タイトルは夏が過ぎていくって意味ですが、
一向に暑さが治まりませんので相変わらず日本の夏は暑いなぁと思っています
しかし、朝と夜は涼しく、夜は特に鼻を通り過ぎる空気が秋の香ばしさを感じさせる匂いです

なんか書きたいことあるなぁって思ってても書きたいことを言語化できてなくて、
変なタイミングであっ、あのこと書きたかったんだ、って思って書いてます

まるで、歌詞思いついたとか、このメロディ良いんじゃないって曲を作ってるみたい

でも、このいつ頭に浮かんできて具象化されるかってタイミング、もとい閃きが想像力ってものかもしれませんね

想像力って、イメージの話なんですが
人の中にその想像力を溜めてる泉みたいなものがあるって感じで、限界量みたいに器があるんですよ

それが溜まって溜まって、溜まり切って器から溢れた雫が"閃き"という名の想像力として具象化される、みたいな

音楽もそうだし、映画を見ると言うことでも、綺麗な景色を見ることでも、本を読むことでも、
大好きなあのコーラスラインを歌うことも、
そういったことで満たされる感覚、これを感動って言うのかな
その積み重ねが器を満たしていくのかなと思います

ただ、器を満たすにはとある媒体が必要なんじゃないかなって最近思いました
それが、感受性って言わば精神の媒体かな

感受性って大人になってくにつれて薄れていくって昔誰かから言われたし、他にも言う人がいるの見たけど、
子供にはそれが溢れてる理由はなんだろうって思った時、平たく子供は"自由"だからかって思います

歳を取っていくとさ、色んな望まない衣を着ないといけない

社会における大人って衣、会社に務めるサラリーマンって衣、その中でも先輩って衣、管理職って衣、
たくさん望まない着ぐるみを着て色んなことに制限されてみんな生きていると思う

着込む衣が多ければ多いほど、抑え込むことが多くなって器が小さくなっていく、そしてもし奥さんがいて子供が出来て、育っていく様を見てこう思うかもしれない、「ホント、お前は何も縛られてないな」って

もちろん衣を着込むことが間違いって言ってるわけではない、社会を成り立たせるために守るべきことって言い換えることもできる、言葉遣いとかマナーが分かりやすい最小単位かもね

俺は日本語の敬語って文化大っ嫌いでこの言語様式でどれだけの制限が生まれ抑圧が生まれてると思ってるんだって思ってる、
まあそれで使わないってわけではないよ、社会を構成する人との繋がりにそれは他者とのアクセス権を持つツールみたいなものだし

でも言葉なんて本来自由だけど今は生きるために敬語という縛りで縛って縛りすぎているから、心って感受性が働くところがすり減ってるのかもな

なんで敬語とか言語の話を出したかと言うと、
俺は個人的に1番人を揺れ動かすのは言葉だと思っています

前回のブログでも、細美さんが真実の言葉で世界をひっくり返すって言ってたって書いたけどさ、

それが人に言われた何気ない言葉でも、CMから聞こえたフレーズでも、俺にとっては歌なんだけど、
心の殻を突き破って響いてくるような言葉、
それは今たくさん衣を着て大人になってしまった俺に感受性を刺激する感覚直通の特効薬なんですよ

世界に溢れる何気ない言葉が感受性という媒体を通して器を満たしていき、それが満たした時、想像力となって雫が落ちる、
その雫が、細美さんの言う真実の言葉かもしれません

本能でただサラリーマンして働いて、下げたくない頭を下げて血の通わない言葉を吐いて媚びへつらう、そんな日々を過ごすなら、

会いたい人に会いに行ってその人の言葉を聞きに行って、行きたいライブに行って聴きたい曲を聞いて、自分の中から溢れる雫を見てみたいな

10FEETのタクマさんは昔言ってたな、優しさは想像力やでって

優しさを求めているつもりじゃないけど、
溢れる雫は心の余裕を表し、素直な言葉として現れるのかもな

多分、それがロックの歌詞なのかもしれないね