はぐれの自画像

はぐれの自画像

旅のこと山のこと、そして短歌を詠む。私の中の私をつづるブログ。短歌は1990年から10年ほど「芸術の自由」社で穂曽谷秀雄さんに指導を受けた。
私の自画像をこのブログに残したい。

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夜中に1時間ごとに絵を覚ますようになった。

6時過ぎに及川さんと荒木さんがきて歯磨きをする。

  

 

なんとなく不安な気持ちになる。字もきちんと書けない。動いてもいいようだが、足を締め付けている機会が邪魔なのだ。

おしっこはでているらしい。自覚がない。

山岸さんが痛み止めの薬を増量した。ほんとうにチューブだらけだ。

11時ごろに郷原さんと浜田さんが来て、着替えをしました。それとテープの所が痒いので貼り換えてもらう。

パンツも履いたし、パジャマではなく、寝間着にしまし。

11:30 歩く練習をしました。看護師の浜田さんが来て、

「ぐんじさん、手術の翌日の午前中に歩く人って、そういませんよ」とのたまう。

「えっ、そうなの?」と聞くと

「凄いですよ」と言う。こういわれたら頑張ろうと思いますね。

いきなりやらずに、1時間ごとに歩くようにすればいい。

「ぐんじさんん、トイレまで歩けるようになったら、尿の管外しますからね」と浜田さん。

笑って頷く。

 

裕子のメールに寄れば、昨日は8時20分に連れていかれて、11時30分には手術は終ったそうで、先生が裕子とあずさのところへ、「終わりましたよ」と言いに来てくれたそうです。

その後30分ほどして部屋に戻されたとのことだ。

 

恵沢さんから話を聞いたら、肝臓に転移しているらしいのだ。それで尻の骨にも転移の可能性があると言われたらしい。想像以上に悪いようだ。奥さんはうすすわかっているようだ。

確かに顔色も悪いし、それに血液がRH+2という変形らしいので点滴も注意が必要だという。

私は転移が無ければラッキーだ。ノートをつけているところをビデオで自撮りする。

裕子が早く来ないかな。裕子には本当に心配をかけたと思う。

気丈に耐えてくれたので感謝している。まさか自分が癌になろうとは予想もしたこともなかった。これからは同年代の人に警鐘を鳴らそう。

 

長谷先生が、6時50分(午後)に部屋に来られて、

「手術は順調でしたよ。リンパ節は転移するといけないいので取っておきましたので、転移は心配ないと思いますが、2週間後結果で見てみましょう。」と言われた。また「熱が高いですね。9度2分まで出たのは髙いですね。しばらく様子を見ましょう」と言われた。

長谷先生に「妻もとても感謝しております。ほんとうにありがとうございます。あとはいいつけを守って早く回復するようにがんばります。」と伝えた。穏やかな先生で、名医なんでしょうね。

「まだ、痛みますけどね」と言うと、「日に日に良くなりますから」と笑顔で言われた。

 

佐藤さんに出会ったら、「歩いてるとみんな驚いていたけど、ほんとうに一日ごとに良くなるから」と励ましてくれた。実にありがたい。

深沼さんの家族が待っている待合室に行ったら、奥さんが寄ってこられて、

「胃を全部とることになったの」と言う。「手術が、6時間近くかかったんですよ。でも転移はないと先生は言われるの。」

「良かったではないですか」「ええ、まだ部屋には戻ってきていないの、やはり心配だわ。」

とやはり、うかない顔をしている。部屋に戻ってご主人の顔を見れば落ち着くのではないかな、と思った。やはり、夫婦ってなんだろうとも思った。

 

昨日の事はことごとく覚えておらず、部屋に戻っても寝ているだけだったそうだが、戻ると娘に、私の姿をビデオに撮れと言っていたというし、摘出した部分も写真に撮ったという。

   

これが、がん細胞に冒されていた部分。間中の膨らんだところだろう。妻と娘は、これを見た後に、昼食でステーキを食べたと笑いながら私に話した。よく食べられたものだと思うけど、これ見ると人間の体も、喰うことはできそうだ。

シナでは人肉を喰う習慣もあったようだし。

午前5時 起きた。トイレに行った。よく眠った。外はどんよりしている。子庫筋う天気は悪い。昨日も雨だった。今年はオリンピックの都市で北京ん開催だが、チベット問題で、成果リレーが、ロンドン、サンフランシスコ、パリなどで妨害されていると言いう。ダイラマ法王が日本に立ち寄って、暴力はいけないと声明をだした。他方長野では沿道にチベットの応援者が横断幕をかかげて、フリーチベットを叫ぶ光景の中をランナーが走るという格好になる。だらしのないのは日本政府で、中国の言分をうのみにすう可能性がある。日本の非武装の思想はチベット仏教に

つながることだ。中国共産党の一刻も早い解党を願いたいものだ。

 

今日はオペの日です。

 

8時には裕子が来る。8時20分には

迎えが来て、準備が始まる。

長谷先生の執刀は午前9時10分くらいからと言っていた。マスイを欠けられるまでに1時間かかる。

手順としては背中か腰の部分に局部麻酔の注射を打たれて、その後痛み止めの薬が注入される。これは術後用だという。もうこの時には神経はない。それから暴行の尿管に管が入れられて、おしっこは自然排出されるようになる。

そう、正面にむかされて麻酔を受ける。私の場合は点滴から入れられる可能性もある。マスイは全身麻酔が口からマスクタイプで行われるかもしれない。

昨日手術を経験した人に寄れば、手術室の光景は覚えていないという。意識がなくなるのだ。

この場合、意識を体から離脱させられたら手術を観察することができるのだろうか?

 

瞑想に入る(5:35-6:00) 眠気が残っていてさえない。

 

今日の担当看護師は水田さん。渡辺さんと同期だという。水田さんが体温を測りにきた。

高橋さんと及川さんの二人が手術に立ち会うらしく準備を手伝う。

7:30まで眠っていた。やっと眠気がとれたようだ。でもまた横になる。

7:35 本当に起きる。覇を磨き、トイレに行く。

8:00 もう着替えた。8時過ぎに裕子と梓がやって来た。ストレッチャーが運ばれて、それに移された。鼻にチューブを入れられた。

2階の手術室に運ばれる。麻酔のせいかだんだん、ぽーとしてくる。

8時20分にストレッチャーに移されて運ばれる時に、裕子が来るので、裕子に、「おれ大日如来が守ってくれているから大丈夫だよ」と突然言ったのだ。そしてその後の事はほとんど覚えていない。

 

・・・・・・日記はこの日の記述はここまでで、次のページは4月15日になっている。8:00からの記述は翌日以降にかきたされたもの。

癌入院日記 7日目(4月13日)

手術の前日となるが、夜中から眠れずにいたようで、この日の一日の記録は長い。

 

1:30 目覚めてトイレに行く。出たけれどまだ茶色い。部屋では深夜なのに内野さんがTVをつけている。

2:30 再びトイレ。今度は大分透明になってきた。トイレに座ってノートを書いている。ベッドでは明りをつけていられない。

安倍慈園著「比較宗教思想Ⅰインド」を読む。この本はインドの宗教史を易しく整理されている。

仏教を理解するにはインドの歴史をよく知らないといけないのだが・・・

紀元前2000年ごろにアーリア人によってもたらされたバラモン教(原始ヒンズー教ととでも言うのかな)が確立され、それの思想として仏教が起こって、紀元700年ごろ、イスラムが入ってきて、仏教がインドからなくなっていく、他方でバラモン教が、ヒンズー教として仏教の影響を受けながら新たな形式になっていった。ムガール帝国が滅ぶとヒンズー教が今のインドの宗教となった。戦後、ヒンズーとイスラムの対立を煽って、インド亜大陸は、東西パキスタンとインドになり、さらに東パキスタンがバングラッデシュになった。

バラモン教の中で、カーストを強く否定したのが仏教で、それを引き継いだのがヒンズー教といえる。改めてインド思想史として研究したら、また違うものが見えてくるかも知れない。

 

3:00-3:30 瞑想 あまり良い瞑想ができない。

部屋に戻る前にトイレに。

平岩さんに点滴の針を抑えているテープを替えてもらう。痒いのだ。

4:00~6:00 眠っていた。

6:00 トイレに行く。ガスが出た。

看護師の平岩さんが体温を測りに来た時に催眠剤を貰えるかと聞いた。手術の前日にはよく眠りたいからと言うと、みなさんそうしていますよ、と言う。

手術の後は部屋移るの?と聞いたら「変わります」と彼女が言うので、「部屋が変わるなら薬は要らないや」と内野さんに聞こえるように嫌味で言う。内野さんにこの会話は聞こえていただろう。

