座・高円寺 ドキュメンタリー フェスティバル 6






ゲスト・セレクション



諏訪敦彦セレクション



アラン・レネ
『ゲルニカ』(1950)
『夜と霧』(1955)

諏訪敦彦
『黒髪』(2010)







これらの作品が上映された後に、諏訪敦彦のトークイベントが行われたのだが、彼は折しもここ数週間に渡る「テロによる映像」に対して、心中穏やかざる状況に立たされている事を自ら告白した。


それをセレクションしたのは、それらが発生する以前の事だったが、その奇妙な符号によって過酷な状況が記録された映像を見るという行為が、どのような意味を持つのかを自ずと考えざるを得ない状況になった。


諏訪はアラン・レネが『夜と霧』において、戦後10年が経過した収容所を横移動によって記録しながら、アーカイブから引用された収容所の映像を編集する行為に対して分裂が起きていると指摘した。


収容所を表現する際にドキュメンタリー用いたアラン・レネが、広島を表現する際に用いた方法がフィクションであり、『ヒロシマ・モナムール』において「私は広島の全てを見た」に「君は何も見ていない」という言葉が登場するように、そこには『夜と霧』と同様に分裂が発生している。


それはホロコーストや原子爆弾によって、まさに人間の存在が根こそぎ剥奪される瞬間を映画は決して記録する事も再現する事もできないという不可能性に根差した態度である。


しかし、諏訪はアラン・レネが収容所を記録した映像を編集する行為に躊躇がないと指摘しているように、必ずしも明らかにされていない彼の政治性が発揮された結果とは見ていない。


ここで諏訪はジャック・リヴェットによるジッロ・ポンテコルヴォの『カポ』に対する批判を引用した。


『カポ』では『ヒロシマ・モナムール』にも主演しているエマニュエル・リヴァが、収容所のユダヤ人女性として鉄条網に突進して息絶える瞬間をトラック・アップ(前進移動)によって収めている。

このシーンをジャック・リヴェットは「卑劣だ」と非難し、人間の死を描く際に自らがペテン師(詐欺師)である事の自覚がないと指摘した。


この非難を引き継ぐ形で批評家のセルジュ・ダネーもまた「不屈の精神」においてジャック・リヴェットに対して賛同を示しており、それと同様に「SONG FOR AFRICA」においてレコーディングをしているアーティストの顔に飢餓に見舞われたアフリカの子供たちの顔を重ね合わせる編集にも「卑劣さ」を発見している。


『ゲルニカ』はアラン・レネによるピカソの再構成であり、そこにはドイツ軍による爆撃を非難する意図が込められているが、絵画を部分的に再構成する行為が映画による「侵犯」だという批判は当時からあったという。


それ以前の『ヴァン・ゴッホ』と合わせて、絵画を映画によって表現する際には、否応なしに再構成する必要があり、絵画のフレームをそのまま映画のフレームに合わせるくらいなら本物の作品を見ればいいはずであり、そこに映画との表現の違いが発生すると指摘していた。


つまり、絵画に対する映画による「侵犯」と同様に、収容所や広島に対する「侵犯」も発生しているのであり、それがドキュメンタリーせよフィクションにせよ描く事のできないものを描くという行為に通じているはずだ。


しかし、それは本来不可能な行為であり、絵画を映画で表現できないように、収容所や広島も決して表現できないのであり、それを表現できると過信すれば、ジャック・リヴェットによる「卑劣さ」の非難を免れないだろう。


ジャック・リヴェットは『夜と霧』におけるアラン・レネの横移動は評価しているらしいが、そこもまた微妙なところで、既に廃墟と化した収容所の現在を横移動によって記録する行為が、過去の殺戮を再現する際のトラック・アップに比べて、本当に「卑劣さ」を免れているかはよく分からない。


そこに存在するのは、ホロコーストや原子爆弾のような大量死を、そもそも映画や映像が表現できるのかという根本的な問いであり、それができるという立場に立った時に「卑劣さ」が生まれる素地が形成される。


それは過去の出来事に留まらず、現在進行形のテロによる映像にも地続きの問題として存在しており、それら悲惨な映像がネットワーク上に拡散している状況において、その映像を見る/見ないの選択を迫られている。


その映像を見ない事に対して、「真実から目を背けている」という批判があったとして、諏訪はそれを見ない事は真実から目を背けている事にはならないと反論して、見る/見ないを選択する態度から異なる尺度を求めていた。


確かにツイッター上には、テレビでは放送されないという謳い文句と共に、それらの映像が出回っている事を重々承知しているが、それをどうしても見る気になれないのは、テロリストに与するからだとか、真実から目を背けているからとも異なる言葉にはできないモヤモヤとした感情があるからだ。


その理由を明確に言葉にできればいいのだけれど、『夜と霧』においても収容所のユダヤ人の死体がブルドーザーによって「処理」される光景やバケツに生首が入れられている光景が登場しているように、現象において何が違うのかを考えざるを得ない。


それは多分、「卑劣さ」に加担しないという事なのかもしれない。


この「卑劣さ」というのは、ナチスやテロリストによる野蛮な行為はもちろんの事だが、映像によって自らの意志を伝達できると信じる無邪気な態度や、ある目的を遂行する手段としての映像と取り敢えず定義してみる。


それは恐らく人間の死という厳粛であるはずの瞬間を映像によって表現できる、もしくは再現できると信じる立場の事であり、不可能な事態に対する謙虚さを徹底して欠いている。


しかし、いつの間にか自分も「卑劣さ」に加担しているかもしれないように、そのような可能性からは決して自由になれない。


そのような可能性の下に自らが存在している事を自覚すべきという点において、見る/見ないの態度に対する異なる尺度が必要とされる。


また諏訪による『黒髪』は、「広島」という記号から無媒介的に現代の女性に髪が抜け落ちる現象が発生するフィクションであるが、2010年に製作された時点では忘れ去られた遠い過去の記憶でしかなかった放射能が、2011年3月11日を境にリアルに感じられてしまう状況として発生した。


これもまた今回の企画が結果的にテロによる映像を導き出してしまった様に、思わぬ形で過去が現在へと回帰する一例なのかもしれない。


面白いのは諏訪がアラン・レネから全く影響を受けていない理由として、『ヒロシマ・モナムール』を『H Story』としてリメイクした際、そのVTRを送ると「編集した作品を見せてほしい」と言われた事から自分とは全く異なっていると自覚したからだという。


「アラン・レネを愛していない」と言う諏訪は、それでも間接的に影響を受けていたかもしれないと語っていたが、『夜と霧』の衝撃を現在に至るまで引きずりながら、その今日的な意味を再び問い直す事に価値を発見しているのだろう。