マヤ暦の話をあちこちで聞くようになってから暦ってなんだろ?って考えるようになった。
少し前あたりに江戸時代の改暦を物語にした本も読んでいたから暦とゆうものを想う時が多くなったかな。
想像してみれば暦のなかった時代の圧倒的な世界の広がりは今に生きている私からするとおそろしくおそろしい。
時間とゆう概念のない中でどこまでも続いていく存在。
暦とは人間が生きやすいように示された1つのツールでしかないようにおもう。あまりにもだだっぴろい宇宙では溺れてしまうから。でもきっと暦の源の自然から離れてきている社会は数字の枠の中で迷走することになるのでしょう。

本質とは何なのか?
情報はあふれているけど、本当にそのものとの出会いがなければ虚しいだけでしょう。
ソフトバンクのCMで

この国の住人はいつも何かに怒ってる・・・・ような事語っているシーンが
妙に心地よく響く今日


奥のもっと奥に尊い願いがあるのでしょう


何かに怒っていようが、悲しんでいようが、笑っていようが

毎日が自分自身に向けた祈りのような気がしてくる















プラクティスを続けていくと、自分の中の思考、身体との癖と向かい合わざるをえない。
どうにかしたいと癖と対峙したとき、ピュアさからは遠ざかってしまっているなっておもう。

そもそものクンルンと出会って、はじめたきっかけがどうにかしたい!とゆうものだったから、
そこから離れるのは難しいなっておもうけど、ゆっくりだけど着実に変わってきてる。

期待もなく、一つのポーズと私が一緒になる瞬間 
ピュアな意識って?  ってずっと宇宙に問いかけてきたけど何となく身体に入ってくる感覚がある
何にもない、何にもないとゆうこともないくらいの何にもなさ

だから境界もなく一つになってしまう

あんまり好きじゃなかった私の身体(容器)
この容器は風を通していくし
雨が伝っていく
木々と共に揺れている
ひぐらしの鳴き声を、いつかの過去と共に聞いている

本当にありがたいです
この問いかけに出会うことができたさまざまな出会いに



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