6:30~7:00 83歳の関谷さんとトイレの前で出会い、お風呂の入り方を聞かれた。

ヒゲを短くした。もし剃るなら剃れるようにしておいた。部屋に戻りベッドに座っていたら内野さんがまた怖い顔をして「お前の顔なんか見たくねぇ。」とわざわざ言いに来た。

「お花育てているんですね」と声を掛けたら、「お前には関係ねぇ」と言って自分のベッドへ戻った。

7:00 内野さんは子供の様な人で、夜中もパタパタと大きな音で歩くし、コップを置くにもカーンと響くような音を立てるし、でもラジオの音などは聞こえなくなった。本人も良くわかっていると思うけれど、思うようにならないのを憤りとしてぶつけているんだろうが、ダライラマが言うように、平安の気持ちと憤りは、心の中では共存できないだ。本当は子供じみた行動が恥ずかしと思っているのだろうが、それを止められない自分にも憤っているのだろう。そのように怒りでしか自分を表現できないのは悲しいことだ。自分を律することができないと、他人に厳しく、自分には甘いという人物になる。その典型の一人かなと彼をみている。まあ、明日手術の後は別の部屋になるから、今日でお別れで本心ほっとするが、こういう人に出会ったのがすこし悲しい。自分はああならないように心がけよう。

阿曾さんは、やはり元気がない。鳥海山の写真を見せてあげたいと携帯サイトで探してもいいのが無い。何かしら励みになればと思うけれど、難しいものだ。

 

瞑想の中で問答をしていた。

「身を慎め」ということばが出てきて、それはどういうことでしょうかと尋ねているのだ。

「驕らず、贅をせず、嘘をつかず・・・・」と答えがでてくる。

この「身を慎め」と言うのは、自分がこれからの生活に対する不安についてどうしたらよいかと言う問いかけに答えとして出てきたもののように思う。

瞑想は映像だけでなく、そういうことばも浮かんでくる。言葉と映像が重なればまた違う世界になるのかもしれない。

 

9:00~11:30 ずっとこの時間は待合所にいた。

10時前に部屋を変えられて、811室に。佐藤さんがいた部屋に移動となった。明日は手術の日だから、前日から準備に入るのだろう。

恵沢さんがやって来た。佐藤さんも遅れてやって来た。

佐藤さんが言うには、「自分の進行度は、はじめⅡと言われていたけれど、Ⅲaなんだって」

「私もⅢですよ。aかbか微妙らしい。」

「転移していなければいいんだよね」

そういう佐藤さんは日に日に元気になっていくのが判る。

矢口先生が来たので、便の状態の説明をしたら、心配いらないと言われた。手術するのに下の毛を剃るか剃らないか、きくと剃らずともいいですよ、答えてくれたけど、看護師にはあしたら、顔yは「剃ります」と言う。仕事柄そう思っているようだ。

それから深沢さんが来て、空海の話に及んだ。空海と言う人は実に凄い人の様で、改めて司馬遼太郎の「空海が行く」を読みたくなった。

今井さんが来て、恵沢さんと三人で話す。たわいのない話だ。阿曾さんは一時帰宅を許されたという。外泊できるというのは、本当に末期なんだ、ということらしい。

12:00~12:30 土矢さん、2年目の看護師に手術の同意書を渡す。書類を確認しに部屋に来たのだ。手術の同意書を見せたら、自分も知りたいという。それで同意書の内容を説明してあげたら、彼女は、看護師にきちんと説明できるなんてすごいと驚いている。

驚かれた方がびっくりだけど、彼女に「看護師と言う仕事は使命感をもってやれるので、そのことに感謝しないとね、という話をした。まだ若い子たちなのだが、この病院の看護師たちはみんな自衛隊員なのです。戦闘訓練も経験させられているはずです。

堺さんは師長だそうで、プレートが違うと言う。8Eの病棟は新顔の看護師が多いのだそうだ。

 

12:30-13:00 瞑想

手術に対する心の中の分とか畏れがあれば見たいと思った。初めは真っ赤な光から深青色光にかわり、さまよううちに一瞬だけどチベット仏教の悪魔のような姿が見えたように思えたけど、長く映像にはならずに、クジャクの羽の緑や青色の目の様なものが沢山ながれてきた。次々と深青い光の中に陽の様な物が見えて、しばらくそれを見ていたが消えて、やがて白い光が現れたけれど、そう太陽のような光に包まれたけれど長くは続かなかった。

不安、畏れが現れないかと思ったが。、それ以上は出なかった。やがててらの様な建物がぼんやりあって、今度は大日如来の像を求めてそのその光に包まれようと願った。そうその前にキリストとマリア様を思い描いてみた、やはり求めているものは大日如来だと思えた。しかし、今回も姿を見ることができず、お顔の一部分が微かに見えたかと思うぐらいで、やはり駄目であった。白い光が現れたり、群青色の光と言うかぐるぐる回っている。やがて白くなって醒めた。

 

14:30 針谷さんと成田さん一家がやって来た。驚いたのは千羽鶴を成田さんの会社の人たちが追ってくれたとのことだ。長さ2mはある。最後の仕上げに夜中までかかって追っていただいたそうだ。そえにスキーの仲間が寄せ書きをしてくださった。

15:00~17:00 

 裕子が来てくれて、みんながちょうど帰るところだったのだが、裕子に挨拶をさせて、エレベーターまで見送った。

その後、裕子と二人で部屋で過ごす。裕子に瞑想をしている話をする。

「あのね、手術室を思い浮かべてね、イメージしていたら、段々倉庫の様だけど真っ白な室内に運ばれていって、そこに何人もの白衣を着た人が動き回っているのよ。そしたらね、その部屋の背景に大きな仏様の姿があるわけ。ぼんやりとだよ。だから、私は守られていると思ったんだ。」

「ふーん、そんなこと有るのね。でもやたらとそんな話しないでね。オームみたいに思われるから」と釘をさす。

「私は全く心配していないの」と裕子は言う。

16:30 

風呂に入るので、木下さんを探して、下の毛も剃るのか確認させた。一部剃ることにして、処置室で処理してからお風呂に入るように準備させられた。

処置室で、木下さんが下の毛を剃りながら、

「私お友達に彼を紹介したんですよ、そうしたら彼女に取られてしまって、別れたんです」と嘆いている。明るい子だからその程度の事ではくじけることもなさそうだ。

裕子は私がお風呂に入る時に家に帰った。

お風呂は気持ちよかった。風呂を出て部屋に帰ったとき、恵沢さんご夫妻と出会ったが、ひげを落としたことに気付かれて、「あら、男前になった」などと軽口をたたいた。明日夕方は部屋を覗いてくださいと言ったら、行ってもいいですか、と言うから、どうぞと答えた。(しかし、実際はそれどころではなかった。)

18:00~20:00

 待合室で、深沢さんと、火曜日に手術を受ける人と話をしていた。19:00頃に関谷さんも加わった。

その人が言うには、防衛医大は癌の名医が居て、特に胃癌は二人の先生がいて、長谷先生は名医に数えられるのだという。私は運がいいと思った。インターネットで調べると全部わかるという。8時に部屋に戻り、最後のお茶を飲む。9時以降は水を飲んでもいけない。喉が乾いたらうがいをするだけだ。

20:30 玉置さんが催眠剤を置いていった。彼女は私の顔を見て、「髭が無い方がいいですね」と言う。この子は23歳かな。野々垣さんの2つ上と言っていた。背が高くてきれいな子だ。

「今夜の夜勤は渡辺さんですからね」と言って部屋を出て行った。

いよいよ明日が手術の日だ。どうなるかな。

ベッドに入ってから寝付かれないので、横になったまま瞑想をした。いつものように光を求めて、更に手術室を想念するように、私はこの時間がどれほどであったかは記憶にないけど、間違いなく手術室の光景とその背後に大日如来の姿らしきものを見たのだ。だから私は守られている、と言う安心感のまま眠ってしまったのだ。

 

癌入院日記 6日目(412日・土)

癌入院日記 6日目 (4月12日・土)

2:00 トイレ ベンガデタ。

4:00 目覚めて暗い病棟の廊下を抜けて待合室に行き、瞑想をする。このごろ瞑想が楽しい。

 |  『友を裏切るな』『贅沢はするな』

5:00  光が現れるまで時間がかかった。今朝は映像がでt来ない。そして昨日のように光の中にあることはなかったが、私は自分の心の中を

問うてみた。やはり一番の心配事は貧しくても死ぬまで生きられる糧を得られるかということだった。経済的な不安がいつも私にのしかかってくる。そう思いながら思念したら、真っ黒な映像の中でエイリアンの様なエイリアンの様な得体の知れないものが蠢いて、ボコボコ現れてきたが、しばらくして光が現れて、言葉が出てきた。

「友をうらぎるな」「身を慎め」「贅沢を望むな」・・・自分を律せよという言葉がいくつもでてきた。いくつもの言葉が出てきたが覚えきれない。短い時間だと思っていたが40分も瞑想していた。一度冷めたけど再び、瞑想に入ると、短い言葉がって、「愚者は顧みることがない」「賢者は自分を知る」と言うものだった。正確ではないが、そのような言葉が湧いてきたのだ。謙虚に正直に生きよということ、自分を顧みつつ他所の利を考えて行きなさいと言うことなのだろう。

最初に出てきた言葉「友を裏切るな」には驚かされる。私の仕事がらみの関係での言葉だと思った。

6:00-30 深沢さんとお喋り。瞑想についていろいろ聞かれた。形にこだわらずにやればいいのではと、話した。私は座禅の座り方ができない。要は集中することにあるのでは思う。

