日本刀 木堂のブログ
  • 11Aug
    • 讃岐高松家の系譜

       お盆が近いので、試みにご先祖様、讃岐高松家の系譜を考察してみた。自分の代から祖父、曽祖父までは分かるが、そこまででだいたい戸籍制度の開始された明治初期か江戸末期になる。それ以前を調べるとなると菩提寺の過去帳、墓碑銘などからだろうか。残念なことに江戸時代中期から末期の讃岐高松家の詳細は明治期に菩提寺で内紛があったそうでよく分からない。南北朝時代の高松頼重から数えると自分で26代目位の末裔と聞いている。現在もどうにかならないものか調べてはいるのだが(^_^;)・・・。天正年間の高松城主(喜岡城)高松頼邑  江戸中期頃に高松家の子孫が書いた『高松内匠武功』を中心に『全讃史』、『南海通記』、『翁媼夜話』、『古今讃岐名勝図絵 』、『讃岐人物伝』、『讃岐人名辞書』などを参考にする。『姓氏家系大辞典』では「讃岐朝臣姓」と「清和源氏多田氏流」が採用されているのでこれが通説であろう。ここでは『翁媼夜話附録』にある「藤姓高松氏系図」は採用されていない。この系図は藤原家成を始祖とするもので、羽床、新居、福家、新庄と代を経て姓が高松に変遷するものだが、個人的にそのようなことがあるのかはなはだ疑問を持った。従来の讃岐の歴史書の説にも符合しない。天正十三年(1585年)の羽柴秀吉の四国攻めで、高松頼邑は長宗我部元親に味方した。その後に頼邑の子の憲重は秀吉の家臣小西行長や生駒親正、一正に仕えることになるのでこの系譜は江戸初期に創作されたものと観る。落ち武者狩りを逃れるために高松から新庄に一時的に変名する必要があったと推測する。頼邑の妻の旧姓が新庄だったのかもしれない。なぜなら高松憲重(長重)の代のみが詳細で、それ以前があまりに簡略化されているからだ。慶長三年(1598年)に秀吉が他界し、影響力が弱まったので新庄から元の高松姓に改めたと考えるのが妥当ではないだろうか。高松家系譜景行天皇―神櫛王 ・ ・ ・讃岐朝臣直高―高松元頼(高松氏祖、奈良時代) ・ ・ ・ ・ ※この辺りまでは伝説の域であろうか、屋島軍団との関連を推測(^_^;)高松(舟木)頼重(南北朝時代)―頼春―頼冬―頼包―頼持―☐―☐―☐―☐―某(六郎)―某(左近)―頼邑(天正年間で頼重から12代目、左馬助、嘉重、長光)―憲重(慶長年間、長重、内匠)―久重(長次、内匠)、弟に御宮丸・・・・・・曾祖父―祖父・・・自分・又五郎、遊誓坊のち改め沙門順誓 六条邑一向宗(浄土真宗佛光寺派)長専寺開基・女子 喜田総太夫某妻・兼盛 高松孫蔵のち改め孫右衛門・・・・・・曾祖父―祖父・・・自分?・女子 同(岡?)七郎右衛門某妻・某 高松次郎兵衛・某 高松次郎右衛門 高松憲重には弟が四人、妹が二人いて、子供が久重である。『高松内匠武功』によれば、憲重が他界した時、久重が讃岐を出奔して家督を継ぐものがいなかったので生駒甚助正信を養子にしたとある。御宮丸がまだ幼少で家督を継ぐことができなかったのであろうか。御宮丸というのは高貴な感もあるので生駒甚助正信のことなのかもしれない。大阪の陣では高松久重を頼って生駒甚助正信も豊臣方として出兵している。大坂の陣の後、高松久重は讃岐を離れ、伊勢桑名藩松平家に番頭(大名警護の長)として代々仕えることになる。一方、生駒甚助正信は讃岐と阿波の「境目の大イチョウ」の下で切腹したとも、殺害されイチョウ下に葬られたとも言われる。後世ここでは祟りや怪異が生じたとの伝承もある(||゚Д゚)怖ァ・・・。 このようなことから推測すると讃岐高松家の末裔は長専寺を継いだ沙門順誓の一門、久重の弟である御宮丸か、兼盛を筆頭とする憲重の弟3人の内の何れかが家督を継ぎ今日に至っている一門なのではないかと推測するのである(-∧-)合掌・・・・・・今後もライフワークとして調査していこうヽ(^o^)丿・『翁媼夜話附録』にある源姓高松氏系図・『翁媼夜話附録』にある藤姓高松氏系図の一部拡大全体・『讃岐人物伝』にある神櫛王系譜

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  • 05Aug
    • 『讃岐人名辞書』に観る高松内匠頭

       『讃岐人名辞書』では高松内匠頭について以下のように記されている。「高松左馬助の子なり。性勇猛にして、武術に達し、特に槍術を能くす。慶長年大坂の時、豊臣秀頼に招かれ、冬の陣の時鴫野にて、一番槍をあわせ、功名し明る。夏の陣には木村長門守(木村重成)が手に属し、五月七日若江合戦に、井伊掃部守(井伊直孝)の手に伐かかり、高名すと云え共、其時、長門守は戦死し、大坂落城せしかば、紀州に遁れかくれ居しに、其後大坂落人赦免ありしかば、故郷なれば讃岐へ帰り、生駒家に仕え天寿を全うせりと、寛永頃の人。」とある。以前ブログに書いたが高松左馬助頼邑の子は憲重である。憲重以降は代々頭首が内匠を名乗っている。つまりここで記されているのは孫の久重のことなのだ。頼邑→憲重→久重となるがとても複雑。その事情は子孫が残した『高松内匠武功』(高知県立図書館の山内文庫所蔵)が詳しい。生駒家に仕え天寿を全うしたのは憲重で、久重は伊勢桑名藩の番頭(大名警護の長)となる。その後子孫は代々松平家の番頭を務めたという。大坂城布陣図に久重の名が観える。真田幸村にも重成の軍使として会っているらしい。長専寺は讃岐高松家の菩提寺讃岐高松家系譜

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    • 『讃岐人名辞書』に観る高松左馬助頼邑

       『讃岐人名辞書』は戦前に出版されたものなので、イロハ順で人名を探すことになる。  またデジタル書籍は慣れないと扱いが難しく目が痛くなる(-_-;)しかしながら讃岐の古今の人物の伝記が記されているのでなかなか興味深いもの。 岡山には山陽新聞社から出版された『岡山県歴史人物事典』があるが、香川にはこれほどの大著はまだ無いようである。四国新聞社から出版されないかな~? ところで『讃岐人名辞書』には高松左馬助頼邑について以下のように述べられている。「高松頼重の裔なり。道勝と諡す。喜岡城に居り香西氏に属し、秀吉に降らざりしを以て、天正十三年(1585年)四月二十六日、宇喜多、黒田等の七帥二万三千人を以て攻められ、頼邑二百餘人を以て防戦すと雖も、衆寡敵せず終に名誉の戦死を遂げたり。」とある。 高松頼邑については、最近話題になったコミック『センゴク権兵衛(5)』に詳しい。喜岡寺にある高松左馬助頼邑の墓(-∧-)合掌・・・高松城(喜岡城)跡にある岡神社(喜岡権現社)(-∧-)合掌・・・ センゴク権兵衛(5) (ヤングマガジンコミックス) Amazon

