関西と九州を結ぶ夜行高速バスの栄枯盛衰(5)~京都発熊本行きサンライズ号とJAMJAMライナー~ | ごんたのつれづれ旅日記

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平成28年9月の週末、東京の街並みは降りしきる雨の底に沈んでいた。
途切れることなくバスが出入りするバスタ新宿の窓から外に目を向ければ、代々木駅前にそびえるDocomoビルのてっぺんに漂う靄が、そのまま陰鬱な空に繋がって、まるでビルが雲に隠れているように見える。


午前10時40分に発車する高速バス「JAMJAMライナー」JX271便は、緑の派手な塗装のハイデッカーにほぼ満席の乗客を乗せ、甲州街道を西へ走り、山手通りに左折して初台ランプから首都高速道路中央環状線山手トンネルに潜り込んでいく。
目が回りそうな螺旋を幾重にも描いて高架まで駆け上がっていく大橋JCTで、10分ほど渋滞に引っ掛かったが、ここで時間を取られるのはいつものことで、首都高速3号線でしばらく進めば、車の流れは少しずつスムーズに流れ始める。


このバスは、終点大阪梅田までの475kmを、所要7時間50分で走り抜く。

昼行便の営業距離がせいぜい300km程度、それ以上の距離は夜行便が主体となって全国に路線網を広げてきた高速バス業界の常識を破って、日中に500km近い距離を走る本格的な長距離昼行便の嚆矢となったのは、平成13年に登場した東京-大阪間「東海道昼特急大阪」号であった。

それまでも、東京と盛岡、仙台・山形・新潟・富山・高岡、金沢、名古屋、岐阜、伊勢、大津、もしくは大阪と長野、富山、広島、高知の間などで、300~500km程度の距離を走破する昼行便が見受けられたものの、殆どが夜行便の折り返しで、便数は1~2往復程度、一部の例外を除いて短期間で次々と姿を消し、結局は夜行便だけになった路線が少なくなかった。

「東海道昼特急大阪」号も夜行高速バス「ドリーム」号の間合い運用として登場し、共通の横3列独立シートを備えた2階建てバスが用いられていた。
新幹線で2時間半の区間を8時間もかけるのんびりした路線であるにも関わらず、夜行高速バスよりも廉価な運賃に惹かれた利用客により、瞬く間に1日8往復の人気路線にのし上がったことで、「日経優秀商品賞」を受賞したのである。


平成14年3月には「中央道昼特急京都」号が加わって、平成15年7月には「中央道昼特急大阪」号と「東海道昼特急京都」号が登場、横浜-大阪間や大阪-静岡間、大阪-富山・金沢間、大阪-広島間、大阪-福岡間などにも「昼特急」の名を冠した昼行長距離バスが続々と登場するという勢いであった。
平成14年10月には東京と弘前を結ぶ「スカイターン」号が開業し、平成17年3月には上野と青森を結ぶ「青森上野」号、同年10月には横浜と広島を結ぶ「弥次喜多ライナー」号など、運行距離が600~900kmにも及ぶ猛者も現れている。



かつて、日中に長い時間を費やして移動することは当たり前のことだった。
太古の昔から江戸時代まで、人々は、お天道様が空に昇っている間だけ街道を歩き、夜は宿で身体を休めたのである。
鉄道をはじめとする様々な交通機関が登場した近代でも、それは変わらなかった。
昭和50年代までは、日中に長時間を運行する列車は珍しくも何ともなく、その頃の国鉄は決して乗り心地がいい設備ではなかったが、それでも盛況だったのである。
東京から北は東北本線の特急列車「はつかり」で7~8時間かけて青森へ、西は特急「つばめ」で10時間近くかけて広島まで、大阪からも北は青森から西は鹿児島まで、昼行列車が数多く走っていたのだ。

新幹線が各地へ伸び、航空機が大衆化するにつれて、旅に対する人々の姿勢が変わり始める。
移動時間を極力短くして、目的地に出来るだけ早く到着することが当たり前となり、誰もが、それを進歩と考えるようになった。
新幹線ですら、4時間以上を要する区間は嫌われる傾向にあり、航空機に利用者が流れてしまう。