8:30-900 隣のベッドの阿曾さんと話をすることになった。昨晩、医者から家族を呼んでくださいと言われていた。今まで話をするムードもなかったので、しっかり向き合って話をした。

山形の鳥海山の山麓の集落が故郷だと話し出す。鳥海山は登ったし、花きれいな良い山だと、私は登った時のことを語る。阿曾さんは昨夜の医師の言葉で落ち込んでいたらしい。自分が末期だと感じているのだ。山形から東京に出てきて、今は入間市の金子に住んでいるという。

小さな畑があるという。阿曾さんが語るのを聴いていた。

東京にはお兄さんの家族や姪がいるのだという。奥さんの事は敢て聞かずにいた。と言うのも入院以来、介護に来る人を見ていないからだった。阿曾さんは、3年ぐらい前から兆候はあったらしい。なかなか我を張って病院に行かなかったという。

阿曾さんの年齢は聞かなかったが、70前後かな。動きが無いから、余計に老け込んで見えてしまう。だが、この大人しい男性の、山形から出てきて今日ここにいる、その人生を思いめぐらせてみる。おそらくいろいろな苦労があったのだろうな、と思うと、なんとか励ましたくなる。同情ではなく、その苦労を乗り越えてきたであろうパワーをこの時にも出してほしいと思ったからだ。

私は癌は、交通事故や脳梗塞などよりも身仕舞する時間がって、死ぬ覚悟ができる病気だから、脳や心臓の病気より良いのだとか、大腸がんなどは生存率が高いから20年以上生きている人も多いとか、要は病気に負けないことだ、などと言って、半ば自分にも言い聞かせているようなことを話したら、阿曾さんも笑顔が戻ってきた。

阿曾さんの歩く時の後ろ姿を見ていると、病気に気持ちが負けているように見える。

「手術、不安ですか1?」ときくと、

「うん」とうなずく。

昨日の麻酔の森川先生とのやり取りを話してみる。マスイを掛けられたら、何も感じないから、怖くないと私は言った。佐藤さんも11時から家族がを呼ばれていて、手術の説明を受けるそうだから、手術の前には、みんなそう言われるのだと言った。更にこの病院は全国でも、手術の回数が多く、癌手術ではレベルが高い病院だから、先生を信じていればいいと思うよと話す。実際それしかない。

阿曾さんとの会話はドラマになる。私は阿曾さんにいつでも声をかけてくださいね、と言った。

この人がすこしでも気持ちを和らげていられるようになれれば、喜んで話し相手になりたいと思っただけで、偽りを言っていたのではない。

身仕舞いのために少しの余裕があるという話は、阿曾さんにも届いたらしく、少しは前に向いてくれたかな。これも自分に言い聞かせているのも同じなのだ。阿曾さんも悪くならないことを祈るけど、わからない。

ただ、癌は死に至る病であることに変りはなく、不安に恐れる人が多いのは当然だ。それは死を恐れることと同じだし、自分もそのことを考えた。だが妻とは、一度もそんなことは話さなかった。私には、あの友達と癌で笑い合って以来、乗り越えられるという自信が不安を抑えていた。

 

9:00 ヒロに電話した。今、長女が9:50に航空公園に着くと言うので駅で待ち合わせてから来ると言う。徹ちゃんも一緒らしい。来てくれるのはうれしい。あずさが12:00ごろに来るようなので、家族で食事をしようと言うメールが入った。いくつになっても可愛い娘たちだ。

10:00 医師面談 長谷先生 ほたかと徹ちゃんとヒロと4人で先生の話を聞く。

 

細胞組織に癌細胞がでた。

進行度はⅢb

病名はS字結腸大腸癌

進行度はⅢでリンパ説に転移しているかは開いてみないとわからない。

CTスキャンで疑いがあるという状況。写真で見るとかなり離れているのでわからないと矢口先生がいう。

  

手術の内容は、患部上下10cm筒で計20cmの切除と、リンパ節の動脈とつながっている部分の枝部分の全部切除となる。

合併症が怖いけれど体調が悪い人などに起こるのであって、よほどでない限り大丈夫そうだ。

輸血はほとんどない。もし輸血が行なわれるような大変な事態だという。

術後はすぐに歩くようにと言われる。それから痰をたくさん出すようにとも。4日目ぐらいに水がのめるとか。切断したところがうまく着かないと内野さんのように苦しむことになる。

基本的には医師にお任せするしかないのと、今日せつめいbのあった手術内容を急きょ帰るとか、また臓器を取るなどと言う場合には家族の承諾が必要だという。

現在の私の体力なら心配はないという。手術にも耐えられるであろう。

それから退院後、5年間生存率は85%くらいらしい。5年間は3月に一度病院に来て、検診を受けないといけない。内視鏡の検査も毎回受けることになりそうだ。その場合にはお腹を前の日から空にしないといけないので大変だ。5年たって転移が無ければ、それなりだ。

今のところ、転移は開いてみないとわからないと言うのですが、なさそうとも言われているので少しは楽な気分である。でも実際には術後2種間絶たないと判明しないのだそうだ。だかrそれによっては再入院もあり得る。

ほたかと徹ちゃんは11時に帰って、16日にまた来ると言う。今日は無理してきてくれたようでうれしかった。これと言って親に気を使う娘ではないが、まあ、その自然体の所が良い。性格的には私に似ていると思うので、なんとなくわかるのだ。

12:00 下剤を飲む

13:00 トイレで全部出したが、その後気分がわるくなった。ベッドでよこになる。

13:30 阿曾さんと少し話をする。

医者の説明を聞いたので、内容を教えてもらった。進行度Ⅳで、お尻の骨に転移していて、人工肛門をつけると言う。

「女房を一人残していくのが心残りなんだ」

「奥さんは」

「家を離れられないので、家で頑張ってくれているんだ」

「そうなんですか・・・」

「左の足がしびれるんだ。先生が言うには、骨がね、癌にね、侵されているからなんだそうだよ。」

「それとね、手術は人工肛門をつけるだけのもので、大腸を切除するのは、もう手遅れなんだろうな。でもね、おれも68歳までいきられてよかったよ。後8か月だって。医者に言われて落ち着いたよ。でもね、後は自分なりに頑張るよ。」

「阿曾さん、そうですよね。生きている限りわね」

悲し事だけど、悲しいとは言えない。それはわかっていることだから。でも病気とどう立ち向かっていくか、病気に負けてはいけないのだと思う。阿曾さんは悟りの境地にでも達したように今までの表情とは違って、とても穏やかな顔つきになっていた。過ごしでも励ませられたと思う。

「あのさ、私思うけど、人は誰でも死ぬんだし、死ぬのは怖くないよね。死んだら楽になるもの。」

私は黙って頷いて微笑んだ。私はこの人に鳥海山の写真を一枚上げたいなと思った。

「阿曾さん、頑張ろうね。でも疲れるから休もう。」と言った。彼はベッドで横になった。

 

14:20 裕子に電話した。3時に来ると言う

15:00 ひろことあずさがやって来た。三人で待合室に行く。

今日は内野さんの家が、娘さんと婿さんが来た。岸本さんにも孫たちがきて、賑やかだった。

あずさが、ヴィトンのカバンを持ってきた。エド君が買ってくれたんだという。エド君はフィリピン人だが、一歳上で、日本にきて15年になる。両親は離婚して母親と子供たちがアメリカに移住してアメリカ人になっている。下の妹は医者になって、弟二人いる。連休にフィリピンに行くと言う。同じ会社にいる。いずれ結婚するかもしれない。

16:30 裕子とあずさが帰った。

岸本さんがやってきて、「むすめさんきれいな子だね」と言った。突然だったので、「あっ、どうも」と答えたが、笑ってしまった。あずさは、わが娘ながらきれいだと思うが、よその人に褒められると、ちょっと照れる。

20:00 待合室で瞑想をしたが、集中できたけれど、あまり良いものではなかった。内野さんが待合室に来て話している。彼がよくなることを祈って瞑想する。花を育てる話をしていた。花を育てる気持ちがあれば、本来はやさしい人だと思う。気持ちの問題だ。40分ほど瞑想をして部屋に戻った。

*いまから12年前の記録 2008年

 

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9:00~9:25 瞑想

ベッドの上で瞑想をする。明るい部屋の中で始めたので、初めは何も浮かんで来ない。ただ朝見たような光を求めて集中していたら、青白い光が現れた。光と言うか、混沌とした闇だが、それに色がついて蠢いているにだが、小さな点の様な光源が見えて、それが徐々に光線になって、段々広がっていく。私は光に覆われるような気分になった・・、いや光に包まれている。

それから黄金の光にも変わった。如来の顔らしきものも浮かんだが映像にはまだならないで大きな形だけがぼんやりと見えたのかな。衣の一部を見ているにすぎない。まるで仏像のほんの一部を見ているようで、その大きさがどれだけなのかわからないで、その足元を飛遊しているのだ。

光りを呼び出すことが少しるようになった。然し、早朝ほどの集中は得られずに、看護師の声で中断した。再び白光に包まれた時は体が温かく感じた。

 

