徳勒津の宮碑
本日、雨天の中でしたが紀州語り部の会会員さんに案内してもらって和歌山市新在家にある「徳勒津の宮(ところつのみや)碑」を訪ねました。
県道から南に入った駐車場にこの石碑は建立されています。
この場所は歩いて探さなければ見つけにくいところにあります。
作者は江戸時代、天保3年に漢学者の仁井田好古のものです。
この石碑は後の時代に移設されたようですが、日本書紀にある仲哀天皇(西暦356年即位)の所縁の地とされる徳勒津の宮の伝承地だそうです。
残念なことに石碑の漢字は風化していて読みづらくなっていました。
仲哀天皇に係る言い伝えは次のようものだそうです。
当時、和歌山は岩橋千塚をつくった紀氏の勢いが強い時代でしたが、この石碑のある地点は紀の川の河口で大和政権の軍港があったと伝えられています。
この地点には明治以前、神社があったそうですが今は秋月の日前宮に移され、江戸時代に建立されたこの石碑だけ残っています。
さて仲哀天皇は西暦357年に大和から南海道を下り徳勒津の宮で滞在しました。
滞在中に熊襲(熊本県 人吉市周辺の豪族)討伐に船で、穴門(山口県)に行くことになったそうです。
そこに遅れてこの地を訪れた神功皇后に熊襲討伐のことを相談したのですが、「熊襲を討伐するよりも金銀の豊富な朝鮮半島新羅へ兵を送るほうがよい」と新羅征伐を進言したのです。
仲哀天皇は朝鮮出兵に断固反対し予定どおり熊襲征伐のため、この場所から船で山口県へと向かったのです。
その後、熊襲との戦いの最中に病で崩御することになります。
諸説ありますが、熊襲の矢に射られたとも、朝鮮征伐賛成派による暗殺とも言われているそうです。
いまは駐車場の敷地内にあり、石碑に氣づく人も少ないようです。
また新在家にもう一か所あった石碑を探したのですが見当たりませんでした。
少し前までは田んぼの中に石碑があったと聞いて来たのですが、見当たらないので旧家の人に尋ねたところ「石碑があった田んぼは売却され、現在は分譲住宅になっています。田んぼを造成した時に石碑も撤去されたようです」と話してくれました。
この住宅地を訪ねて住んでいる人に聴いたところ「石碑のことは全く知らない」ということでした。
分譲するために造成する際、撤去されているので知らないのは当然のことだと思います。
ここで感じたことは、地域にある歴史や伝統は誰かが保護しなければ、誰かが言い伝えなければ跡形もなく消え去るということです。
紀州語り部の方と話したことです。
雨の中、一緒に歩いて案内してもらったところ、一つの石碑は発見できましたがもう一つは無くなっていることが分かりました。