文字が溢れかえるセカイで
自分は何をしたいのか。
書きたいことを自由に書けるってありがたいことだ。
でも
誰に向けて?
共感してくれる誰かに向けて。
自分はつくづく平凡だなぁと思う
そんな自分が、
不思議に思って、考えて、行動して、もがいて、すごい!と感じたこと
平凡な自分が発想したことだからこそ
わかる!という人もいてくれるのでは?
自分の不思議は、小学校の国語の授業が発端。
地方出身者にとって、公共の電波から発信される言葉と普段喋る言葉やイントネーションが異なるのは普通だった時代のはなし。
なんで?と、
とにかく違和感の音読タイム。
黙読してイメージした音と、声に出す音が違う。
自分や友達の読む音と、テレビの中の人の音の違い。
文字は一緒なのに、音が異なる。
でも、先生は何も言わないから、間違いではないらしい。っていうか先生の音も違うし。
友達や先生が違うのは構わない。でも、自分が気持ち悪い。
それを解消したかった。
自分なりに行き着いた結論は、
文字を読むときは、テレビで喋ってる人のような音で出した方がぴったりだ。
しかしながら、周りは方言だらけ。
名前のイントネーションすら、「なんか違う」。
でも、キー局つまり「東京は違うねぇ」となって終わればよかった。
これで終われば問題はない。
終わりたくなかった自分がいた。
・・・そんな人と共感したい。
さて、
まだもやもやしていた小学生の頃、
音読を見事な方言イントネーションで読み切る同級生がいた。
当時はなんで?と思ったが、今は、すごい人だと思う。
初恋の人でも親友でもなかったけど、思い起こすと、その人はとても自分に正直な生き方をしていた(現在は知らない)。
もし
いまその同級生が自分の生徒さんだったら、拍手をおくる。
内容がよくわかっているんだねって。
そのうえで、どうすべきかを一緒に考えたい。
読むというのは、文章を書いた人がいて、その内容を、誰かに伝えるということ。
つまり
「誰か」に「伝える」ために、読む。
誰かが、どんな人か(こども?おとな?など)によって、伝え方は変わる。
でも、そのためにはまず、書かれていることを自分がちゃんとわかっていなくては。
私が希求し続ける、<話芸写の語り>の道
さ、自分も稽古稽古。