9:30 今日は曇りだ。

9:30~10:00 点滴の入れている針の部分が痛く感じられるので看護師さんを呼んで訴えた。

とても痛いので、針を抜いてもらい、お風呂の後に、付け替えると言うことにした。

10:00-45 東棟の待合室で、また瞑想をする。

人がいるところで始めるには勇気がいる。でも始めてしまえば気にならず、気持ちがいい。

しかし、なかなかイメージが湧いてこない。だいぶしてから暗い中から青白い光が現れき、その光の色がいろいろに変化する。緑色の教会のステンドグラスの様な物が現れてしばらく見ていた。青色にもなったが、まだ模様までははっきりしないし、像がまとまらない。

しかし、その後に素晴らしいことが起こった。

真っ白な光が現れた。この光を待っていた。その光が前面に広がり、まばゆいその中を遊泳する。まるで雲の中を飛んでいるようで、物凄く気持ちがいいのだ。その光に大日如来を探したが小さな像が見えたけどすぐにきえてしまい、瞬間のことだった。あとは青灰色の色合いになり、集中力がきれた。

ふたたび席に座りなおして、瞑想をする。

二度目の瞑想はすぐに光が現れて、それも青白い鋭い光で、その光が見えたり見えなかったりして、手術のベッドを思い浮かべてみた。看護師や医師が動く姿と、腹を切り裂いた場面が見えた。私の内臓が赤黒く見えた。でも具体的に処置されている場面ではなく、医師の顔も見えなかった。しかし、それの光景全体を白い光が包んできて、その中に消えた。

この光が私にはとても気持ち良いものに思えた。この光が持続できる瞑想ができるようになれば、どんなに良いだろうか。やはり、周りの音に集中力が切れた。

11:00 部屋に戻る時に、深沼さんと出会って、また待合室の席に戻り、2人でお喋り。

瞑想の話をしたら、深沼さんもやるけど、映像は出てこないという。彼は道元の本を読んだり、弘法大師の本を読んだりして、仏教に詳しい。真言密教の念仏もスラスラ出てくる。

仏教を学んでいるようだけど、どこか迷いがあるのかな。

11:25 看護師が深沼さんを呼びにきたので、分かれて部屋に戻り、お風呂に行く。

11:30~12:00 お風呂。今日は集めで気持ちがいい。これから、3時まで再び本を読もう。

12:30 山岸先生が見えて点滴を付け替えてもらう。

下の毛は剃ること、ひげは麻酔の先生が判断すると云う。

当日8:20分ごろに山気治先生が来て手術の準備のために鼻に管を通す処置をするという。当日はそれが一番大変らしい。少しオエッとなるらしい。それ一番苦手なんだけど。

それから、私の手術は、20センチ以上の腸を切るとのことだ。私の癌の位置は深いらしく、大腸は奥にあって、手前の小腸どけてから手術するのだという。深いというのは腹部の奥と言う意味だろう。私の症状は軽くないみたい。

山岸先生に「がんが転移しているかどうかは、開けてみないとわからないンでしょう?」と聞いたら、「詳しくはあけてみないとね」と答えてくれた。「悪いことは何でも話してください」と頼んだ。もし、転移があれば腹を据えて対処するしかない。

ほんとのところ、開いてみて術後の判定を待つしかない。明日(土曜日)先生の説明がある。それからだ。

11:00ごろキグナスの竹沢さんから電話あって入院していると伝えたら驚かれていた。

13:00-13:30ネプライザーの説明

 ネプライザー

看護師の野々垣さんが来てネプライザーの説明をするからと言って、私と今井さん江沢さんが呼ばれた他に深沼さんと二人の男性が、系6名が処置室で扱い方の説明を受ける。

これはタンを出しやすくするための薬を吸引するもので、10分間の間に深呼吸するものだという。煙状のものを吸い込んでは出すという動作を10分間の間に繰り返す。実験台のつもりで最初に私がやったらむせてしまった。なれれば大丈夫とのことで、術後は部屋でやるとか。

14:00ごろ、廊下を歩いていたら女性とであった。日本人と結婚している台湾の人だと言うが、胃と十二指腸の間に腫瘍ができていて切り取って、つなげたけど、幽門が引っ張られて、うまくつながっていないのだという。内視鏡で広げるオペをするのだそうだが、もう手術は嫌だとこぼす。まだ40前だろうか。家族のために頑張って、と声をかけた。

15:00 裕子が来る。

15:30 森川先生、麻酔の先生で、麻酔について説明して同意書を取りにきた。マスイ役による合併症について説明してくれた。いろいろの項目にチェックを入れていく。アレルギー体質だとショック死に似た現象が出るのだそうだ。裕子と一緒に説明を聞く。

 

岸本さんは冗談も出るようになって、かなり元気になってきた。内野さん夫婦が出て行ったので、岸本さんと江沢の奥さん達としばらく楽しい話をした。

16:00 裕子は彫金の為に帰る。其の後しばらく本を読む。

17:00-17:30病棟の中をうろうろ散歩する。

17:30-18:00を読む。

18:00-18:30 待合所で瞑想をする。しばらく集中指定ら、光を呼び出すことができるようになった。はじめ雲のような状態が現われてその上に太陽のような丸い白光が現れてきて徐々に大きくなってくる。この光にしばらく集中して、その中に入っていく。それからしばらくして、その光が青色に成ったりしながら、やがて黄金の色の光に変わる。この黄金の光を見るとほんとにきれいなのだ。寺院の内部のようにも見えるし――今日は建物の壁面のように見えて、御堂の中にいるようなのだ。さかんに仏像を浮かべようとするのだが、姿を得ることができない。顔の眉のあたりが浮かんだり、所謂部分しか浮かばない・・・これ修業が足らないからでしょうね。結局像を見ることなく瞑想から覚めた。30分程度はいつでもできるような気分になってきた。

 

部屋に戻ったら、江沢さんが声をかけて北。

「ソファーの上で善く瞑想ができるね、感心しちゃうよ。私なんかすぐ姿勢が崩れてしまうのだ」と言う。

「体動いていないですか?」

「動いていないね。」

自分でも驚くほど体が動いていないのはわかる。周りの声や動きはわかるけど、集中が途切れていない時は、動いてないのがわかる。集中しているとなかなかやめられない。今回は30分程度で瞑想を解いた。

19:00 トイレ、おしっこ、トイレの中は明るいので便座に座って本を読む。2回排便があった。

20:00-20:20 待合所で読書

深沼さんが瞑想をすると言ってはじめたが、やはり5分と続かずにやめてしまった。看護師が来て天敵が無くなっていると言うので、ナース室にいって、高橋さんが点滴を取り換えてくれた。今夜は彼女が夜勤のようだ。

21:00 寝付けないけれど、無理無理眠る。月曜日が手術だ。どうなるのかな。

明日ほたかが来る。やはり娘には会いたい。

 

2008年4月11日(金)

2:00 トイレ

5:00 トイレ

5:30~6:10 瞑想・・・ とてもすごいものだった。私はベッドの上に胡坐座になり、半眼にして膝に親指を中に包んだ拳を置いて、背筋を伸ばし腹を引っ込めて深呼吸して肩の力を抜いて、息を吐き出して瞑想の姿勢に入る。目の裏側に暗闇があり、そこに手術室をイメージしようと集中した。像は浮かんでこない代わりに暗闇がうごきだし、もやもやと煙が湧くように蠢き始めたら、赤黒い色や濃紺の色などが動き始めて、その遠いところから小さな白い丸が現れて、見え隠れする。しばらくして万華鏡の様に動き出すのだ。白い光を追う。やがて黄金色の光にであった。その光の中に大日如来の姿を求めたが姿をえることはなく、そのまま薄暗くなって夜明け前の薄明りの地平を見ているようだったが、それっが突然、ヒマラヤの山々の上空を飛んでいるのだ。そしてヒマラヤを越えてチベットの高原の上を飛んでいるようで、寺院を求めたが寺院は現れずに、夜明け前の紺色の中を飛んでいるのだ。そして黄色い光が現れてそれが徐々に強い光になって、その中につつまれていく。やて草原の上を飛んでいて鹿などが遊んでいて、蝶が飛び花が咲いている場面を見ている。そしてこんどは森の中にはいっていく。熊野古道の様な道で大きな木々に覆われていた。そしてまた黄色い光が現れて、その光の中に仏像が一列に並んでいて、それらを後法の上から飛びながら眺めているのだが、お顔は見えない。

それから黄色の光が一段と鮮やかになり、光に包まれる。心地いい。心が落ち着く。その光の中にいるのではなく、それがまた動き私は大日如来のおそばにいるのでは思えた。印を結ぶ手を探すように私は宙を飛んでいるのだが、その姿の全体像が見えない。ともかく大きいのだ。そのお姿を見ることもできず、その顔をみることもできないが、その光にのって再びヒマラヤの雪山をみる。まるで大日如来の光に乗せられて飛んでいるようだに。再び大日如来の像を求めたが、現れず、光があるだけで、瞑想は終った。

ちょうど午前6時を過ぎて、周りで人が動き出している。40分も瞑想していたのだ。それだけ集中したのだ。うれしい気分になった。

 