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    • 『讃岐人名辞書』に観る高松頼重

       『讃岐人名辞書』はインターネット上の国立国会図書館デジタルコレクションで一般に公開されている。梶原竹軒という郷土史家の方が編纂され、讃岐で事績を遺したおよそ2400人の伝記をまとめたものという。昭和3年(1928年)に出版されている。 その中で高松頼重は次のように記載されている。「山田郡喜岡城主にして、三郎と称し勤王家なり。摂津頭頼光十代の後、土岐隠岐守光貞の男にして、初、隠岐孫三郎と言う。船木氏の祖なり。北条家執権の時、美濃国、近江国に於いて領地を給い、伊勢国の守護となる。後、当国高松庄に住して、諸郡の事を管領す。後醍醐天皇、東征の時、頼重の男、頼春以下勅宣従い、官軍に参る。北条家は母方の縁ありと言えども、高時政務の不正なる故なりとて従わず。事顕われて一族、頼兼以下高時が為に殺される。建武二年(1335年)十一月二十六日、細川定禅、鷺田庄に於いて兵を挙げ、屋島に攻寄せ頼重が老父並びに一族十四人郎党三十四人、其の場に於いて、討死果てる云々と『太平記』に見えたり、高松家は十二代にして、天正三年(1575年)に滅びたり。」とある。 現在では、高松頼重についてはその出自、讃岐国守護であったかどうかなどについては疑義もあるらしい。まず讃岐高松家は十二代で滅びていないのだった・・・。この記述から後世、天正の高松左馬助頼邑が、高松頼重より数えて高松城主(別名を喜岡城、古高松城)の十二代目と伝わることになったのであろう。      

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  • 25Mar
    • 吉岡一文字派の鍛刀地について

       この脇差は無銘ですが、伝吉岡一文字と鑑定されています。今から約700年位前の鎌倉末期から南北朝初期にかけて活躍した刀工を吉岡一文字と称します。その代表工が助光、助吉、助義、助茂、助次、助秀等です。 古来、一文字派の刀は後鳥羽院、上杉謙信、織田信長、徳川家康などの大名や数多の名将に愛されたことで知られています。無銘刀の場合、その刃文の華やかなものを福岡一文字、やや小出来なものを吉岡一文字と明白に区別するようになったのは江戸末期と言われます。 ところで吉岡一文字派の鍛刀地ですが、現在の住所で言えば、 岡山県岡山市東区瀬戸町鍛冶屋地区ということになります。実教寺の下50メートルの水田の中の井戸が吉岡一文字派の金井と言われているので、これが淬刃水(さいじんすい、刀に焼きを入れる水)と伝わります。この周辺が鍛刀地で、鍛冶屋コミュニティハウスの北西側の山裾辺りが居住地だったようです。今は指し示すものが地名しかありませんが、吉岡一文字派という名工縁の地、遺構を後世に伝えて行きたいものですね。岡山市東区瀬戸町鍛冶屋地区実教寺吉岡一文字派の金井中央山裾が吉岡一文字派の居住地参考文献 刀工遺跡めぐり330選 Amazon 日本刀大百科事典 Amazon

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  • 09Feb
    • 讃岐の風 其の十三 高松家と貢八幡神社の奇妙な伝説

       香川の高松市六条町や下田井町周辺で高松家と縁が強いのは貢八幡神社とそれを移転した下田井八幡神社である。 貢八幡神社の由緒には「藤原家成十二世の孫、新庄太左衛門長光は初め豊臣の家来であった。もとより八幡宮を信仰し、ある夜夢の枕頭に松の木の高さ十丈余のものを生じ、八幡神が松上に現れた。そのために改めて、高松氏とした。故あって三野郡大野原に帰り、後山田郡田井郷に移る。その子太郎兵衛は長重内匠と名を改めた。慶長四年正月十五日(1599)夜、夢で六条貢が原の八幡宮を場所を選んで移すようにとお告げがあったので民に謀って祠を下田井に移してこれを広大にしたと『讃州府誌』などに記載されている。それ故、六条は下田井八幡宮の氏子であったのがいつの頃か分かれて六条に鎮座の鹿島神社を氏神としたのである。里人は古宮様と言い伝えている。祭神は応神天皇。」と。 また下田井八幡神社の由緒には「慶長年間高松内匠長重の創祀といふ。長重の父を長光と云ひ、その先は藤中納言家成より出で新庄を以て氏とす。長光かねてより八幡大神を崇信せしが、一夜枕頭に松樹高さ十余丈なるもの生じ、樹上に八幡大神現れ給ひしを夢み、氏を高松と改む。子長重豊臣秀吉に従ひて朝鮮の陣に加はり戦功あり山田郡田井郷に居る。或る夜、六条村貢原に八幡宮をあるを以て適地に遷すべしと夢告あり。往て之を求めしに果たして神像ありしかば、慶長四年を以て祠を下田井に建てて之を祀ると云ふ。下田井八幡宮と稱へらる。三代物語によれば、七月七日祭禮の節 田の中に棚を架して酒食を薦むるに、雌雄の鴉その頸白く、大さ鳩の如きものありて當社より飛来して之を食ふ。若し食はざるときは更に棚を架し酒食を改めて再三に及ぶ。俗に之を御當具烏云ひ神使なりと云へりとあり。一説に當社は天正年間貢八幡宮兵火にかかりしを以て下田井に遷座せしなりとも云ふ。明治四十年十月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。」と。 どちらの由緒にも松の木が夢枕に立ち、高さ十丈(約30.3m)の巨大な松の木の上に八幡神が現れ御告げにより、高松と改名するというなかなか奇妙なものである。高松憲重(高松頼邑、嘉重の子)は新居太郎兵衛長重、憲重の子の久重は新居長兵衛長次のことと推定されるが判然とはしない。高松家家譜においては年代に相違があるが、頼邑を長光、憲重を長重、久重を長次としている。 以前ご教示頂いたのだが、藤原家成の讃岐の系譜に新庄姓は合致しないので、新居姓が正しいものである。活字に直す際に新居を新庄に書き間違えたのだと思われる。そして文禄・慶長の役に実際に参加しているのか不確かなこともあるが、功績があって讃岐国主生駒親正の家臣となり、秀吉の四国征伐における高松(喜岡)城攻めの恩赦が出てからしばらくして新居から元の高松に改名しているのだ。郷内で確固たる地位を築いてから本当の高松姓を公にしている。この新居への変名は落武者狩りを逃れるためだったと考えている。            ・天正13年(1586) ― ― 高松城主の高松嘉重(久重の祖父)は羽柴秀吉の四国征伐に際し                 内応を勧められるもこれを拒絶し戦死する。戦後嘉重の次男で                 ある憲重は肥後国へと逃亡。・天正15年(1587) 久重0歳憲重が肥後宇土城主の小西行長に召し出されて1万石を                 領有する。・天正20年(1592) 5歳   憲重とその弟又五郎が小西行長の先手として朝鮮に渡海し                 数々の高名を挙げる。天正年間に高松家菩提寺の長専寺                 前身が六条城跡に建立される。又五郎は出家して順誓と名乗る。・文禄2年(1593) 6歳 10月3日、豊臣秀吉が憲重の朝鮮平壌における活躍を褒賞し、                 感状を授ける。上記功績により秀吉から讃岐攻めの時の罪を                 許され、讃岐国主生駒親正の家臣となる。・文禄3年(1594)  7歳 朝鮮から帰国し、憲重は生駒親正から讃岐領内1万石を拝領。・慶長4年(1599) 12歳  正月十五日、高松(新居)長重が貢八幡神社を下井田へ遷す。・慶長5年(1600)  13歳  高松憲重が鹿島神社を再建。・慶長8年(1603) 16歳 久重が元服し讃岐国主生駒一正の元に初出仕。生駒家臣の十河                 十兵衛と諍いを起こし讃岐国を立ち退く。父憲重が病死し、                 家督は養子高助が継ぐ。・慶長10年(1607) 18歳 生駒一正に招聘され、久重は讃岐国内で1000石を賜る。                 この時から内匠を名乗る。生駒家臣の次久多市兵衛と佐藤掃部が                 諍いを起こし、久重は一人市兵衛側に味方しその身柄を自宅で                 保護する。久重は、讃岐国高松城内で乱暴を働いた野瀬喜介を                 捕縛し、褒賞を授かる。  また『讃州府誌』には『翁媼夜話』の高松氏についての興味深い記述がある。「一曰貢八幡宮郷社社僧自性院藤原家成十二世ノ孫新庄太左衛門長光初メ豊公ノ微臣タリ素ヨリ八幡宮ヲ崇信ス一夕夢二枕頭二松樹高サ十丈餘ノモノヲ生ス八幡神松上二現ル遂二改メテ高松氏トナス故アリ辞シテ三野郡大野原二帰リ後山田郡田井郷二移ル其子太郎兵衛長重内匠ト改ム慶長四年正月十五日夜夢ラク六條貢ヵ原二八幡宮アリ宜シク靈區ヲ擇ンデ移スヘシト因テ里民二謀リ祠ヲ下田井二移シ之ヲ高大二ス其札札二高松孫右衛門兼盛高松内匠長次等ノ名ヲ載ス其子亦内匠長次ト称ス初名長兵衛大坂ノ役木村長門守二属シテ戦功アリ長次後松平越中侯二仕ヘテ禄五百石ヲ給ハリ世々内匠ト称ス内匠次子ヲ次郎兵衛ト曰フ六子生ミ其産ヲ分與ス各子孫アリ伊澤長曽根岡野松下本木長専寺等皆高松氏ニシテ後各々氏ヲ變スル者也喜岡城ノ高松ト同姓異人也」と。 前半部は貢八幡神社と下田井八幡宮の由緒と同様の内容であるが、高松内匠(久重)の名が長次で初名が長兵衛であったとしている。子孫は代々内匠を継承して名乗り、その子供が次郎兵衛であったこと。六人の子供がいて土地を分けて相続し、子孫は伊澤・長曽根・岡野・松下・本木・長専寺等の家を興したが、元々は高松姓の者であった。藤原家成十二世ノ孫の新居姓として解説しているので、喜岡城の高松と同姓異人と述べている。これは先にも記したように、秀吉の四国征伐の赦免まで落人狩りを逃れるため新居と変名しているためである。讃岐高松家の系譜は神櫛王と高松頼重(南北朝期)を祖とした以下であるからだ。高松家系図景行天皇―神櫛王・・・・・・高松元頼(高松氏祖、奈良時代)・・・・・・  ―高松(舟木)頼重(南北朝時代)―頼春―頼冬―頼包―頼持―某(六郎)―某(左近)―頼邑(天正年間、左馬助、嘉重、長光)―憲重(長重、内匠、小西行長、生駒親正に仕える)―久重(長次、内匠、大坂の陣活躍、伊勢桑名松平家番頭)*生駒甚助正信が高松憲重が亡くなった後の讃岐高松家の養子になるともある (久重が殺人で讃岐出奔したため)。・讃岐に憲重の弟、高松又五郎(与左衛門、順誓、天正年中に長専寺創建)―某―某 ―専祐(元文頃)・・・高松淳文(昭和)・阿波に高松与三右衛門(室町中期、阿波三好に仕える)―与三右衛門(浪人) ―与左衛門(賀島政慶に仕える)・・・・・順蔵(幕末、坂本龍馬の義兄)貢八幡神社  下田井八幡神社 『古今讃岐名勝図絵』の記事。高松内匠長重の弟が高松又五郎であり秀吉公に仕え、朝鮮の役において武功があったこと。大坂城が落ちて故郷讃岐に帰ろうとするとき、高松内匠長次が船を敵軍に請いたが、敵軍はその武勇を恐れて船を与え、飯を与えたが長次は器を持っていなかったので陣羽織に包んだことなどが『難波戦記』に見えるとある。『翁媼夜話』の記事。

