リューベン・オストルンド
『ザ・スクエア 思いやりの聖域』









現代美術の作品である「ザ・スクエア 信頼と思いやりの聖域」は、石畳を四角く切り取り、枠で囲っただけの単なる空間に過ぎない。

しかし、そこには但し書きとして、「そこには平等な権利と義務を要する」とあった。

その中で誰かが助けを求めれば、そこに偶然通り掛かった人は助けなければならず、誰かが空腹を訴えれば、食べ物を与えなければならず、誰かが父親を亡くしたと言えば、話を聞いてあげなければならない。

そこでは人間の善意や良心、寛容さが試されているのであり、それが青臭い理想に過ぎないとしても、そのルールを知った者は、もはやそのルールを無視することができなくなってしまう。

「ザ・スクエア」とは、スウェーデンの美術館の前に展示されている現代美術の作品であるが、その作品に含意されているのは単に四角く切り取られた空間内だけで成立するルールのみならず、それが社会及び世界全体に適用可能なルールであることだ。

どんな社会であれ、法律に明示されているか、いないかに関わらず、慣習としての倫理や道徳があり、困っている人がいれば助けるというのが人として基本的な態度とされている。

しかし、実際にはそのようにはなっていない。

この作品のファーストショットに端的に示されていたように、路上にホームレスらしき男性が倒れていたとしても、足早に勤め先へと向かう人々の群れは、その存在に気付いていないか、それとも無視している。

しかも、路上に倒れている男性の姿に「命を救ってください」と募金を呼び掛ける女性の声が重ねられていた。

その女性に募金をする人もいなければ、路上に倒れている男性を助ける人もいなかった。

そのような覚えは自分にもあり、路上に倒れている男性や募金の呼び掛けを無視して通り過ぎる人々の群れの中には、紛れもなく自分自身も存在する。

しかし、足早に勤め先へと向かう人々の群れに対して、女性が「助けて」と叫び声を上げた瞬間、その秩序立った足並みが乱れ、日常に緊張感がもたらされた。

この作品の主人公であるクリスティアン(クレス・バンク)は、男から追いかけられているという女性を助けた。

しかし、ほどなくして財布とスマホとカフスボタンが盗まれていたことに気付いた。

つまり、彼は自らが発揮した善意を裏切れたのであり、困っている人がいれば助けるという人として基本的な態度を示したにもかかわらず、それが裏目に出てしまったのだ。

「助けて」という言葉は、この作品に繰り返し登場する。

この言葉を投げかけられた時、登場人物はどのように行動するのかが常に問われているのだ。

行動するのか、もしくは行動しないのかによって、登場人物の人間性が試されているのだが、それは単に個別のキャラクターに留まらず、この作品の観客もまた決して他人事ではいられない居心地の悪さを経験させられる。

他者に対して寛容であることは、その国の成熟度を示す基準でもあり、寛容であることが文明人であることを証明する手段でもある。

しかし、寛容であることが文明人であることを証明する手段だとすれば、寛容でないことは野蛮人であることの証明となり、そのような野蛮人は排除しても構わないという発想へと飛躍する可能性がある。

それを示す象徴的なシーンが存在した。

美術館で現代美術作家のトークショーが行われている最中に、男性が急に手を叩き、「クズが」、「オッパイ見せろ」、「ワレメ」などと卑猥な暴言を吐いた。

本来ならトークショーを妨害する行為として、暴言を吐いた男性には退場を願い出るところだが、その男性の付き添いの女性が「病気なんです」と言ったことで、暴言を吐いた男性は排除すべき存在ではなく、寛容に受け入れるべき存在として歓迎された。

これこそが文明人に相応しい態度であり、例え卑猥な暴言によってトークショーを妨害したとしても、それが神経症の症状であるならば寛容に受け入れることが正しい行動となる。

しかし、この基準はホームレスや移民、難民、ましてや野蛮人にも適用可能なのだろうか?

それこそがまさに、この作品で問われている主題に他ならない。

財布やスマホを盗まれたクリスティアンは、GPSを使ってスマホが存在する現在位置を把握したが、アパートのある建物までは分かったが、部屋までは分からなかった。

しかし、部下のミッシェルから脅迫状を一つ一つ部屋に投函すれば、犯人が財布とスマホと返してくると提案されたクリスティアンは、勢いに任せて実行してしまった。

美術館のチーフ・キュレーターとして「ザ・スクエア」の展示を企画したクリスティアンは、本来なら社会的な地位もあり、周囲から尊敬を集める常識人であるはずだが、勢いに任せて書かせた脅迫状を自らアパートに投函してしまい、それが自らの首を絞める結果となった。

