知床半島再訪記・前編~北海道新幹線と特急列車を乗り継いで東京-札幌鉄道旅行の進化を味わう~ | ごんたのつれづれ旅日記

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平成28年4月中旬の土曜日、東京駅を定刻8時20分に発車した東北新幹線「はやぶさ」5号は、陽光煌めく朝の都心を滑るように速度を上げた。
 
 
並行して行き交う山手線や京浜東北線の電車の車内も、平日ならばぎっしりと通勤客が詰め込まれているところであろうが、この日の人影はまばらで、向こうの窓が透けて見える。
秋葉原を過ぎると高架が少しずつ低くなり、上野地下駅に潜る第1上野トンネルに入って車窓が暗転する。
 
昭和57年6月の開業時には大宮発着だった東北新幹線が、平成60年3月に上野まで延伸された時には、幾つもエスカレーター乗り継いで地下5階まで降りていく構造に、物凄い駅を造ったものだと度肝を抜かれたものだった。
東北新幹線の計画が持ち上がったのは昭和46年であるが、当時の計画では上野駅を設ける予定はなかったというから意外である。
 
東京駅を起終点にして、上野公園の地下を通って秋葉原駅付近で地上に出る設計が発表されると、当時の東京都知事が、自然破壊と不忍池の水が枯れるおそれがあるとして、都有地である上野公園の地下の工事を許可しないと表明し、また、神田駅周辺などで用地買収が難航して東京駅までの建設の目途が立たなかったことなどの事情が重なり、昭和52年に計画を変更して、上野駅の地下30mに東北新幹線の駅を設けることとなったのである。
 
 
高価な地価の都心部での買収を避けるため、在来線の敷地を中心に建設され、第1上野トンネルは、新幹線では他に例のない25‰の急勾配で秋葉原駅付近から地中に潜り、春日通りに面した御徒町駅で都営地下鉄大江戸線と交差してから、東寄りに逸れて商業ビルや雑居ビル街の下に入り込む。
2本のホームがある上野地下駅の広さに合わせて、トンネルの断面は駅の手前で直径15mにも広がっているという。
上野駅を過ぎると、続いて第2上野トンネルに入る。
左にきつい曲線を描きながら言問通りの下に出て、JR在来線を横断する寛永寺陸橋の地下からは右にカーブする25‰の上り勾配に変わり、JRと京成の線路の下を抜け、谷中霊園の地下を通過して、日暮里駅の手前から再び左へ曲線を描いてJR線を横断、日暮里駅のホームを左手に見ながら地上に出る。
 
第1上野トンネルの全長が1133m、上野地下駅構内の全長が834m、そして全長1495mの第2上野トンネルを合わせれば、3462mもの長大トンネルが都心の地下に掘削されたことになるが、くねくねとS字カーブを描く線形といい、急勾配の存在といい、都市にトンネルを造るということは、山岳トンネルよりも制約が多く難工事だったのだな、と思わせる乗り心地である。
 
 
東北新幹線が大宮発着で暫定開業し、上野と大宮の間は「新幹線リレー」号による乗り継ぎを余儀なくされていた頃には、上野への延伸を強く待ち望んでいたものだった。
上野開業後は、更に巨額の建設費を費やして東京駅まで延伸する必要があるのか、その分を盛岡以北の延伸に投じた方が東北のためではないかと思った。
だが、沿線地域から東京駅への延伸要請が強かったことを受けて平成3年に東北新幹線東京駅が開業すると、当時品川区に在住していたこともあって、便利になったものだと感じ入ったのだから、僕も現金である。
「はやぶさ」5号は、紆余曲折の歴史と多大な建設費や維持費を費やした上野駅には目もくれず、するすると通過してしまう。
 
