アンジェイ・ワイダ監督の2013年制作の『ワレサ 連帯の男』を大手町の岩波ホールで観てきた(写真)。


ワレサ 連帯の男


随所に実写映像を挟んだドキュメンタリー
 自由労組「連帯」を率い、ポーランドを統一労働者党(共産党)独裁から解放し、東欧民主化の先鞭をつけたあのレフ・ワレサを主人公にしたドラマである。
 弾圧に抗し、非暴力でのストライキ戦術でついに共産党御用団体であった公認労組から独立した自由労組「連帯」を創設し、共産党を一歩一歩追い詰めていった功績で、1983年度のノーベル平和賞を受賞した人物でもある。
 ドラマだが、随所に当時の実写記録映像を挿入し、ワレサを主人公としたポーランド民主革命の優れたドキュメンタリーになっている。


オリアナ・ファラチが舞台回し役
 映画は、1980年代初頭、「連帯」を率いたワレサの自宅に、イタリア人女性ジャーナリストのオリアナ・ファラチ(写真=1979年、テヘランで。映画でも自ら述べているが、彼女はイランのホメイニにもインタビューした)が訪ね、そこでインタビューを応じる形で始まる。インタビューの合間に、それまでの闘いの記憶がフラッシュバックされていく。


オリアナ・ファラチ

 なおオリアナ・ファラチは、06年に亡くなったが、それまで世界中に飛んで、リビアのカダフィら様々な独裁者にも「喧嘩インタビュー」と呼ばれるほどの挑発的な質問を投げつけることで有名だったジャーナリストである。ファラチが、ワレサにインタビューしていたとは知らなかった。
 さてここまで書いてくると、映画はワレサの英雄的闘争を描いた心躍るドキュメンタリーと思うだろうが、ワイダ監督はワレサをごく普通の労働者の指導者と描いている。


最初は臆病なかっこ悪い青年
 1970年12月、統一労働者党(共産党)政権による一方的な食糧値上げの発表で、グダニスクのワレサの働いていたレーニン造船所でストライキが勃発、ストライキは瞬く間に全国に波及していくが、グダニスクでは治安部隊の弾圧でレーニン造船所労働者を中心に暴動に発展する。
 この時、ワレサは実にかっこ悪く、臆病風に吹かれて治安部隊に抵抗する労働者を止めに入った。あげくに逮捕されるが、取調官の調書3通にあっさり署名して、釈放される。1通は、公安当局のスパイとなることを誓約する書類だった。なおこの暴動で、共産党は党第1書記をゴムルカからギエレクに交代させる。闘争は、労働者側の敗北だったが、共産党には一矢を報いたのだ。


秘密ビラを隠した乳母車から見つけられるというヘマ
 70年代半ばには、公安当局のスパイ強要に抗議し、それがもとで造船所を首になる。子だくさんの妻ダヌタに、帰宅して「解雇された」と告げる時のしょげた様子は、哀れささえ誘う。
 その後、急進的な青年労働者から自分たちを指導してほしいと乞われながらも、煮え切らない態度でなかなか乗らない。
 それでもレーニン造船所でストを計画する青年労働者たちの熱意と未熟さに、次第に闘争の渦中に引き込まれていく。ところが労働者から受け取った宣伝ビラの包みを2カ月の子どもの乳母車に隠したはいいが、すぐに公安に見つけられ、警察に逮捕される。この点も、秘密活動に従う者としてはどうかしている大ヘマだ。
 警察では乳飲み子が泣くのになすところなく、出産したばかりの女性看守に乳をもらって、やっとしのぐ有様だ。


レーニン造船所の大ストライキで指導者に
 しかし闘争がワレサを鍛えていく。やがてワレサは、聴衆を鼓舞する雄弁さと包容力とカリスマ性で、ストライキ指導者に育った。
 真価が発揮されるのが、1980年8月14日、有能な女性クレーン技師のアンナ・ワレンティノヴィッチの解雇撤回など21項目要求を掲げてのグダニスク、レーニン造船所のストライキ突入である。ワレサは、公安の尾行をまいて、塀を乗り越えて造船所内に入り、指導者として迎えられた。
 翌月9月17日、全国の自由労組の代表者をグダニスクに集めて、独立自由労組「連帯」を結成、全国の指導者に就く。入れ替わるように、共産党と国家を率いていたギエレクが失脚した。

 特に印象的なのは、ストライキや集会の場面に一切の赤旗が見られないことだ。これは、共産党の独裁に抵抗する自由労組の証し、である。


ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世に支持されて
 彼の狭いアパートは、労働者やジャーナリストのたまり場になり、24時間、常に誰かが出入りするようになり、私生活を奪われた妻ダヌタがヒステリーを起こす。連帯指導者のワレサも、6人もの子どもを育てる妻には頭があがらないのだった。
 ストライキと連帯結成後の闘争には、1978年にポーランド人として初めてのローマ教皇となったヨハネ・パウロ2世の精神的支えがあった。連帯のポスターやワレサの自宅には、ヨハネ・パウロ2世の肖像写真が掲げられていた。その意味で、もしローマ教皇に従来どおりイタリア人がなっていたとしたら、ポーランド革命はなかったかもしれない、と思えるのだ。
 この頃、ワレサは野蛮なポーランド・スターリニストと背後で操るソ連のボスのブレジネフに抵抗する世界的著名人になっていた。オリアナ・ファラチがインタビューに訪れたのは、この頃だろう。