国土交通省が公表した平成24年の「距離帯別交通機関分担表」によると、100km未満、100~200km、200~300kmまでの移動では自家用車が75~90%以上を占め、鉄道が5~20%、高速バスは2%程度を占めているに過ぎない。
300~500kmと500~700kmの距離帯では、自家用車で移動する比率が15~46%へと下がり、鉄道が47%~67%、高速バスは変わらず1~2%であるが、航空機が4~15%に増えてくる。
移動距離が700~1000km及び1000km以上になると、航空機を利用する人の比率が54~87%まで増加し、鉄道は8~30%、高速バスは1~2%、自家用車は3~12%になる。

このような数字を目にすると、僕らは、そんなに忙しいのであろうか、と首を傾げてしまう。
僕らにとって、究極の移動手段とは、目的地にたどり着く過程が皆無の「どこでもドア」なのであろうか。



「東海道昼特急大阪」号の登場は、昔の日本人がそうであったように、あくせくした日常から離れて、のんびりと旅を楽しみませんか、という現代社会への壮大なアンチテーゼだと思う。
若者を中心とした客層の利用が多いと聞けば、世の中は、目まぐるしい高度経済成長期とは異なる時代を迎えつつあることを感じたものだった。
少数派であっても、所要時間の長短とは別の要素を優先する人々が、厳然と存在するのは事実である。
「どこでもドア」の高速交通機関では決して満たされない、道中の味わいこそが、旅の本質ではないかと思う。

問題は、その需要がバス会社にとってペイする数字なのかという点で、昼行便であっても、運転手を2人乗務にしたり、燃料代や高速料金、車両費など距離に応じて増大するコストに見合う収入がなければ成り立たない。
登場から僅か7ヶ月後で廃止された「弥次喜多ライナー」号をはじめ、姿を消した長距離昼行便は少なくない。
平成18年から同20年にかけて「東海道昼特急大阪」号の一部が季節運行となり、平成22年には京都駅を起終点とする「昼特急」号が東海道・中央道ともに廃止され、大阪発着便が京都駅を経由するようになると、おやおや、新時代を築いた「昼特急」号にも翳りが差してきたのか、と眉をひそめたものだった。
愛称から地名も抜かれて「東海道昼特急」号と「中央道昼特急」号と単純化されてしまっても、多客期の臨時便を除く6往復の「東海道昼特急」号と1往復の「中央道昼特急」号が、今でも東京と大阪の間を行き来しているのは立派なことだと思う。


東京と大阪の間を行き来する総流動数は、年間3400万人を超える。
おそらく世界でも有数の都市間流動と思われるが、そのうち、鉄道が2840万人、航空機が560万人、高速バスは27万人程度と1%にも満たない。
総流動数が多ければ多いほど、所要時間の長さを気にしない利用者の絶対数も増えるのか、東京-大阪間には「東海道昼特急」号と「中央道昼特急」号の他にも、直通の高速バス路線が幾つか存在する。

「WILLER EXPRESS」S102便が、新宿9時10分発・横浜10時20分発-京都18時10分着・長岡京18時45分着・桃山台19時15分着・梅田19時35分着。
同じく「WILLER EXPRESS」W101便が、大崎7時30分発-梅田16時40分着。
桜交通「キラキラ」号123便が、新宿8時40分発・横浜9時50分発-京都17時15分着・梅田18時10分着・難波18時40分着。
そして、僕が乗車している「JAMJAMライナー」JX271便が、新宿10時40分発-梅田18時30分着。


ちなみに、JRバス関東と西日本JRバスが運行する「東海道昼特急」号と「中央道昼特急」号の現在の運行時刻は以下の通りである。

「東海道昼特急」3号:東京7時10分-大阪16時42分
「東海道昼特急」5号:東京8時40分-大阪17時30分
「青春昼特急」7号:東京9時40分-大阪18時32分
「グラン昼特急」9号:東京10時10分-大阪19時03分
「青春昼特急」11号:東京11時10分-大阪19時14分
「中央道昼特急」13号:東京12時10分-大阪21時29分
「東海道昼特急」15号:東京13時10分-大阪22時01分

最終便の発車が午後1時台とは、所要時間が長い長距離昼行便の貫禄とも言えるのだろうが、途中でバスタ新宿や、御殿場・富士・静岡・浜松北といった静岡県内のバスストップ、八日市・京都深草・大山崎・高槻などの名神高速道路のバスストップ、そして京都駅に停車するため、殆どの便が所要9時間前後を要し、最速であるのは、東名向ヶ丘、東名江田、そして千里ニュータウンだけに停車駅を絞った「青春昼特急」11号の8時間4分である。
東京と大阪を結ぶ高速バスの中で最も俊足を誇っているのが、途中停留所が全く設けられていない「JAMJAMライナー」の7時間50分ということになる。