地上に出れば、今度は目も眩むような高架橋に駆け上り、田端付近の広大な車両基地を見下ろし、飛鳥山では桜がまだ花を残しているのを眺めた。
 

今回の旅は、開業後1ヶ月を経た北海道新幹線に試乗しようという趣旨である。 
どうせならば、最速列車の乗り心地を味わってみたいと考えて、所要4時間2分の「はやぶさ」5号を選んだ。
最速列車であるから、停車駅は大宮、仙台、盛岡、新青森、新函館北斗の5駅に絞られている。

平成28年3月に北海道新幹線が新函館北斗駅まで開業すると、最速列車の所要が4時間2分、乗客が航空機より鉄道を選ぶ指標となる「4時間の壁」を超えられなかったことばかりが話題になった。
津軽海峡を越えて函館まで乗り換えなく4時間あまりで到達することが可能となったこと自体が、素晴らしい進化だと思うのだが、僅か2分の差でも許されない厳しい時代になったのかと驚いたものだった。

東京駅のホームで「新函館北斗」の案内表示を見た時には、無性に嬉しかった。

この駅から、北海道に直通する列車が発車する日が来ようとは!──

という僕の感激は、時代遅れなのだろうか。
 

先を急ぐ人間にしてみれば、最高速度が時速110kmに抑えられている大宮までの徐行区間は、もどかしいの一言に尽きる。
東北新幹線の建設が開始された昭和40年代は、先に開業していた東海道新幹線の騒音が社会問題化した時期に当たり、東北新幹線の沿線でも、騒音を懸念しての反対運動が展開された。
特に都市化が進みつつあった大宮以南の区間では、荒川を渡ってから大宮駅の手前まで地下方式での建設が予定されていたところ、地盤が軟弱という理由で高架方式に変更されたことも相まって、沿線住民の反対運動が長期化した。
首都圏に住む人間としては、東北の人々に申し訳ないような心持ちになったものだったが、新幹線と並行する通勤新線の埼京線を同時に建設し、新幹線の最高速度を制限することを国鉄が提案することで決着をみたものの、大宮以南の開業が大幅に遅れる事態は避けられなかった。
 
 
新幹線の騒音問題を取り上げた問題作として、日本推理作家協会賞を受賞した清水一行氏の小説「動脈列島」がある。
昭和50年に増村保造監督、近藤正臣と田宮二郎主演で東宝が映画化し、新幹線騒音により担当患者を亡くした近藤正臣扮する主人公の医師が、国鉄に抜本的な騒音対策を求め、要求が受け入れられない場合には新幹線を破壊すると予告、田宮二郎演ずる捜査官が、当時では珍しいプロファイリングを重ねて犯人を追いつめていくストーリーには痺れたものだった。
手に汗を握る数々の見せ場の中でも、主人公が、山村聡演じる国鉄総裁の屋敷を深夜に訪れて対峙するシーンは圧巻だった。
主人公が要求した対策とは、騒音を60dB以下に抑えること、線路の両側に50mの緩衝地帯を設けること、市街地では時速70km以下で走行することなどで、総裁は騒音問題に理解は示しつつも、
 
「緩衝地帯を設ける費用で、もう1本新幹線が建設できる」
「君の言う速度では、1日40万人の乗客は運べないよ」
 
などと拒否、主人公は、
 
「総裁、あなたは100ホンの騒音の中で生活したことがありますか?お聞かせしましょう。私の患者はこの音の中で死にました」
 
と、テープレコーダーに録音した新幹線の走行音を流す。
2人の会話がどこまでも嚙み合わず、もどかしい思いをさせられるところに、この問題の難しさが表れているように感じた。
 
 
東北新幹線における東京-大宮間の反対運動や、東海道新幹線の名古屋騒音訴訟などといった事態を踏まえて、昭和51年に、騒音対策の基本事項を定めた「新幹線鉄道騒音対策要綱」が閣議で了承され、政府が問題解決に当たることになる。
建物の騒音対策や、都市計画の見直しによる沿線の住宅地造成を避ける施策、防音壁の形態の工夫や吸音板の設置などに加えて、低騒音車両の開発も進められ、新幹線に求められる高速性の社会的ニーズに応えつつ、東海道新幹線の開業初期には80~90dBを超えていた騒音が、平成29年には、東北新幹線の徐行区間である戸田市内で72~73dB、大宮を過ぎて速度が時速200kmに上がる区間では67~69dBまで軽減している。
「動脈列島」で要求された騒音レベルまでもうひと息といった感があり、東京から大宮までの徐行区間も、同作品の提案を実現した1つの形のような気がするから、高層建築が密集する市街地を眺めながら、我慢するしかないか、と思う。
 
