阿寒バス釧路羅臼線と斜里バス知床横断線で行く根釧台地と世界遺産知床半島の旅 | ごんたのつれづれ旅日記

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朝の釧路駅前は、雨が上がったばかりのようで、路面がしっとりと濡れていた。

この街で雨や雪に降られたことがあったかなと、暫く首を傾げて考え込んだ。



初めて釧路を訪れたのは昭和63年の夏のことで、札幌発の夜行急行列車「まりも」から降りた早朝に、構内の外に出ることなく根室行きの普通列車に乗り継いでいる。

釧路に近づいた「まりも」の車内で、窓外の木々の葉の煌めきが、起き抜けの目に眩しかった記憶があるから、晴天だったのだろう。


次に来たのは平成4年の師走で、札幌を前夜に発った夜行高速バス「スターライト釧路」号を降り、根室へ向かう特急バス「ねむろ」号に乗り替えた。

遅い夜明けであったにも関わらず空は晴れ渡って、本当に北海道の冬の朝なのかと目を見張った。

駅前は背の高いビルが少なく空が広いところに加えて、広大な駅前広場と幅広の道路が余裕ある空間を作り出していて、隅々まで陽の光が跳ねていたことを鮮烈に覚えている。

平成17年の夏、前夜に旭川からの長距離バス「サンライズ旭川・釧路」号で釧路入りして、翌朝帯広行き特急バス「すずらん」号に乗車した朝も、目が眩む程の晴天だった。



釧路地方は春から夏にかけては海霧のために日照時間が短く気温も低いが、秋は降水量も少なく温暖な晴天が続き、冬も降雪量が少なく晴れの日が多いという。

天候に恵まれた経験から、道東の南岸は穏やかな気候なのだな、と勝手に思い込んでいたために、どんよりと雨雲が垂れ込める釧路駅を目にして、これが本来の姿なのかもしれないと自分に言い聞かせながらも、別の街に来てしまったような戸惑いを覚えた。


それが僕の錯覚である証拠に、見覚えのある駅前のバス乗り場には、丹頂鶴をデザインして白と青とベージュに塗り分けられた阿寒バスの路線車が客待ちをしている。



釧路を訪ねるたびに、羨望とともに眺めたバスがあった。

阿寒バスが運行する「釧路羅臼線」である。


釧路を発着する長距離バスは、札幌、旭川、帯広、根室、美幌方面と、ひと通り乗ってみたのだが、「釧路羅臼線」ばかりはなかなか行程に組み込めず、その姿を一瞥するにとどまっていた。

知床半島の麓の町へ、道東の奥深く分け入っていく路線バスとは、僕にとって未踏の地であるだけに、心が惹かれた。

まして、運行距離が166.9km、紀伊半島を縦断する八木-新宮間特急バスに次いで、我が国第2位の長距離を走破する路線である。

乗らずに済ませられるバスではない。


業を煮やした僕は、ついに「釧路羅臼線」を主役に据えたバス旅を計画し、前日仕事が終わってから羽田発釧路空港行きの最終便をつかまえて、はるばる北海道まで飛んで来たのである。



平成18年10月の日曜日のこと、午前7時10分に始発の釧路市立病院を出て来た「釧路羅臼線」のバスが、釧路駅前のロータリーに姿を現した。

外観は前方1扉の観光車であるが、近づいてみるとかなりくたびれた車体で、扉の脇の行先表示は錆びているし、座った座席のスプリングがふにゃふにゃして、どれだけ使い込んだのであろうと苦笑してしまう。


10年前に初めてこのバスを目にした時は、都市間高速バスに匹敵する新型車両に見えたものだったが、そのまま厳しい路線環境を走り続けて、年輪を重ねて来たロートルなのかもしれない。

曲がりなりにもリクライニングシートが備わっているけれど、背もたれの角度が大き過ぎて、上半身を起こして外を眺めたい人間にとっては、しっくりしない姿勢を余儀なくされる。