昭和5年に運転を開始した特別急行列車「燕」は、東京-大阪間を8時間20分で結んでいた。
戦時中に一時運転を休止したものの、戦後の昭和24年に「へいわ」の列車名で運転を再開、昭和25年に「つばめ」へと改称された特急列車は、当初は東京-大阪間で9時間を要していたものの、昭和25年に8時間となって戦前の水準を上回り、昭和31年の東海道本線全線電化に伴って7時間30分まで所要時間を短縮した。
昭和33年に、それまでの客車列車から151系特急形電車に置き換えられた「こだま」は、6時間30分にスピードアップが図られている。

「JAMJAMライナー」JX271便は、昭和30年代前半までの特急列車に匹敵する速さで運行していると考えれば、健闘していると言ってもいいと思う。



かつて、我が国で最長距離を走る夜行高速バス「はかた」号が、平成2年に新宿と福岡の間で走り始めた時、新宿を17時10分に発ったバスは、大阪の吹田JCT付近を午前0時前後に通過した。
その数年前まで、夜行高速バスが走る距離の限界は、東京から西ならば、せいぜい関西あたりに相当する500km程度まで、とされていた。
昭和63年に東京から鳥取へ向かう夜行高速バス「キャメル」号に乗って、午前3時頃に吹田JCTに差し掛かった時には、関西を深夜に通過する高速バスが登場したことに大きな感慨を覚えたものであったが、「はかた」号は、日付が変わる頃に、早くも大阪に達してしまったのである。



それくらいの所要時間ならば、東京と大阪の双方を夕方に発つ高速バスがあってもいいのではないか、僕だったら乗るぞ、などと夢想したことがある。
仕事帰りのビジネスマンが、横3列独立シートの車内でゆったりとくつろいでいる様子まで思い浮かべて、1人悦に入っていたものだった。
渋滞による遅延でも起きようものならば、到着地で路頭に迷ってしまうことが難点であるためか、さすがに夕方に発車する便は設定されなかったが、「昼特急」号の登場に我が意を得たとばかりに、僕は、平成14年に「東海道昼特急大阪」号で西へ向かったことがあり、大阪で宮崎行きのフェリーに乗り換えた。
平成17年には「中央道昼特急京都」号から長崎行き夜行高速バス「ロマン長崎」号に乗り換え、平成22年には「プレミアム昼特急」号で大阪に向かい、夜行高速バス「おひさま」号で宮崎まで足を伸ばしたこともある。
この日も、熊本へ向かう夜行高速バス「サンライズ」号に乗り継ぐ心づもりである。
僕にとって、東京と関西を結ぶ昼行高速バスは、常に九州旅行の第1走者だった。

今回は趣向を変えて、ツアー高速バスを運行していた事業者に目を向けてみたが、「JAMJAMライナー」号を選んだのは、断じて、出発が最も遅くて朝寝坊が出来る、などという理由ではなく、唯一の横3列シート車両だからである。
「WILLER EXPRESS」も「キラキラ」号も、座席に色々工夫はしているようだが、横4列シートであることがHPに明記されていたから、半日にも及ぶ長い時間を詰め合い、気を遣いながら身を縮めて過ごすのは、勘弁してほしいと思った。


「JAMJAMライナー」JX271便は雨が降りしきる関東平野を西へ向かい、箱根の急坂をぐいぐいと登り詰めると、御殿場JCTで新東名高速道路へ入っていく。
それまでの揺れがぴたりと収まって、道路の曲線も緩やかになり、急カーブが続く箱根越えとは対照的な乗り心地に一変した。
高原の彼方には雲が垂れ込めて、富士山はすっかり姿を隠しているけれど、なだらかな裾野の広大さは手に取るように感じられて、心まで伸びやかになる。

大阪まで車中を共にする相客たちは、若者ばかりで、下手をすると、この便では僕が最も年配なのではないかと思ったりする。
以前「昼特急」号に乗車した時も、似たような年齢構成で、長距離昼行便が若い世代の支持を集めていることを実感した。
昭和の終わりから平成の初頭にかけて運行していた、夜行便とセットであった長距離昼行便のうち、東京と北陸、伊勢、大津、または大阪と高知などといった路線では、乗り換えの労を厭う高齢者の姿も少なからず見受けられ、隣り合わせたおばあさんとずっと喋りっぱなしで過ごしたこともあった。