平成30年5月に、東北新幹線上野-大宮間で最高速度を上げる構想が発表された。
荒川橋梁から大宮駅手前までの約12kmで、最高速度が現状より20kmアップの時速130kmになり、騒音対策のための吸音板の設置や防音壁のかさ上げ工事が行われる。
所要時間は最大で1分程度短くなるという。
たった1分なのか、と拍子抜けするが、東北新幹線ばかりでなく北海道、秋田、山形、上越、北陸新幹線が集中して飽和状態の東京-大宮間で、現在運行されている350本近い列車が全て所要時間を1分縮めれば、それだけ列車本数を増やすことが可能になる。
それにしても、この区間の制限速度に手を入れることになろうとは、時代の変遷を実感する。
 
 
大宮を発車すると、「はやぶさ」5号は、それまで手綱を引き締められていた鬱憤を晴らすかのように、ぐいぐいと加速する。
「はやぶさ」の最高速度は、大宮と宇都宮の間で時速300km、宇都宮から盛岡までの区間では時速320kmにも達する。
 
3年前の平成25年6月に、新青森まで新幹線を利用した時のことが、脳裏に鮮やかに甦った。
東日本大震災後に初めてとなる東北訪問で、僕は、東京と新青森を2時間59分で結ぶ最速列車を選んだのだが、その列車も「はやぶさ」5号であった(東北新幹線E5系「はやぶさ」グランクラスで新青森へ贅沢旅行)。
 
長らく盛岡止まりだった期間を経て、平成14年に盛岡から八戸まで、そして平成22年に新青森までの区間が完成し、東北新幹線は開業以来28年という歳月を経て、ようやく全線が開通したのである。
「列島改造計画」に湧き、飛ぶ鳥を落とす勢いだった高度経済成長期に計画されたものの、騒音や用地買収問題で東京と大宮の間の開業が遅れ、更には我が国の経済的な失速と財政難のため、青森までの延伸に多大な歳月を要したことなど、東北新幹線は昭和の後半から平成にかけての日本の世相を最も反映した新幹線と言えるだろう。
 
 
そのような人間の事情などとは関係なく、窓外を流れゆくみちのくの自然は、どこまでも美しく、広々としているから、E5系車両の静謐さと相まって、凄まじい速度で移動していることを強く意識することはない。
首都圏を離れれば、北上するほど春は深まり、9時52分に発車した仙台を過ぎれば、逆に季節が逆戻りしていく。
安達太良山の付近では眩しいほどに濃さを増していた新緑が、進むにつれて少しずつ色褪せ始め、岩木山や八幡平など遠景の山々は雪をかぶり、山あいには枝に蕾をつけた桜が垣間見えるようになる。
 
 
10時32分に到着した盛岡で、少々妙なことになった。
なかなか発車する気配がないな、と思っているうちに、車内放送で、先行する「はやぶさ」3号が車両故障のために盛岡で運転を打ち切ったため、その乗客を「はやぶさ」5号に収容するという案内が流れた。
やむを得ないことと観念するしかないが、続くアナウンスに、僕は思わず身を乗り出した。
 
「この列車は『はやぶさ』3号のお客様のために、盛岡から新青森まで、各駅停車となります。新函館北斗への到着は大幅に遅れる見込みですので、札幌方面にお乗り継ぎのお客様は、この後の案内に御注意下さい」
 
