katosyun(加ト☆しゅん)の現転懐起(げんてんかいき)

katosyun(加ト☆しゅん)の現転懐起(げんてんかいき)

ASDで絵描きで、社会人経験を経て2回目の大学生(教育学部)になる
katosyun(加ト☆しゅん)の日々の雑記帳。

Amebaでブログを始めよう!

 『映画ドラえもん のび太の宝島』を観てきました。発表当初より、大泉洋の出演や星野源の主題歌が気になっていましたが、公開後しばらくしてSNSやネットでの口コミや評判を受けて、結構久しぶりに映画館で見ることになりました。ネタバレになるので詳細はもちろんいえませんが、近作のリメイクではない新作の中ではマンネリを打破しているというか、勧善懲悪ではない深みのある作風でした。序盤とエンディングテーマではちょっとしたファンサービスもありました。

 

 幼少時はコロコロや小学館学年誌などで育った私にとってドラえもんは馴染み深い作品で、藤子・F・不二雄先生の大ファンでもあります。特に好きな作品は『ミノタウロスの皿』や『気楽に殺ろうよ』、『定年退食』といった黒さ溢れる短編。特に『定年退食』は40年以上前の作品なのになんで現在の高齢化問題を予言できたんだと、初めて読んだときは身震いしたほどです。

 

 今でこそブラック短編集が大好きな私ですが、幼少時からドラえもんと並行して読んでいたわけでは当然ありません。だいたい読み始めたのは高校生くらいの頃。絵柄はドラえもんに近いのに、非常に大人向けの考えさせられるテーマやエグい展開にどっぷりのめりこんでしまいました。『ドラえもん』の捉え方が変わったのはこの時からです。『ドラえもん』の原作漫画を読むときに、この漫画を描いた人が『ミノタウロスの皿』も描いたと考えただけで幼少時の純粋無垢な心はなくなり、より深みを求める形で読むようになりました。そうすると、のび太やジャイアンの登場人物の行動に人間の業を感じたり、ドラえもんの割とフランクで淡々とした言動がクセになったりと、『ドラえもん』の深みを感じられた気分でした。

 

 アニメの『ドラえもん』は、メディアの限界といいますか、そういった隠れた黒さやエグささえマイルドにして子ども向けアニメとして展開されていますが、私はそれはそれでいいと割り切って原作漫画の『ドラえもん』を読んで楽しんでいます。アニメと漫画はどうしても一緒になれませんからね。あと正確には『ドラえもん』のアニメは「大山のぶ代版」と「水田わさび版」があるわけで、声優変更当初は賛否が分かれましたが、私は「どっちも良い」と思ってます。声が変わった程度で深みは変わりませんから。

 Twitterのアカウント分けをしてから、最近はようやくTwitter絵描きらしいこともできてきたなぁと思う今日この頃です。3月から同人活動を再開する予定です。といっても今までは同人ゲーム製作で、今回からは同人誌の製作を予定しているのでそれなりに初めてのことが多く忙しくなりそうです。

 

 「同人誌」というとエロ二次創作を連想するような固定観念はまだあるようですが、歴史を辿れば明治時代の自主制作文芸誌に遡るもので名の通り同人、すなわち同好の者たちが作成する非営利色の強い雑誌のことを指すようです。にもかかわらず、エロ二次創作、言い換えれば版権物の成人向け漫画が同人誌のイメージとなってしまうのは、詰まるところ同人誌即売会の相場ではエロ二次創作が主流となってしまっているわけです。

 

 それで、今回のエントリーで言いたいことは、私はエロが描けないということです。正確に言えば、描くことに大きな抵抗があるのです。まず局部や恥部の類が無理、女性の場合はそもそも見たことが無いので形が分からない、男性の場合でも観察して形を捉えるという基本的な絵のプロセスが二次三次問わずできません。体のパーツですらこのありさまですから、行為などもどうにも魅力が湧かず、とても性的なイラストや漫画を描こうという気にはなれません。

 