瞑想して、目の裏額の当りに黒いスクリーンが現れて、そこに集中する。私の中にある「意識」が像になるのだろうか。

死後、その光明と一体化することが解脱することのように思えた。光明の中で浄化されるのではないか。世俗での行為、体や心にある執着が強いと、この光明との一体化はないのかもしれない。

世俗の「私」に執着しないようにするのが修業なのだろう。この世に執着することは、成仏できないことなのだ。後悔を残すことは、その一つだろう。キリスト教で言う「救済」と同じ構造をしているのかもしれない。

 

*娘がアメリカに留学した時のホムスティ先のご主人が、突然の事故で急死されたあと、しばらくして娘がアメリカで奥さんに会い、お悔やみの言葉を述べた時、彼女は、「マイクは今イエス様と一緒だから悲しいことはないわ」と言われたそうなのです。

*私の父が亡くなるときの光景を思い浮かべます。苦しみから解放された時、とても穏やかな顔になった。あれは間違いなく御仏の巧妙に包まれて旅だったのだと思う。

「父逝く」 https://ameblo.jp/katsumigunji/entry-12435775604.html (1月6日のブログ)

 

8:00 食事どきだったので部屋をでたら、佐藤さんに出会ったので、部屋に入って少しお喋り。佐藤さんは術後3日目だ。

そこへ副師長の境さんがやって来た。顔をだして佐藤さんの様子を見に来たようだ。

佐藤さんに術後の様子を聴く。術後1日目は体を動かすだけだけど、2日目から歩くと言う。佐藤さんは腹に力が入れられないので、歩くのもままにならないという。術後の経緯を聞かせてもらったけど、まだ長く話すと疲れるだろうから、早々に退出する。

佐藤さんは手術が午後2時の予定だったのが、午後6時になってしまい、たいへんだったみたいで、手術は早い時間が良いという。待つのもつらいものがある。個室に移された時は鼻から管を入れられていたという。手術前に下の毛を剃るのだが、自分でやってもいいと言われるようだが、剃ってもらった方が良いという。手術は2時間で終わり、午後8時すぐには部屋に戻ったという。

術後9日以降には退院の可能性があるという。3日目に水を飲んでよく、4日目から重湯が出ると言う。佐藤さんは2月に病院にきて、入院まで2週間待たされて、その間、通院して検査を受けて、3月7日に入院してから手術まで一月待たされている。その待つ間が一番つらいかったと言った。これからは回復を待つだけだからと、気分も楽だよと言う。更に退院まで2週間はかかるだろうと言う。

転移を調べるのに2種間ほどかかるそうで、医者にも言われたそうだ。それからネプライザーは練習しといた方がいいよとアドバイスを貰う。まだ道具ももらってないので、ナース室にいって説明してくれるように頼んだ。

8:40 トイレ

 

2008年410日(木) 4日目

1:00 目が覚める

2:00  〃    トイレで読書

3:00  〃

4:00  〃    瞑想を試みたけどダメ、眠い

5:00  〃

6:00 目が覚める 今日は眠ることに眠ることに失敗した。

8:00 ヒロに電話する。気分の悪さは治らいい。寝不足だ。今日はすることがないので読書をしよう。

部屋の住人   窓側

        内野さん  阿曾さん

        今井さん  私

        恵沢さん  岸本さん

4時に瞑想を試みて、シャリブーのことを想ったけど、集中ができずに5分と持たなかった。やはり眠い時はダメなのかもしれない。

◎  瞑想について

 瞑想の対象

1 瞑想の対象を確認する

4つの対象  

①行いを浄化するための対象

②方便に巧みな対象

③煩悩を浄化するための対象

④普通の対象

貪りのこころに満ちた人は対象として「醜さ」を、

                   ⇒物質的肉体の本質を調べつくす。  

怒りに囚われた人は「慈しみのこころ」⇒無明にひたっている人の対象

   ↓                   ↓

慢心を減少させる              十二縁起   

 

瞑想の対象はなんでもよい

瞑想とは外なる対象を愛で見るのではなく、対象物のイメージを心の中に出現させることを言う。このイメージは「影像」と呼ばれえ、これが瞑想の対象となる。

2 対象との関係 <心をどうやって対象にとどめるか>

ⅰ瞑想すべき対象を導師から教えてもらう。

ⅱその瞑想の対象について繰り返し革新を得るのです。対象は鮮明に観察されなければならない。それは光そのものでできている。

ⅲ 止の状態を養う。対象の影像を一定に定まるように「止」の状態を養う。

  注意深く、対象を見失うことが無いように努める。「正知」を養う「因」になる。

ⅳ 対象を維持している間に必要な2つの特性

 ①対象だけでなく意識の際立った鮮明さ

 ②観察対象の一点に集中していること

対象の鮮明さを防ぐ気の緩み(惛沈「こんちん」)と興奮

 

Ⅱ 内なる対象の瞑想

自分自身のこころを瞑想の対象に選ぶ。

過去の出来事、未来のことなど考えずに、一切の観念的思考が生起しないように、自分の心をあるがままの状態にしておく。

意識はどこにあるか。

  心の意識と眼識

   ↓

  感覚意識に頼らない。

*心の意識・・修業を続けていくと意識は輝きと知の実体として知覚され、或いは感じられ↓   る。対象の影像をも生起させることができる。

 『フォース』と呼んだもの、または「魂」

意識の実体は間接的原因(縁)がととのえば、いかなる対象の影像をもせきさせることができる。

 

心は空のままの状態にある。

出逢う→ | ←概念的思考という外的な環境に   

       実態 (自分の心を瞑想する)

朝に瞑想する

「私なるものは何か」

 

Ⅲ<私>

究極的な本質を識別することうを可能にする3つの瞑想法

 諸現象・・・・物質的要素の集まり

   ・・・・心的要素の集まり 

<私>によって使用される諸現象と諸現象の使用者である<私>

 

世俗に存在する<私>は、実際には存在しない。 

 非存在性=無我 ⇒人が分析的に《私》なるものを見いだした時にみえるもの。

 

分析を欠いた世俗的な心に現れる<私>は行為者の集まりの基盤の上に機能する。

→何かによって生起する<私> → 世俗的な真理⇒俗諦

 

自ら成立した、あるいは独立した<私>は存在しない

(私は世俗的な《私》と結びついて自覚しているだけで、本来の私をつきつめていくと<私>は存在していないことに気付く。これが、⇒<私>なるものの自性を欠いていることが究極の真理(真諦)で、⇒「空性」と言う。

諸現象を同じく自性を欠いている=空

全ての減少は世俗的な《私》となる。

《私》の本質は無であり、空であり、それ自体は非存在のもの

意識の根源にたどり着く、意識の実体そのものと合体するかもしれない。

それで世俗的な<私>が今存在しているわけで、それ故に<憐れみの心>と<菩提心>を起す必要がある。                          ↓

                            合体して空になるものに

                            (知恵を養う)

                            (憐れみの心)

                               ↓ 

                              光明の心

 

光明の心・・・空性と渾然一体となった憐れみの心と菩提心

  ↓

 (空)・・・・ 空性の認識

  ↓

 (一味)あらゆる現象が根源的に同じ本質を有していること 

  

以上、ダライラマ儲『愛と非暴力』(春秋社)から学ぶ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

10:45 ほたか(長女)にメール。あずさは土曜日の10時には来られないと言うので、ほたかに医師の説明を一緒に聞いてもらいたいとメールした。ほたかは事情をのみこんで都合をつけると言ってくれた。裕子は頑張ってくれているけど、やはり娘たちが支えていて欲しいと思う。あずさはまだ幼い。

11:45 昼食の時間 今日は早いと思う。私にはない。

12:00-12:30 お風呂に入る。湯はぬるめ。湯船に湯が入るまで時間がかかる。頭をあらってさっぱりした。

13:00 仕事の電話が入る

今日は昼過ぎにDVDをみていたが集中できず、待合所に行ったら、今井さんがいたので話をしていたら恵沢さんがきて、3時ごろまで世間話をしていた。

3時半ごろに瞑想を始めたけれど、ラジオの音で集中できなくて、またやり直し。ただ大日如来をイメージしていたら黄金職の仏像がすこし浮かんでききた。その像を維持しようとしたが、ラジオの音で消えてしまった。

岸本さんからのアドバイス、腹帯は2枚あればいい。選択できれば2枚でいいとのこと。ヒロに伝える。

 

内野さんの奥さんが来て、小声で私に話す。

「2月17日に入院して、3月5日と14日と二回、たんこう胆嚢を手術した。同じ場所を遣ったので治りが悪いみたいで、本人はかなりイラついているの」と言う。

「皆さんとお話しするのは好きでないのでっすみませんね」と言った。

 

今井さんは富士見市の人で、子供が娘2人で孫6人だという。もと洋服の仕立て屋さんだったけど、途中でやめて西武の下請けで直しの仕事をしていた。少し元気がないのが気になる。

16:15 血圧102-158 高い

17:00 -05 トイレ まだ茶色の水だけになっている。白くならない

食べるものがないから楽しみに欠ける。

 

今朝の新聞の新医療制度75歳以上の負担増の問題。

もっと取り上げて廃止にさせるべきだ。いつから弱い者いじめをする国になったのか悲しくなる。小泉政権のもたらしたものは発想を変えてしまったと思う。

いつの間にか弱者切り捨ての思想になった。アメリカ追従のつけが出てきた。

こんな国に住むのは本当につらいことだ。貧しい者を救えない政治と言うのはなんだろう。中国と五十歩百歩の政治としか言いようがない。

 