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  • 05Feb
    • 讃岐の風 高松家の一族 其の十二 高松氏と牟礼城

       『古高松郷土誌』によると牟礼(むれ)氏は讃岐高松家と縁のある一族になるようだ。しかし、現在ではその牟礼氏が居城とした牟礼城はどこにあったのか確かなことは分からなくなっている。『新選讃岐風土記』で松岡調氏は「中山城山著『全讃史』の牟礼城、牟礼村にあり。今の揚小四郎(揚弘斎)の宅は、その跡なりというのに対して、揚氏の宅地は山田郡古高松村なれば、牟礼城と言うべき筈無し、この地を神櫛王の殿跡と言う伝説あれば、同王の後裔と言えるより混りたるならん」と述べている。牟礼村か古高松地区の何処かにあったようだが不祥である。牟礼氏系図  高松頼重・・・・・・頼元―頼存―頼茂―茂元―茂忠―光頼―光茂 『牟礼氏系図』によると、「祖先頼存は、その父頼元が細川家に軍功ありしによって、采(さい、領地)を牟礼郷に賜った」。後に、牟礼光茂の時、「豊臣家に仕え、禄七百石を賜った」とある。また『三代物語』に「牟礼孫兵衛光茂は高松三郎頼重の支流なり、小城を構えて世々牟礼に居る」とある。牟礼頼存は高松頼重(喜岡城の初代城主)の子孫で、これから光茂まで六代にわたって、牟礼城に拠ったものとみられる。この間に光頼は、豊臣秀吉の四国征伐の時、高松(喜岡)城内で討死した。光茂は、父―光頼戦死の後、十河存保に従って軍功があった。保存の戦死後、豊臣家に仕えて禄七百石を賜った。大阪の陣に木村重成に属して元和元年(1615)五月七日、若江の合戦で戦死したと。 ところで牟礼城はどこにあったのだろうか。私見ではあるが、『古今讃岐名所図会』の挿絵など考慮すれば、牟礼城が高松城(喜岡城)の支城、出城だととらえられると思う。高松城(喜岡城)の北東約1キロ圏内にある神櫛王墓の近く、妙覚寺の辺りではないかと推測する。この辺りであれば瀬戸内海、讃岐壇ノ浦に睨みがきく。妙覚寺は永禄年間に沙門教立によって創建。教立は本願寺教如上人に帰依していたが、長宗我部の兵乱の時、焼け残った親鸞聖人御真筆の六字名号を本尊として開創したと伝えられる。神櫛王墓の近くには妙覚寺もあるが、源氏本陣跡など源平合戦ゆかりの地もたくさんある。牟礼城はどこにあったのだろうか?興味深い・・・。『讃岐人名辞書』より揚氏についての記事。

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  • 03Feb
    • 讃岐の風 高松家の一族 其の十一 高松氏と鹿島神社(三宮神社)