東京を7時36分に発車する「はやぶさ」3号は、上野、大宮、仙台、盛岡、いわて沼宮内、二戸、八戸、七戸十和田に停車する新青森止まりの列車である。
僕が乗る「はやぶさ」5号は、盛岡と新青森の間をノンストップの49分で走り抜けるが、「はやぶさ」3号は1時間4分を要し、15分の差が生じるのだ。
これで、函館まで4時間2分の最速列車を味わう趣向は台無しである。
 
今回は、12時22分に到着予定だった新函館北斗から、12分の待ち合わせで12時34分発の「スーパー北斗」11号に乗り継ぎ、札幌に向かう旅程を組んでいた。
今や、その接続が危うい。
 
十数分の遅れならば、「スーパー北斗」11号は待っていてくれるのではないかと楽観主義に徹することにして、座席に身を任せれば、盛岡以北の区間は、全長2万6455mの日本一長い陸上トンネルである八甲田トンネルをはじめ、実にトンネルが多い。
東京と盛岡の間では23%であったトンネル区間の比率が、盛岡と八戸の間では73%、八戸と新青森の間では62%にのぼる。
 
盛岡で在来線の特急「はつかり」に乗り継いでいた頃は、新幹線とは大違いの鄙びた乗り心地に浸っているうちに、ひときわ淋しさを増す沿線の光景に心を打たれたものだったが、新幹線の車窓も、トンネルを出るたびに寒々としてくる。
地味は痩せ、冷たい偏東風の影響で夏も気温が上がらず、新幹線が在来線よりも山中に建設されているため、耕作地は殆ど見当たらず、鬱蒼とした杉林ばかりが車窓を支配する。
 
 
快晴の青森平野に飛び出すと、新幹線は右手に青森市街を望みながら左に大きく孤を描く。
郊外の田園地帯の中にぽつんと設けられた新青森駅で、車内の乗客数は半分程度となった。
函館まで乗り通す人はそれほど多くないようである。
 
青函連絡船の時代には、列車を降りて青森駅のホームを連絡船乗り場まで小走りに急いだものだったし、青函トンネルが完成した後も、盛岡や八戸から函館まで直通していた在来線特急「はつかり」や「白鳥」では、津軽海峡に突き当たる形になっている青森駅で進行方向を変えて津軽線に進入するため、車内で座席の向きを変える必要があった。
そのような煩わしさは過去の事となり、「はやぶさ」5号は、新青森駅に2分停車しただけで発車する。
いよいよ待望の北海道新幹線である。
 
しばらくは津軽半島の東海岸に連なる町並みの背後の山ぎわを、高架橋で北上する。
左手に見える八甲田連峰が手前の山並みに隠れると、長さ177mの阿弥陀トンネル、6190mの津軽蓬田トンネル、135mの第1外黒山トンネル、683mの第2外黒山トンネルと、長短のトンネルを次々にくぐり抜けながら、津軽半島の骨格を成す梵珠山脈の懐に踏み込んでいく。
幾重にも折り重なる山裾が視界を遮り、津軽半島は山なのだな、と思う。
 
 
きれいに刈り揃えられた杉やヒバの根元に、残雪がちらほら見られるようになる。
山あいの平地に開かれた田畑には、まだ作物が何も植えられておらず、黒々とした土と雑草ばかりである。
竜飛岬の手前の三厩までJR津軽線のディーゼルカーに揺られた時にも、また青函トンネルに直通する函館行きの特急列車に乗った時にも、人間を拒絶しているかのような荒涼たる光景に心を打たれたものだったが、新幹線は更に内陸部を貫いているので、車窓の寂寥感は際立っている。
 
新中小国信号所でJR津軽線と合流した。
フル規格の新幹線に在来線が合流するなど、前代未聞であろうが、青函トンネルを使用する貨物列車が、ここから三線軌条となった線路を新幹線と共用するのである。
1日の乗降客数が60人程度と新幹線駅の中では最も少ない奥津軽いまべつ駅を過ぎると、1337mの大川平トンネル、160mの第1今別トンネル、690mの第2今別トンネルをくぐり、長さが440m、280m、170m、140mと短くなっていく第1~第4浜名トンネルを続け様に通り抜けていく様は、カウントダウンのようでもあり、舞台の幕が開ける前に盛り上がっていく序曲を思わせる。
 
