関西と九州を結ぶ夜行高速バスの栄枯盛衰(3)~京都発大分行きSORIN号と神崎鼻・前編~ | ごんたのつれづれ旅日記

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道端にぽつんと立っているバス停と、質素な丸木造りの待合所に目に止めた僕は、その脇の空き地にレンタカーを駐めた。


周囲は、こんもりと木々が生い繁る小高い丘に囲まれた、何の変哲もない閑静な住宅地である。
ガイドによれば、バス停から目的地まで徒歩20分、と書いてあるけれども、それらしい気配は何処にも感じられない。
かすかに潮の匂いがしたような気がして、もう1度息を吸い込もうとすると、いきなりくしゃみが出た。
九州とは言え、師走の風は冷たかった。

「神崎入口」と大書されたバス停のポールを覗きこむと、11時23分発の佐々バスセンター行き路線バスが、間もなくやって来る頃合いではないか。
僕は一服しながらカメラを取り出して、バスが現れるのを待った。
最初の計画では、このバスに乗る筈だったから、せめて写真に収めておきたいと思った。


前夜に長崎駅の裏手にある海端のホテルで1泊した僕は、駅前を早朝6時30分に発車する高速バスで、まず佐世保に向かった。

長崎県交通局と西肥自動車が運行する県内高速バス長崎-佐世保線の歴史は古く、昭和25年に開業した、国道34号と国道205号線を使って大村・諫早を経由する特急バスが元祖である。
昭和57年に長崎自動車道の長崎多良見ICと大村ICの間が部分開通すると、経路を置き換え、平成2年の長崎道武雄北方IC-大村IC間と、西九州自動車道武雄JCT-佐世保大塔IC間の開通によって、長崎と佐世保を1時間半で結ぶ高速バスとして、1時間に1~2本という便利なダイヤが組まれ、平成19年には佐々まで延伸された系統も登場している。


僕が高速バスに興味を抱き始めた昭和60年代に、長崎-佐世保線には2階建てバスが投入され、いつかは乗ってみたいものだと思っていた。
残念ながら2階建てバスの時代にその機会には恵まれなかったが、山並みに囲まれた大村湾をぐるりとひと回りする高速道路からの眺望は素晴らしく、武雄JCTで西九州道に分岐すれば、海と島のイメージが強い長崎県とは、これほど奥深い山々で占められていたのか、と目を見張った。


佐世保バスセンターから神崎入口まで路線バスを利用してから、およそ1時間に1本の間隔で運行されている次のバスで20分ほど先の佐々まで足を伸ばし、佐々バスセンターから長崎空港へ向かう特急バスで折り返して、この旅を終えるつもりだった。

ところが、事前に地図を眺めても、神崎入口バス停から、本土最西端の神崎鼻に迷わずたどり着ける確信がどうしても持てず、僕は佐世保でレンタカーを借りた。
レンタカーならば、カーナビという便利な道しるべがある。
ただ、路線バスがそれほど不便ではない地域へ向かうと言うのに、安易なレンタカーに日和見してしまったことが、ほのかな悔悟となっていた。

それでも、路線バスならば神崎鼻を往復するだけで東京へ帰らなければならなかったところを、車を借りたことで、本土最西端の駅である松浦鉄道のたびら平戸口駅まで寄り道し、平戸大橋を渡って平戸島にもちょっぴり足跡を印して、帰路には佐世保市内で佐世保バーガーの店に立ち寄ることも可能となったのである。


日本の島嶼部を除く本土最西端は、地味な印象である。

最北端の宗谷岬と最東端の納沙布岬は、北海道を訪れる観光客の多くが足を運ぶ観光スポットになっているし、最南端の佐多岬も、手前のロードパークを含めて観光地としての体裁を整えている。
ところが、最西端については、僕は名前すら思い浮かべられなかった。
神崎鼻、と言っても、いったい何処にあるのか。
大きな岬が突出している最北端や最東端、最南端に比べて、最西端は、北松浦半島のリアス式海岸の入り組んだ無数の岬に紛れているから、どれが最西端なのか、地図を見ただけでは判然としない。

2日前に東京駅を東海道新幹線で発った時点では、神崎鼻に行くつもりはなかった。
記憶は定かではないけれど、関西から大分へ向かう夜行高速バス「SORIN」号、もしくは鹿児島から長崎へ向かう高速バス「ランタン」号の車内で、長崎に到着した後はどう過ごそうかと思案している最中に、突如として思い立ったのである。
地味であろうが無名であろうが、地の果てを訪れるとなれば、気分は大いに盛り上がった。