       香川県高松市六条町で高松氏に縁のある神社は鹿島神社(三宮神社)、貢八幡神社、下田井八幡神社、広庭神社などが挙げられる。 その中で鹿島神社(三宮神社)の由来は少し変わっている。『林村史』などによれば、林村は上林村、下林村、六条村の合併村で、上林村には拝師神社、下林村には岩田神社、六条村には鹿島神社をそれぞれ氏神として祭っていた。 ところが、昭和19年(1944)当村に軍用飛行場が設置されたため、岩田神社と拝師神社は、鹿島神社に合わせ祭られた。その後、昭和23年(1948)に社号を三宮神社と変更、社章は氏子から募集の上、桜花を鳥居三つで囲った現在のものとなった。 祭神は、応神天皇、建御雷神、天火明命である。なお、三宮神社には篆刻家として天下に有名な細川林谷の師にあたる阿部良山の額が宝蔵されている。三つの神社が一つになった神社なので、境内には狛犬や灯籠などが沢山置かれているのである。      三宮の中で特に高松氏と強い縁があるのが鹿島神社で、その由来は天正8年(1580)に疫病が流行した時、高松孫右衛門兼盛が祈願して、一村恙(つつが)なきことを得た。そこでこの社を建立した。このことは拝殿の棟札にあり、その棟札は木太通法阿闍梨の書である。のち慶長5年(1600)5月に高松内匠(高松憲重)差配により再建されたが、このことも棟札に残されている。これが林村にある棟札の最古のものと伝わっている。 安永年間には宮脇惣次郎光明が修理している。社坊は正見寺といい六条下川西にあったが後消失して今は地名として残っている。祭神は健御雷之神(たけみかづちのかみ)、伊弉那美尊(いざなみのみこと)である。 高松孫右衛門兼盛は名前に兼の字を使うので、由良城主の由良遠江守兼光の出城という六条城(長専寺)と関係あるのではないかと観ている。由良兼光は三谷氏の一族であったが、永正5年(1508)に香西元定が三谷氏を攻めたとき由良山城も攻められ、香西氏と和睦している。屋島、古高松地区の高松城(喜岡城)の高松氏と、六条地区の由良氏や三谷氏は距離的にも同盟関係、姻戚関係ではなかったかと推測する。  『古高松郷土誌』、『林村史』など文献においても高松内匠は高松頼邑(天正13年秀吉の四国征伐において喜岡城で討ち死にする)の子とされているが、子は憲重(内匠)であり、孫が久重(内匠)である。 堀智博氏の「大坂落人高松久重の仕官活動とその背景 : 戸村義国との往復書簡を題材として」の論文に詳しい。https://ameblo.jp/katana-bokudo/entry-12344557816.html三宮神社境内。狛犬や灯籠などが沢山置かれている。  

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  • 01Feb
    • 讃岐の風 高松家の一族 其の十 高松氏と讃岐長専寺

       香川県高松市六条町、下田井町、林町周辺には讃岐高松家に縁のある神社仏閣がいくつか存在している。三宮神社(さんぐうじんじゃ、鹿島大明神)、貢八幡神社(みつぎはちまん)、下田井八幡神社、広庭神社、讃岐長専寺などである。また長専寺はもとは由良遠江守兼光の居城であった六条城跡と言われている。 『林村史』によれば、長専寺(行基山青樹院)は高松市六条町にある。宗派は浄土真宗沸光寺派である。本尊は阿弥陀如来(行基作と伝う)。縁起は天正年中に沙門順誓が創建した。順誓は初め又五郎といって高松内匠(秀吉の四国征伐において喜岡城で討ち死にした高松頼邑の子である憲重ことか)の弟である。従前、高松市御坊町勝法寺境内にあったが、享保年間に藩主に願い出で、今の処へ移したとのことである(寺院明細帳)。なお高松又五郎順誓の墓銘は当時の由緒を一層明らかにするので以下に掲げて参考に資すと。  当山中興者太守生駒家功臣我先祖高松内匠頼某天正年中造営而以為菩提所也。家弟高松与左衛門頼某始仕織田家信長公没後与公当生駒「不明」興生寺顕尊上人速遂剃度之素懐上人改賜名順誓而博学自他之経論専修浄業矣。太守聞誓之功労招致府下以内匠系譜命使住侶于此山矣。府下勝法寺為与門主之御坊也。看職年々来代自誓住于此山罷来代々以誓代焉而誓行年八十有余以延宝四年丙辰四月廿九日化焉玄孫専祐廼書所伝聞改立碑元文五年庚申「以下碑欠損」長(欠損)     この墓碑銘の意味は何となく分かるのだが・・・、現在正確に解読中(^_^;)織田信長に仕えたというのは、徳川の治世なので、あえて豊臣秀吉の名を出さず、長宗我部に味方したということを示すのだろうか。また高松家は生駒騒動で出羽に転封となる生駒家の家臣となり、高松内匠は大坂の陣で豊臣方に付く。すべてが逆張り!何かと歴史の敗者である(T_T)しかしご先祖様は敗者ではあったが強者ではないだろうか?順誓は仏門に入り一族が滅亡することを未然に防いでいる。そして高松内匠(久重)は大坂の陣で活躍し、落人狩りを生き延び、伊勢桑名藩松平家に代々仕えることになるからだ。 今度、法事で高松に行くことがあったら、長専寺を訪問しどのような墓碑なのかも調査してみたいところだ。長専寺本堂。鬼瓦の迫力に圧倒される美しさ。家紋は菊花紋と中陰松皮菱に一本矢である。『古今讃岐名勝図絵』より。長専寺と六条城。六条村にあり、行基山清樹院一向宗京都佛光寺末寺、六条の城跡なり。本尊阿弥陀(行基作)、六字名號(親鸞聖人)、当麻曼荼羅(恵心僧都作)。当寺は天正年中沙門順誓草創なり。順誓は初め又五郎と称して高松内匠が弟なり。また六条城は由良遠江守兼光に居る今の長専寺其の跡なりと言う。

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  • 29Jan
    • 讃岐の風 高松家の一族 其の九 戦国時代の讃岐

      讃岐の戦国時代はけっこう複雑で難しい・・・(-_-;) 細川勝元(1430~1473年)が讃岐を治める。↓1467年応仁の乱があって、勝元が東軍の総大将として讃岐国人も京へ出陣。↓その中で活躍したのが細川四天王の香川景明、香西元資、安富盛長、奈良元安。↓その後、細川勝元は1473年に病死、わずか8歳の細川政元が跡を継ぐ。↓政元は大人になると家臣に暗殺され、細川家は衰退する。↓これを好機と見た讃岐武士は勢力を拡大。香川氏、奈良氏、羽床氏、香西氏、安富氏、寒川氏など。高松氏も入るのだろうか・・・。↓その中でも勢力を伸ばしたのが十河一存(そごうかずまさ)。一存は三好長慶の弟で十河氏の養子として入った。一存の跡を継いだ存保(まさやす)の時には讃岐全土を支配域に。↓1578年、ついに長宗我部元親が讃岐の南西にある藤目城から侵攻を開始。天霧城の香川氏は同盟を結び、近隣の豪族を倒していく。やがて十河存保の所まで攻めてきて十河は虎丸城に逃げ、阿波まで逃げる。高松城(喜岡)の高松氏は長宗我部側に付く。↓1585年、羽柴秀吉の四国征伐がはじまり、讃岐は秀吉の領地、支配下となる。高松氏は、讃岐で見せしめとして一番に血祭りに上げられる。黒田官兵衛の策略か!?↓江戸時代に生駒家、そして松平家が入り、明治まで泰平の世が続く・・・。『センゴク権兵衛』(5)では高松頼邑との戦いが描かれている。 センゴク権兵衛(5) (ヤンマガKCスペシャル) Amazon 応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書) Amazon

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  • 28Jan
    • 讃岐の風 高松家の一族 其の八 喜岡地名考