在来線の列車では、ぐわんと風を巻き込んで青函トンネルに突入するなり、いっせいに窓が曇ったものだったが、「はやぶさ」の車体は揺らぎもせず、静々と進入していく。
それもそのはず、貨物列車との共用区間では、すれ違う列車の貨物が破損しないよう、新幹線の速度が時速140kmに抑えられているのである。
時速200kmを超える列車とは、邂逅する貨物列車を壊してしまうような凄まじい乗り物なのかと驚いてしまうが、「はやぶさ」にとっては、東京-大宮間に次ぐ徐行区間である。
青函トンネルを通過する北海道新幹線の運転本数は1日10往復、対する貨物列車は1日50本にものぼる物流の要所なのだから、こちらもひたすら我慢するしかない。
 
長大なトンネルとは、1度は通り抜けてみたいという興味の対象になり得るが、いざ中に入ってしまえば、延々と続くコンクリートの壁と、矢のように後方に流れ過ぎていく照明灯を眺めながら、ひたすら暗闇を辛抱するだけの、困った代物と化す。
退屈を、日本人とはどえらいモノを造り上げるものだという誇らしさに転化しつつも、長続きする訳ではない。
 
世紀の建築物である青函トンネルで、新幹線としては物足りない時速140kmに制限されてしまう現状には、忸怩たる思いを抱かざるを得ないけれど、どのような形態で開業しようとも、このトンネルは、元来新幹線を通すために建設されたものだと考え直せば、感慨は新たになる。
 
 
青函トンネルの歴史は、地質調査が開始された昭和21年4月まで遡る。
このトンネルを語る上で、昭和29年9月26日の青函連絡船洞爺丸の沈没事故をきっかけとして取り上げることが多いが、国中が焦土と化し、国家の体制も整っていなかったであろう敗戦後8ヶ月の時点で、長さ60km近くにも及ぶ海底トンネルを造ろうとする気概を抱いた人々が存在したことに、驚嘆の念を禁じ得ない。
 
青函トンネルの着工式が行われたのは昭和38年2月11日のことであり、昭和39年5月8日に実際の掘削工事が開始されている。
工事開始と同じ年の10月に東海道新幹線が開業、昭和57年6月には東北新幹線の大宮-盛岡間が暫定開業する。
昭和58年1月27日に青函トンネルの先進導坑が貫通、昭和60年3月10日に本坑が貫通、同年11月には青函トンネルが完成する。
昭和63年3月13日に青函トンネルを含む津軽海峡線が開業し、青函連絡船が廃止されたが、肝心の新幹線が青函トンネルまで達していなかったために、在来線の列車が乗り入れることとなった。
昭和60年3月に東北新幹線上野-大宮間が開業、平成3年6月に東京-上野間が開業、平成15年12月に盛岡-八戸間が延伸、そして平成22年3月に八戸-新青森間が営業を開始し、遅々とした歩みであるものの新幹線も北へ延びた。
平成17年5月に、新青森-新函館北斗間でフル規格の新幹線工事が着工され、平成26年11月1日に木古内駅構内で新青森-新函館北斗間のレール締結式が開催、遂に、平成28年3月26日の北海道新幹線新青森-新函館北斗間の開業を迎えたのである。
 
僕が乗る「はやぶさ」5号は、夢でも幻でもなく、青函トンネルの中を走っている。
青函トンネルをくぐり抜けるのに、20分程度しか要しなかった。
 
 
トンネルを抜ければ、車内に差し込む陽の光は眩しいけれども、葉もつけていない裸の木々が並び、雪解けを迎えたばかりらしい田畑は荒れた土が剥き出しで、季節が冬に逆戻りしたかのようだった。
遠くに見える大千軒岳、七ツ岳、桂岳といった渡島半島の骨格を成す山々も、白く雪に覆われている。
 