「JAMJAMライナー」JX271便の若者たちは、バスに乗り込むなり、スマホを取り出して電源をソケットに繋ぎ、イヤホンを耳に当てながらリクライニングを倒して昼寝を決め込んだり、ゲームなどに熱中する姿が目立つ。
夜行便と共用の車両であるから、各席を隔てる個室カーテンが備わっていて、僕の左隣りの中央列に坐った男性などは、発車直後に個室カーテンを閉め切ってしまったから、景色も見ないのか、と驚愕した。
旅は道連れ、という時代は遠くに過ぎ去って、今の若い人たちは、1人の時間の過ごし方が、僕らよりも上手いのであろう。
高速バスに限ったことではなく、航空機や新幹線でも、席を隣り合わせた人間など眼中になく、1人の世界に閉じこもる乗客は少なくない。
真っ昼間から、自分だけに限定された空間を独り占め出来る交通機関など、他には見当たらないから、それが理由で高速バスを選ぶ人もいるのかもしれない。

困ってしまうのは、自席と反対側の景色が見られないことであるが、初めての経路ではないから、想像力と記憶力を働かせれば、車窓は充分に楽しめる。
「JAMJAMライナー」などの元ツアー高速バス事業者は、ネットでの予約時に窓際席の指定が可能で、その代わりに数百円ばかり料金が上乗せされる、という方式を採っているところも少なくない。
それでお金を取るのか、と目を見張ったものだったが、然るべき金額さえ払えば確実に窓際に座れるのだから、安心でもある。


正午を過ぎた頃合いに、駿河湾沼津SAで最初の休憩がとられ、仕切りカーテンを引いて閉じこもっていた客も一緒に外へ出て、用足しかたがた、なにがしかの昼食を手に入れたようである。
このサービスエリアからは、眼下に広がる沼津と三島の市街地ごしに駿河湾が望めるはずであるが、この日は見通しが全く利かなかった。
走り出せば、高速道路脇の山腹に立てられた鉄塔の先が、雲の中に隠れている。
夏の終わりを感じさせる、肌寒い日だった。


新東名高速をバスや自家用車で行き来するたびに、何という贅沢な道路を建設したものだと舌を巻く思いがする。
「JAMJAMライナー」が「東海道昼特急」号よりも所要時間が短いのは、前者が新東名・新名神高速経由であるのに対し、後者は昔ながらの東名・名神高速を走り続けていることも一因であろう。
「東海道昼特急」号が登場した時には、新東名も新名神も建設途上だった。

昭和58年に国土省が第四次全国総合開発計画の策定を開始し、第二東名高速道路と第二名神高速道路の建設が優先課題として提言された。
平成2年には、設計速度が時速140km、曲線半径3000m、勾配2%以下という構造基準が決定される。
必然的に直線に近い線形で水平に造らざるを得ず、橋梁やトンネルの比率が増加することになるため、第二東名に占める橋梁とトンネルは全体の6割にも及び、東名高速の2割と比して非常に高い比率となった。
海岸部の人口密集地を避けて山間部にルートを選定し、雪や霧などの天候の影響を少なくするため標高300m以下で建設したことや、往復6車線で設計したことからトンネルの断面が4車線と比較して2.5倍であることなど、第二東名高速と第二名神高速の1kmあたりの工事費は他の高速道路の5倍に膨れ上がり、総事業費は約10兆円という、膨大なコストを要する道路が誕生することになった。

東名高速と並行していることも無駄と批判された新東名高速であるが、我が国の産業構造が過度に東名高速に依存しているため、天災や事故によって不通になった場合は国民生活へのダメージが深刻であり、代替道路が必要とされたことが発端である。
主要都市間を結ぶ幹線道路に並行して、別に道路を建設し、並行する2本の道路が連絡路で結ばれるという形態は、道路先進国のドイツではごく当たり前のことという。


曲線半径を大きくし、勾配を抑え、路肩を広くするなどの工夫によって、ハンドルを握る者から見れば、新東名高速は非常に走りやすく安全性が高い道路となっていることは間違いない。
現実に、新東名高速の事故率はNEXCO中日本管内の平均値に対して36%と低くなっている。

当時の建設大臣は、

「第二東名は立派な道路を造るよう、また後世に誇れるような財産を造れと指示した」
「安くという発想は全くなかった。世界に誇れるものをということだけだった」

と、インタビューに答えている。

経済的に失速し、膨大な財政赤字を抱えている我が国にとって、単なる無駄遣いに終わるのか、それとも再生の起爆剤となるのか、その評価は、もう少し時が経たないと定まらないのだと思う。