       香川県の高松市高松町永ノ谷に喜岡城の跡があり、この付近の小地名を喜岡(きおか)という。この喜岡という地名の起こりについては、貴岡・城岡・木岡と言われていたのが、いつのころからか喜岡に変ったのではあるまいか――というので、次の三つの説がある。 第一は、この岡に、昔の豪族を葬った古墳があったので、貴い岡、すなわち〝喜岡〟と呼んでいたのが、喜岡に変ったのであろう――という。 第二は、建武の中興の時、高松(舟木)頼重が讃岐の守護に任じられ、この岡を中心にして高松城を築き、讃岐一国を治めた。それ以来、城のある岡、すなわち〝城岡〟と呼ばれていたのが、喜岡に変ったのであろう――という。 第三は、高松は昔、喬松が群生していた所であったため、その名を得たといわれるので、この岡にも木が生い茂っていたことから、〝木岡〟と呼ばれていたのが喜岡に変わったのであろう――という。岡神社(喜岡権現社)は、喜岡城跡(高松城跡)に祀られている神社。道路側に「史跡高松城跡」という自然石の石碑と案内版があるので、場所はすぐにわかる。石段を上った奥の方に社殿。その裏手に土地区画整理(昭和48年)の際にこちらへ遷された合祀された塚が二基。円柱の柱が祀られていたが、地神だろうか。この神社の西側に、喜岡寺があり、ここで討ち死にした将兵の霊を弔っている。

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  • 21Jan
    • 讃岐の風 高松家の一族 其の七 高松地名考

       高松という地名がはじめて書物に表れたのは、平安時代の延長年間(923~931)に源順の著した『和名抄』で、讃岐国山田郡の一郷として、高松(多加万都 たかまつ)と記されているのが、それである。このころの高松郷の範囲は、高松町、新田町と、屋島中町、屋島東町におよんでいた。この高松という地名の起こりについては、次の諸説がある。 その一つは、〝高い松の木〟説で、『全讃史』に「昔この地、喬松ありき。よって高松の名あり」というものや、『讃岐国神社考』に「昔、この地、長松樹あり。朝陰、夕景六町ばかりもありしとより、名を得しなり」とあるのが、それである。この説を支持するものには「新田町に〝松の内〟という小名が残っている所が、その松の大樹があった所であろう」というものや、「藤原純友の乱の時、藤原倫実らの官軍は、牟礼高松の浦で純友の軍と戦った。この牟礼高松は、〝群高松〟、すなわち松の大樹の茂った浜辺の意味であろう」というもの、などである。 その二は、猪熊信男氏が、『高松地名考』に「地名に高の字をつけるのは古代中国から帰化した漢民族の住んだ所である。また漢民族は、松を芽出たい木として格別にたっとんだ。この高と松の二字を組み合わせて、その居住する地名にした」という説である。猪熊氏は、このことを証拠立てるものとして、「高松町には古くから、帰来(きらい)という地名がある。これは帰化した人が居住していたことを示すもので、ある時代には〝帰来村〟といって、この地の村名となっていた程である。大化の改新の際に設けられた屋島城は、これらの帰化系の人々の手に助けらて築城されたのではなかろうか。時代はやや下るのだが、奈良朝の初め、唐から帰化した名僧鑑真が、屋島の地を相して寺を建てたことも、帰化系民族とのつながりがあるように思われる。ともかく高松は、その当時の文化発祥の地であると考えられる」と、この説が確かであると思われる理由を上げている。福家惣衛氏も、『香川県通史』に「高松なる地名は、古代帰化人居住地をいう」と、猪熊氏の説を支持している。 その三は、「この地、神櫛王の後裔、高松氏の居住地なりしより起これるか」という『木田郡誌』編者の説で、高松氏の栄えた土地だから高松という地名になったのであろう―という説である。 高松と称してから、当地は〝古高松〟と改められ、昭和15年古高松村が高松市に合併してからは、もとの古高松村の一部が、高松町と呼ばれるようになった。以上は『古高松郷土誌』より引用<(_ _)>屋島神社から讃岐平野を望む。   

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  • 15Jan
    • 讃岐の風 高松家の一族 其の六 高松久重

       高松久重の経歴については『桑名人物事典』、『高松内匠武功』、堀智博氏の論文「大坂落人高松久重の士官活動とその背景:戸村義国との往復書簡を題材として」などの記述が詳しい。 高松家は代々讃岐国高松城主(別名喜岡城、香川県高松市高松町所在)であったと伝わっている。歴代当主の中でも高松憲重と弟の又五郎(沙門順誓)、憲重の子である久重はとりわけ武功の士として知られ、憲重は朝鮮出兵(唐入り)で目覚ましい活躍を遂げて、豊臣秀吉から感状を拝領したという。一方子の久重も大坂籠城戦に豊臣秀頼方として参加し、大坂今福の戦闘では、徳川方の佐竹義宣に対して果敢に攻め込み、部隊長である木村重成から感状を複数拝領したとされる。大坂合戦を生き延びた久重は最終的に伊勢桑名藩主松平定綱の元に一族含めて3000石で仕えた。晩年には、岡山藩で起きた大坂落人同士の論争に際し、藩主池田光政から請われて証言を行う一方、大坂合戦時に敵方であった戸村義国(出羽久保田藩家老で横田城代)とも、当時の戦況に関して書簡を交わしたとされる。 その後慶安二年(1649)正月に病没した。以上が『桑名人物事典』による久重の経歴である。『高松内匠武功』に見る高松久重の事跡・天正13年(1586) ― ― 高松城主の高松嘉重(久重の祖父)は羽柴秀吉の四国征伐に際し                 内応を勧められるもこれを拒絶し戦死する。戦後嘉重の次男で                 ある憲重は肥後国へと逃亡。・天正15年(1587) 久重0歳憲重が肥後宇土城主の小西行長に召し出されて1万石を                 領有する。・天正20年(1592)  5歳  憲重とその弟又五郎が小西行長の先手として朝鮮に渡海し                 数々の高名を挙げる。・文禄2年(1593)  6歳   10月3日、豊臣秀吉が憲重の朝鮮平壌における活躍を褒賞し、                 感状を授ける。上記功績により秀吉から讃岐攻めの時の罪を                 許され、讃岐国主生駒親正の家臣となる。・文禄3年(1594)   7歳 朝鮮から帰国し、憲重は生駒親正から讃岐領内1万石を拝領。・慶長8年(1603)  16歳  久重が讃岐国主生駒一正の元に初出仕。生駒家臣の十河                 十兵衛と諍いを起こし讃岐国を立ち退く。父憲重が病死し、                 家督は養子高助が継ぐ。・慶長10年(1607)  18歳  生駒一正に招聘され、久重は讃岐国内で1000石を賜る。                 この時から内匠を名乗る。生駒家臣の次久多市兵衛と佐藤掃部が                 諍いを起こし、久重は一人市兵衛側に味方しその身柄を自宅で                 保護する。久重は、讃岐国高松城内で乱暴を働いた野瀬喜介を                 捕縛し、褒賞を授かる。 ・慶長12年(1607)  20歳 久重が生駒家臣の浅田右京、佐藤掃部と対立し、                 再び讃岐国を立ち退く。・慶長19年(1614)  27歳 久重が豊臣秀頼の招聘に応じて大坂籠城戦に参加。木村重成の                 旗下に属し、足軽30人を預かる。11月26日に今福の戦いで                 戦果を挙げ、同月28日に木村重成から感状を賜る。・正保2年(1645)  58歳 久重が戸村義国と文通する。・慶安2年(1649)  62歳  正月8日、伊勢桑名において久重が病死。 讃岐高松家には憲重の死後は弟の又五郎が出家した讃岐長専寺の高松家、跡目のいない高松本家を残すため、生駒一正の子息である甚助(庶子で末子)が養子入りした本家が残る。久重は伊勢桑名高松家を創始することになる。 また坂本龍馬の義兄である高松順蔵の土佐高松家は阿波三好の家臣(讃岐衆)であった高松与三右衛門(室町時代中期から末期)が祖とされているが、讃岐高松家から分派したものと推測する。             『高松内匠武功』は高知県立図書館(山内文庫)に所蔵される。 阿波三好氏の讃岐衆であった高松与三右衛門が讃岐から阿波へ移住、そして子孫が土佐へ流入したのではないか。