もっと背もたれが立つのではないかとレバーを操作してみたが、壊れているのか、もともと反っくり返っている設計なのか、如何ともし難い。


それでも、運転席の後ろの最上等の席に陣取ることが出来たから、座り心地などよりも、羅臼までの3時間半をここで存分に景色を楽しめる嬉しさが先立って、心が躍る。



定刻7時25分、初老の運転手さんに操られて無造作に釧路駅前を発車したバスは、日赤病院前、労災病院前、癌センターと、市内の病院ばかりに数分おきに停車していく。

この先の中標津でも町立病院入口というバス停があり、標津では病院入口、終点の羅臼にも羅臼診療所前という停留所が設けられている。

「釧路羅臼線」は、道東の医療過疎地に住む人々が、主要都市の主な医療機関へ通院するために使う病院バスでもある。

100kmを超える病院通いとはスケールの大きな話であるが、人口密度が低い北海道ならではの社会現象と言えるだろう。

路線バスであるから、釧路駅から市内の病院へ利用することも出来るが、この日は休診日であるから、そのような短距離客はいない。


釧路駅前から乗り込んだ客は僅かに数人で、背もたれを反らせて並ぶ座席には空席が目立つ。

都市間を結ぶバスの午前中の下り便はすいていて、上り便が混雑しているという傾向は、どこでも見られる現象である。

立て続けに病院に停車した後は、「イオン釧路店」、「JRAウィンズ釧路」、「トライアル別保店」などと、大型店舗や場外馬券場といった如何にも地方都市の郊外らしい停留所が案内されるが、いずれも営業時間前であるから乗降客はいない。



国道44号線・根釧国道に入って釧路川を渡ると、街並みが途切れ、一転して雑木林や荒れ地が車窓を支配する。

このあたりは泥炭地が多く、一目見るだけで耕作には不向きであることが察せられる。

国道と交差する道路の奥には簡素な住宅が身を寄せ合っていて、標識に「別保原野南25号線」などと記されているところなどは、開拓時代が今もそのまま息づいているような光景である。


別保は、釧路市の東隣りに位置する釧路町の集落で、隣り合った自治体が同じ地名を冠している地域は、他に例を見ない。

大正9年に、当時は釧路町であった今の釧路市の区制施行に伴って、釧路村が分離独立、昭和55年に町制を敷いて釧路町になったのだというからややこしい。

アイヌ語で道を越えるという意味のクシル、 川上の温泉から薬水が流れ出ていたために名付けられたクスリ、我らが通る道という意味合いのチクシル、通り抜ける川を意味するクシペッ、川向こうの山を意味するクシシリなど、釧路の地名の由来には諸説あるが、分離に当たって本家争いは起きなかったのだろうか。



北海道を旅していると、アイヌ語を起源とした地名に漢字が当てられている土地を通るだけで、北海道に来たという感慨に浸れるのだが、釧路町には飛び抜けて難読地名が多い。

楡の皮を漬けておく川を意味するアッチョロベツは「嬰寄別」、海の跡を意味するアトエカは「跡永賀」、川尻という意味のオシャマップは「老者舞」、キトが群生することを意味するキトウシは「来止臥」、芦が群生するところを意味するサルキウシは「去来牛」、いつも魚が跳ねるところという意味のセンポウシは「仙鳳趾」、沼のような静かな浦という意味のソンテキは「初無敵」、水が崖を滑り落ちることを意味するワカチャラセは「分遺瀬」などと、このくらいならば、まだ読めないこともないけれど、海の中に立っている岩という意味のブイマは「冬窓床」、いつも舟を下ろす所という意味合いのチプラケンウシが「重蘭窮」、小さい泊地を意味するポントマリは「浦雲泊」、そして、舟がある川という意味を持ち、夏期に我が国で最低気温を記録する気象庁の観測点として有名なチッポマナイは「知方学」と聞かされても、もう何が何だか分からない。


江戸時代末期から明治にかけての開拓者たちが、言葉遊びのように難しい漢字を持ち出しては、この字はどうだ、などと競い合ったのではないかという愉快な想像が湧いてきて、何となく微笑ましい。



