「常識」にこだわる恐さ | katosyun(加ト☆しゅん)の現転懐起(げんてんかいき)

katosyun(加ト☆しゅん)の現転懐起(げんてんかいき)

ASDで絵描きで、社会人経験を経て2回目の大学生(教育学部)になる
katosyun(加ト☆しゅん)の日々の雑記帳。

 コンビニで店員に対し、会計時にお客がお礼を言うのは「常識」か否かで1週間ほど前にTwitterで議論が起こりました。いえ、議論といいますか「お礼くらい普通にするだろう」とか「客なのにお礼するのは恥ずかしい」とか「店員として言われたら嬉しい」と言ったようなあまり論理的な根拠が薄い感情に任せた水かけ論の状態だったのですが、この手の話が盛り上がる背景には個々の持つ「常識」の齟齬があったのだと思います。この「常識」と言うのは厄介なものです。

 

 「常識」と言うのは明文化されないものですし、しかも論理的根拠は大してないことが多いのです。例えば「暗いところで本を読むと目が悪くなる」「牛乳を飲むと背が高くなる」「金属を身につけてると雷が落ちる」といったどこかで読んだり聞いたりした話、これらは全て科学的根拠はありません。ましてや暗黙の了解といった類の常識はさらに疑わしい。「急いでる人のためにエスカレーターの片側は開けておく」というものがありますが、そもそもエスカレーターは急いで駆け上がる為ものではないし、実は急いでいるなら階段を使った方が早いのです。わかっているつもりの国内の常識でさえ、取り違えることが多々あります。ましてや他国の常識などまるで異世界に感じることもあるでしょう。

 

 常識は文化的背景もあります。ですから理想論で言えば違うからといって否定することなく互いに尊重するのが最適でしょう。勿論法に触れていればその限りではありませんが。そして、「コンビニ店員にお礼」の話に戻すと、結局「常識の押し付け合い」になってしまっているのです。自分の主張に論理的な根拠がなくても「常識」というものを盾にすれば説得力を持たせることができます。水かけ論になった時説得力を持たせるのは論理性より人の感情になることは多いです。

 

 私は「コンビニ店員にお礼」をするか否かと言われれば、正直どっちでもいいと思っています。別に無関心というわけではありません。店員が自分の時間とエネルギーを使って会計などのサービスを提供していることに対して感謝の思いを持つなら労いの言葉をかけて良いし、お金をもらって仕事をしているのだからサービスなんて当然と思うのならばかけなくても良いです。店員の方も感謝されたされないで業務にムラを出すものではありません。個人の価値観に任せればいいのに、「常識」という名の多数派に合わせようとするのはなんとも日本人らしいものだと今回の件を見て思いました。

 

 多かれ少なかれ人は何かしらの「こだわり」を持っています。私はASDのこともありそのこだわりは強いです。こだわりを持つのはその人の個性を形成する大事な要素です。しかし、そのこだわりを無理に他人に押し付けてはいけません。他人に迷惑をかけないのは常識ですよね。いや、この言い方はよくない。思想・良心の自由は互いに尊重しましょう。これなら明文化されている。