新東名高速道路は、この旅の4年前の平成24年4月に、御殿場JCT-三ヶ日JCT間161.9kmが、総事業費2兆5710億円を費やし、18年5か月をかけて開通した。
開通後1年での効果として、東名高速と合わせた利用台数が開通前より14%増大した8万3000台となり、東名高速の静岡県内区間で発生していた10km以上の渋滞は9割も減少したという。
長距離トラックが、起伏や曲線が緩やかな新東名高速に移行したというデータも示された。
昭和44年の全線開通以来、半世紀近くを経ている東名高速でも、長期の規制を伴う大規模な老朽化対策工事の実施が可能になり、東名高速の由比付近における台風や高潮による通行止めの代替ルートも容易になったのである。


全く揺れが感じられない「JAMJAMライナー」JX271便の走りっぷりを味わいながら、うつらうつらしたり、スマホの画面を開いてみたり、持参の文庫本を読んでみたり、何をするでもない時間がゆったりと流れていく。
静岡県を抜ける頃から、何となく、行く手の空が明るくなったような気がした。
ひたすら山の中を走り込んできた駿河国と遠江国から三河国に入れば、周囲の山々も幾分開けてきたように感じられるのは、東名高速でも同じだった。
「東海道昼特急」号や、東京と名古屋を結ぶ「東名ハイウェイバス」に乗っていても、箱根山や由比の海岸、日本平や日本坂トンネル付近の大崩海岸、湖面を渡っていく浜名湖など、前半部分は変化に富んだ車窓が楽しかったものだが、愛知県に入ると地形は単調になって、海が見えるでもなく、坦々とした丘陵地帯の斜面に広がる茶畑を愛でるだけの車窓が、少しばかり退屈だったことを思い出す。
豊かな土地の景観は、単調である。

新東名高速の浜松いなさJCTと豊田東JCTの間55.2kmは、この旅の7ヶ月前の平成28年2月に延伸したばかりだった。
この区間は暫定4車線で建設されたにも関わらず、並行する東名高速の渋滞が、前の年の同じ月で13回もあったところがゼロになり、ダブルネットワークの効果が現れたと言われているのだが、それでも、この愛知県内区間に足を踏み入れると、静岡県内の余裕がある構造が際立っていたことが実感される。


東海環状自動車道と合流する豊田東JCTから、ハイウェイは伊勢湾岸自動車道と名を変え、名古屋市街の北を回り込んで岐阜方面に向かう東名高速と豊田JCTで交差し、知多半島の袂を横切るように海岸へ近づいていく。
名古屋高速3号線と結ばれている名古屋南JCTから、名古屋港の東岸にある東海ICまでは、第二東名高速の一部として最も早い平成10年3月に開通した区間で、平成17年までには豊田東JCTから四日市JCTまでの全線が完成している。
ここもお金をかけたのだろうな、と溜息をつきたくなるような、高さ8mもの防音壁を備えた往復6車線の高架道路が、工場や集落が散在する広大な平野部を貫いている。

伊勢湾岸道では、山深い新東名高速とは様相が異なり、長大な橋梁の競演を目にすることが出来る。
豊田東JCTと豊田JCTの間を流れる矢作川を渡る豊田アローズブリッジを皮切りに、名古屋港を横断する名港東大橋、名港中央大橋、名港西大橋の3つの斜張橋から成る名港トリトン、木曽川と揖斐川を渡る木曽川橋と揖斐川橋の2つのエクストラドーズド橋が、その代表である。
いずれも700~1400mもの長さを誇る堂々たる橋梁で、名港トリトンでは車窓左手に望む名古屋港の幾何学的な都市景観が美しく、また木曽川・揖斐川橋梁では、周囲を堤防で囲み、水害から集落を守った輪中を垣間見ることが出来る。


木曽川を渡れば三重県である。
ひと昔前までは、東京から大阪へ行くのに、三重県を通ることはなかった。
平成20年2月に新名神高速道路の亀山JCT-草津田上ICの間が開通したことで、東名高速と名神高速の豊田JCTから草津JCTまでの区間が、伊勢湾岸道・東名阪道・新名神高速経由とのダブルネットワークとなり、平成28年には豊田東JCTで新東名高速と接続、御殿場から草津までが2本の高速道路によって結ばれることとなったのである。