待つ程もなく、西肥自動車の路線バスが緩やかなカーブの向こうから姿を現した。
乗降する客はなく、運転手さんは、乗る素振りも見せず、停留所から離れてカメラを構えている僕を訝しげにちらりと見やっただけで、アクセルを吹かしたようである。

停車せず通過していくバスの後ろ姿を見送り、再びハンドルを握りながら、歳を取って記憶が薄らいで来る頃に写真を見返したら、神崎鼻には路線バスで行ったものと思い違いをするかもしれない、という考えが浮かんできて、何だかおかしくなった。
漁船や小舟が浮かぶ幾つもの入り江を見ながら、倉庫や家々の間を抜けていく道筋は、予想よりも長く感じられたので、車で来てやっぱり正解だった、と思う。


こじんまりとした駐車場に車を置き、丘を登る遊歩道を歩くと、目の前に一面の海原が広がった。
東シナ海である。
右手には浅島が浮かび、下枯木島や伊島といった小島の向こうの水平線には、平戸島の平たい島影がおぼろに霞んでいる。

一望の下に見渡す海は広く、浜には「本土最西端の碑」も建てられているのだが、ここが西の果てなんだぞ、と幾ら自分に言い聞かせても、なかなかその気分が湧いてこない。
要するに、視界を遮る陸地が多すぎるのだ。

それでも、寄せては返す波と戯れながら、ごろごろとした岩の多い荒磯を散策すれば、心が洗われる。
2日間、慌ただしく時間に追われて、乗り物に乗り詰めだったことを思えば、本土最西端の地でのんびりと過ごしたひとときは、紛れもなく至福の時間だった。


その2日前、平成27年12月の黄昏時、僕は東京駅を16時38分に発車する「のぞみ」51号に乗り込んで、19時08分に京都駅へ降り立った。

千年の都は、既に冬の装いだった。
身を切るように冷たい風に追い立てられるように、駅ビルで夕食がてら1杯ひっかけてから、ほろ酔い加減で京都駅八条口に足を運ぶと、広々とした駅前の道路は大規模な工事中だった。
黄色い標識やポールがあちこちに立ち、歩行者通路も規制されて、通りの反対側に渡ることもままならず、バス停も仮の場所に移動させられているようである。



数年前に、宮崎行き夜行高速バス「おひさま」号に乗車した時には、駅舎と接するバス専用のスペースから乗り込んだように記憶しているのだが、あそこでもない、この停留所も違う、と散々探し回った挙げ句に見つけた大分行き「SORIN」号の乗り場は、土が剥き出しの工事箇所に挟まれていて、このような場所から本当に長距離バスが発車するのかしら、と何度もポールの標示を確認した。

20時10分発の「SORIN」号は、掘り返された路面に敷き詰められた板をボコボコ鳴らしながら、発車の数分前に姿を現した。
京都から乗車したのは僅か数人で、改札はすぐに終わって発車である。


長距離バスに乗ると、大抵は窓際の席を当てがわれることが多かったのだが、今回ばかりは横3列独立席の真ん中であった。
昼行バスならばともかく、夜行バスなのだから、眠ってしまえば窓際だろうが中央列だろうが関係ないではないか、と自分に言い聞かせても、どうも面白くない。
夜中にふと目覚めて、車内に外の明かりが漏れないよう気を遣いながら、そっとカーテンの隅をめくり、今はどこを走っているのかと暗闇に目を凝らすのは、夜の旅の欠かせない情緒だと思っている。
明朝8時27分に到着予定の大分まで、ひたすら身を沈めているだけのシートに缶詰めか、と思えば、気が滅入る。

「SORIN」号は夜の名神高速道路をひた走り、豊中ICで阪神高速道路に乗り換えて、21時25分発のあべの橋駅、21時45分発のOCAT・近鉄なんば駅、22時05分発の大阪駅前で乗客を拾い、更に阪神高速湾岸線を西へ進んで、23時ちょうどに発車する三宮バスターミナルにも足を伸ばす。
現在の高速バスブームの黎明期であった平成の初頭に、近鉄の夜行高速バスは、あべの橋と上本町だけに停車して目的地に向かったものだったが、今は少しでも乗客数を増やしたいのであろうか、昔では考えられないほどに右顧左眄する。
754km彼方の大分まで走らなければならないのに、関西圏でまごまごと2時間も費やしてしまって大丈夫なのかと、もどかしくなる。