新幹線は、1167mの第1湯の里トンネル、1638mの第2湯の里トンネル、813mの第1重内トンネル、1128mの第2重内トンネル、1634m、166m、322m、405mの第1~第4森越トンネルを次々とくぐり、木古内駅で在来線との共用区間を終える。
その先も、長さ8073mの渡島当別トンネルをはじめとする大小のトンネルが6本も断続するから、北の大地の景観にじっくりと浸ることが出来る時間は少ない。
 
 
ところで、新函館北斗から札幌方面への乗り継ぎはどうなったのか。
 
青函トンネルを抜けた頃合いからアナウンスが流れ始め、接続する予定だった「スーパー北斗」11号は定刻に発車してしまうため、やはり間に合わないらしい。
代わりに臨時列車の「北斗」91号を仕立てるから、乗り継ぎの乗客はそれを利用するように案内している。
JR東日本管轄の列車故障が元凶であるにもかかわらず、巻き添えを食ったJR北海道としては鮮やかな対応であるが、僕にしてみれば、またか、という気分になった。
 
これまで幾度となく函館と札幌の間を鉄道で往復してきたが、利用したのはキハ183系気動車を使った特急「北斗」ばかりであった。
「北斗」だからと言って北海道の汽車旅の魅力が減じる訳ではないけれど、大出力の新型特急用気動車キハ281系やキハ283系を投入し、函館-札幌間318.7kmの所要を2時間59分に縮め、表定速度が時速106.8kmにも及ぶ「スーパー北斗」に1度は乗ってみたいと思っていた。
平成25年に相次いだJR北海道の特急型車両のトラブルを受けて、「スーパー北斗」は減速運転を余儀なくされ、最速列車ですら函館と札幌の間が3時間26分に延びたため、キハ183系「北斗」の最速3時間29分と大して変わらない速さに落ちぶれているものの、それでも「スーパー北斗」は乗りたい列車の筆頭だった。
 
「スーパー北斗」11号の函館-札幌間の所要時間は3時間48分で、これでも、僕にとっては最短の経験になるはずだった。
今度こそ「スーパー北斗」に乗れるのか、と意気込んでいたのだが、臨時列車は「北斗」であって、よほど僕は「スーパー北斗」に縁が無いようである。
 
 
「はやぶさ」5号はいつしか函館平野に出て、少しずつ減速しながら、田園の中を左へゆっくりとカーブしていく。
新青森から148.8km、北海道新幹線の終点である新函館北斗駅へ到着したのは、定刻より20分ほど遅れた12時40分頃であった。
新青森以北でダイヤに乱れはなく、「はやぶさ」5号は本来のダイヤ通り、津軽海峡を渡る交通史における最短記録の1時間11分で、新青森と新函館北斗の間を駆け抜けたものと思われる。
 
 
新函館北斗駅のホームに降りてみれば、冷え冷えと澄んだ空気が爽やかで、紛れもなく北の大地に運ばれてきたことが実感できる。
新幹線の終点とはとても思えない、田園の中の静かな佇まいの駅だった。
周囲にぽつぽつと民家が建っているが、まとまった町並みは形成されていない。
 
新青森駅の周辺も、似たような光景だったことを思い出す。
青森も函館も津軽海峡に面したどん詰まりのような街であるから、新青森駅と新函館北斗駅は、先に延びる札幌への経路がきつい曲線にならないよう、街外れに設けられたのである。
広大な田畑の中を、真っ直ぐ北へ高架が延びているが、よく見れば線路は車止めで塞がれている。
全ての設計は札幌を念頭に置いて準備されているのだが、北海道新幹線の札幌延伸は、14年後の2031年の予定であるというのだから、気が遠くなる。
 