根室本線の無人駅である別保駅前を過ぎて間もなく、バスは太平洋岸に沿って根室へ向かう国道44号線と別れて、国道272号線・釧標国道で根釧台地へと踏み込んでいく。

車窓から人家はいっさい消え失せ、トドマツ、カラマツ、エゾマツといった針葉樹林が、道の両側を雑多に覆い尽くしている。

木立ちが途切れたかと思えば、カンバやナラなどの繁みばかりで、雨上がりに湿った葉がまばらに色づき、風に吹かれながらうなだれている。


根釧台地は、保水力が乏しい痩せた火山灰地から成り、冷たい千島海流がもたらす海霧の影響で日照時間が短く、低温かつ冷涼な気候であるため、稲作どころか畑作も含めて農作物が育つことはない。

必然的に畜産が中心となり、パイロットファームや新酪農村などの大規模酪農が盛んであるものの、国道からは森林に遮られて、牧場を見ることが出来る場所はそれほど多くない。



変化に乏しい景色が延々と続くので、とろんとしてしまったのか、この辺りの境界線ははっきりせず、いつしかバスは釧路町から標茶町へ入っていた。


アイヌ語で大きな川のほとりを意味する「シペッチャ」に由来する標茶町の起こりは、明治18年に開設された釧路集治監である。

後に網走に移転して高名な網走刑務所となるこの監獄に服役した囚人の数は、最盛期で2000人近くにも上り、釧路と網走を結ぶ道路や鉄道の建設、川湯のアトサヌプリ(硫黄山)における硫黄の採掘などの役を課せられた。

明治20年には、硫黄の輸送のため、標茶と硫黄山の間に、夕張炭鉱に次ぐ北海道で2番目の鉄道が建設され、明治日本の産業を支える重要な地域であったことが察せられる。

硫黄は標茶で船に積み替えられて釧路川の水運で運ばれたが、乱掘のため枯渇して、10年足らずで廃止された。


道東における明治期の開拓が囚人の手によって進められ、その過酷な労働環境と、刑事犯ばかりではなく自由民権運動で弾圧を受けた政治犯が少なからず存在していた事実は、これまでの道東の旅でも幾度となく考えさせられた。



戦後になると、長野県や富山県からの満蒙開拓団の引揚者が、多数移住して来たという。

信州で生まれ育った僕は、幼い頃から、長野県が満蒙開拓団に全国でも1、2を争う大人数を繰り出したことや、敗戦後の悲惨な引き揚げのこと、そして中国残留日本人孤児にも長野県出身者が多かったことを見聞きしたものだったが、引き揚げた人々は地元に戻ったのではなく、北海道で開拓に携わったのかと思う。


バスの窓から、果てることなく続く原生林を眺め続ければ、血の滲むような思いでこの土地を切り開いた人々の歴史を、どうしても思い浮かべざるを得ない。

電気もガスもない時代に、夜ともなれば漆黒の闇に包まれ、冬だけでなく夏ですら冷涼な厳しい気候に耐えながら生活を築き上げていくことは、どれほど辛く、心細く、切なかったことだろう。



「鹿又農園」などという人間の営みを感じさせる停留所や、「阿歴内」、「北方無去」などというアイヌ語の地名ばかりではなく、「74線」「57線」などという数字を当てただけの停留所も目立つ。

「51線」「43線」「40線」「38線」「32線」「30線」「28線」と、「釧路羅臼線」の停留所の数字は、バスが進むにつれて少しずつ減少していく。

この先、別海町を越えて中標津町、標津町まで、停留所名の数字は「2線」「1線」まで減っていく。


バスの窓ガラスには、「釧路羅臼線」の停車するバス停が細かい字で3段に渡って書き連ねられ、数えてみれば102ヶ所もある。

2~3分に1回は停車する計算であり、ひっきりなしに停留所の案内が流れるが、乗降する客は殆どいない。


数字の合間に、中茶安別、新富、拓進、共春、上春別、豊岡などという地名も混ざっている。

その停留所案内を聞けば、人間の営みが確認できたような心持ちになってホッとするが、実際の停留所は、数字でも地名でも、人気がない原生林ばかりであることに変わりはなかった。

アイヌ語の当て字が多い中で、新富、拓進、豊岡などと、勇ましく縁起担ぎのような和名が混じるのは、開拓団の人々が、豊かな未来を願って命名したものと思われ、十勝平野の旧広尾線の沿線などにも見受けられる。