大阪駅前からの乗車が最も多く、歩道はバスを待つ黒山の人だかりで占められ、係員が声を枯らせて利用客を誘導し、改札を終えた運転手さんが人混みを掻き分けながら、

「大分行きの御利用はありまへんかあ!」

と、叫んで回っている。
この停留所を大阪駅前と呼ぶには多少の無理があって、厳密には地下鉄東梅田駅前であり、1ブロック離れたJR大阪駅は居並ぶビル街の陰に隠れて見えもしないのであるが、キタの集客力とは凄いものだと思う。

これだけ綿密に関西圏で停留所を設けているのは、ライバルである長距離夜行フェリーを意識しているのかもしれない。


関西と大分を結ぶ夜行高速バスの歩みは数奇である。

平成2年7月に、阪急バス・亀の井バス・大分交通の3社が梅田発着の夜行高速バス「ゆのくに」号を、また近鉄バスと大分バスがあべの橋発着の「エメラルド」号を、ダブルトラッキングで開業させた。
ところが、「ゆのくに」号は、開業の年に中津での途中乗降が加えられたものの、4年後の平成6年に運行を休止し、「エメラルド」号も平成8年に佐伯まで延伸する梃入れ策が図られながら、平成9年に運休してしまう。

同じ九州東海岸にある宮崎行きの夜行高速バス「あおしま」号や、延岡行き「ひえつき」号も、それぞれ平成元年と平成2年に相次いで開業したものの、前者は平成11年に、後者は平成5年に運行を休止した。


大分や宮崎といった九州東海岸に向かう高速バス路線が早々と姿を消したのは、当時、長距離フェリーが一因と囁かれた。
大阪-別府、大阪-志布志、神戸-大分には「フェリーさんふらわあ」が、神戸-宮崎には「宮崎カーフェリー」が就航している。
平成26年までは大阪-宮崎にもフェリー航路が存在し、僕も利用したことがあるけれど、所要時間に大差はなく、高速バスとは比べものにならないほど広々とした船内空間を生かした居住性と、2等船室利用ならば高速バスと変わらない運賃に、これでは高速バスに勝ち目はないな、と納得したものだった。


ところが、平成23年に、近鉄バスと大分バス・亀の井バス・大分交通の4社が、京都・大阪・神戸-中津・別府・大分間に「SORIN」号と名前を変えた夜行高速バスを復活させたのである。

ソリン、とは何のことであるのか、最初はピンと来なかったが、キリシタン大名として知られる大友宗麟に因んでいるようである。
領内におけるキリスト教の布教を許し、積極的な南蛮貿易による経済力と巧みな外交戦術、そして優れた武将陣を抱えることで版図を拡げ、戦国時代の九州北東部を平定した武将である。
書画、茶道、能、蹴鞠などの諸芸に通じ、天正遣欧少年使節の派遣にも関わった。
ニホンカボチャは、天文年間にポルトガル人がカンボジアから豊後国に持ち込んで宗麟に献上したという説が有力で、今でも「宗麟かぼちゃ」として栽培されている。
領内に、宣教師が伝えた西洋医学の診療所を作り、領民は無料で診察を受けることが出来たという。
その後半生は薩摩の島津氏との抗争に費やされ、豊臣秀吉の援助を得ることでようやく勝利するのであるが、宗麟自身は、島津氏の降伏寸前に病死したのである。



「SORIN」号の登場と同じ年に、京都・大阪・神戸-都城・宮崎間に「おひさま」号も運行を開始し、フェリーは運航を続けているのに、いったいどのような情勢の変化があったと言うのか、と驚いたものだった。
「おひさま」号が登場した時には、大いに嬉しくなった一方で、またいつ廃止になるか分からないぞ、と、幾分慌てて乗りに行ったものだったが、案の定、僅か5年後の平成28年に「おひさま」号は再度廃止の憂き目を見ることになる。
それでも近鉄バスは諦めず、平成29年に「おひさま」号の経路を変更して、かつての「あおしま」号と「ひえつき」号を合わせたような京都・大阪・神戸三宮-延岡・日向・宮崎間を結ぶ「ひなたライナー」号を登場させるのだが、こちらも平成31年に廃止予定である。

