斉藤由貴/ ガラスの鼓動 (1986) | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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(アルバムの曲順を誤認していましたので、訂正しました)
 
 斉藤由貴がカップラーメンのCMで注目を集めたのは1984年、私が高校2年のときのこと。その時点ではとくに大騒ぎするでもなく、彼女の名前をちゃんとおぼえたのは、翌年リリースされたシングル「卒業」からでした。
 そこから彼女は破竹の勢いであれよあれよという間にトップ・アイドルの座につき、86年にはNHK朝の連続テレビ小説『はね駒』に主演、同年の『紅白歌合戦』では紅組キャプテンを務めるまでに成長します。
 
 もっとも、私はそれほどアイドルに夢中だったわけではありません。中学生になるとロックに興味を持ち出しましたし、歌番組は相変わらず見ていたものの、関心があったのはもっぱら海外のロックの野郎ばかり。小学生時代のキャンディーズやピンクレディーほど夢中になったアイドル歌手というのは、その時期、皆無に等しかったのです。
 
 普通であればいちばん色気づくはずの時期に、なんでだろうと考えるに、色気づいたからこそのコンプレックスが原因じゃなかったかと思います。つまり、どんなに見目麗しい女の子がいても、自分みたいにやれ『ドグラマグラ』がとか、ヴィスコンティがどうしたとか、「悪魔を憐れむ歌」のギターがとか、そんなことにばっかりウツツを抜かしてる男子は、あの子たちには鼻もひっかけられない。唾ひっかけられるのがオチだ、と自嘲気味だった私に、アイドルたちは眩しすぎました。
 
 斉藤由貴の「卒業」は、あの頃まるで競うかのごとく発表された同名異曲でも群を抜くクォリティで、たぶん80年代歌謡曲としても屈指の出来だと思います。しかし私が惹かれたのは、あの曲と彼女の透明感のある歌声のすきまからにじみ出てくるようなパーソナリティーと文芸部チックな佇まいでした。
 実際には、彼女には高校で漫画研究会に入っていた経歴がありまして、まぁニアピンです。というか、変人の匂いがしました。それで、おや?と興味を持ったのです。
 中川翔子がブレイクしたとき、「可愛くなかったら、ただのオタク」という声がありました。でも私に言わせれば、逆です。それはむしろ、「オタクじゃなかったら、単なる可愛い子」なのです。「単なる可愛い子」で充分じゃないかと言う人もたくさんいるし、それはもっともな意見なんだけれども、それでは物足りない嗜好もあって、私がその一例です。そして、そんな私が大喜びしたアイドル歌手が斉藤由貴だったということなのです。
 
 『ガラスの鼓動』は86年の3月にリリースされた、彼女のセカンド・アルバムです。前年に出た『AXIA』も良質のアイドル・ポップスのアルバムです。とくに銀色夏生が作詞はもちろん作曲までして、いい加減にしろよと叱りたくなるほど身勝手な女の子を淡く美しく歌に定着させたタイトル曲「AXIA~かなしいことり~」は、罪作りなまでに完成度が高い。
 セカンド・アルバムでは、ファーストで「卒業」「青春」を手がけた松本隆&筒美京平のチームを主砲に描く斉藤由貴像が、みごとな説得力で迫ってきます。そのベースになっている部分には「AXIA~かなしいことり~」の残響が効いています。それは、繊細で感受性豊かであるがゆえに同時に「ズルさ」も窺える文芸少女、という「等身大の妄想」としての斉藤由貴像です。
 
 アルバムは武部聡志の作曲・編曲によるクラシカルなインストゥルメンタル「千の風音」で優雅に幕を開けます。ヴォーカルは入っておらず、代わりに歌詞カードに彼女の書いた詩が掲載されています。私は、ちょっとだけ苦笑しました。
 かつてナンシー関が彼女を評して「まずは詩を書くことをやめてみればどうだろう」と言い放ち、それには私も吹き出しました。斉藤由貴みたいな女の子の存在をありがたがる自分の感性をズバッと斬られたからです。そういう批評眼に頷くところは、私にもかろうじてありますので、ストリングスと文芸部的なポエムの黙読でアルバムへいざなう趣向には抵抗がなかったわけではありません。
 
 けれども、そこから続く「月野原」への流れは、そんな無粋な苦笑なんか知るかとばかりに、さらなる浪漫と幻想を隅々にまで敷き詰めてゆきます。これもまた彼女の作った詞で、夢見がちな少女の、純度の高い想像力の結晶です。「ガラスの鼓動」という言葉はこの歌詞にあり、斉藤由貴自身とスタッフのアルバム制作に対する表現への意気込みが汲み取れます。
 「月野原」の次に収録されているのは「土曜日のタマネギ」。アカペラのコーラスをバックにした曲で、谷山浩子が詞を提供してコーラスにも参加しています。ちなみに、このバック・コーラス陣には作曲の亀井登志夫とデビュー直前の久保田利伸もいます。
 