標茶町でも、隣りの別海町でも、町の中心部から大きく外れた地域をバスが走っているため、どのバス停から標茶町で、どこからが別海町だったのか、判然としない。

中茶安別の集落までは、標茶町内だった。

ふと気づけば、パイロット国道と呼ばれる、厚床から別海町中心部を通って弟子屈、網走方面に向かう国道243号線と交差する西春別であり、いつの間にか別海町に入っていたことが判明する。


ここが、香川県に匹敵する広大な面積を有するという別海町か、と気持ちを新たにして、緩やかな起伏の丘陵に牧場が見え隠れする車窓に目を奪われているうちに、忽然と建物が密集して現れ、中標津町の「町立病院入口」停留所の案内が流れた。

別海町の広さを感じるどころか、いつ入って、いつ抜け出したのかが分からなかったことに仰天した。

ぼんやりとして標識を見落としたのだろうか。


中茶安別から中標津町立病院までの所要時間は50分間で、その間、全く乗り降りがないまま、時速50km程度でバスは走り詰めだった。

国道272号線は別海町の北西部をかすめているに過ぎないのだが、それでも別海町域は40kmもの幅があったことになる。

この広さでも、町としては道内の足寄町、遠軽町に次いで3番目の面積というのだから恐れ入ってしまう。

我が国で最も人口密度が低い町と言われているだけのことはあるが、あまりにもその印象は茫洋としていた。



別海町から中標津町にかけて、ぜひともこの目で見てみたいと思っていたのは、格子状防風林である。


明治の初頭、政府が開拓使顧問として迎えた米国の農務長官ホーレス・ケプロンが、防風・防霧を目的として、3.3kmごとに182mの幅を持つ防風林を格子のように植林することを提案したことに始まり、現在の格子状防風林の総延長は643km、東京から姫路まで至る長さに及んで、野生動物の貴重な生地にもなっているという。

「グレート・グリーン・グリッド」とも呼ばれる防風林は、バスから実物を眺めても、単なる森に見えるだけで、その全貌をつかむことは難しい。

平成12年にスペースシャトル「エンデバー」が撮影した写真に、見事な格子を成す防風林が写されており、搭乗していた毛利衛氏が「宇宙から見える防風林は、格子状の根釧台地にしかなかった」と、開拓に携わった人々が守り育ててきた生活遺産が、地球的規模のスケールであることを世の中に知らしめたのである。



アイヌ語で大きな川を意味するシペッが由来という中標津町の市街地は、標津川が開いた河岸段丘に形成されていて、住宅ばかりでなく様々な役所の存在を示す案内標識も多く、寂寞とした根釧台地を通り抜けて来た者としては大都会に見える。

しかし、バスは数ヶ所の停留所で客を降ろしただけで、町並みを瞬く間に通り抜けてしまい、再び格子状防風林に区分けされた牧草地が続く。


オホーツク海沿岸に近づいて少し地質が良くなったのであろうか、ジャガイモ、甜菜、大根などを産する耕作地が散見されるようになった。

この地域へ入植した開拓民は、当初は農業を営んでいたものの、度重なる冷害と凶作で離農者が続出し、国が畜産への転換を奨励したため、今では畑作の総面積は酪農地の20分の1に過ぎない。


中標津町の大半は標高50mにも満たない平坦な丘陵であるが、北部は険しい山岳地帯になっていて、標高1063mのサマッケヌプリ山や1061mの標津岳をはじめとする堂々たる山々が、防風林の合間から姿を覗かせている。

この山稜が、そのまま知床半島まで連なっているのである。



標津町へ入るとすぐに、国道272号線は海岸に突き当たった。

バスは国道244号線・野付海道に折れて、波打ち際を北上する。


車窓いっぱいに広がる根室海峡の海の暗さには、息を呑んだ。

海鳥が舞う海面は冷たく黒光りを帯びて、低く垂れ込めた雨雲の彼方に国後島が霞んで横たわっている。

手に取るほど間近に見えるこの島を支配しているのは、近代史で我が国を脅かし続けてきた国であることを思い起こせば、どっしりとした島影にも言い知れぬ威圧感が感じられる。