関西と宮崎の間に高速バスが走ることは2度とないのだろう、と思えば、高速バスフリークとして寂しさを禁じ得ない一方で、乗っておいて良かったと胸をなで下ろしたものだった。
関西-大分間も、いつどうなるか分かったものではないぞ、と言う焦燥感が、今回の旅立ちの大きな理由であるけれど、今のところ「SORIN」号に廃止の噂が聞かれていないのは御同慶の至りである。


神戸三宮に停車するまでは、前方の仕切りカーテンが開け放たれていたから、中央列の席でも大阪や神戸の夜景を多少眺めることが出来たけれど、三宮を出ると、交替運転手さんがカーテンをぴたりと閉め、仮眠室に潜り込んだ。
山陽自動車道の福石PAで休憩となり、夜風に当たりながらしばし身体を伸ばしたが、その後は、翌朝に到着する中津まで、ひたすら眠りを貪るだけだった。


夜行高速バスに乗っていて、ふと目を覚ますと、一瞬、自分は何をしているのだろう、と記憶が混乱することがある。
周囲を見回しても、漆黒の闇が身体を包んでいるばかりである。
目が慣れてくるに従って、各座席を囲むカーテンがかすかに揺れているのが視界に入り、自分が深々としたリクライニングシートに身を任せていることに気づく。
低いようでいて、時に甲高くも聞こえる走行音に意識が定まり、自分は今、夜行バスで旅の途上にあるのだ、という幸福感が込み上げてくる。

そのような気分の時の夜行バスは、まるで母親の胎内にいるかのような、甘酸っぱい安心感がある。
車線変更でもしているのであろうか、僅かな横揺れの気配を感じようものなら、深夜、数百kmに渡って巨大なバスを操る運転手さんにも思いが及ぶ。
孤独で、大変な仕事だと思う。
生まれてくる前の胎児も、同じように、自らを包む母親の動きに神経を研ぎ澄ませているのだろうか、などと想像する。

今はまだ山陽道なのか、それとも関門海峡を渡って九州に上陸し、開通したばかりの東九州自動車道を走っているのかと、腕時計に目を凝らしながら推測する作業は、眠いけれどもなかなか楽しいものである。
窓際でなければその答え合わせは出来ないけれども、中央列の席だからと言って、夜の旅の情緒が減ずる訳ではないことに、この夜は気づかされた。

早くこの暗闇を飛び出して、外の世界に触れてみたい、と願う心境も、胎児と同じなのであろうか。


夢野久作の小説「ドグラ・マグラ」に、「胎児の夢」という一節がある。
主要な登場人物の1人である九州帝国大学の精神科教授が書き上げた学位論文として、その全文が掲載されている。

『人間の胎児は、母の胎内にいる10ヵ月の間に1つの夢を見ている。
その夢は、胎児自身が主役となって演出するところの「万有進化の実況」とも題すべき、数億年、ないし、数百億年にわたるであろう恐るべき長尺の連続映画のようなものである。
すなわちその映画は、胎児自身の最古の祖先となっている、元始の単細胞式微生物の生活状況から始まっていて、引き続いてその主人公たる単細胞が、しだいしだいに人間の姿……すなわち胎児自身の姿にまで進化して来る間の想像も及ばぬ長い長い年月にわたる間に、悩まされてきた驚心、駭目すべき天変地妖、または自然淘汰、生存競争から受けて来た息も吐かれぬ災難、迫害、辛苦、艱難に関する体験を、胎児自身の直接、現在の主観として、さながらに描き現して来るところの、1つの素晴らしい、想像を絶した怪奇映画である』


『人間の胎児が、母の胎内で見てくる先祖代々の進化の夢の中で、1番余計に見るのは悪夢でなければならぬ。
なぜかと言うと、人間という動物は、今日の程度まで進化してくる間に、牛のような頭角も持たず、虎のような爪牙もなく、鳥の翼、魚の保護色、虫の毒、貝の殻なぞいう天然の護身、攻撃の道具を1つも自身に備え付けなかった。
他の動物と比較して、はるかに弱々しい、無害、無毒、無特徴の肉体でありながら、それをそのまま、あらゆる激烈な生存競争場裡に暴露して、あらゆる恐ろしい天変地妖と闘いつつ、ついに今日のごとき高等生物にまで進化して、成り上がってきた。
その間には、ほとんど他の動物と比較にならないほどの生存競争の苦痛や、自然淘汰の迫害等を体験してきたはずで、その艱難辛苦の思いでは実に無量無辺、息も吐かれぬくらいであったろうと思われる。
その中でも自分の過去に属する、自分と同姓の先祖代々の、何億、何千万年にわたる深刻な思い出を、いちいちハッキリと夢に見つつ……それを事実と同じ長さに感じつつ……ジリジリと大きくなっていく、胎児の苦労というものは、とてもその親達がこの世で受けている、短い、あさはかな苦労なぞの及ぶところではないであろう。