私がもし状態がわるくて最悪の事態であったとしても、今の様な気持ちでいられるだろうか。今の気持ちを言うならば、医師の言うこと看護師の言うことを素直に聞くだけでる。疑うことをしない。病気についてもなにも疑うことをしないし・・・・

 

17:45 夕食 :私はなし

18:45 裕子帰る。手術日には娘たちは来られないみたいなので、裕子に頑張ってもらわないといけない。

18:55~19:21 瞑想

少しずつ長くでき猟になる。今日は、目の裏側と言うよりも額の部分、半眼にしていて、目の明りの上、鼻の付ねから上、額に欠けた部分がスクリーンのようになって、そこに黒い巣スクリーンができる。そこに集中していると紫色や、水色、金色の光のようなものが見えた。ただ具体的な映像にはならないが、いろいろな色がまざりあって浮かんで流れていくのだ。

手術の場面を対象にしていたが、対象が得られることはなかったが、代わりに光のようなものを見る。また大日如来を心に思ったが、大きな仏の一部分の様なものを見た。

確かに瞑想を実践すれば凄いものになりそうだ。

私ははっきりはえがけないけれど、今は私の守護神の大日如来が私をまもっているのだという思い抱くことができる。たぶん麻酔をかけられて手術中、意識はあると思うが、多分迷走状態、つまりトランス状態に入っていればいいと思う。途中で点滴を変えに看護師の土佐さんが来たが、瞑想が途切れることはなかった。やはりこれは修練だと思う。

仏教であれ、キリスト教であれこの瞑想はとても素晴らしいことのように思える。

部凶と言うものの本質と言うか、仏教を理解するのに欠かせないことのように思える。

 

シャリブーの事が心配だけど、今日の新聞にネパールの選挙のことが記事になっている。毛派と与党とさまざまに分かれてかなり激しい状況で、不測の事態となっている。たぶんシャリブーは国内の情勢で動けないのかもしれない。

(*その後、シャリブーとは遂に会うことはなかった。)

 

隣の阿曾さん、夕刻に医師が来て、土曜日に手術の説明をするという。その際に家族や一緒に住んでいる人は多く集めて欲しいと言っていた。医師は「相談することがあるので」と言っていた。

阿曾さんは末期癌なのだろうか。

恵沢さんは、胃カメラでどこか傷ついたおかで、今日の湯方治療に行って帰ってきてから言う二は、どこか他にも癌があるみたいな話で、医者も癌かどうかわからないと言っているというのだ。阿曾さんは今日は小平の温泉に外出していた。結構多く通っているようで、それが楽しみらしい。

この病院で、自分は思うのだが今のところ大変に運が良いしか言いようがないのだ。手術にしても入院して1週間で行われるし、医師の説明も家族集めてなんて言われていないし、大腸以外のことは心配されていない。

よしんば今回はこれで終わったとしても、再度発生する可能性もあるだろう。またほんとうに自分以上に酷い人が大勢いるように思える。これはやむを得ない事態なのですべてを受け入れて積極的に対処するしかないと思える。ともかく今のところ私はラッキーだと思っている。

私の病院での過ごし方もかなりユニークである。自分は目的的に入院していると思う。本を持ち込み、DVDプレーヤーも持ち込み、時間を過ごす計画を前もって立てている。

こういう入院患者はいないだろう。だから私は与えられた時間を愉しんでいる。(何よりもこうして記録している。)ただ思うように内容を理解できないだけで、先に進まないけど。チベットの死者の書など難しい。でもチベットとの関わりを持ったので知る必要があると思った。

多分、退院までに本を読みきるのはできないだろうが、無為に過ごしたくないので、ビデオやカメラを持ち込んで自分の記録映像を作ろうなどと言うのは変わりものに思われるだろう。

70を過ぎると、ある意味で、「もういいか」みたいな雰囲気が出てきているように思う。本当に気が弱くなるということなのだ。それとやはり楽しみが少ないようになる。

そういう意味で私は自分の今の在り方は、他人に変に思われても自分的には良いと思っている。このような思いを持つようになったのも、大学に行けたおかげであって、両親に感謝している。そう思うとまだ感謝の表し方が足らない。ずーと足らないのだ。

21:30昨夜は眠れなかったけれど、今夜はぐっすり眠れるといいのだが、明日は3時に顔を出してから彫金に行くと言う。

 

正直 大腸がんの摘出だけで終わることを願う。

 

韓国のガイドブックを持ってきてもらって気休めに見ているが、確かに料理を食べに出かけてみようと言う気にさせる。「歩き方」を見ていると行くとしたら光州エリアかな。百済の地で日本史との係わりも深い。あとはパンソリを聴いてみたい。映画の題名を忘れたが、パンソリのいい映画があった。

22:35 トイレに起きた。

今日は三日目です

1:45 トイレ(小水を取る)

5:55 目が覚める

7:30 教授回診ではないけど、溝口先生が見えて、「月曜日にオペ」と言うことで決まったと伝えにきた。

娘に「死者の書」の購入を頼む。

7:45 矢口先生と山岸さんに濾過でウ出会い、月曜日といわれたと伝える。禁食になるので今日から点滴が飯代わりだ。

7:55 山岸さんがきて同意書を再度取りにきたあ。なくしあtらしい。これから二週間ちかく、禁食でっす。

 9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20

 水.木.金.土.日.月.火.水.木.金.土.日

                        水だけ    おもゆ 

           安静が必要 

一切食事なし。お湯、お茶、ジュース類は飲んでもいい。固形物一切ダメと言うことになった。

ムーベンを呑まされる。2リットルも飲まされるのはつらいし、まずい。

8:30 トイレ→効果あり

9:00~30 トイレ 下剤の項か 点滴を山岸さんが付に来た。彼はインターン。

9:40 内視鏡検査で2Fに。矢口先生が検査担当。

山岸さんは26歳の検査医、矢口さんは35歳。二人とも防衛相の任官で、自衛隊では山岸さんが2等陸尉(中尉)、矢口さんが3等陸佐(少佐)クラスになる。学生が二人来てから教えるように矢口さんが検査を始める。

内視鏡でお尻から入れて15cmぐらいのところで、癌部を見つけて確認する。これ以上進めると破れるて緊急手術になって仕舞うと言う。前回と同じところでお仕舞い。

「先生、癌ですか?」

「癌です。」と矢口さん。そして

「手術は教授が行ないます。それで先生から手術に立ち会う人に土曜日の午前十時に説明があります。大丈夫ですか?」と言われたので、「妻に連絡します」と答えた。

「手術の時は時は何かあったら本人を起すわけにはいかないから立ち会う人と相談して決めるので、詳しく説明しておきたいのですよ。」と言う。それで、検査終了後にヒロに電話とメールで連絡を取った。

10:10 野々垣さんが来て、呼吸訓練をしているか確認しに来た。後で、違うのを遣りますと言っていった。あかるくていい子だ。

オペラの椿姫1幕を見る。イレアナ・コトルヴァシュとドミンゴの組み合わせ。メトロポリタンの昔のもの。ヴィオレッタの歌が素晴らしい。

12:00 昼食はないので、辛いけど、これは修業だ。

12:40 針谷さんに電話をしたら、日曜日に3人くらいで見舞いに来ると言う。

この際だから仏教の事を少し勉強しようと思った。今日は瞑想はしていいない。

午後から検査;注腸検査、お尻からバリュウムを注入してレントゲンを撮るのだ。これが何とも厭らしい。

 

今日はとても静かだ。手術を終えた佐藤さんは個室に居て、のぞいたら眠っていた。

隣のベッドに移って来たのがとても暗い雰囲気の人だ。この部屋で4人くらい人がいるので、この部屋から出たい。

瞑想していたら眠くなってきた。

13:00 今日検査が終わると4日ほど何もないのだ。今はおなかを空にすることが大事なのだ。だからトイレに行くのが仕事みたいだ。

13:30 トイレ 白く濁ったバリュウムが出て一安心。

13:50 注腸検査の呼び出し。トイレに行く。最後の残りが出た。2Fの14号室で矢口先生が待っていた。お尻の割れたズボンに着替えて検査を受ける。お尻からバリュームを注入。空気も入れたり。体をいろいろに動かしていく。画面にかなり大きく見える。人間の体は実に巧妙にできている。腸の動きも見えた。

14:15 隣の奥さんがやって来た。もう退院なのだそうだ。胃を全摘視したと尾言う。種々後は元気がなさそうだが、かなりの年齢なのかな。71歳だという。

奥さん同士が仲良くしていたら、右奥の人が「うるさい」と怒鳴った。この人は顔つきも良くないし、もともと怖い顔つきだが、余計に気がめいるのだろう。之では治らないと思う。病気に負けているのだ。重病かどうかはわからないけど、気持ちの持ちようが悪いのだろう。私の右隣の人は東北の出で、訛りが強いので余り話したがらないそうだ。怒鳴った人は鼾をかくので迷惑千万。

