四無量心の「喜」とは何でしょうか?

 

例えば、このおじいさんの幸せそうな笑顔。

本当に喜びに満ちていらっしゃいます(^^)

 

おそらく縁もゆかりも無い人が、

自分の人生で最も輝いた自分を知っていてくれた。今も自分を覚えている人間がここにいる。奇跡のような出会いだ。

 

 

そんな喜びなのでしょう。

 

 

 

そこで、一体菩薩とはなんでしょうか?

どんな風に修行すると菩薩なのでしょう?

 

 

 

 

 

 

  菩薩

 

それは四無量心を実践する人。

 

 

この無常世界で生きる中で様々な苦悩があります。勿論その自分の苦しみ、悲しみから逃れたい。

悟りを得て、精神の自由、安らぎ、それらからもたらされる開放感による喜びを得たい。

それは当然です。

 

 

が、それを独り占めしないで、「他の安らぎ、他の喜びのためにわたしは経験を内在させ続けるのだ」という思いをずっと保ち続けると菩薩です(^^)

 

 

(わたしの修行は他の有情のために有るのだ)

 

 

自分がやっている修行は他のため。

と位置づけ、修行するのが菩薩です。

 

 

 

 

 

  まず自分が味わう

 

ねえ、それは喩えるならね、ここに世界一美味とされるレシピがあるとしてね、先ずそれを自分で作って、そして食べ、存分に味わうと。

 

 

そこで初めて「このレシピは本当に最高なんだよ、みなさんもぜひ味わってください」と堂々と言えるのよね?

 

 

お釈迦様だってそうだったでしょ?

※日本にはとんでもない誤解があります。

最後に指摘します。

 

 

 

自分以外の他の有情(サットヴァ・カルマン:生き物のこと)

ひいてはこの無常世界の全ての生き物がみんな、一同に苦悩が拭い去られ安らぎの喜びに満たされる。

 

 

これが菩薩の喜びであると。

(これ以外にわたしの喜びなありえないのだ)と思う。

つまり・・・

 

 

 

 

 

  他の喜びこそが、わたしの喜びである。

 

と、言うのが四無量心の「喜」という意味です。

ねえ、

  • 衰える事なき美貌を得たとか
  • 莫大な資産を形成したとか、
  • 大統領になるとか、
  • 最高の恋人を得たとか、
  • お抱えの5つ星シェフを持ったとか、
  • 何でも言うことを聞いてくれる、下僕を得たとか、
  • この世の一切の知識をえたとか・・・

そんなのは凡夫の喜びに過ぎません。全て自分の欲望ばかり。

 

しかし菩薩の喜びは(他の喜びこそが、わたしの喜び)であると位置づけるのね。

その時、心からあなたは他に対し「本当に良かったね(^^)」と言う気持ちを持ちます。

 

 

 

 

 

四無量心

  • 慈・・・・無常を離れて真の幸福と分かち難く結びついて欲しいと願う気持ち。
  • 悲・・・・苦悩を拭い去ってあげようと立ち上がる気持ち
  • 喜・・・・「あなたの功徳が還ったんですね、本当に良かったね」という気持ち
  • 捨・・・・自己に生じるカルマの還元については一々頓着しないこと。

 

 

これを元に更に四無量心の公式を当てはめると・・・

「捨」に拠って自分の苦悩など無視する。

 

なら、苦悩は無いのか?

だったら修行する意味などどこにもありはしないでは無いか?

 

 

 

 

 

 

 

  他の悲しみがわたしの悲しみ

 

いや。

そうじゃ無いんです。

 

苦悩があります。それは・・・

 

他の苦悩こそがわたしの苦悩である。

誰かがこの無常世界で苦しんでいる限り、わたしの苦悩は終わらない。

 

維摩経で維摩もそう言ってます。

維摩が病気に臥せっているので、釈尊の代理で文殊とサーリプッタが見舞いに訪れ

「何のご病気ですか?」と尋ねたら、

「無常世界の六道に苦しむ、有情の苦しみこそがわたしの病の根源なのだ」と答えた。

 

 

 

と、考える。

これが菩薩ね。

 

 

 

 

 

 

  瞑想実践

 

「喜」を瞑想にブレークスルーするにはどうするのでしょうか?

 

まあ、上の動画のおじいさんを思い浮かべて、(良かったですね(^^) と称賛を送るのも、心の浄化につながる手っ取り早い方法ですよ。

 

 

 

 

しかし、現実を前に身近な日々の苦悩をモチーフとした場合

 

 

例えば戦争や災害などで家族の誰かが行方不明になった。

 

 

もう、この世では二度と会えないのかも知れない。

ありったけの努力、他の助けを限界まで借りたけれど、もう既に災害から街は復旧しつつある。

 

それでも彼の家族は帰らない。

 

毎日が絶望の日々で、何を目にしても愛しい家族との思い出がこの人を苛む。

(ああ、出来ることならわたしが代わりたかった。もし、あの子が戻るならわたしはこの場で命を失っても本望だ)

 

と、そこへ数年後、奇跡的に行方不明だった家族が彼の元に戻った!

 

 

その時の喜びはどんなものでしょう?

それを想像してね。

 

 

どんな美味しいごちそう

大豪邸の自宅

美しい恋人

それらを遥かに凌ぐ喜びでは無いでしょうか?