行く手はるかに連なる海岸線は、知床半島であろうか。



釧路町の「74線」から数字を減らしてきたバス停も、標津町内の「西1線」で終わりを告げる。

代わりに「漁協前」「冷凍工場前」「加工団地」などと施設名を付けた停留所が増え、「西4条」「東13条」などと、札幌や旭川などの市街地でも聞かれる町名を冠した停留所もアナウンスされるようになった。

釧路を出て2時間半を費やし、地名もないほど人跡稀な根釧台地を抜け出して、自然の恵み豊かなオホーツク沿岸に出たのだな、と思う。

標津町は国内有数の鮭の漁獲高を誇り、標津の名は、鮭がたくさんいる川を意味するアイヌ語のシベヲツを起源とする説もあるという。



ところで、と僕は居住まいを正した。

このバスは3時間を超える長時間路線であるにも関わらず、トイレ休憩がないのだろうか。

実は、オホーツク海を目にした頃から、催し始めていたのである。

このバスにはトイレが付いていないことに、初めて気づいた。

10時ちょうどに到着した標津バスターミナルで、運転手さんが交替したのだが、そそくさと降りてしまった運転手さんに、トイレに行っていいのかどうかは聞きそびれた。

運転手さんは営業所でトイレを済ませたのであろうが、乗客が交替する訳にもいかないから、羅臼まで我慢だな、と少々情けない思いで標津の市街地を抜けると、バスは標津川を渡って、伊茶仁集落の先の信号のない交差点で国道335号線・国後国道に分岐する。

国道335号線はオホーツク海に沿って羅臼まで北上する国道である。


薫別の集落を過ぎると、それまで車窓の主役だった耕作地や牧場はいっさい姿を消し、知床連峰の山裾が波打ち際までぐんぐん押し寄せてくる。

ごく一部に海岸段丘が見られる他は、稜線から海岸まで平地がほとんど存在しない急峻な地勢に変わる。



アイヌ語で地山の突き出た先という意味のシリ・エトク、またはシリ・エトコから名付けられたという、長さ約70km、基部の幅が20kmの細長い知床半島では、最高峰である羅臼岳をはじめとする知床連峰を成す山地が、面積の大半を占める。

国道と交差する川を数多く渡るけれど、水源からの距離が短いために渓流のまま海に達して、道路の脇で崖から流れ落ちる滝もあり、きちんと河口を形成している川は数える程である。

道路の脇には、ミズナラやカエデなどからなる広葉樹林と、トドマツやアカエゾマツなどの針葉樹林が入り混じって枝を伸ばし、地表を熊笹が鬱蒼と覆い尽くして、地肌は殆ど見られない。


知床半島でも町界がはっきりせず、薫別から海沿いを走り続けて、峯浜の集落が現れれば、そこはもう羅臼町である。

そこからは、ぽつりぽつりと、人家が長く途切れることなく断続するようになり、もちろんそれらの家々は山に押しやられ海辺にへばりつくように軒を寄せ合って、奥行きが全くないのであるけれど、根釧台地よりは人口密度が高い印象だった。



知床半島には、数千年にさかのぼる先史時代の遺跡が数多く残されているという。


5~10世紀前後にかけてのオホーツク文化を担ったオホーツク人や、その後に移住したアイヌの人々が、春にはニシン、夏にはカサゴやソイ、秋にホッケ、冬にタラといった漁撈や、アザラシ、オットセイ、トド、アシカなどの狩猟、時には舟を操って捕鯨を行っていた様子が、発掘された遺物の絵画などから判明している。

古代の人々が、自然と共存する文化を育んでいたことを思い起こせば、この地域が決して未開の地ではなく、古くから開けた土地であったことが、北上するに従って賑やかになる車窓からも窺うことができる。


峯浜の停留所から役場のある羅臼の中心街までの20kmあまりを、およそ30分をかけて走り抜いたバスは、傾斜地に人家が建て込んだ町並みを通り抜け、町外れの羅臼営業所で、釧路からの長旅を終えた。