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  • 13Jan
    • 讃岐の風 高松家の一族 其の五 高松内匠武功

       秀吉の四国侵攻以後の高松家はどうなったのか?滅亡してはいないのです・・・。 高松左馬助頼邑が喜岡城で討死にしましたが、事前に妻子、一族郎党を田井郷(高松市下田井町)に逃したと伝わります。その後については『高松内匠武功』、『桑名人物事典』、『大坂の陣・なるほど人物事典』などにより、おおよその来歴を知ることができます。高松家系図      景行天皇―神櫛王 ・ ・ ・ 高松元頼(高松氏祖、奈良時代) ・ ・ ・ ・ ・ ・        高松(舟木)頼重(南北朝時代)―頼春―頼冬―頼包―頼持―某(六郎)―某(左近)      ―頼邑(天正年間、左馬助、嘉重)―憲重(長光、内匠)―久重(長重、内匠) 系図最後の久重は高松憲重の息子。秀吉から四国征伐の恩赦が出るまでの間、憲重は藤原家成十二世の孫、新庄太左衛門長光、久重は太郎兵衛長重と名を変えて落人狩りを逃れているようだ。憲重の代から高松家の棟梁は内匠を名乗っている。 高松家は代々讃岐高松を治めた土豪。祖父の高松嘉重(頼邑)が1585年の四国征伐の時に長宗我部側について戦死したので、憲重は肥後に落ち延びた。後に肥後南部を治めた小西行長に1万石で仕え、朝鮮出兵で先陣を務め功を上げ豊臣秀吉から感状を賜った。 久重は16歳の時に人を斬って逃亡し、18歳の時に戻って千石を与えられた。しかし20歳で再び去り大坂に移り住み、大坂の陣が起こると大坂城に入り木村重成に属して足軽30人を与えられる。 1614年11月7日、徳川軍が中ノ島に攻め入った時、木村隊は撃って出て応戦した。そこで久重は鉄砲傷を負いながらも敵の物頭を撃ち倒し追い返した。すると敵は中津川に船を出して攻めてきたので鉄砲を放ったが届かないため、久重は一人で進み出て船奉行を撃ち落としている。 同月26日の今福の戦いでは鉄砲で多数の敵を撃ち倒し活躍した。その時に佐竹軍が堤の上に指物を置いて柵内に退いたので、走りよって奪おうとし敵兵と争いとなったが最終的には一本を奪い取っている。久重はさらに敵を追撃して佐竹軍の戸村義国らと戦い、宇佐美三十郎を討ち取った。その後も何度も功があり重成から感状数枚を受け取った。 1615年5月6日の若江の戦いでは左備の木村宗明に属して小笠原秀政と戦うがその最中に本隊が敗北し重成も戦死したため、敗兵を集め、馬をなくした兵3人には離れ馬を捕まえて与え、自らは殿を務めて見事に撤退に成功した。この活躍は敵味方から賞賛されたという。 大坂落城後は蜂須賀家から3千石で招かれるが理由があって断り、浪人となった。だが松平定綱から一族を含めて3千石で招かれたので老分の身分で仕える。 その後、木村重成に属して後に池田家に仕えていた長屋平太夫と斉藤加右衛門の二人が大坂の陣の頃の戦功に関して口論となったので、証人を頼まれ証明した。1649年正月に死亡。子孫は代々松平家の番頭(大名警護の長)を務めたという・・・。讃岐長専寺は六条城跡と伝わっている。高松内匠(憲重)とその弟の沙門順誓(高松又五郎)の創建。浄土真宗佛光寺派の寺号は後醍醐天皇によるもので、南朝の忠臣、高松頼重と関わりがあると推測される。

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  • 03Jan
    • 讃岐の風 高松家の一族 其の四 高松頼重の墓と長塚

