幕末の窪川村は家数132戸、人口403人の大村で熊野三社権現を茂串山下に、惣川内神社・金比羅神社・東光寺・岩本寺・浄照寺などの寺社がありました(窪川町史編集委員会『窪川町史』第一法規出版、1970年:139頁)。

アジアの街並/中国古鎮・日本昔町─川野明正の研究室

窪川は仁井田米で有名な米所ですが、藩政時代はその大部分は上納米であったため、農民は米三分、麦七分、田芋・甘藷・大根の葉などを混ぜて食べていたそうです。明治・大正期も白米食は村でもよほど豊かな人だけであったと『窪川町史』は記しています(同書236頁)。


大正時代の住居も質素なもので、平屋の茅葺き、あるいはわら葺きの家がほとんど半数以上あったが、大正初年以来農家の収入が増加すると、瓦葺きに替える家が増えてきたとのことです。

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一部引き棟、入母屋屋根の建物がみられ、白壁の土蔵などのある家は庄屋か郷士の家とのこと。

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室内の下座はほとんど板敷きがござを敷く程度で、その中央にいろりを作り、大きな丸太をどんどん焚いて暖をとる、自在かぎを吊して茶を沸かし、物を煮たとしています。

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台所は裏の暗いところに土くどを造り、井戸は庭の隅、流しのある家は少なかったといいますが、しかしその反面表の間は金をかけてりっぱなものにする風習があり、床柱・床かまち・欄間など、また大神宮様(伊勢皇太神宮)の神棚は何俵もの米を投じてりっぱなものにしたとのこと(窪川町史編集委員会『窪川町史』第一法規出版、1970年:237-239頁)。

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来客用の床の間と、日常生活用の下座の生活とは随分対照的であったようです。