけられたのか。
 
ぬくぬくと暖房が効いた車内で目を覚まし、窓の曇りを拭うと、「おけさ」号は、小雪が舞う万代橋を渡っているところだった。
寒々とした信濃川の冬景色を、寝ぼけまなこで眺めながら、憑き物が落ちたように呆然としていたことだけが、脳裏に浮かぶ唯一の記憶である。
 
 

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