15:30 トイレ(尿だけ)

16:00 手術の前の準備のことで郷原さんが説明する。3人同時に説明を受ける。その間に気付いたら天敵が空になっていた。少し気分が悪いと思ったら、天敵が空だったのだ。点滴の針の所から血が出ていた。急いで野々垣さんに連絡して、もらう。部屋に戻ってくださいと言うので部屋に戻ると彼女がいた。急いで処置してもらったが気分が悪さgしばらく治らなかった。

17:30 裕子がやって来た。

隣の人は71歳で、月曜日には退院だ。奥さんがも見えて仲良く話をしている。

私は63歳でっこの病室では一番若いようだ。裕子が本を持ってきてくれた。

18:00 トイレに行った時に、奥の怒鳴った人の奥さんに出会った。

ご主人は胆嚢の手術を2度して、2月から入院しているけれど、皮膚の接着がうまくいかないらしい。それで退院できないのだという。だかrイラついているらしいのだ。奥さんに周りがうるさいと言うと言う。頑固な性分らしい。苛立てば余計に病気に負けてしまうだろうに。

18:30 婦長さんの巡回があったので、気分が悪いと訴えた。血圧が上がっているのかもしれないので計ってほしいと頼んだ。例の人はTVをイヤホンをつけづに見ている。音が漏れている。

なかなか血圧を測りに来ない。忙しいのかな。

19:30 静かになった。TVを見ていた人は寝てしまった。今日は気分的に疲れただろう。私のお腹がなxる。これからずっとこの調子だから、これに慣れることだ。

手術の前にひげを剃らないといけないという。仕方がな。明日から4日間することがない。土曜日に手術の説明を受けるだけだ。

隣の人が言う二は、手術の準備ができて運ばれる時には麻酔がうたれて鼻から管をいれられて、さらに尿道に管を入れられたりしても、もうわからないという。あとはなるようにしかならないのだ。

19:35-53 瞑想

はじめて、15分を越える瞑想ができた。カーテンを閉めたベッドの上で胡坐座に座り、両手の拳を膝の上に載せt姿勢を伸ばして目を薄目にして1.5m先を見つめるようにして呼吸を整える。

目を閉じると瞼の上にスクリーンができるのだ。顎を引いて背筋を伸ばす。そのスクリーンに映像が浮かぶように瞑想をするのだ。私は自分の手術場面を瞑想で描き出す。ストレッチアーに乗せられて、方に麻酔薬を打たれて、その後の事を浮かべていたら、手術の時に大日如来が見守ってくれているのが浮かんで来た。

 

(*2008年のノートに書いてある通りに書き写しているのだが、自分の記憶では入院3日目で、このような瞑想をしていたのかと驚いた。もっと後の事のように記憶していたからだ。でも実際にはきちんとノートに書いてあるので間違いないだろう。)

 

これは突然の事だった。まだはっきりと映像化されてはいないのだが、種々質の白い壁の背後に大日如来の姿を見るのだ。その姿はとても大きくて手術室は如来の胸の当りなのだ。

ともかく明確な像には至らなかったけど、こんなことは初めての体験だ。

倭t氏は手術の手順を菽持って瞑想で獲得しておけば手術を畏れることはないと思って瞑想しただけなのだ。大日如来は妻の守り本尊で、私は不動明王なのだが、不動明王は現れない。ぼやっとではあるが瞑想で得られたことは凄いと思ったし、恐れることはないと確信を得た。更に強い確信にしたいと思う。まだ15hン程度で終わってしまってはダメだ。この瞑想と言う手法を知ればチベット仏教の言うところのものに少しでも近づくことができるかもしれない。

20:00-2100 消灯時間前に待合室に出かけた。ちょうどそこへ手術の説明っを一緒に受けた人がいたので話しかけた。その人は胃癌だという。毎年胃カメラの検査をしていたのに、昨年(2007)はいていなかった、今年見つかったのだという。全摘か一部の摘出になるかはまだわからないそうだ。昨日の説明のあと医師から説明があって、開いてみないとわからないということらしい。仕事は現場関係で前途られると困ると思っているようだ。歳は私と同じで昭和20年の12月生まれ、半年違いだ。

彼が言うには、仏教に関心を持っていて、広く浅く本を読んでいるという。

「輪廻とかあ前世とかはヒンズー教が言っていることで、仏陀は言っていないんですね。私は仏陀の時代の仏教が良いと思っています。阿含宗とかね」

おもわぬ話に展開した。

「癌になってね万が一死ぬようなことがあれば、その時に子供や妻を残していくかと思うと気がかりになりますよね。あれっこれ思い悩んでしまうだろうけど、突然氏が来てお仕舞いになる。」

死に際に悔いをもっていると成仏できないと思って私は霊体験で生みの父親に出会った経緯を話してから、「残りの時間に、自分が旅立つ前に、残された自分が居なくても自生していけるように話し合うこと、家族が集まり合って自分が居なくなっても、『やって行けるよ』と言われるようにコミュニケーションを取ることが大事ではないかと」と私は言った。

「自分は小さなか会社をやっていたけど、60になって、それに執着することもないと思ってやめてしまった。今は下請けになっているんだけど、初めて周りの人達に生かされているのだと思えるようになりまsでぃた。・・・会社をやっていると見栄とか外見を気にしていたけれど、今、病気になったら長男の嫁がメエールで『御父さん頑張って』って、言ってくれた。私は「あなたたちが私を思ってくれるほど、あなたたちのことを思っていただろうか』と返事したのだけれど、そうなんだよね、周りに生かされているんだよね」と少し笑いながら彼は語る。

「奥さんは健康ですか、奥さんが健康であることに感謝したことありますか」と私。

「息子や娘たちには偉そうに口で言わなきゃだめだと、言っておきながらっ自分では言ってないね・・」と、私の顔を見る。

「奥さんにありがとうと言わない人が多いんですよね。悔いを残さないためにも、奥さんが、私が生きていてよかったと思ってくれるようにしないとね。これからは近くの家族の者たちに感謝しながら、また多くの人にありがとうと言う気持ちで残りを生きて行けば、自分たちの命は意味があるんではないでしょうかね。自分に執着すると見えないのではないでしょうか」と私。

「そうだうよね、我に囚われていると、周りが見えない。家族やみんなが優しくしてくれているのがわわからないんだよね。ものに執着せず、夫婦二人で生きていければいいんだから。・・・」

 

私はこの人と話をしながら、仏教の教えるところの境地と言うものに近づいたように思えた。実際には書ききれないほどの話を短い間にしたのですが、9時になって互いの部屋に戻りましたが、とても偶然とは思えない出会いでした。

点滴だけの日が続きます

 

4:00 トイレ (おしっこの採取)

5:00 トイレ (空ウチ 便は出ない)

6:00 トイレ (空うち)  戻って迷走したけど5分と集中が続かない

6:30 電気がつく

6:50 起床する

左隣の佐藤さんは入院1か月で、今日がオペです。やはり私が行った校門病院の内視鏡の検査で分かったという。入院してオペが混んでいてずっと待たされたという。私はとても速いと思う。ラッキー!

瞑想についてダライラマの本に書いてあるのでやってみるが、15分くらいしかできない。静寂が必要だと言うので朝が良いという。起きてすぐに試してみたがまだ眠いらしい。瞑想しながら心の中に在るものを描き出せるように集中してみたが、五分と続かない。それに瞑想していても散漫なのだ。これが初歩的な修行のひとつなのかも

7:00 体温測定 35.2度

瞑想はやっていて、良いように思えたので、これを機につづけて見ようと思う。15分できるようになるまでどのくらいかかるだろうか。

7:35 矢口先生が浅野見回りにくる。月曜日のことを尋ねると、明日決定するとのこと。医者も朝から大変だ。対面のベッドの人も担当医がきて様子を見て行った。

8:00 朝食 メニューは夕食と同じ組み合わせ・。カリフラワーの料理、味付けに工夫がある。ケチャップはいいらしい。玉子焼き、具のない味噌汁、と五分がゆ、多分ずっとこれが続くのだ。 

8:30 トイレ 便がでない。いやな感じ。ヒロに電話したら、パリでオリンピッックの成果が消されて中止になったという。かなり激しいでデモがあったようだ。今度はサンフランシスコに行くけれど、これもかなり厳しい状態になりそうだ。日本は呑気に構えているけど長野はどうだろうか。

三日月さんの北京旅行の映像を見る。私が編集してあげたものだが、悪くない出来だと思っているが、映像を見ていると中国人は本当にうるさい連中だ。

便秘状態なのがきになる。便衣は起こるのだが排泄がない。こういう事態になると日頃の当たり前のことが、当たり前でないことが不安にさせる。

 

NHKすぺしゃる「チベットの死者の書」を読む。

死者の書に描かれていることや、仏の安らかなな顔とか、あのマンダラとか読んでいて思ったのだが、あれらは全て瞑想の中で出会うことなのではないか。瞑想の髙いレベルになると仏たちと出会うことができ、それらを瞑想した者が「死者の書」を書いたのだと思う。

チベット芸術と言われるあれらの表現、仏や神などはおそらく瞑想の中で得られたもので、それは凄い修業の上で到達することなのだとおもえた。また、全ては己の心の中豈あるというのは、つまりそう言うことなのだと思った。