 

 

生き物全てがそんな喜びと分かち難く結びつくためにわたしの修行はあると。

 

全ての有情が心から喜んでいる姿を心に描く。

 

これが菩薩ね。

 

 

 

 

この世から全ての紛争や自然災害や、憎しみが消えればいいですね(^^)

 

 

 

 

 

 

 

  ベースは自分自身の苦悩からの解放

 

自分のために修行するもの勿論なんだけど、現世で生きるのが辛いから悟りを得たいとかね。

それは全く正しいです。

 

 

しかし、それさえ

「わたしの経験ではこうだったよ」と誰かにアドバイス出来るでしょ?

或いは、励ましたりね。

 

 

いつかきっと自分の経験も誰かの役に立つ時が必ずあるんだ。

 

 

そう考えて自分を励まし、修行が辛い時でも継続して乗り越えて行く。

これが精進波羅蜜ね。

 

菩薩の修行と言うのは、自分の内側で経験を終わらせない。

必ず自分以外のメリットを求める心を重要とします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  タントラバージョン

 

1、タントラでは、あなたがもう既にブッダであると観想しますよ。

 

 

 

2、そしてあなたの眼前に突然、六道の世界が立ち現れます。

 

 

3、あなたはブッダとして、彼らに真理を説き、彼らはみなあなたの展開する法に耳を傾け、それぞれが持戒を保持し、功徳を心がけ、この無常世界を超越し真の世界へ帰ろう心から願います。

 

 

4、そうして一人一人、真理を実践する者が現れ、それが次第に拡大し、全ての地獄の住人が涅槃します。

 

5、その時、まばゆい白銀光が地獄に照らされ、この六道から地獄が消滅します。

 

 

6、あなたは全ての地獄の住人が苦しみから解放されて安らぎを得、喜びに満ちた姿を見る。

それをご覧になり、あなたの心に満足が沸き起こります。

 

 

7、すると根源のブッダがあなたの眉間に神聖な祝福のエネルギーを送り込みます。

 

 

8、このエネルギーはあなたの全身に満ち、あなたは歓喜に包まれます。

そしてあなたは根源のブッダと何ら変わることのないブッダになったのだと。

 

 

 

 

9、この調子で六道の魂をあなたは全て涅槃に送り込む

 

 

 

10、その後、宇宙にはもう六道は消滅し、何も無い空間があるばかり。

そこであなたはこう思う。

 

 

(今、わたしの救済は完成した。では、わたしは最後に涅槃に入るものとなろう)

あなたは満足に満たされます。

 

 

 

11、その後、自分自身も消滅。

 

 

 

12、可能な限り満ち足りた状態が続くまで、好きなだけこの安らぎを味わいます。

 

 

 

13、もし、日常の雑念が動き出したら、それが瞑想を終える合図です。

根源のブッダのみならず、真理をこの世界に残してくださった全ての諸仏、先達に感謝を捧げます。

 

 

14、そして回向を行い

「この瞑想の功徳をあまねく一切に及ぼし、我らと皆共に仏道が成就されんことを」

と祈って終了します。

 

 

 

 

かなり端折ったバージョンなので、本当のお次第はもっともっと詳細なものと考えてね。

 

 

例えば地獄は第一チャクラや地元素と密接な因果関係があるでしょ?(あるのね)

だから本来は、この観想ではチャクラの解放や元素の崩壊も合わせて説かれていますよ。

 

 

 

 

 

 

  アーラヤ識にブッダの種を植え付ける

 

これの狙いは、わたしたちのアーラヤにブッダの種子を植え付けようと考えて組まれていますよ(^^)

タントラならでは、です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おまけ

 

日本における菩提心(ボーディチッタ:ブッダの心)の誤解について、ある著名な禅僧の本に先輩との菩提心におけるやりとりが記載されていまして・・・こんなの

「菩提心とは何か分かるか?」

「菩提、すなわち悟りを求める心です」

「違う。お前の悟りなんかどうでもいいんだ」

「???」

と言われて、このときは理解出来なかったと。

 

そしてその後、

自分は後回しで、自分の悟りよりも他人の悟る姿を希求する姿勢が菩提心だと気がついた。

と言うような事が述べてあります。

 

 

 

で、これが日本では正解のように採用されています。

これは誤りでして、では、どこが誤謬なのかと?

 

 

これは「悟り」が即ち「解脱」であり、同時に「涅槃」に他ならない。

という誤りに由来します。

 

 

これは、安らぎの境地を涅槃と思っているのね。

こいう人が往々にして「般若心経」を解説しているので堪りません(汗)

 

 

じゃなくて、解脱して「究竟涅槃」に至った状態を真解脱と呼びます。

この状態で肉体が滅ぶとか、肉体を放棄したらパリ・ニッパーナ(般涅槃)です。

パリ・ニッパーナは完全なる涅槃とご理解くださいね。

 

 

お釈迦様が菩提樹の根っこで経験したのが真解脱で、クシナーガルでお亡くなりになった状態をマハーパリ・ニッパーナ(大完全涅槃)と言います。

 

 

 

 

つまり自分が解脱しなければ、他人の指導など出来ないと。しかし、自分は無常世界にとどまり続ける。
お釈迦様がまさにそうで、先にどんどん死んで涅槃した弟子がいたわけね。しかし、お釈迦様ご自身は毒キノコで命を落とすまで、この世界にとどまりご指導をお続けになられたと。
これをボーディ・チッタと呼びます。お釈迦様が率先垂範、無量の慈悲を実践したんです。

だから日本式の誤った理解で菩提心を実践したら(本来、出来る訳が無いんだけど)、凡夫が凡夫の手を取り、ふたりでドツボに落ちる、解脱しない教えを大乗などと言い出したわけです。