「ラスベガス公演に向けて特訓に特訓を重ねているピンク・レディーのお二人です!」そう言いながら、マイクを持って駆け寄ってくるのは、桜田淳子ちゃん。

1978年4月10日の「夜ヒット」。ピンク・レディーはオープニングメドレーの最後に登場し、自分たちの持ち歌「渚のシンドバッド 」を歌った。通常はマイクスタンドを使う曲だが、この時は手持ちマイクで振り付けを工夫しながら上手に対応。勢揃いしたこの日の出演歌手たちが彼女たちの後ろでノリノリで踊る。和気藹々と楽しいオープニングとなった。

この日はピンク・レディーに関する2つの貴重な映像が放送されたのだが、諸事情があったのだろう、残念ながらDVDにはその部分は収録されていない。そこで掟破りではあるが、ネットに投稿されている動画をもとに書くことにする。

1つ目は、オープニングメドレーの後で紹介されたカメラリハーサルの映像。ネットでも大いに話題になった山口百恵・桜田淳子コンビの「渚のシンドバッド」である。この日、ピンクがメドレーのリハーサルに間に合わず、急遽百恵ちゃん、淳子ちゃんが私服姿で代役を務めることに。2人はちょっと照れ笑いを浮かべ「こんな感じだったっけ?」と探り探りの様子ではあったが、振り付けも交えて見事に歌った。リハーサルとはいえ、流石にプロ、ちゃんと様になっている。当時、日本中の女の子がこぞって踊ったピンク・レディー。同じ年代の彼女たちも、一度やってみたかったのかな?スターの素顔が垣間見られる微笑ましいシーンである。オンエアで映像が流れると、本人たちはキャーキャー言いながら、大笑い。周りの共演者たちも、大盛り上がりだ。

ミーちゃんケイちゃんは、笑顔を浮かべ、代役を務めてくれた2人に頭を下げた。ただ心中は、穏やかではなかったかもしれない。相変わらず、超過密スケジュールに追われていた2人。もちろん本人たちのせいではないが、どこの現場にも遅れて入る「遅刻の常習犯」になってしまっていた。年齢はピンクの方が上とはいえ、百恵ちゃんも淳子ちゃんも、芸能界では大先輩である。売れっ子で忙しいのは同じはずなのに、迷惑をかけてしまった。人気の頂点を極めていたにもかかわらず、2人は常に肩身の狭い思いをしていたようだ。

一連の作詞を手がけていた阿久悠氏は、こう回想している。

その当時、テレビの歌謡番組を見ながら、何とも不思議に感じていることがあった。たとえば、オープニングにしろ、フィナーレにしろ、出演歌手が勢ぞろいした時のピンク・レディーの立つ位置のことで、彼女たちは、ほとんどの場合、真中を避けて、目立たない端っこに、具合悪そうな顔で立っていた。(中略)

ピンク・レディー、根本美鶴代、増田啓子という二人にとって、その時の人気や栄光やブームといったものが、必ずしも居心地のいいものではなかったのではないか。(中略)

当時、ブームの最中にあっても、ピンク・レディーが売れるのは、企画の勝利である、というのが定説になっていた。(中略)

企画があれば、歌手は誰でもよかったのだと思ったりしたら、それはいたたまれない。

(阿久悠「夢を食った男たち」より)

 

実際の彼女たちは、そこまで卑屈ではなかっただろう。企画先行であれ何であれ、自分たちのパフォーマンスに誇りを持って、全力で打ち込んでいたはずだ。かといって、スタジオ入りが遅れても、堂々と胸を張っていられるほど、大物ばりの強心臓の持ち主ではない。愛想を振りまいて、その場を取り繕う処世術も、まだ身につけていない。何しろつい2年前まで静岡の普通の高校生だったのだ。それが忙しすぎて、満足に準備もできず、リハーサルにも出られない。共演者やスタッフに迷惑をかけている。当たり前のことが出来ないフラストレーション。こんな状態が続けば、居心地がよくなかったのは間違いない。


ちなみにこの頃のピンク・レディーは「夜ヒット」出演に際し、この回も含めて4回連続でオープニングメドレーのトリを務め、自分たちの持ち歌を歌っている。ふつうは次の歌手の持ち歌をさわりだけ歌い、ひとこと紹介コメントを言ってからマイクを渡す決まりなのだが、この時期の彼女たちは恐らく他人の歌の練習が出来ないくらい、いつも綱渡りでスタジオ入りしていたのではないか。他の歌手の持ち歌を間違ったりすれば、大変失礼に当たる訳で、演出側が気を使っていたと推測される。

 

この78年の春は、解散したキャンディーズから引き継ぐ形でNHK「レッツゴー・ヤング」のレギュラー司会者になるなど、テレビ出演はもとより、全国各地を回るコンサートツアー「スプリング・フラッシュ」もあり、超多忙を極めていた。さらに冒頭の淳子ちゃんの紹介にもあったが、ラスベガスで初めての海外公演を行うため、この8日後には渡米することになっていた。もともと彼女たちを「アメリカのショービジネスで勝負させたい」というのは、「スター誕生」決戦大会で2人にプラカードを上げた、のちのT&C制作部長、相馬一比古氏(当時アクト・ワン・エンタープライズ)の口説き文句であった。ミーちゃんもケイちゃんも、すっかり感動して「この人についていこう」と所属を決めたという。79年以降、ピンク・レディーはアメリカ進出を図ったのだが、なぜアメリカなのか、当時中学生だった僕自身も含めて、多くの人がいささか唐突に感じていたと思う。しかし、それは決して急な思いつきではなく、デビュー前から一貫して描かれていたビジョンではあったようだ。この時のラスベガス公演は、その最初の試金石でもあり、2人は英語も含めて、披露するナンバーの特訓を重ねていたようだ。


さて、この日はもう一つ、貴重な映像が紹介された。「ご対面ゲスト」として登場したのは、2人の母校、静岡の常葉高校(放送時は常葉学園高校)で同級生だった放送部の女性。2年前の76年4月12日、ミーちゃんケイちゃんは歌手になるために上京したのだが、それぞれのお母さんを伴って、静岡駅から新幹線に乗り込むところを、この女性が撮影していた。白っぽいセーターにパンツ姿の2人が、いくつもの荷物を手に改札を通る。身長165センチと162センチ、当時の女性としては大柄な2人がホームに並ぶと、やはり人の目を引くオーラがある。


そして、デビューして間もない10月に静岡のデパートの屋上で「ペッパー警部」を歌う映像も。初々しい当時の姿をスタジオで見ていたケイちゃんが「今より8キロ太ってた」と言うように、お顔も脚もムチムチしている。何しろ上京して、渋谷の富ヶ谷にあった相馬氏の実家でミーちゃんと下宿生活を始めた頃は、朝からトーストを6枚も!食べていたケイちゃんである。ほんとうは8枚は食べたかったそうだが、その後デビューに向けて事務所から痩せるように言われ、渋々3枚に減らしたという。そんな自分たちが瞬く間に超売れっ子になり、たった2年でもうラスベガスである。これほどの激変は、想像もしていなかっただろう。司会の芳村女史に「この辺がパンパンだったね」と太腿を触られて身をよじるケイちゃん。戸惑いながらも、ミーちゃんとひたすら走り続けるしかなかった。



今回もシルバーとピンクのコスチュームで「サウスポー」をフルコーラスの熱唱。歌い終わり、司会者にマイクを渡す時、ハアハアと息を切らしていた。ミーちゃんケイちゃん、20歳の春である。