 

左隣の佐藤さんは凶午後2時から主jきゅつだという。昨日から何も食べていないのだそうだ・。昨夜の9時以後水も飲んでいなくて、まったくの絶食状態なのだ。午前中のオペが遅れると時間がずれてしまう。まだ50歳だという。癌にとしは関係ないようだ。

 

9:15 トイレ ~9:30 便がでたので一安心

10:40 隣の佐藤さんがオペ室に移動と思ったら個室に移動となった。術後は個室になるのだという。縛ら記して大部屋に戻されるのだ。隣のベッドには808室の人がくるらしい。

10:50 掃除の女性がきたので聞いてみたら、やはり術後は一人では動けないので看護師の手を借りないといけないので、個室に移されるのだという。そして自分で受けるようになったら大部屋に戻るのだという。対面の人は若そうに見えるが、少しわたしよりわかいだけかもしれない。一日中マンガを見ている。

 

三日月さんの北京旅行のビデオを見ていたら雍和宮の紹介ビデオをとりこんだとりこんだ編集をしていたのだが、この雍和宮という寺院は雍正帝の時代に建築されて、乾溜帝の時代に正式なチベット教寺院になったもので、北京で一番大きなチベット教の寺院なのだ。雑技団の映像もうまくまとめて仕上げたと思う。

11:00 少し腹が減った感じ。

チベット仏教様式の白い塔(ストーパ)が北京の北海公園にもある。DVDプレーヤーを持ってきて映像を見て時間を過ごす。

 

*佐藤さんのオペ

佐藤さんはS字結腸の部分に癌があって、その部位が4cmくらいあるのだが、腸は20センチ切るそうです。それで手術のことを聞いたら、腹を縦に切るそうです。横に切ると筋肉をを切ることになるので、縦にきるのだそうです。筋肉を切らないように切るらしい。筋肉は縦に発達しているのだそうです。筋肉を切られたらどうなるのかな。それでも20センチくらいは切るようだ。そのように医師から説明されたとの事だ。

 

11:35 トイレ(おしっこ)

11:50 昼食・・・ミソ味のブリ、カリフラワーではないもの、なんだかわからない。五分がゆに漬物をいれて食べた。桃は少し硬かった。

12:10 検査の前の下剤についての説明を受けていますか、と看護師が聞きにきたので、知らないと答える。

対面の人は71歳だった。3年前に倒れて貧血病と思われて救急車でこの病院に運ばれて以来、この2月から入院しているという。検査の結果、膵臓に原因があることが判ったそうです。膵臓からインシュリンをだすような傷というか下人ンがあるみたいで、それがわかって手術するそうだ。2があつから入院して、途中2週間ほどオペが混んでいて、家に帰されたそうです。そして4月7日に再入院して4月17日に手術になったそうです。

13:40 トイレ(おしっこと空うち)

昼食のあと、左の端のひととお話ししました。68歳で26日に入院して、17日に手術らしい。胃癌だという。

14:00に250mlの下剤(マグコロール)がきた。9日の朝から禁食。看護師の野々垣さんが来て、4時までに飲みきるようにと言っていきました。体温は36.8度

14:30 インスピレックス 手術前の呼吸法の訓練。

インスピレックスと言う機具を使ってトレーニング。

14:40 肺機能の肺活量の検査。肺活量は3600cc>3300ccよりあってOK。

「それっ」と一気に吐き出す力の検査は標準より劣る。煙草の聖だと医師は言う。

15:00 トイレ(排便あり)下剤を飲む。この分だとオペは月曜日になりっそうだ。そうすれば早く退院できる。

4:00 下剤を飲みきる。

16:40 トイレ(でない)

17:10 婦長さんが見えて話をする。野々垣さんに内視鏡の先生を聞いたら、長尾先生が上手だという。長尾先生ならいのだが。

17:30 お茶配り。チャイムがなる。

18:15-30 トイレ(排便あり)

19:00-19:30 トイレ(排便あり)一気にでた。下剤の効果あり。

ベッドで本を読む。

21:00 消灯 今日は時間通り。なぜか今日は眠いので早く寝るっことにするけど、もう一度トイレに行く。

尿の量は一日1500cc。少ない。

19:30-40 トイレ、でた。かなりすっきりした。

瞑想の事を昨日書いたけど、今日「チベット死者の書」を読んで驚いたのは、アメリカでLSDによって幻覚をもたらして、トランスするということと、この「死者の書」に出てくることが、同一体験として重なり合うという事実の経過を経て、アメリカでは「死者の書」に基づくダイインング・プロジェクトと言うのが作られたそうだ。死の疑似体験プログラム?

そして瞑想と言うものが人間の心の奥にあるものを引き出すということ、つまり、死生観に対する根元の事柄を自分に認識させる手段になるということがわったそうだ。ヨーガとはまた違うと思うのだが、メディテーションと言う瞑想のもつ意味が分かっただけでも大きい。

自由に瞑想ができて心をリラックスできることは素晴らしいことだと思う。チベットの高僧にLSDを飲ませたところ何の変化も起きなかったとう事実、つまりLSDで生じる幻覚を高僧はすでに自在に瞑想で得られるということなのだ。

あのチベット仏教寺院のマンダラとかおどろおどろし田絵と言うのは瞑想の結果で、認識された現象とでもいうものなのかもしれない。

私たちには奇異に見えるけれど、修業する者にとっては目一層の中で出会う悪魔や仏たちなのだと言える。

しかし、5分しか瞑想が続かないのも困ったものだ。集中力が足らないのだな。でも続けてみよう。

 

*チベットの話が出てくるのは、私が60歳からボランティア活動を始めて、インドにあるチベット人の亡命者の子供たちの学校、「チベット子供の村」通称TCVと言う学校の子供の里親活動をしているからです。このことについては折に触れて説明します。

 

 

インスピレックス                                        最後の食事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

癌入院日記4月7日 入院
 

9:30 病院受付
10:00 東棟8階 待合室で受け付け
10:20 病弼806へ 
11:00 矢口医師と山根看護師さんとご挨拶
11:30 トイレ 排便あり(トイレの記録が大事なのだ)
12:00 昼食 五分がゆ 裕子は家に戻る
15:00 トイレ(少量の排便)
16:00 裕子再び来る
16:25 トイレ 出血アリ
16:40 レントゲン検査 レントゲン技師は女性だった。
17:00 病床にもどる
   *チベット支援団体KIKUの会長の久保氏より連絡があり、私の里子(支援しているTCVのシャリーブーが冬休みにネパールに行ったきり帰ってこないという連絡があったという。
   また二人の里親の子供もTCVに戻っていないという。ネパールが中共寄りになってしまい出国できないでいるのかもしれない。
17:50 おしっこの検査 今日の午後9時以降から明日の午後9時までの24時間のおしっこを全部採集するのだ。多い人は4000㏄も出るとか。 
   この病室の人は全部で6人、全員ががん患者です。廊下で点滴の機具をひきずりながら歩いている人の暮らい表情を見ていると病気に負けているように思えた。
18:00 五分がゆ 味気のない白身の魚 玉子汁、カリフラワーの漬物(割とおいしい)
18:05 食事を写真に撮って、裕子は帰宅した
   病室の中派暗くてたまらない(静かすぎるのだ)。もっと元気でも良いと思うのだが、静かすぎて疲れてしまう。でも付添いの奥さんたち、やはり心労があるようにみえる。裕子も内心心配しているのだろう。この食事を続けているとかなり細ると思う。
にょう採取の看護師は27歳だという明るい子で、私のことを50歳と言うから63歳だと言うと、父と同い年だと驚いていた。
みんな難しそうに下を向いてあるいているから、やってられないね。私は私流を貫こうと思う。周りに合わせていたら心が病んでしまいそうになる。
ベッドの上で瞑想のまねごとをした。18:25-18:40までした。30分迷走しようとしたができなかった。
18:45-19:05 トイレ 少量の出血
*里親の高橋さんから、タシとソムが戻ってこないという連絡を受けた。
19:55 病室は個人ごとにカーテンで仕切れるので夜になると狭い空間がプライベートの空間となる。私もカーテンを閉めて個人的な世界に入り、ダライラマの『愛と非暴力』を読む。そこにメディテーションの方法が書かれていた。実践してみようと思った。朝にするのが良いそうで、心を解き放つ。
20:15 矢口先生が見えて、過去の手術は虫垂炎だけかどうかを確認した。そして手術は来週の月曜日になると伝えてくれた。今週は検査で土日は手術の準備で家には帰れないだろうと言う。私は早い方が良いと言って歓迎した。(入院していても手術まで日にちがあるときは、一度家に戻れるようなのだ。)
20:20 トイレ ガスのみ 今夜から尿検査に入る
21:00 トイレ おしっこを出し切る。以後同じように全部取りきるのだ。大変。裕子に月曜日が手術だと伝える。仕事は休むようにするという。   
21:30 消灯 ヒマラヤ旅行のDVDをひそかに見て時間をすごす。

  

病人です                    頼りになる妻です               味気のない食事

 

日記を書いています              夜の病棟

 

入院の記録です。