その当時、テレビの歌謡番組を見ながら、何とも不思議に感じていることがあった。たとえば、オープニングにしろ、フィナーレにしろ、出演歌手が勢ぞろいした時のピンク・レディーの立つ位置のことで、彼女たちは、ほとんどの場合、真中を避けて、目立たない端っこに、具合悪そうな顔で立っていた。(中略)
ピンク・レディー、根本美鶴代、増田啓子という二人にとって、その時の人気や栄光やブームといったものが、必ずしも居心地のいいものではなかったのではないか。(中略)
当時、ブームの最中にあっても、ピンク・レディーが売れるのは、企画の勝利である、というのが定説になっていた。(中略)
企画があれば、歌手は誰でもよかったのだと思ったりしたら、それはいたたまれない。
(阿久悠「夢を食った男たち」より)
実際の彼女たちは、そこまで卑屈ではなかっただろう。企画先行であれ何であれ、自分たちのパフォーマンスに誇りを持って、全力で打ち込んでいたはずだ。かといって、スタジオ入りが遅れても、堂々と胸を張っていられるほど、大物ばりの強心臓の持ち主ではない。愛想を振りまいて、その場を取り繕う処世術も、まだ身につけていない。何しろつい2年前まで静岡の普通の高校生だったのだ。それが忙しすぎて、満足に準備もできず、リハーサルにも出られない。共演者やスタッフに迷惑をかけている。当たり前のことが出来ないフラストレーション。こんな状態が続けば、居心地がよくなかったのは間違いない。
ちなみにこの頃のピンク・レディーは「夜ヒット」出演に際し、この回も含めて4回連続でオープニングメドレーのトリを務め、自分たちの持ち歌を歌っている。ふつうは次の歌手の持ち歌をさわりだけ歌い、ひとこと紹介コメントを言ってからマイクを渡す決まりなのだが、この時期の彼女たちは恐らく他人の歌の練習が出来ないくらい、いつも綱渡りでスタジオ入りしていたのではないか。他の歌手の持ち歌を間違ったりすれば、大変失礼に当たる訳で、演出側が気を使っていたと推測される。
この78年の春は、解散したキャンディーズから引き継ぐ形でNHK「レッツゴー・ヤング」のレギュラー司会者になるなど、テレビ出演はもとより、全国各地を回るコンサートツアー「スプリング・フラッシュ」もあり、超多忙を極めていた。さらに冒頭の淳子ちゃんの紹介にもあったが、ラスベガスで初めての海外公演を行うため、この8日後には渡米することになっていた。もともと彼女たちを「アメリカのショービジネスで勝負させたい」というのは、「スター誕生」決戦大会で2人にプラカードを上げた、のちのT&C制作部長、相馬一比古氏(当時アクト・ワン・エンタープライズ)の口説き文句であった。ミーちゃんもケイちゃんも、すっかり感動して「この人についていこう」と所属を決めたという。79年以降、ピンク・レディーはアメリカ進出を図ったのだが、なぜアメリカなのか、当時中学生だった僕自身も含めて、多くの人がいささか唐突に感じていたと思う。しかし、それは決して急な思いつきではなく、デビュー前から一貫して描かれていたビジョンではあったようだ。この時のラスベガス公演は、その最初の試金石でもあり、2人は英語も含めて、披露するナンバーの特訓を重ねていたようだ。
さて、この日はもう一つ、貴重な映像が紹介された。「ご対面ゲスト」として登場したのは、2人の母校、静岡の常葉高校(放送時は常葉学園高校)で同級生だった放送部の女性。2年前の76年4月12日、ミーちゃんケイちゃんは歌手になるために上京したのだが、それぞれのお母さんを伴って、静岡駅から新幹線に乗り込むところを、この女性が撮影していた。白っぽいセーターにパンツ姿の2人が、いくつもの荷物を手に改札を通る。身長165センチと162センチ、当時の女性としては大柄な2人がホームに並ぶと、やはり人の目を引くオーラがある。
そして、デビューして間もない10月に静岡のデパートの屋上で「ペッパー警部」を歌う映像も。初々しい当時の姿をスタジオで見ていたケイちゃんが「今より8キロ太ってた」と言うように、お顔も脚もムチムチしている。何しろ上京して、渋谷の富ヶ谷にあった相馬氏の実家でミーちゃんと下宿生活を始めた頃は、朝からトーストを6枚も!食べていたケイちゃんである。ほんとうは8枚は食べたかったそうだが、その後デビューに向けて事務所から痩せるように言われ、渋々3枚に減らしたという。そんな自分たちが瞬く間に超売れっ子になり、たった2年でもうラスベガスである。これほどの激変は、想像もしていなかっただろう。司会の芳村女史に「この辺がパンパンだったね」と太腿を触られて身をよじるケイちゃん。戸惑いながらも、ミーちゃんとひたすら走り続けるしかなかった。
今回もシルバーとピンクのコスチュームで「サウスポー」をフルコーラスの熱唱。歌い終わり、司会者にマイクを渡す時、ハアハアと息を切らしていた。ミーちゃんケイちゃん、20歳の春である。