明治から昭和にかけて、東海道本線や新幹線、東名・名神高速が岐阜・米原経由で建設された近代の東西幹線交通からは大きく懸け離れて、古代、首都が飛鳥に置かれてから平城京が設けられる頃までの東海道は、三河国から尾張国津島を経て、木曽、揖斐、長良のいわゆる木曽三川の下流付近を渡河して伊勢国に入り、加太越えで布引山地と鈴鹿山脈を越え、木津川の谷間を下って木津に至るという、現在の国道1号線、25号線、163号線に沿うルートであった。
木曽三川の下流部は水害が多いことから、伊勢湾を船で横断する旅人も少なからず存在し、名港トリトンは太古の経路を現代技術の粋を尽くして焼き直したことになる。
平安京に遷都された後は、鈴鹿峠越えで近江国に抜けるルートに変更され、現在の伊勢湾岸道を経て東名阪自動車道と新名神高速に至る平成の新しい道筋は、古代に回帰したのである。


伊勢平野を横断して亀山JCTで新名神高速に歩を進めると、車窓は再び折り重なる山並みが占めるようになり、3960mの鈴鹿トンネルで一気に峠を越えて甲賀に入っていく。

ところで、この「JAMJAMライナー」JX271便は、新東名高速に入ったばかりの駿河湾沼津SAで休憩したきり、次はいったいどこで休むつもりなのだろう。

東名高速と名神高速を経由した初期の「東海道昼特急大阪」号は、御殿場SA、浜名湖SA、多賀SAで休憩し、名古屋以西の経路が伊勢湾岸道から東名阪道、新名神高速経由に変わっていた「プレミアム昼特急」号は、3番目の休憩地点が甲南SAに置き換えられていたけれども、どちらも3ヶ所の休憩地点によって2~3時間ごとに行程が刻まれていたのである。
ところどころの休憩もバス旅の醍醐味と考えている僕は、2回目の休憩が新東名の遠州森町PAや岡崎SAあたりかな、と楽しみにしていたのだけれど、あれよあれよ、と言う間に伊勢湾岸道の刈谷SAや長島PAも過ぎ、ようやく速度を落として滑り込んだのは、鈴鹿トンネルを抜けたばかりの土山SAであった。

およそ290km、3時間半もの距離をノンストップで走り続けたことになり、しかも「JAMJAMライナー」のHPには、JX271便について「乗務員1名にて運行いたします」と書かれているから、土山SAでバスを出る時に、まじまじと運転手さんを見つめながら、お疲れ様、と声をかけたくなった。
若い運転手さんは大して疲れた表情も見せず、素知らぬ顔で乗務記録にペンを走らせている。

いつの間にか雨は上がって、雲の切れ間から太陽が覗いていた。
緑の山々に囲まれた忍者の里はしん、と静まり返って、雨上がりの空気は清冽で肌に心地良かった。
雨雲の底に沈んだようだった東京も、明日になれば晴れるのだろうな、と思うと、遙々西へやって来たという実感が湧いて来る。

草津JCTで名神高速に合流して琵琶湖の南岸に抜け出し、大津トンネルを抜ければ京都盆地、天王山トンネルを抜ければ大阪平野である。
右手に、昭和45年に開催された大阪万博の象徴である太陽の塔を眺めながら、吹田ICで高速走行を終えた「JAMJAMライナー」JX271便は、大阪府道中央環状線から新御堂筋に右折し、淀川を渡って大阪市街に入っていく。
空はすっかり晴れ渡ったが、秋の日はつるべ落としで、陽は林立するビル街の合間に隠れようとしていた。


新御堂筋と阪急線の高架に挟まれた大阪梅田プラザモータープールが、「JAMJAMライナー」JX271便の終点である。
東京で言うならば、東京駅と有楽町駅の間にある鍛治屋橋駐車場のように、元ツアー高速バスだった長距離路線が集まるターミナルなのだろう。

高架やビルの谷間に挟まれて、雑然とした場末の雰囲気があるモータープールを見回しながら、ふと、空港でも格安航空会社のカウンターがターミナルビルの隅っこに追いやられている様が連想されて、何となく疎外感を覚えた。
バスから続々と降りて来る、共に東海道を下って来た相客たちに改めて目をやれば、素っ気ない表情で、そそくさと街なかに姿を消す1人旅の客が大半であるものの、これからの予定でも打ち合わせているのか、車外で話し込んでいる2人連れの女性客も見受けられて、仕切りカーテンに閉ざされて夜行バスのように静まり返っていた車中を思い起こすと、少しばかり意外な感に打たれた。


