あっちゃんが茶道について話しています。
私も大学時代から茶道を始めました。
とても良い先生で、大体、このあっちゃんと同じようなことを習いました。
その時の話をしたいと思います。
先ずは、その後、私の先生となる方が突然家に訪ねて来たことに始まります。
うちは庭の世話は全ておばあちゃんがやってくれていました。
その庭は、表通りと裏の細い道に入るところの角地で、いろんな植木や花、野菜などが植わっていました。
今はもう、税金対策で賃貸のアパートを、敷地一杯に建てたので、昔の面影はありません。
その庭の通りに面した所に白い芙蓉の木があって、毎年花を咲かせていました。

そんな季節のある日、突然、上品な感じの女性が門を叩き、訪ねて来ました。
「今、咲き盛りの芙蓉の枝を一枝いただけないでしょうか。挿し木にしたいので」と。
お茶花にするのに、大変貴重な種類なのだとか。
母は勿論、どうぞどうぞ。
そこで彼女が自己紹介。
ご近所でお茶の先生をなさっていられると。
「お嬢さんがもしお茶に興味がおありならどうぞ」
と言われて、母は私にどうか、と尋ねます。
私は当時、音楽に興味があって、クラシック・ギターを習っていました。
そして、いわゆる習い事にはあまり興味がありませんでした。
それでも、ご近所のおばさんが薦めて来るのだから、やってみようかなと、かなりあやふやな気持ちで始めました。
当時の私は、どこにでもいるような、ごく普通の女学生。
まあ、素直な方で、なんでも「はい、はい」と受け入れてしまうような、反抗期なんて関係ない子でした。しばらく習っていると、先生が土曜日の朝からお稽古するから、と言われます。
普通はみんな、午後から来るのですが…
そうしたら、朝の内は、お茶を小さな石臼で曳くことから、棗にお茶を入れること(きれいな山の形になるよう、苦労しました)、水屋の整理をしたり、今日のおけいこの茶碗を一緒に選んだり、お茶をたてるための準備をいろいろとやらされました。
そうして、生徒さんが来始めると、先生の隣に座って、みんなのお点前を見学。
私のお点前を見ていただくのは、最後で、土曜日は一日ずっとお茶。
なんでそうなのか、全く分からず、素直に「はい、はい」と先生の言うなりに従っていました。
ということは、嫌いじゃなかったのですね。
おこがましいことですが、今思うと、先生は私の中に、ある程度の素質を見抜いていたのではないかと思います。
大学卒業の頃になると、就職先を探していた私に、降ってわいたように渡独の話が持ち上がります(この話は、またいつか書くことにします)。
私が教わったお茶の宗派は「大日本茶道学会」という、なんか大変いかめしい名前で、もともとは裏千家の系統です。
茶道をもっと利休が始めた源典まで戻って、無駄なところは省き改善する、という考えに立っていました。
私がヨーロッパに行くということで、こういう理論的なことも、本を読まされ、勉強させられました。もう半世紀も前のことです。
体の動きも、丹田に心を込めて、そこから出てきた「気」に従って動作する、ということを、いやというほど教えられました(それにしては、大したことないんですが――先生、ごめんなさい)。
これは後にドイツで勉強した呼吸法に通じるものがありました。
そして、薄茶から始まり、濃茶、箱立て、盆立てといろいろ学びましたが、私はあっちゃんが濃茶を押しているのと違って、 最初に習ったお薄が一番好きでした。
先生も、一回り習ってから元に戻り、お薄を極めることが一番大切、とおっしゃっていたように思います。
ある時、いつものように薄茶を立てて、茶筅を振っていると、「まあ、見事な振り方ですねえ。本部の先生にお見せしたい」って言われました。私は何気なしにやっていたのに。
また、ある時は、朝からずーっと先生の横に座っていて、やっと自分の番になり(その頃にはもう夕焼雲となっていました)、水差しを部屋に運び込んだ時でした。
一瞬、体が透明になったような気持になり、腰と肩の関節が見事にスムーズに動いているのが分かる瞬間がありました。
私が「あっ!」と思った時、先生が、「それです!その動き!」と声を上げられました。
其の間、ほんの2秒ぐらい。
今、考えると、羽生X内村会談(あ、未だ記事アップしていなかった)で話していた、いわゆるゾーンに入った瞬間だったのではないか、と思います(彼らの話はまた、別の機会に語りたいと思います)。
その後、お茶は勿論のこと、呼吸法でも、音大の授業でも、ルネサンスダンスでも、あの瞬間を求めてきたのですが、結局、もう一度到達することはなりませんでした。
ユヅ君や内村さんは、格が違い、天才ですから、それを求めて、突き詰めることができたんだけど、ぼんくらな私は、ダメでした。
それでも、人生80年の間の2秒。あの体が流動的になった瞬間は、未だに体の中に記憶として残っています。私はそれだけでもありがたい、と思っています。
そして渡欧するにあたって、最後に懐石料理も入った本格的なお茶会を催してくださいました。
あっちゃんが経験したのと同じ形で、いつもはお稽古をしてくださる部屋で、持参した清潔な足袋に履き替え、路地の腰掛に移り・・・
手水(ちょうず=手や口を水で清める)を使って茶室に入り、いつものように床の間や炉の拝見をして、席に着きました。
この時、一番驚いたのは床の間に掛け軸が掛かっていなかったことです。
ぼんやりと丸い円が水で描かれていました。
まるで禅問答みたい。
懐石も順次に進んで行って、あっちゃんにもあるように、ご亭主とは沈黙の元にお茶がたてられ、その後、やっと亭主とお話ができるようになります。
そこで先生から床の間の種明かしがありました。
私がドイツに発ったのは3月でした。そしてお茶会は2月のに行われました。
その日は、急に寒波が襲い、とても寒い日でした。
先生は前の日に全てを用意されて、次の日の朝、目を覚ましたらこの寒波。
「ああ、里子さんが出向くドイツって、ここより寒いんでしょうね」というのが最初に思ったことだったそうです。
彼女に太陽を贈りたい!
それで、掛け軸を外して、床の間の壁に水で太陽を描いたんだそうです。
それを聞いて、物凄く感激したのを思い出します。
この太陽はお茶席が進んでいくうちに次第に薄くなって、消えてしまいました。
先生は大変な凝り性の方で、このお茶会も、ありとあらゆる思いが込められていました。
棗やお茶碗もこの催しに合わせて手に入れ、特に掛け軸は、わざわざどこからか謂れのあるものを借りてこられていました。
それなのに、実に潔くそれを外して、太陽を描くとは!
先生はいつも、お茶というのは型を覚えるのは大事だけれども、いつもそこから抜け出して、臨機応変、生身でぶつかり合うのが大切、とおっしゃっていました。
ここで本当のお茶というものを見せていただいたように思います。
掛け軸はすべてが終わってから拝見させてくださいましたが。
そこに何が書いてあったか、懐石に何が出されたかなど、今はもう思い出せません。
太陽だけが、強烈な印象と共に、残っています。
先生は出発に当たって、お茶道具一式(お風炉(電動)とお釜、茶箱、盆建て用のお盆など)を手向けとしてプレゼントして下さいました。
ドイツでもスウェーデンでも、よく日本紹介の展示会や説明会で一服点てたり、植物園で野点をしたりと、駆り出されたものです(それも、事故以来もう夢の夢となってしまいましたが)。
これが私の茶道史です。