 いわゆる性嫌悪の類でしょうか、性に対して潔癖症ともいえるでしょう。実際に成人向けのイラストや漫画を描く気にならなければ、見る気も起きません。稀に成人向けマンガに興味を持つときは、行為の描写や内容ではなく、そこまでのプロセスやシチュエーションに見入ってる場合が多いでしょう。つまり、成人向けになる要素がなくても興味を持つということです。

 

 ちなみに、私はそれなりに絵を描く故に練習のプロセスでは人物の裸体は(局部は省略するが)かなり描いてきました。ですがその裸体に性的魅力を感じることはありません。もちろん体のラインや肌の質感にはある程度こだわりはありますが、それは性的な魅力というよりは、生物としての魅力といいましょうか。極端な話人間の裸体を描くのは動物の裸体を描くのと大して変わらないと思っています。人間が猫を愛でても性欲を抱かないように、私が女の裸を描いてそこの魅力にこだわっても性欲は生じません。

 

 私は女の子のイラストをよく描きますが、それは猫やマスコットキャラクターを描いているようなもので性欲に駆られているわけではないのです。ですから私はロリコンではありません。何だこのオチは?というか広義でのロリコンとなると否定できないですし。

 コンビニで店員に対し、会計時にお客がお礼を言うのは「常識」か否かで1週間ほど前にTwitterで議論が起こりました。いえ、議論といいますか「お礼くらい普通にするだろう」とか「客なのにお礼するのは恥ずかしい」とか「店員として言われたら嬉しい」と言ったようなあまり論理的な根拠が薄い感情に任せた水かけ論の状態だったのですが、この手の話が盛り上がる背景には個々の持つ「常識」の齟齬があったのだと思います。この「常識」と言うのは厄介なものです。

 

 「常識」と言うのは明文化されないものですし、しかも論理的根拠は大してないことが多いのです。例えば「暗いところで本を読むと目が悪くなる」「牛乳を飲むと背が高くなる」「金属を身につけてると雷が落ちる」といったどこかで読んだり聞いたりした話、これらは全て科学的根拠はありません。ましてや暗黙の了解といった類の常識はさらに疑わしい。「急いでる人のためにエスカレーターの片側は開けておく」というものがありますが、そもそもエスカレーターは急いで駆け上がる為ものではないし、実は急いでいるなら階段を使った方が早いのです。わかっているつもりの国内の常識でさえ、取り違えることが多々あります。ましてや他国の常識などまるで異世界に感じることもあるでしょう。

 

 常識は文化的背景もあります。ですから理想論で言えば違うからといって否定することなく互いに尊重するのが最適でしょう。勿論法に触れていればその限りではありませんが。そして、「コンビニ店員にお礼」の話に戻すと、結局「常識の押し付け合い」になってしまっているのです。自分の主張に論理的な根拠がなくても「常識」というものを盾にすれば説得力を持たせることができます。水かけ論になった時説得力を持たせるのは論理性より人の感情になることは多いです。

 

 私は「コンビニ店員にお礼」をするか否かと言われれば、正直どっちでもいいと思っています。別に無関心というわけではありません。店員が自分の時間とエネルギーを使って会計などのサービスを提供していることに対して感謝の思いを持つなら労いの言葉をかけて良いし、お金をもらって仕事をしているのだからサービスなんて当然と思うのならばかけなくても良いです。店員の方も感謝されたされないで業務にムラを出すものではありません。個人の価値観に任せればいいのに、「常識」という名の多数派に合わせようとするのはなんとも日本人らしいものだと今回の件を見て思いました。

 

 多かれ少なかれ人は何かしらの「こだわり」を持っています。私はASDのこともありそのこだわりは強いです。こだわりを持つのはその人の個性を形成する大事な要素です。しかし、そのこだわりを無理に他人に押し付けてはいけません。他人に迷惑をかけないのは常識ですよね。いや、この言い方はよくない。思想・良心の自由は互いに尊重しましょう。これなら明文化されている。