 彼氏を待って作っていた料理がムダになった女の子の心を、お鍋の底にこびりついた玉ねぎに託し、それをいきいきと演じて歌う斉藤由貴の表情が聴きもの。彼女は女優としてもコミカルなタッチの演技に定評があって、ひとあし先にこの曲がそちらの才能を開花させた観もあります。
 谷山浩子はここで彼女に並々ならぬものを見出したのでしょう、半年後には、より深く踏み込んで、華奢な感性の「はかなさ」と「ズルさ」をたくみに入り組ませた「MAY」を提供しました。「MAY」は私がもっとも好きな斉藤由貴の曲です。
 
 

 4曲めの「初戀」は、松本隆&筒美京平による斉藤由貴ナンバーとして、「卒業」と双璧をなす傑作です。好みにもよりますが、私は「初戀」のほうを取ります。まず、このイントロが、過去へのノスタルジックな愛おしさと現在進行形の恋のときめきの両方を物語って釘づけになります。

 斉藤由貴の歌唱は音程にあやしい箇所があり、恋に恋する思春期のざわめきと不安定な揺らぎをそこに聞き取ることができます。思いがけない胸の高鳴りに、事態を客観的に自分に言い訳してみせる弱気な冷静さも窺えます。
 それは繊細さや脆さであるいっぽう、「卒業」の女の子が「卒業式で泣かないと冷たい人と言われそう でももっと哀しい瞬間に涙はとっておきたいの」と自分に言い聞かせた、感性の鋭さと聡明さが立ち回らせる不安への保険でもあります。この繊細さと「ズルさ」を一体で表す女の子像は、「AXIA~かなしいことり~」で銀色夏生が導きだしたものと等質です。
 
 バラエティに富んだA面は、マイナーなメロディーでぐっと歌謡曲に近づいた「情熱」で閉じます。これも松本隆&筒美京平。鬼才・相米慎二監督で斉藤由貴主演の映画『雪の断章』の主題歌です。
 私はこの種のメロディーが昔から苦手で、「情熱」もさほど好きではありません。ただ、状況を自分に言い聞かせて客観を保とうとしつつも感情があふれる歌詞には、松本隆の斉藤由貴像が見てとれます。また、低音の箇所で歌いにくそうに声が詰まりがちになるあたり、彼女の思いつめた目の演技とイメージが重なって味わいがあると思います。
 
 B面は「コスモス通信」「パジャマのシンデレラ」「お引越し・忘れもの」と比較的に王道の可愛いアイドル・ポップスが続いて、A面を聴いたあとでは食い足りなさが残ります。「お引越し・忘れもの」なんかは単独で聴くと楽しいんですけど、このアルバムではこの曲自体が「忘れもの」で、主役はすでに別の場所をめざして引っ越してしまったかのようです。
 
 最後から2つめの「海の絵葉書」(松本隆&筒美京平)は情景があざやかに浮かぶようなメロディー、そしてまたしても自分が傷つく前に恋を終わらせる「ズルさ」を淡く澄んだ歌声がオブラートに包む佳品です。「海の絵葉書 読み終わったら あなたの岸に捨ててね」は出色のフレーズでしょう。
 『ガラスの鼓動』は、収録曲の歌詞の端々にこうした「ズルさ」がこぼれて、おろしたてのセーターのようにパチパチと肌に痛い微量のノイズを発しています。そこがいい。それはこのアルバムでより確信的に練りこまれた「斉藤由貴」印です。その意味でも、『ガラスの鼓動』は彼女の実質的なスタートであると言ってもいいでしょう。
 
 アルバムの最後は斉藤由貴の作詞、MAYUMI(「MAY」の作曲者。麗美のお姉さん)の作曲、谷山浩子の編曲による「今だけの真実(ほんと)」。谷山浩子のピアノのみをバックに歌った斉藤由貴の息遣いが、アルバム中もっともリアルに伝わります。道ならぬ恋の哀しさとひとときの温もりを歌っており、その心情の描写力は片手間に書かれたレベルではありません。彼女がこういう気質と才を持った人であることを証明して余りあります。
 
 この曲にうたわれる「悲しい恋」は、今となっては、どうしたってあのスキャンダルのお相手のことを連想させるのですが、その出会いとなった対談はずっと後のことだそうです。しかし、30年たったからこそ言えることだけれど、「今だけの真実」は、『ガラスの鼓動』の他のどの曲よりも、彼女のその後を予感させるあやうさを背負っています。
 
 『ガラスの鼓動』の後も、彼女の独特の美意識と詩情をたたえた音楽活動は続きました。世間の誰もが知る大恋愛が終わったあとに、全曲を彼女の詞でつくりあげた『LOVE』は、傷口をさらけだすような、痛々しいくらいにヒリヒリとしたアルバムでした。名うての作家陣によって織り上げられたファンタジー『ガラスの鼓動』とはまったく対照的に見える『LOVE』ですが、私はこの2枚を「宿命的に近しい」アルバムだと思っています。