砂利が敷かれたバス待機場に人影はなく、バスの運転手さんも、どこにも行こうとせずにうろうろしている僕をじろりと一瞥してから、物憂げに姿を消した。

営業所のトイレを借りて良いかどうかを、ここでも聞けなかった。


時計の針は11時ちょうどを指している。

我が国で2番目の長距離路線バスにしては呆気ない幕切れで、何だか乗り足りないような気分だった。


かつてはアイヌの狩猟地であったことから、獣の骨のある所という意味を持つラウシが変じた羅臼の町は、知床半島の南海岸を半分ほど遡った位置にある。

地図を見ても、ここより先、40kmあまりの長さを残す半島の北半分の南岸で、人が住んでいる地区は知円別と相泊といった数軒の集落だけである。

昭和50年代の時刻表を見ると、羅臼中心部から20kmほど離れた相泊までバスが通じていたようだが、車の通れる道は相泊で尽きてしまう。

海岸を伝えば徒歩で半島の先端まで行くことが出来るとも言われているが、幾つかの難所があるらしい。


北岸でも、斜里町のウトロ地区から20kmほど北上したルシャ川の河口付近で道が無くなってしまうから、知床岳やポロモイ岳を脊梁に据える半島北部は、突端の知床岬まで、人が踏み込むことが不可能な秘境になっている。



知床半島における近代的な産業は、19世紀からの漁場運営が始まりである。

羅臼では、1880年代から、移住者によってタラを中心とした本格的な漁業が始められ、南岸の半島先端部にも数百人の漁業者が夏期に居住しながらコンブ漁などに従事していたという。

北岸の斜里でも、戦前から漁業が営まれ、特に鮭と鱒の定置網漁業が発展した。

大正時代から農業が試みられたこともあったようだが、厳しい自然環境や社会情勢の変化などにより、昭和50年頃までに、開拓者は土地を離れてしまう。


時期を同じくして自然保護の動きが強まり、昭和39年に国立公園に指定されたことを皮切りに、原生自然環境保全地域や鳥獣保護区など数々の保護地域制度が適用された上で、平成17年に知床の「世界自然遺産」登録が決まったのである。



ふと、時刻表に興味を持ち始めた子供の頃を思い出した。

鉄道ばかりではなく、鉄路のない地域へもきめ細かく足を伸ばす路線バスが掲載されている、巻末の民鉄欄を眺めることが好きだった僕は、各地の半島や岬の先端に向かう路線に目をつけては、紙上旅行を楽しんでいた。

昨今のような、地方の過疎化や公共交通網の衰退など思いもよらず、全国津々浦々まで、大抵の土地ならば鉄道とバスで行けた昭和50年代の話である。


バス路線を表すラインが全く描かれず、空白になっている知床半島を見つけた時には、この現代に、公共交通機関で行けない場所が僕らの国に存在しているのか、と驚愕したものだった。

そのことを物足りなくも感じたものだったが、今では、人が容易に足を踏み入れられない土地があることは、日本の国土の懐の深さを示しているようで、悪くないのではないかと思うようになっている。

今の土木技術をもってすれば、知床岬まで車が通行できる道路を通すことは可能であろうし、そうなれば多くの観光客が押し寄せることになるだろう。

これだけ人間の力が強くなっている以上、ありのままの自然を守るためには、時に大袈裟に思える程の施策が必要になるのだと思う。



阿寒バス羅臼営業所は、知床連峰を横断する国道334号線の登り坂が始まる場所にある。

国道の奥を見通せば、知床連峰の山々は低く垂れ込めた雲に隠されているが、幾重にも折り重なる山裾が、その険しさを如実に表している。

これから、この峻険な峠を越えていくのだと思えば、心が引き締まる。


用足しが出来る所を物色しながら海岸の方に降りていくと、羅臼川の河口が開け、脇に設けられた羅臼漁港では漁船が並んで波に揺られている。

ここでは鮭、イカ、スケトウダラ、コンブ、ホッケが水揚げされるのだという。

そろそろ秋鮭の季節か、と思うとお腹が鳴るが、ふらりと立ち寄って美味しい魚介料理を食べさせてくれるような店は見当たらない。

道路を歩いている人影は皆無で、時々思い出したように車が行き交うだけである。


それでも、河口の堤防に腰をおろして一服しながら、沖の国後島と暗い海をぼんやりと眺め、空を優雅に舞う海鳥を追っているいるうちに、いつしか次のバスに乗る時間が近づいていた。