 
閑散としていた車内とは対照的に、駅舎の中は大変な混雑だった。
改札を出ると、階上のコンコースには、利用客なのか送迎なのか、はたまた見物に来たのか、多くの人々が右往左往している。
新幹線のホームを見下ろすガラス張りの通路には、家族連れが鈴なりになって新幹線を指さしながら賑やかに話し込んでいる。
 
開業から1ヶ月が経過しても、新函館北斗駅は、北海道初の新幹線を歓迎しての華やかなお祭り気分が横溢しているようであった。
その気分を共に出来ただけでも、北海道新幹線に乗って良かったと思う。
 
 
頭上の列車案内板に、「特急 北斗91号 13:08 札幌」と掲げられている。
在来線の改札口に女性駅員が立っていたので、乗車券と指定券を提示しながら、
 
「座席はどうすればいいんですか」
 
と聞くと、
 
「その番号の席にそのままお座り下さい」
 
との返事であったから安心した。
 
 
階段を降りた在来線ホームは古びていて、隣りにどっしりとそびえている新幹線ホームのために圧迫感があるけれども、落ち着いた雰囲気だった。
函館方面へ向かう2番線は人だかりがしていたが、「北斗」91号が発着する3番線は人影が少ない。
 
新幹線が開業するまで、この駅は函館本線の渡島大野駅だった。
函館平野の北端に位置し、蒸気機関車の時代には、大沼公園駅までの勾配に備えた補助機関車が留置されていたというが、僕がこれまで利用した特急列車が停車した記憶は無い。
 
 
カタカタとかすかに線路が鳴り始め、やがて、函館を12時45分に出て来た臨時特急「北斗」91号が姿を現した。
目の前に停車した列車が、前面を鮮やかな青色に塗られ、車室部分がステンレスの銀色になっている、紛れもなくキハ283系特急型振り子式気動車であったから、嬉しくなった。
 
平成6年から「スーパー北斗」に投入されているキハ281系は、JR四国が平成元年に開発した振り子式台車を用いた2000系特急型気動車を基に設計され、日本の在来線気動車として初めて最高速度時速130kmの営業運転を行い、曲線通過速度も他の車両より時速30kmも速い仕様となっていた。
キハ283系はキハ281系の発展型として平成7年に登場し、曲線通過速度が更に時速40kmもプラスされたのだが、平成23年の石勝線における火災事故により車両が不足したため、平成25年から「スーパー北斗」の運用を外されていた。
 
よくぞ函館に留置されていたものと思うが、登場して20年あまりの歳月を厳しい路線環境で走り続けたためであろうか、乗り込んでみれば、座席などは案外くたびれている。
車両こそ新型であるものの、列車名はあくまで「北斗」であり、僕は待望の「スーパー北斗」を体験できているのかどうか、こんがらがってしまう。
 

しかし、そのような些細なことは念頭から消えてしまうような光景が、車窓を彩り始めた。

エンジンを高らかに唸らせながら新函館北斗駅を発車した「北斗」91号は、すぐに函館平野を抜け、大沼に向けての登り坂に差し掛かる。
本州では高地でしか見られない白樺の木々が、櫛の歯を引くように陽の光を遮り、その合間に牧場やサイロが現れる。
 
間もなく左手に、小沼が見えてくる。
さざ波1つなく茫洋とした広い沼で、どうしてこれが「小」沼なのかと思うのだが、東につながっている大沼との対比で名付けられているのであろう。
波打ち際は列車の下部に隠れて見えず、あたかも「北斗」91号が湖面を渡っているかのような錯覚に陥ってしまう。
 
 
雪をかぶり、すらりと裳裾を引いた駒ヶ岳を眺めながら、列車は草原を噴火湾に向かって下っていく。
森駅を通過すると、列車は噴火湾に沿って東へと孤を描く。
この日は見事な晴天に恵まれていたが、それでも北の海は暗く、砂浜には朽ちた木が打ち上げられ、色褪せた草が風になびいて、寂寞とした光景が続く。
 