次に乗る熊本行き夜行高速バス「サンライズ」号は、京都駅が始発である。
それまでの記憶は定かではなかったのだが、この旅で写した写真を見直してみると、僕は新幹線で京都に引き返している。
「サンライズ」号の発車時刻が20時25分で、「JAMJAMライナー」JX271便の梅田到着から2時間もないことから、京都でゆっくりと夕食を摂りたいと考えたのかもしれない。
それにしても、JRや阪急、京阪電車が30~50分で走っている短い距離を、何という勿体ない移動の仕方であるのか、と我ながら呆れてしまうのだが、この贅沢にして簡便な移動手段には先駆者がいる。


英仏海峡連絡列車に始まり、オリエント急行でトルコ、そしてイラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、タイ、マレーシア、シンガポール、ベトナムといったアジアの国々の鉄道を巡り、ナホトカ発モスクワ行きのシベリア鉄道で締めくくられる、鉄道ファンには垂涎のユーラシア大陸鉄道紀行を著したイギリス人作家ポール・セルー氏の「鉄道大バザール」は、僕の愛読書の1つである。
後半には我が日本も登場し、『青森行き特急「はつかり」』の章で東北本線から青函連絡船で北海道へ渡り、『札幌行き特急「おおぞら」』の章で札幌、『京都へ──超特急「ひかり」』の章で京都を見物した後に、『「こだま」号京大阪行き』の章で、氏は京都と大阪の間で新幹線を利用しているのである。

『京都大阪間の「こだま」号の旅はあっという間である。
「ウーン」とモーターの唸りを聞いていること14分、「プシュー」とドアがあいたらもう大阪到着。
私は座席を見つけてノートを取り出し、膝の上に置いたが、きょうのページに日付もろくに書きこまぬうちに着いてしまい、乗客たちが先を争って降り出した。
新大阪駅のホームへ降り立った私に、もうひとつのこだまが追いかけて来た。
列車のスピードに追い越された私の頭の中のこだまはこう言った。
「京都の郊外はすなわち大阪の郊外なり」──

京都と大阪の間の記述はこれだけで、セルー氏自身が鉄道大好きでありながら、冒頭で、

『汽車を捜し求めて、結局見つけ出すのは人間──汽車のお客さんたちということになるのだけれど』

と記しているように、膨大な紀行文の大半が行く先々で接した人々の描写に割かれている。


『よほど眼を近づけて見ないと、東京には東京の秩序があることが分からない。
遠見にはただごたごたしているようだが、ごたごたの中から何が浮かび上がって来るか、よく眼をこらしていなくてはならない。
そうすれば色んなものが見えてくる。
自動ドア、壁の中やテーブルの下に巧みに隠された照明──「明」「暗」とかすかに読める表示がスイッチについている。
食卓もお盆もガスの管も一切合財組みこんだ壁、地下鉄の切符自動販売機と自動改札機。
あっという間に取られてしまう椅子。
乗客の尻押しをするだけが役目の駅員にぎゅうぎゅう押されて乗りこむ静かな電車。
まあ、色々見えてくる。
夕方7時デパートの閉店時間になると、制服姿の女店員が2人ドアの所に現れ、ひとりひとりの客に向かってお辞儀をしながら、

「毎度ありがとう存じました」
「明日のお出でお待ち申し上げております」

とやり出す。
新宿にあるマンモス百貨店「伊勢丹」。
彼女たちは次の日また職場に出勤してそれぞれのケースの前に並び立ち、本日最初のお客さま方に「おはようございます」と声をかけて、客を株主のような気分にさせる。
何もかもが優雅そうな仕掛けで目まぐるしく動いている大都会である。
デパートの壁ぎわに48台ものカラー・テレビが展示してあるのは、エレクトロニクス時代の壮観であった。
画面では小柄な日本の政治家が演説中で、この人のカラーの映像を48、束にしてみてもウィンストン・チャーチルになるわけではないけれど、陳列の仕方に、日本人の小道具趣味がよく出ている。
日本人の国民性の中には、アメリカ人が同じ消費生活の中で味わっている絶望的な苦さ──、あれを感じないですむ何かがあるにちがいない。
アメリカ人はあり余る商品を使い捨てながら、一方で次第に罪の意識を育みつつある。
日本人もこうした疑念を抱いているのかも知れないが、彼らはそれを表に出さない。
多分、清教徒的な考え方が買い物の時邪魔になるなどということは、彼らの場合ないのだろう。
そんなことでためらっていたりしたら買物客の群れに踏みつぶされてしまうのだろう。
──これは、資本主義社会が内省的な人間に対して常に行っている自然淘汰でもある。
群衆はあらかじめ定められた計画に従って全員同一の行動をしているみたいだ、まるでプログラムに組みこまれた群衆のようだと思って、私は強烈な印象を受けた。
見ていると、彼らは地下鉄の乗車口に自動的に行列を作っている。
切符売場や自動販売機の前にも自然に行列が出来る。
どうも国民全体が頭の中に電子回路を1つずつ持たされているのだと結論したくなってくる。
やがてしかし、私は別の見方をするようになった。
地下鉄の中でだって、彼らは定められた秩序に結構抵抗していた。
電車がホームに入って来てドアが開くと同時に、それまで列を作っておとなしく待っていた群衆は、突然列を崩し、前の人を押しのけ、自分の荷物を振りかざしながら、ドアの方へ雪崩れこんで行ったのである』