まず人間のタネである1粒の細胞が、全ての生物の共同の祖先である微生物の姿となって、子宮の内壁のある1点に付着すると間もなく、自分がそうした姿をしていた何億年前の無生代に、同じ仲間の無数の微生物と一緒に、生暖かい水の中を浮遊している夢を見始める。
その無数とも無限とも数え切れない微生物の大群の1粒1粒には、その透明な身体に、大空の激しい光を吸収したり反射したりして、あるいは七色の虹を放ち、または金銀色の光芒を散らしつつ、地上最初の生命の自由を享楽しつつ、どこを当てもなく浮遊し、旋回し、揺曳しつつ、その瞬間瞬間に分裂し、生滅していく、その果敢なさ、その楽しさ、その美しさ……と思う間もなく自分達の住む水に起こったわずかな変化が、形容を絶した大苦痛になって襲いかかってくる。
仲間の大群がみるみるうちに死滅していく。
自分もどこかへ逃げていこうとするが、全身を包む苦痛に縛られて動くことができない。
その苦しさ、たまらなさ……こうした呵責が、やっと通り過ぎたと思うと、たちまち元始の太陽が烈火のごとく追い迫り、蒼白い月の光が氷のごとく透過する。
あるいは風のために無辺際の虚空に吹き散らされ、または雨のために無間の奈落に打ち落とされる。

こうして想像も及ばぬ恐怖と苦悩の世界に生死も知らず翻弄されながら……ああどうかしてモット頑丈な姿になりたい。寒さにも熱さにも堪えられる身体になりたい……と身も世もあられず悶え戦いているうちに、その細胞は次第に分裂増大して、やがてその次の人間の祖先である魚の形になる。
すなわち暑さ寒さを凌ぎうる皮肌、鱗、泳ぎ廻る鰭や尻尾、口や眼の玉、物を判断する神経なぞが残らず備わった、驚くべき進化した姿になる。
……ああありがたい、これなら申し分はない。俺みたような気の利いた生物はいまい……と波打際を散歩していると、コワ如何に、自分の身体の何千倍もある章魚入道が、天を覆うばかりの巨大な手を広げて追い迫ってくる。
……ワッ──助けてくれ……と海藻の森に逃げ込んで、息を殺しているうちに、ヤット助かる。
そこでホッと安心してソロソロ頭を持ち上げようとすると、今度は、思いもかけぬ鼻の先に、前の章魚よりも何十層倍大きな海蠍の鋏が詰め寄ってくる。
スワまた一大事と身を翻して逃げようとすると、背中から雲かと思われる三葉虫がおおいかかる。
横の方からイソギンチャクが毒槍を閃かす。

その間を生命からがら逃げ出して、小石の下に潜り込むと……ブルブル、ああ驚いた。情けないことだ。コンナ調子ではまだ安心して生きておられない。一緒に進化してきた生物仲間は物騒だと言うので、自分の身体を固い殻で包んだり、岩の間から手足だけ出しているが、自分はあんなことをしてまで、この暗い重苦しい水の中に辛抱しているのは嫌だ。それよりも早く陸に上がりたい。あの軽い、明るい空気の中で自由に、伸び伸びと跳ね廻られる身体になりたい……と、一所懸命に祈っていると、そのおかげで、小さな三ツ眼の蜥蜴みたようなものになってチョロチョロと陸の上に匍い上ることができた。
……ヤレ嬉しや。ありがたや……とチョロチョロ駆け廻る間もなく、今度は世界が消え失せるばかりの大地震、大噴火、大海嘯が四方八方から渦巻き起こる。
海は湯のように沸き返って逃げ込むところもない。
焼けた砂の上で息も絶え絶えに跳ね廻っているその息苦しさ、セツナサ……その苦しみをヤッと通り越した思うと今度は、山のような歩竜の趾の下になる。
飛竜の翼に跳ね飛ばされる。
始祖鳥の妖怪然たる嘴にかけられそうになる。

