<p>
戦後の沖縄の電気事業<br>
琉球電力公の設立<br>
同社は、1954(昭和29)年2月26日に米国民政府が設立した。<br>
目的の一つは、米軍から購入した電力を配電することであった。<br>
沖縄が本土復帰するまでこの状態が続いた。<br>
</p>
<p>
沖縄電力株式会社設立<br>
沖縄が本土復帰を迎えた1972(昭和47)年5月15日に<br>
旧電力株式公社の資産を引き継いだ、沖縄電力株式会社設立された。<br>
同社の取締役の一人宮城信勇氏(当時は琉球政府企画局長)は、<br>
私が、石垣中学校3年生の時の御師だ。<br>
</p>
<p>
那覇での生活<br>
貧乏暮らしの連続だった。<br>
生まれたばかりの長男を背負って<br>
那覇港に迎え借りて居た首里の<br>
茅葺きの一軒家に迎えた<br>
</p>
<p>
暫くして、与儀に移り、袋鍼の内職をしたり、<br>
家内は、与儀市場で義兄の妻の手ほどきを受けながら、<br>
道の傍で物を売った。<br>
</p>
<p>
借家は2軒程替えた。<br>
1軒目は、食卓の箸が”ゴロゴロ”転げ落ちる程、<br>
床が傾斜していた。<br>
2軒目は沖縄刑務所の裏側だった。<br>
</p>
<p>
映画館の大宝舘火災の時は良く見えた。<br>
中央配電に行く時までそこに住んだ。<br>
家主は良い人だった。<br>
</p>
<p>
電気工事会社に就職<br>
佐藤工業の孫請けの従業員を辞めて、<br>
三協電気株式会社に就職した。<br>
</p>
<p>
辞めた理由は、はっきりとは覚えていないが、<br>
少しでも安定した職場に就職した方が良いと思った筈。<br>
孫請けの親方に引き止められたが、丁重ことわった。<br>
</p>
<p>
三協電気
三協電気本社は、現在、沖縄銀行本店の建っている<br>
所にあって、当時は主に沖縄配電(株)が<br>
配線電線路建設するのを請け負っていた。<br>
</p>
<p>
請け負い工事の内容<br>
建柱位置の設定から、配電線路の建設、<br>
引っ込み線の取り付け工事までだった。<br>
私の最初の仕事は、画板上の紙に<br>
建柱場所を書く人の助手のようなものだった。<br>
</p>
<p>
後日、引っ込み線工事班にまわされ、<br>
班員は5,6名程度だった。<br>
沖縄配電からも貰った伝票を頼りに、
工事材料の電線や垂木を、1台の自転車積み
残りは皆で背負って現場に向かった。
</p>
<p>
引っ込み線は屋根に登らなければならず、
当時はトタン葺きの屋根が多かった。
滑り落ちないように足の親指に力が入り、
履いて居たズック靴は、ほぼ1カ月で穴が
開いて、使い物にならなかった。
</p>
大伴さんとの出会い
ある日、沖縄配電の引っ込み線工事の検査員の
金城さんが、「吉野さん、あなたの、
お父さんは何処で働いていたの」と尋ねられたので、「台湾電力です。」
と答えた。
</p>
<p>
それを沖縄配電の内戦主任をしていた大伴東一さんに伝えた。
大伴さんは、工事伝票押されている”吉野”の印に目が止まり、
金城さんに尋ねられたようだ。
</p>
<p>
どこで会ったか覚えていないが、
「近いうちに中央配電に配電課長として行き、
落ち着いたら君を呼ぶから」と言われた。
</p>