 
長万部駅で、函館本線は倶知安、小樽方面に向かい、「北斗」91号は室蘭、苫小牧方面への室蘭本線に分岐する。
カレイが捕れる川を意味するアイヌ語のオサマムペが語源の「おしゃまんべ」の駅名標を目にすると、北海道に来たな、と思う。
 
道南には、明治維新で幕府側だった藩が、主従丸ごと移住して開拓した土地が多い。
長万部の1つ前の停車駅である八雲には尾張徳川家が移住し、須佐之男命が詠んだ我が国最古の和歌である「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」から地名がつけられたという。
洞爺湖の入口である洞爺駅の次に停車する伊達紋別駅は、宮城の亘理伊達氏が、当時は紋鼈と呼ばれていた土地に入植したことが由来となっているなど、和名の地名が多い。
 
 
左手には茫漠たる大洋、右手には有珠山、昭和新山、紋別岳、鷲別岳、カムイヌプリといった山々を背後に抱く丘陵地帯を眺めながら、列車は噴火湾をぐるりと時計回りに半周し、室蘭半島の付け根の東室蘭駅を過ぎてからも太平洋岸を北東に進んでから、苫小牧で内陸に進路を変える。
 
 
緑の原生林の合間に造成された住宅地や工場が増え、千歳空港を望む南千歳駅を過ぎると、賑々しい札幌の都市圏に入っていく。
 
ふと気づけば、新函館北斗を出たときには曇り1つなかった窓ガラスが、埃で薄汚く汚れていた。
内地の列車に乗っていて、晴天下を走る4時間足らずの行程で、これだけ窓が汚れた記憶はなく、「北斗」91号は土埃を巻き上げながら、懸命に走ったのであろう。
 
 
時計の針は、午後5時に近づきつつあった。
東京からおよそ8時間30分、新幹線の遅れがなければ7時間44分で札幌に到着したはずで、それでも、日常的に使おうとしても躊躇いが生じる時間的距離であることは確かである。
 
昭和57年に書かれた宮脇俊三氏の「東京-札幌・孤独な二人旅(「旅の終りは個室寝台車」所収)」では、上野を7時17分に発つ新幹線リレー号、大宮から東北新幹線「やまびこ」、盛岡から特急「はつかり」、青森から青函連絡船、函館から特急「北斗」と小刻みに乗り継いで、札幌到着が23時25分、所要時間は16時間を超えている。
この時、史上初めて東京から札幌まで鉄道による日着が可能になったというのだが、それはたかだか35年前のことに過ぎない。
 


 
僕も、平成18年に、東京6時56分発の東北新幹線「はやて」に乗り、八戸から特急「白鳥」で青函トンネルをくぐり、特急「北斗」に乗り継いで、札幌到着が16時58分という所要10時間あまりの旅に出たことがあった(東京から1日で行ける北の街へ、孤独な一人旅 ~宮脇俊三先生の旅を偲びながら~)。
 
北海道新幹線の開通により、その10年後に、所要時間が更に2時間も短縮されたことになる。
これを時代の進歩と言わずして何であろうか。
 
 
所要1時間半あまりの航空路線が存在している以上、青函トンネルや新幹線の建設などといった膨大な投資が、30年間で半分に短縮された所要時間に見合うものなのかどうか、議論は多々あるのだろう。
それでも、北海道新幹線札幌延伸の際には、どのような旅が僕を待っているのかと思えば、鉄道ファンとしては今から楽しみでならない。
 
うっすらと黄昏が街並みを覆い、周囲に林立するビルの明かりが点々と灯され始めた札幌駅に、臨時特急「北斗」91号が滑り込んだのは、午後4時56分だった。
東京からたった1回の乗り換えでここまで来られたことには、隔世の感がある。
 
函館からの所要時間は4時間11分、新函館北斗からは3時間48分を要した訳で、速度としては「北斗」なみ、車両は「スーパー北斗」仕様という臨時特急の旅で、僕の長年の希望が叶えられたのかどうかは、未だに気持ちの折り合いがついていない。
 
 
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