       南北朝時代に讃岐を舞台に華やかに登場した細川定禅に対し、それに追われた高松頼重。その後いったいどうなったのか?『太平記』など史書には喜岡城の戦いに敗れ、屋島の浦から舟で逃れたとあるだけで、その後の行方は不詳です。そしていったい高松頼重の墓はどこにあるのか・・・? それは高松市下田井町に特に目印もなく田畑の一角に頼重の墓であろうと伝わる五輪塔がひっそりとたたずんであります。ボクは高松の地名の由来、起源なのだから高松市の重要文化財に指定されても良いと思うのですがねぇ・・・。みなさん、どうでしょうか。この場所の特定は昭和52年に発行された『古高松郷土誌』、四国新聞社から昭和55年に出版された『讃岐人物風景 2 戦国の武将たち』など文献によるもので民間伝承と思われます。また一方では、神奈川県横浜市戸塚区の高松寺(こうしょうじ)の裏手土墳墓に高松頼重の墓所が在るとも伝わっているのです・・・。 高松市下田井町の高松頼重の墓と伝わる五輪塔。その周辺には高松家にゆかりのある貢八幡神社、下田井八幡神社(田井城跡)、長専寺(六条城跡)、三宮神社(鹿島大明神)などが存在。その伝承を裏付けるものではないでしょうか。 讃岐高松家ゆかりの地、長専寺、貢八幡神社、高松頼重五輪塔を結ぶトライアングル。敵の侵入をすばやく察知し、防ぐために意識的に造られているように感じます。   その約250年後の天正年間、秀吉の四国攻略で喜岡城主高松頼邑と共に散った将兵は、城の外堀のあった地点にまつられたと伝わります。JR屋島駅北にある忠魂社に立つ供養塔がそれで、この場所を長塚と呼んでいるのです。                   以下は神奈川県横浜市戸塚区戸塚町にある高松寺の紹介より。 高松頼重につきましては、喜岡城(旧高松城)を築城したとされます。(現在は、喜岡寺がある場所)喜岡城は、1335年(建武2年)に建武の新政で功をあげて讃岐守護となった舟木頼重(後に地名をとって高松頼重と名乗る)が築城するも、同年11月26日に足利尊氏の臣下、細川定禅らの軍勢によって落城する。しかし、頼重は生き延び、子孫の高松頼邑らによって城は再建。その後香西氏に属したが、1585年(天正13年)4月26日に豊臣秀吉の長宗我部氏に対する四国攻めに際し、宇喜多家を総大将とする約2万3千人に攻め込まれる。対する頼邑側は長宗我部氏からの援兵を合わせてわずか200人の兵をもって戦うも敢え無く、全員が討死しました。<旧高松城の歴史> 鎌倉幕府が滅亡して建武の新政が成ってから約2年後の建武2年(1335年)7月、旧幕府勢力が北条高時の遺児時行を擁して信濃で挙兵しました。これを中先代の乱といいます。北条軍は一時鎌倉を占拠しますが、京から向かった足利尊氏に撃破されます。しかし、鎌倉を奪回した尊氏はそのまま動こうとせず、後醍醐天皇の上洛命令を拒絶して建武政権に対して反旗をかかげます。このため、尊良親王を大将とした新田義貞の軍が尊氏追討のため京から鎌倉に向かい、尊氏軍と新田軍は箱根の竹下で衝突しました。そして尊氏はこの戦いに勝利し、京に攻め上がります。 この頃、讃岐では、細川定禅(じょうぜん)が尊氏に呼応して反宮方として鷺田荘(現在の高松市鶴尾地区)で挙兵をしています。定禅は鶴岡八幡宮の別当をしていた人物で、鎌倉幕府の残党を押さえるために讃岐に派遣されていましたが、詫間・香西氏らの讃岐武士とともに屋島近くの高松城に在った宮方の讃岐守護・高松三郎頼重(舟木頼重)を攻撃します。頼重は屋島の麓に打ち出て兵を集めようとしましたが、定禅らが機先を制して夜討ちをかけたため、高松氏一族の多くは討死し、落城しました。そして、定禅はさらに反宮方の四国勢を結集し、宇多津で兵船を整えて児島に上陸し、京に攻め上がります。定禅に率いられた四国勢は中国勢と合流して播磨の赤松範資と共に新田軍を破って入京し、ちょうど関東から攻め上がった尊氏軍と共に三井寺、賀茂河原、糺河原などで奮戦しました。しかし、尊氏ら反宮方勢は北畠顕家の軍に大敗し、海路九州へ逃れます。定禅も讃岐へ戻り、再挙を図ります。九州で巻き返しを図った尊氏は、建武政権に不満を持つ武士を糾合して、大軍を率いて京に海路向かいます。讃岐にいた定禅も500余りの軍船と500騎の兵を率いて再び尊氏軍と合流します。5月25日、ついに尊氏軍は摂津の和田岬に上陸し、新田義貞・楠木正成の軍と衝突しました。これが湊川の戦です。楠木正成はこの戦いに敗れ、弟正季とともに自刃しています。定禅率いる讃岐武士はこのときも尊氏軍として活躍しています。その後、11月7日、尊氏は京・室町に幕府を開き、12月21日後醍醐天皇は吉野に逃れ、ここに南北朝時代が始まります。高松城が落城してから250年後の天正13年(1585年)4月、この城は再び歴史の上に登場します。前年の6月から、讃岐は土佐から進出した長宗我部元親の支配下となっていました。豊臣秀吉は四国を平定するため、弟の秀長を大将に阿波、讃岐、伊予の三方面から大軍を送り込みます。讃岐へは宇喜多秀家を総大将として、蜂須賀正勝、黒田孝高、仙石秀久らの軍が屋島に上陸します。最初に攻撃の目標となったのが高松城でした。このとき、城主の高松左馬助(頼邑)をはじめ、香西より援軍にきていた唐渡弾正(からとだんじょう)、片山志摩(かたやましま)以下200人余の兵は防戦に努めましたが、全員城を枕に討死にしました。これにより讃岐の戦国時代は終わりを告げ、近世の幕が開きます。また、この戦いは讃岐国内での最後の戦でした。天正15年(1587年)生駒親正の讃岐入封によって、翌年、篦原(のはら)(今の高松市街地)に城が築かれ、東の高松の地名をとって高松城とし、城下町高松が誕生しました。これによりそれまでの高松は古高松といわれるようになりました。屋島とその近くには、古墳時代に築かれた神櫛王の墓といわれる王墓、飛鳥時代に築かれた朝鮮式山城の屋島城、奈良時代に開かれた鑑真和上ゆかりの屋島寺、古代から中世への過渡期にあった源平合戦の古戦場、そして、建武の動乱と中世から近世への過渡期に戦のあった高松城と、それぞれの時代において歴史の舞台となっています。髙松寺所蔵の文化財雲岫和尚像 一幅(横浜市指定有形文化財)仏涅槃図 一幅(横浜市指定有形文化財)雲岫和尚像 一幅(うんしゅうおしょうぞう いっぷく)について雲岫和尚像は、当寺中興六世とされる雲岫周泰の頂相(禅宗の肖像画)です。やや右向きに法被を掛けた曲彔(きょくろく)に坐し、台上に覆をおきます。曲彔の右肩に立てかけた杖には背負い紐と払子が掛かり、衣は墨彩色で表出されています。図上に左書の著賛があります。雲岫は夢想疎石の系統である芳林中恩(ほうりんちゅうおん)(円覚一四六世)の法嗣(ほっす)(弟子の意)で、天文二十一年(1552)に示寂しました。賛者は像主五世の法孫に当り、元禄十六年(1703)の大地震復興に尽し、元文二年(1737)に示寂しています。本図は遺像と思われますが、図様・描法や著賛一などから見て著賛当時よりはやや古い、桃山から江戸時代の筆になるものかと推定されます。著賛遺例の少ないこの頃の作例として貴重なものです。(横浜市教育委員会掲示より)仏涅槃図 一幅(ぶつねはんぐ いっぷく)について釈尊八十歳のとき、故郷に近いクシナガラで終焉を迎えた情景を演出するこの図様は、「大涅槃像」と同「後分」によって構成されています。一般的な傾向としては、平安期の図様は画面の中で釈尊の占める部分が大きく、会衆が比較的少なくなっています。鎌倉時代以降になると周辺の情景に大きなスペースをさき、会衆‐ことに畜類が多くなって行きます。本図は、描法・賦彩などからみて、江戸時代前半における江戸狩野系の町絵師の作と見られます。(横浜市教育委員会掲示より)山門について開山龍甫珠公禅師開基髙松三郎頼重公が創建の古道場にして、六百三十有余年にわたり、澗岳山頭に赤幡を把ぐものなり。十五世黙堂中雷和尚が柦越の助力を得て、元禄十三年七月に鎌倉棟梁、渋谷七郎兵衛により、切妻作り、茅葺の四脚門を建立する。その後、大正十二年九月の関東大震災により破損の著しいのを、二十六世瑞鳳徳応和尚が有志柦越の浄財により昭和十二年三月に回収する。以来、幾度か茅葺替えをして、護持に努める。しかし、創建により三百年来の風雨により柱も傾き、また、茅葺替の方策も難くなる。徳応和尚の三十三年諱報恩事業として改築すべく寺世話人に相計り、山門改築実行委員会を設置する。浄財を広く有禄の柦信徒に得て、樹齢四百年の天然桧材にて、銅版本茅葺の鐘楼門を完工するものなり。なお、山門額は創建時のものを補修して掲げ、天上龍画は北天院桜井一渓師によって画れ、百五十貫の梵鐘は田辺春司氏の篤志によって奉納され「平成の鐘」とする。落慶式は大本山円覚寺派管長足立大進禅氏を導師として特請し厳修する。

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  • 31Dec
    • 讃岐の風 高松家の一族 其の三 高松頼重と高松城