羅臼営業所に戻ると、「釧路羅臼線」のバスは折り返したのか姿が見えず、鮮やかな緑色に塗られた斜里バスのウトロ経由知床斜里駅行き「知床線」がひっそりと駐まっている。

発車時刻の13時20分になると、どこからともなく運転手さんが現れ、僕を見つめて一瞬驚いたように足を止めたが、扉を開けながら、


「斜里行きです。乗りますか」


と笑いかけた。


もちろん、乗らせていただくつもりである。

羅臼と斜里を結ぶ「知床線」は6月もしくは7月から10月までの季節運行で、このバスが運転されていなければ、はるばる羅臼までたどり着いても、来た道を戻る味気ない旅程を組むことになる。

長年乗ってみたかった「釧路羅臼線」を乗り通すためには、その先へ進む「知床線」の運行が不可欠だったからこそ、頃合いを見計らう必要があったのである。



僕1人だけを乗せたバスは身軽に国道に飛び出して、運転手さんの鮮やかなハンドルさばきに導かれながら、九十九折りの山道を登り始めた。


羅臼を起点にして知床半島を横切る国道334号線は知床横断道路と呼ばれ、冬には通行止めになってしまう。

降雪のために閉鎖される道路は、除雪の設備が整っている北海道内では珍しく、この知床横断道路だけである。

明治の開拓期には、人が歩ける程度の細道が何とか開削されている程度だったが、現在の道路が昭和38年に工事が始められ、昭和55年にようやく開通したのである。

知床横断道路の除雪作業や開通のニュースは、北海道の春の風物詩となっている。



バスは、ほのかに色づいた紅葉の雑木林の合間を、快調に高度を詰めていく。

風に流されて漂う霧の隙間に、深く切り込まれたV字型の谷が現れる。

斜面を覆う木々は、目に見えない力に圧迫されているかのように、奇怪な姿をさらして白い枝を鉤状に伸ばし、無数の骸骨が躍っている風にも見える。

あと1ヶ月もすればここは深い雪に埋まるのだな、ということが自然と納得させられる。


知床半島の植物相は、北方系と南方系の植物が混在する多様さが特徴で、観察される植物のうち4分の1は高山植物であるという。

この景色をバスから眺められることのありがたさが身にしみるが、空調が効いた車内でも襟を掻き合わせたくなるような寒々とした光景が続く。



見返り峠と呼ばれる標高650mの地点を過ぎると、国道は尾根伝いに変わって勾配とカーブが少しばかり緩やかになる。

道の両側に繁っていた樹林帯が尽き、背の低い這松の樹海が山肌を覆うようになると、間もなく標高738mの知床峠である。

晴れていれば、なだらかに続く稜線の北側に羅臼岳がそびえ、東の方角を振り返れば、海の向こうに国後島を見渡すことが出来る絶景の地であるはずだが、この日は峠そのものが雲の中に入ってしまったようで、ぼんやりと視界が閉ざされて、何も見ることが出来ない。



それでも、知床峠の停留所が置かれた駐車場には多くの車が駐められていた。

悪天候を押しての観光客も多く、道路の反対側にある展望台へ向かう人々が道路をわらわらと渡って、バスがキュン、と急ブレーキをかけたりする。


知床峠の停留所からは十数人が乗り込んできて、


「せっかく来たのに、あいにくの天気だったね」

「やだ、すっかり濡れちゃった」

「だから傘を差しなさいよって言ったのに」


などという会話を交わし、賑やかな道中になった。



知床峠から下り坂になり、どんよりとした曇り空は相変わらずだったが、標高が下がるにつれて原生林の背丈が高くなって、車窓も明るくなる。

30分ほどでオホーツクの海原が眼下に広がり、坂道の途中から、入り江を抱くウトロの町並みを見下ろすことが出来る。

羅臼より集落の規模は小さいけれど、知床半島の先端近くを巡る知床観光船が港を発着し、小高い丘の上に数軒のホテルが建ち並ぶウトロは、知床観光の拠点として知られ、逆に最果ての凄みは感じられない。