……アアたまらない。やりきれない。一緒に進化してきた連中は、身体中に刺を生やしたり、近まわりの物に色や形を似通わせたり、甲羅を被ったり毒を吹いたりしているが、あんな片輪じみた、卑怯な、意気地のない真似をしなくとも、もっと正しい、囚われない、温柔しい姿のまんまで、この地獄の中に落ち着いていられる工夫はないかしらんと……石の間に潜んで、息を殺して念じつめていると、頭の上の顱頂孔のところにある眼玉が1つ消え失せて、2つ眼の猿の形に出世して、樹から樹へ飛び渡れるようになった。
……サァしめたぞ。モウ大丈夫だぞ。俺ぐらい自由自在な、進歩した姿の生物はいまいと、木の空から小手を翳していると、思いもかけぬ蟒蛇が呑みにきている。
ビックリ仰天して逃げ出すと、頭の上から大鷲が蹴落としに来る。
枝の間を伝わって逃げおおせたと思うと、今度は身体中に蝨がウジャウジャとタカリはじめる、山蛭が吸い付きに来る。
寝ても覚めても油断ができないうちに、やがて天も覆る大雷雨、大颱風、大氷雪が落ちかかって、樹も草もメチャメチャになった地上を、死ぬほど狂い廻らせられる。

……ああ……セツナイ。たまらない。自分は何も悪い事はしないのに、どうしてコンナにひどい目にばかり遭うのであろう。
どうかしてモット毫い者になって、コンナ災難を平気で見ておられる身体になりますように……と木の空洞に頭を突込んで、胸をドキドキさせながら祈っていると、ようようのことで尻尾が落ちて、人間の姿になることができた。

……ヤレ嬉しや。ありがたや。これからいよいよ極楽生活ができるのかと思っていると、どうしてどうして、夢はまだお終いになっていない。
人間の姿になるとすぐにまた、人間としての悪夢を見始めるのである。
胎児の先祖代々に当たる人間達は、お互い同士の生存競争や、原人以来遺伝してきた残忍卑怯な獣畜心理、そのほかいろいろ勝手な私利私欲を遂げたいために、直接、間接に他人を苦しめる大小様々の罪業を無量無辺に重ねて来ている。
そんな血みどろの息苦しい記憶が1つ1つ胎児の現在の主観となって眼の前に再現されて来るのである。
……主君を弑して城を乗っ取るところ……中心に詰め腹を切らして酒の肴に眺めているところ……奥方や若君を毒害して、自分の孫に跡目を取らせるところ……病気の夫を乾し殺して、仇し男と戯れるところ……生んだばかりの私生児を圧殺するたまらなさ……嫁女に濡衣を着せて、首を絞らせる気持ちよさ……憎い継子を井戸に突き落とす痛快さなぞ……そのほか大勢で生娘を苛める、その面白さ……妻子ある男を失恋自殺させる、その誇らしさ……美少年、美少女を集めて虐待する、その気味の良さ……大事な金を使い棄てる、その愉快さ……同性愛の深刻さ……人肉の美味さ……毒薬実験……裏切行為……試し斬り……弱い者苛め……なぞ種々様々のタマラナイ光景が、眼の前の夢となって、クラリクラリと移り変わっていく。
または自分の先祖達……過去の胎児自身が、隠しおおせた犯罪や、人に言えずに死んだ秘密の数々が、血塗れの顔や、首なしの胴体や、井戸の中の髪毛、天井裏の短刀、沼の底の白骨なぞいうものになって、次から次に夢の中に現れて来るので、そのたんびに胎児は驚いて、怯えて、苦しがって、母の胎内でピクリピクリと手足を動かしている。

こうして胎児は自分の親の代までの夢を見てきて、いよいよ見るべき夢がなくなると、やがて静かな眠りに落ちる。
そのうちに母体に陣痛が始まって子宮の外へ押し出される。
胎児の肺臓の中にサッと空気が入る。
その拍子に今までの夢は、胎児の潜在意識のドン底に逃げ込んで、今までとまるで違った表面的な、強烈、痛切な現実の意識が全身に滲み渡る。
ビックリして、怯えて、メチャクチャに泣き出す。
かようにしてその胎児……赤ん坊はヤットのこと限りない父母の慈愛に接して、人間らしい平和な夢を結び始める。
そうしてやがて「胎児の夢」の続きを自分自身に創作すべく現実に眼醒め始めるのである』