どこかの地点で冷静になっていれば引き返せたにもかかわらず、部下がいる手前後に引けなくなってしまい、その責任を取らされることになるのだ。

そもそも彼は善意を発揮して困っていた女性を助けたはずが、その善意を裏切れたことの復讐として脅迫状を投函するという行為へと至った。

善意が裏返れば悪意となり、自らが受けた悪意に対する復讐が、更なる復讐となって自らに回帰する構造に、この時点で彼はまだ気付いていなかった。

悪意とまでは言えないが、彼はパーティーで知り合った女性と一夜を共にしたことでトラブルに巻き込まれてしまった。

酒の勢いに任せて犯した過ちの責任を取れと詰め寄られる彼は、本来の仕事であるキュレーターに身が入らず、ここでも大きな過ちを犯してしまうのだ。

展覧会の広告を依頼された代理店は、その戦略として社会に対して物議を醸す動画を製作することでアクセス数を稼ごうとした。

その結果、アクセス数は爆発的に上昇したが、その内容に抗議が殺到して大炎上してしまった。

それは、「ザ・スクエア」の内部に入ったホームレスの少女が、爆発して体がバラバラに吹き飛ばされる動画だった。

あり得そうな出来事というよりも、実際に似たようなことがあったらしい。

その少女がブロンドの白人だったことから人種問題へと議論が発展し、更には表現の自由を巡る議論が加わることで、もはや収拾のつかない事態となってしまった。

こうした展開は、どこか「シャルリ・エブド事件」を思わせる点もあり、表現の自由を守る為なら、他文化を嘲笑したり、傷付けても構わないのかという危うい問題を孕んでいた。

本来は思いやりを発揮するはずの「ザ・スクエア」が、この動画では弱者に対する暴力として用いられたのであり、それが仮に炎上マーケティングだったとしても、作品が本来意図した方向とは真逆の方向で動画は製作された。

「ザ・スクエア」は枠で囲われた空間であるが、その意図するところは社会全体の隠喩であり、「信頼と思いやりの聖域」は国家全体や世界全体へと波及させるべき理想として提示されていたはずだ。

しかし、寛容さを示すはずの「ザ・スクエア」は、ルールに従わない者は排除しても構わないという反転した考え方に乗っ取られる危険性があった。

それが端的に示されていたのは、展覧会のオープニングにおけるパーティーだった。

招待客のディナーの席に、展覧会のコンセプトを表すサルが登場した。

テリー・ノタリーが演じたパフォーマーのオレグは、招待客の前でサルのモノマネをするのだが、最初こそ笑って見ていた招待客も、余りにも真に迫ったオレグのパフォーマンスに、もはやサルと人間の境界線を見失ってしまった。

それはパーティーの余興などというレベルではなく、本物のサルがパーティーに乱入し、やりたい放題に暴れ回っているとしか思えない状況だった。

それまで人間のすることだからと許していた招待客は、度の越えた振る舞いに苛立ちを隠し切れなくなり、遂には怒って帰る人たちまで現れた。

それによって人間に対する寛容さは失われ、野蛮なサルならば排除しても構わないという合意が無言の内に招待客の間で形成された。

今回は人間によって演じられたサルだったが、それがホームレスや移民、難民であったとしても、状況は大して変わらないだろう。

そうした排除は無知で野蛮な庶民によって行使されるというよりも、タキシードやドレスに身を包んだ上流階級の人々によって行使されている。

つまり、文明人の基本的な態度であるはずの困っている人がいれば助けるという原則は、時と場合によっていつでも廃棄されてしまう程度の代物なのだ。

不適切な動画をアップした責任を問われたクリスティアンは、記者会見の場で「私は責任者だが、動画の製作には関与していない」と答えた。

それは確かにその通りなのだが、責任者が自らの責任を回避するかのような態度を示せば、火に油を注ぐことは目に見えており、責任の所在が曖昧な組織の問題に言及することが、結局は個人の責任を回避する方便として利用されるのだ。

この構図は、クリスティアンがアパートに脅迫状を投函したことで、両親から泥棒扱いされたと少年に抗議された出来事にも通じている。

その際のクリスティアンの言い訳は、「確かに脅迫状を投函したのは自分だが、偏見を取り除くには自分の力ではどうすることもできず、社会全体が変わらなければならない」というものだった。

ここでも責任の所在が曖昧な組織の問題に言及することで、個人の責任を回避する方便として用いられていた。

「ザ・スクエア」とは美術館に設置された現代美術の作品だが、その必要性は美術館の内部に留まらないのは明白だ。

クリスティアンは娘たちの視線を意識することによって、「ザ・スクエア」を自らの行動によって製作することを決意したのだと思う。

それが青臭い理想であることは彼も認めるところだが、「ザ・スクエア」を単なる作品として鑑賞する立場から、それを自らが暮らす街に生み出そうとする実践こそが、そのメッセージの本意であることは間違いない。