       秀吉の水攻めで有名なのは備中高松城、岡山市北区高松ですが・・・。 讃岐、香川には2つの高松城がありました。現在よく知られているのは天正18年(1590年)に生駒親正が黒田官兵衛の設計により築城した高松市玉藻町の高松城、通称は玉藻城です。そしてもう一つが鎌倉時代末期から天正13年(1585年)まで存在した屋島に近い高松郷帰来の地、高松(舟木)頼重によって築かれた高松城、通称が喜岡城です。この喜岡城はけっこうマニアック、地元高松の方にもあまり知られていません。玉藻城が築城されるまでは喜岡城周辺が高松と呼ばれ、その後は古高松と改名されることになります。つまり喜岡城が元祖の高松城で、香川県高松市の地名の由来です。 喜岡城案内板には、「鎌倉時代の末期、建武の中興の功臣舟木(高松)頼重が讃岐守護職としてこの地に城をかまえていましたが、建武二年(1335)十一月二十六日、足利尊氏の臣、細川定禅らの軍勢に攻められ、老父一族十四人と郎党三十余人討死し、落城しました。 その後、ここ高松城にて高松庄を領した高松左馬助頼邑は、天正十三年(1585)四月二十六日、秀吉の四国征伐の一隊(宇喜多秀家ら七将の兵)約二万三千の攻撃をうけ、手兵百余人と、香西氏派遣の唐人弾正、片山志摩の率いる兵、合わせてわずか二百をもって勇敢に戦いましたが衆寡敵しがたく城兵ひとり残らず討死しました。高松町長塚は当時激戦のあった場所で全将兵を葬ったところと伝えられています。高松頼邑、唐人弾正、片山志摩の墓は、喜岡寺境内にあります。」と消えそうな部分もあったので書き起こしました。  右から城主高松頼邑、片山志摩、唐人弾正と並ぶ三勇将の墓碑。  

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  • 30Dec
    • 讃岐の風 高松家の一族 其の二 始祖神櫛王 

       讃岐の中世、戦国時代を知る史料には江戸時代中期の兵法家、香西成資(こうざいしげすけ)の記した『南海治乱記』、それを増補した『南海通記』があります。これは軍記物で備前で言えば『備前軍記』のようなものです。また讃岐の郷土史については、江戸時代後期の儒学者の中山城山(なかやまじょうざん)が記した『全讃史』が知られます。どちらも元は漢文で書かれていますが、現代語訳が出版されているので内容をボクでも把握することができます。この2つが後の讃岐の歴史書に大きな影響を与えているようです。 さて、この史料のなかで高松家の祖をさかのぼると神櫛王(かんぐしおう)ということになっています。『日本書紀』では第12代景行天皇と、妃の五十河媛(いかわひめ)との間に生まれた皇子で、讃岐国造の始祖とします。現在その王墓は香川県高松市牟礼町牟礼にあります。隣接しては源義経の家臣、義経四天王佐藤継信の墓もあります。 高松家、ボクにとってはまさに伝説、パワースポットになるのです。佐藤継信の墓と太夫黒の墓   

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  • 29Dec
    • 讃岐の風 高松家の一族 其の一 系譜

       かなり唐突に犬神家の一族みいな・・・。(^_^;)これからボクが調べた讃岐高松家の歴史、訪問したゆかりの地などをつれづれに紹介していきたいと思います。 ちなみに讃岐高松家ですが、景行天皇の皇子である神櫛王の末裔で奈良時代の光仁朝(770年~781年)頃の讃岐朝臣永成の兄弟、元頼が高松氏始祖だと言う説(『全讃史』による)があります。またもう一つの起源には南北朝時代の後醍醐天皇の家臣、建武の中興で功績のあった讃岐古高松の高松城城主(喜岡城、今の玉藻城ではない)、高松頼重(舟木頼重)だという説(『讃岐史要』より)があります。守護職に任じられたこの地は青松の美しい「高松郷」と呼ばれ、それにあやかり、舟木から高松の姓を名乗ったとか。ボクは元来、屋島周辺に居た有力な豪族であった高松氏と舟木氏が姻戚関係を結んだのではないかと考えます。 紆余曲折ありますが、高松家は南北朝期より約250年間讃岐の高松郷を統治しています。戦国時代、高松城城主の高松左馬助頼邑が秀吉の四国征伐で討死にするまで・・・。ボクは讃岐高松家26代後裔、高松左馬助頼邑からは11代目くらいに当たるようです。本家は佛光寺派(後醍醐天皇より寺号を賜る)讃岐長専寺になります。   

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  • 27Mar
    • 因果律

      神という存在があるならば、その見えざる手が働いているのかも知れません。 ボクの父が眠る地は、虫明市内という辛川城主の墓所で通称、市内山。虫明市内は安土・桃山時代の備前国の武将。はじめ和気郡天神山城主、浦上宗景に仕え、現在の岡山市北区西辛川のこの地、辛川城を守り、知行700貫を領知していたようです。 のちに豊臣秀吉の四国征伐で高松城主、髙松左馬助頼邑、唐渡弾正、片山志摩を滅ぼす宇喜多直家に臣属してそのまま知行700貫を領知し、辛川の城を守ります。しかしながら1581年(天正9年)長子左近とともに直家の養子基家に従って児島郡八浜に進攻してきた毛利勢と戦い(八浜合戦)討ち死にしたのです・・・。是非も無し、これが戦国の世です。皆が一族郎党を守る為必死に戦っていたのです。 秀吉の四国征伐、高松城(喜岡城)の落城は1585年(天正13年)のことです。つまり髙松氏を滅ぼす戦いに虫明父子は参加していないのです。これが運命!歴史です!!名古屋にいる姉は本当にバカだから、父が死んだあと「墓地なんか売ってしまえっ!墓なんかいらん!!」とボクに言ったのです。言った当人は覚えていないようですが。ボクは猛烈に激怒したのです。父はこのことを知ってこの場所を買ったのかもしれません。「天神団地の家が望める。」と言っていましたが・・・。 ボクが日本刀に魅入られた理由がここにあるのかもしれません。まさに天職っ!!これぞゴッドハンド!!!

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  • 23Apr
    • 加藤一二三九段の『負けて強くなる』を読んで

       春、4月になると将棋の名人戦がはじまりました。 今日は森内竜王名人と羽生三冠の第二局目の対局があり、BSの録画を見たのですが、20数手先をよんで勝った羽生三冠は凄いと思うのでした。最近では深夜のバラエティ番組で加藤一二三九段、豊川孝弘七段、株の優待で有名な桐谷広人さんなど棋士がとり上げられることが多く楽しいです。 そんな加藤一二三九段の『負けて強くなるー通算1100敗から学んだ直観精読の心得』を最近読んだのでご紹介を。加藤九段は現在74歳、14歳で史上最年少棋士としてプロデビュー、18歳でA級八段に昇段し、「神武以来の天才」と称されます。世襲ではなく昭和に実力制となった名人位も獲得している名棋士です。タイトル戦登場回数24回、獲得8期、棋戦優勝23回です。1986年にはローマ法王から聖シルベストロ教皇騎士団勲章を、2000年には紫綬褒章を受賞されています。 話がそれますが、昭和からの実力制名人になったのは12人しかいません。そんな中の一人に岡山倉敷出身の大山康晴十五世名人がいるのです。 加藤九段は公式戦通算対局数2434局(歴代1位)、1315勝(現役最多)1118敗(歴代1位)です。プロ棋士の世界では強くなければ対局数が増えません。トーナメントなど負ければそこで終わりです。そして勝ち残っていかなければ敗戦数をのばすことができません。将棋一筋、現役60年という継続することが素晴らしいと思うのでした。自分の日々の生活にも参考になります。 加藤先生というと棒銀戦法が有名です。将棋に興味のある方にお薦めの一冊です。新古美術 木堂 負けて強くなる ~通算1100敗から学んだ直感精読の心得 (宝島社新書)/加藤 一二三 ¥840 Amazon.co.jp 将棋世界Special.vol4「加藤一二三」 ~ようこそ! ひふみんワールドへ~ (マイナビ.../将棋世界編集部 ¥1,598 Amazon.co.jp 将棋名人血風録 奇人・変人・超人 (oneテーマ21)/加藤 一二三 ¥802 Amazon.co.jp

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 新古美術 木堂の店主をしています。 日本刀が専門です。日本刀の鑑刀歴は15年です。 日々精進してお...

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