ウトロのバスターミナルにはバスを待つ客が列を作り、道路の向かい側に建つコンビニエンスストアを出入りする人々も多い。


ひっそりと眠っているようだった羅臼と対照的に、ウトロが知床観光の基地となり得たのは、昭和33年という比較的早い時期に、斜里とウトロを結ぶ国道334号線が開通したからであろう。

ウトロを過ぎても、羅臼と同様に海と山の競演が車窓に展開するが、国後島のような異国に支配された島影に眺望を遮られていないだけ、心なしか海が開放的に感じられる。




視線を山側に転じれば、オホーツク海の荒波に侵蝕された断崖が続く険しい地形にも変わりはなく、オシンコシン岬の麓を短絡するトンネルをくぐると、切り立った山腹から数条の飛瀑が流れ落ちているオシンコシンの滝を、バスの窓から垣間見ることができる。


「あっ、滝が見えた」


と女性客の1人が大声を上げたが、滝は一瞬で生い繁る木立ちの奥に隠れてしまい、振り返った連れの女性は、


「どこよ。見えないじゃん」


と、不服そうである。



知床半島を羅臼町と二分している斜里の町名の由来は、アイヌ語でアシが生えている所を意味するシャルから来ているという。

知床半島から離れるにつれて、1547mの斜里岳や1419mの海別岳を背にした平坦な地形になり、土壌も肥沃であるため、ジャガイモ、甜菜、小麦、玉葱、ビートなどの農業が営まれている。


峰別の集落を過ぎると、国道334号線は緩やかに左へ孤を描きながら海岸から離れ、広大な畑の中を一直線に斜里の中心部へ向かう。

直線の区間が気持ちよく続き、盛り土で僅かに高くなっている道路の見晴らしは素晴らしく、なだらかな丘を幾つも越えていく道路が天空に駆け昇っていくかのような、独特の奥行き感があった。



上半分が雲に隠れてしまっているものの、長々と裾を伸ばす遠景の形の良い山々は、1330mの遠音別岳や1317mの知西別岳であろうか。


広大な耕作地帯を区分けするかのように、カラマツの樹林が南北に走っている。

一見、畑を開墾するため直線的に森林を切り開いた跡のように見えるのだが、カラマツは北海道に自生しないため、人為的に植えたものと考えられる。

オホーツク海からの強風のために土が舞い、作物の種が露出しないように植林された防風林である。

根釧台地のように格子状ではないけれど、景観に溶け込んだ帯状の防風林を眺めれば、この地域にも、困苦に満ちた開拓の歴史が刻まれていることがわかる。



終点の釧網本線知床斜里駅には、斜里バスの立派なバスターミナルが併設されていて、バスの出入りも多い。


僕はここから網走へ抜けて、女満別空港から羽田行きの最終便に乗り継ぐ予定なのだが、網走までは釧網本線の列車と路線バスの2つの選択肢がある。

時刻表を見ると、バスの待ち時間の方が長いことが判明したため、僕は切符を購入して単行のディーゼルカーに乗り込んだ。



冬ともなれば流氷が岸辺まで押し寄せるオホーツクの海と、背の低い草木が風にたなびいている湿原が織りなす車窓は見事だったが、後になって、僕はバスを選ばなかったことを後悔することになった。

なぜならば、斜里と網走を直通する路線バスは本数を減らし、今では土日祝日を運休する、旅行者にはとても利用できない閑散路線になってしまったからである。

自然条件ばかりが理由ではなく、社会的な要因で地方が遠くなりつつある時代を僕らは迎えている。



旅の途上では、そのような先の趨勢は知る由もない。

のんびり走る列車に揺られながら、秘境知床の奥まで踏み込む行程ではなかったけれども、根釧台地から知床半島にかけての雄大な自然と、そこに住む人々の暮らしぶりに接することが出来た2つのバス旅の、心地良い余韻だけが僕の心を満たしていた。



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