ヤルゼルスキの軍事クーデター
 この頃のポーランドの連帯の闘いをうっすらと覚えているが、常に共産党は連帯に押されっぱなしであり、ソ連のスターリニストたちはいつポーランドに軍事介入するか、という緊張状態の日々が続いていたことを思い出した。我々日本人は、平穏な日本でヌクヌクしていたが、ワレサらポーランド労働者は、ポーランドのスターリニストとソ連共産党第1書記ブレジネフと闘っていたのだ。
 連帯と共産党との均衡は、その数カ月前に党指導者に就いていたヤルゼルスキが1981年12月13日、突如としてポーランド全土に戒厳令を敷いたことで破られた。ヤルゼルスキは、ワレサら連帯指導者とついでにギエレクら党の旧幹部も身柄拘束した。軍事クーデターである。


ソ連のブレジネフの死で釈放
 ワレサも、党幹部の使う保養所のような場所で優雅な拘束を受ける。公安からは、転向を働きかけられるが、突っぱね続ける。外では、連帯の活動は、ヨハネ・パウロ2世と世界の知識人たちの精神的支持でなお続けられていた。
 転機は、82年11月10日のブレジネフの死であった。ブレジネフの死で、ヤルゼルスキはソ連に気兼ねをすることもなくなった。翌日、ワレサは釈放される。同年末、連帯の要求どおり戒厳令は撤廃される。このあたり、ヤルゼルスキは現実感覚を持ち合わせた非凡な共産党指導者だったと言える。


自由選挙で民主化達成
 しかしこれで、力の振子は、大きく民衆の側、連帯側に傾いた。88年8月、ポーランド全土を覆うストの波の中、ついにヤルゼルスキら共産政権は、連帯と対話の場として円卓会議を設けることに同意せざるをえなかった。
 1989年2月6日から4月5日にかけての共産政権と連帯の円卓会議で、ポーランド民主化に大きく前進した。円卓会議の末、6月にポーランド史上初の自由選挙が決まり、選挙の結果は連帯の圧勝となった。
 このポーランドの民主化は、数カ月後の東欧諸国の相次ぐ民主革命へと受け継がれ、やがて本丸のソ連崩壊へと至る。それを、1人の腹の出た中等職業学校出の労働者がなしとげたのだ。このあたり、観る者は誰しも心踊らされるだろう。


ノーベル平和賞の授賞式には妻を代理に
 映画は、ブレジネフの死とワレサ釈放以後、ほとんど駆け足で進み、ワレサのアメリカ議会での実写演説で終わる。
 しかしその間の重要なエポックは、1983年晩秋のワレサのノーベル平和賞受賞であった。
 ノルウェー大使館からの受賞の知らせを電話で受けたワレサは、授賞式への出席を辞退し、代理として妻のダヌタを出席させると告げる。1度出国したら、パスポートを無効にされ、ポーランドに戻れないことを恐れたのである。連帯が共産党と五分の力を蓄えた当時のポーランドでも、まだ共産党政権は健在だった。
 トップのヤルゼルスキは、とっくにワレサと連帯に妥協しなければならないと気が付いていたはずだが、中間層党官僚は頑迷だった。
 授賞式から帰国したダヌタを迎えに来たワレサと子供たちは、到着口で長々と待たされる。ダヌタは税関女性職員に囲まれ、下着まで脱がされた身体検査を受けていたのだ。
 連帯に対する歪んだ嫌がらせであった。


誤読で「ウァウェンサ」が「ワレサ」に
 最後に映画の中で、彼の姓が呼ばれる時、「ウァウェンサ」と聞こえる。無理もない。「ワレサ」というのは、誤読なのだから。
 ポーランド語の綴り「Wałęsa」は、「Walesa」とは似ても似つかない読みだ。あえて日本語を当てれば、「ウァウェンサ」となる。欧米の新聞が、ポーランド語活字がないために、「Walesa」と書いたのを、日本の新聞が無批判に「ワレサ」とカタカナ表記したのである。
 したがって本日記も、「ウァウェンサ」とすべきだったが、映画の邦題が『ワレサ 連帯の男』となっているので、やむなく「ワレサ」で統一した。しかもこれほど歴史的な著名人の名が誤読として通用しているので、今さら「ウァウェンサ」とは表記できない。「ウァウェンサ」と書けば、誰も知らないだろう。
 いずれポーランドを訪れる機会があれば、現地の人に確かめてみたい。


◎ポーランド関連日記
 なおさらに連帯をはじめポーランド現代史を知りたい方は、以下の過去日記も参照されたい。
▼12年1月22日付日記:「『カティンの森』の犯罪を読む⑦=最終回:今も続く『カティンの森』」
▼12年1月21日付日記:「「カティンの森」の犯罪を読む⑥:ナチの責任者は処罰されたが、スターリニストは誰1人責任問われず」
▼12年1月18日付日記:「『カティンの森』の犯罪を読む⑤:圧殺された東欧圏の市民革命」
▼12年1月15日付日記:「『カティンの森』の犯罪を読む④:カティン以外に世界に広がる虐殺犠牲者」
▼12年1月11日付日記:「『カティンの森』の犯罪を読む③:歴史の真実はかく隠蔽された」
▼12年1月9日付日記:「『カティンの森』の犯罪を読む②:チャーチル、ルーズベルトらの不作為の犯罪」
▼12年1月7日付日記:「『カティンの森』の犯罪を読む①:期待以上だった『カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺』」
▼11年8月20日付日記:「ソ連保守派による8月クーデター20年と『虚人』ゴルバチョフ大統領の限界」


昨年の今日の日記:「ホワイトハウスの電子目安箱に過去のスターリニスト高官の疑惑解明を訴えざるをえない中国庶民の悲哀」