秀村欣二先生の師は、古代オリエント学の村川堅太郎である。

夏休みになると、野尻湖経由で、黒姫山の別荘に、何回か訪問した。

野尻湖にある東大のプールは、柴田翔の芥川賞受賞作品である小説「されど我らが日々」にも出てくるが、先生の紹介で、利用することができた。

ある時には、先生の海水用具まで、借用してのプールでのひと時だった。

 

西洋と東洋との出会いは、一代で解決できるほど小さなテーマではないが、人との出会いによって、こうした難問が終生脳裏をかすめることになった。

それはまた、キリスト教社会と東洋社会に関することであり、キリスト教と仏教への窓口でもあった。

上のグループ写真の私から右隣りの二人目が、秀村先生のもとで、東北大学の大学院に行き、ボローニャ大学に留学した坂本氏(現在、青山学院大学学長)である。

 

 

 

 

 

秀村先生は、晩年、トインビー学会で活躍しておられた。

東洋英和女子短期大学が、四年制大学に改組変換する時には、学長でもあったので、四年制の大学設立に殊の外尽力をされていた。

四年制のメンバーには、四方田犬彦の師であり、東京大学の教養学部を退官することになっていた由良君良も入っていた。

 

トインビー学会で、秀村先生の最終講義があった。

場所は、本郷にある東大の階段教室だった。

いつものように、何冊もの本を机の片隅に置いて、一つ一つ取り上げながら、講演は進んでいった。

「地中海世界とトインビー」といったタイトルだったように記憶している。

 

もう一つの記憶がある。

フランス文学の饗庭孝男の講演会が、日本橋の近くであった。

確か、アルジェリアとパリを結ぶアルペール・カミュについての話だった。

秀村先生から饗庭先生は、内村鑑三について、教えを受けたこともあった。

同席した秀村先生は、この講演は、あなたたちのためのものだと、小さく囁いた。

そのあと、今は無くなってしまっているが、「ペック」で、赤ワインを饗庭先生からご馳走していただいた。