夢野久作の代表作とされる「ドグラ・マグラ」を読んだ時の衝撃は、今でも心に強く刻み込まれている。
昭和10年に発表された時には「幻魔怪奇探偵小説」と謳われて、小栗虫太郎「黒死館殺人事件」、中井英夫「虚無への供物」と並ぶ日本探偵小説三大奇書に数えられているが、物語の軸は殺人事件を中心に展開しながらも、とても推理小説とは思えない構成である。
夢野久作をSF作家として分類している文献も多く、我が国では、例えば小松左京の「日本沈没」が推理作家協会賞を受賞するなど、推理小説とSF小説の境が曖昧なことが少なくないけれど、「本書を読破した者は、必ず1度は精神に異常を来たす」とも、「内容が複雑なため、読者は最低2度以上の再読を余儀なくされる」とも評される「ドグラ・マグラ」は、SF小説の範疇に収まる代物でもないと思う。

「胎児の夢」は、ドイツの哲学者であるエルンスト・ヘッケルの反復説を下敷きにしていると言われ、なんと物凄い設定を思いつくのかと、SF小説の読後感にも似た作者の想像力への驚嘆を禁じ得ない。
戦前の精神医療や偏見に対する批判、現在にも繋がる画期的な治療方法など、先見的な場面も少なくないが、一方で、混迷の度合いを深める伏線とも言うべき、同じ精神科教授の手による「脳髄論」の「脳髄は物を考える処に非ず」という理論には妙な説得力があり、読めば読むほど自分の脳が信用できなくなり、ひいては、見聞きしている世の中の出来事すら、夢なのかうつつなのか判然としなくなってくる。

「ドグラ・マグラ」とは、切支丹バテレンの呪術を指す長崎地方の方言と言われたり、「戸惑う、面食らう」や「堂廻り、目くらみ」が訛った言葉などと作中で説明されているが、重要な登場人物が著した「ドグラ・マグラ」なる書物が作中に出て来るという筋立てがあって、上記の書評は、別の登場人物による解説なのである。
小説そのものがストーリーに登場すること自体、多次元の世界に迷い込んだような混乱した心持ちにさせられるし、主人公の1人称、つまりは主観で語られる場面の、どこまでが真実でどれが妄想なのか、丹念に読み進めても判然とすることはなく、読破した時には頭が爆発寸前になっていた。
気が狂うとはこのような状態ではないかと、自分の精神状態を真剣に心配したものだった。


昭和62年に「ドグラ・マグラ」は松本俊夫監督・桂枝雀主演で映画化され、複雑な物語を上手く整理してまとめ上げたと好評だったようであるが、この映画を観て、原作はそのような話だったのか、と蒙を啓かれた観客も少なくなかったと聞く。
平成24年には、希志戒聖監督により、舞台を宇宙空間に置き換えた大胆なOVAが製作され、こちらも最初は突拍子もない印象を拭い切れなかったものの、どこかSF映画「惑星ソラリス」を想起させられる構成に、原作の雰囲気はきちんと表現されていたと思う。

夢野久作は、作家としてデビューした直後に「ドグラ・マグラ」の原型となる小説を書き始め、10年近くの歳月をかけて徹底的に推敲・加筆を重ねて、書き下ろしとして発表した翌年に、力尽きたように病死している。

夢野久作は福岡の出身、九州人だったな、と思う。


夜行高速バスの乗り心地を母胎に例えてしまったばかりに、「ドグラ・マグラ」まで連想してしまったものだから、妙に目が冴えて、寝不足の感は否めない。

日の出が遅い師走であるから、「SORIN」号が停車する6時47分着の中津サンライズホテル、7時12分着の宇佐法鏡寺までは真っ暗だったような気がするけれど、記憶は定かではない。
まとまった数の乗客が下車した8時12分着の別府北浜では、すっかり夜の帳が払われて、悠然と水を湛えた豊後水道を左手に眺めながら国道10号線を南下、大分トキハ前停留所に到着したのは、定刻8時27分より幾分早めの時刻であった。
薄暗い車内を真っ先に飛び出せば、ビルが建ち並ぶ街並みの眩しさが目に滲みて、生まれ落ちた胎児のような心持ちだった。
JR大分駅まで歩くと、人々が忙しく行き交う駅前に、大友宗麟の銅像が凜として辺りを睥睨していた。


 
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