『私はひどく憂鬱な気分だったので、自分の気分よりももっと憂鬱そうな大阪の町中へ、とても出かける気にはなれなかった。
憂鬱というのは、灰色のビルや外科医のつけるようなマスクをつけた群衆が信号の青に変わるのを待っている光景のことばかりではない。
これだけでもいらいらする。
信号無視の歩行者がいない社会とは、つまり芸術家がいない社会ではないだろうか。
5分の2が有毒ガスと言われる大阪の悪い空気がいやであった』

『この大きな執務室の中に、突然オーケストラの音が鳴り響き出した。
日本の汽車に乗ったから知っている。
これはアナウンスの前触れだ。
──ところが、一向何のお知らせもなく、音楽だけが少し調子っぱずれに大きな音で鳴り続けた。

「何か仰有りかけたようでしたが?」
「何を質問しようとしたのか忘れました」

私は言った。
音楽が続いている。
こんな大きな音の洪水の中で仕事が出来るのだろうかと思ってまわりを見廻すと、誰ももう仕事をしていなかった。
全職員が鉛筆を置いて立ち上がっている。
スピーカーから人の声が流れ出した。
最初は説明らしく、続いてアメリカでもお馴染みの、体操教師風の号令口調になった。
職員たちは各自前腕に注目して、手旗信号よろしく腕を廻しはじめた。
次が腰を曲げて身体を前後に動かす運動。
それからバレーの稽古のように小さくその場跳び。
スピーカーの女性の声は、

「さあ今度は首筋の血行をよくしましょう。はい、ぐるっとまわして、三ン、四イ五、六。はい、もういちど、二イ二イ三ン四イ

と、早口で次から次へ柔軟体操の指示を続ける。
3時を過ぎたところであった。
3時になると、毎日これをやるらしい。
ズルけている者などひとりもいなかった。
全職員ほんとうに総出で、元気よく膝を曲げ腕を伸ばし一斉体操である。
まるでミュージカルを見ているような光景だが、それにしてもよく、オフィスぐるみ、照れもせずに総立ちになって、ファイル・キャビネットの真ん中で脚を高く上げたり出来るものだ。

「あなたは体操しなくていいんですか」
「いや、構いません」

となりのデスクで電話が鳴った。
どうするつもりかと見ていると、首を曲げる体操をしていた女の人が電話を取って、首を曲げるのを止め、何か言って切った。
そしてもう1度首を曲げる体操に加わった。

「ほかに御質問は?」

ありませんと答え、礼を言って私は立ち上がった。
それで、応対してくれていた職員も、他の連中と一緒に体操を始めた。
両腕を伸ばして右へ曲げ、一、二イ三ン四イ、はい、今度は左へ、二イ二イ三ン四イ。
日本中で、器械が人間に指図をしている。
日本人は自分で作り出した器具機械に声を与え、ついでに自分たちも監督する権限を与えてしまった。
今や彼ら自身が機械にたいになって、光と音の命ずるまま、小さな筋肉、小さな足、小さな頭を振ったり曲げたり大わらわだが、その有様はいささかゼンマイ仕掛けの欠陥オモチャに似ていなくもない。
いつか自分を擦り減らしてしまうはずの無情で強力な機械のために、せっせと芸をしてみせているような感じがしてならなかった

鋭い観察眼で、かつ面白可笑しく描かれた日本人の言動を、ちょっぴり恥じらい、少しばかり顔をしかめて読み進めながら、そうか、京都と大阪の間で新幹線を選ぶ御仁もいるのか、と頷いたものだった 。



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