40年ぶり 同窓会
大学時代の同窓会のようなものが、16(土)に博多であるので、その日は臨時でお休みをいただいて、金曜日の夜から、小倉行きのフェリーに乗るつもりでした。
しかし、写真は朝の日航機。
本当は、最初の写真は、こちらの、「フェリーくるしま」、でないといけないんですが、出航3時間まえの金曜の夜、7時に石崎汽船から電話がかかって、エンジントラブルで、今夜の便は、欠航となりました、と。
飛行機の便で、エンジントラブルや機材の不都合で、欠航は聞いたことがありますが、船のエンジントラブルは、初めてです。
海の上で、停まるよりはいいけど。
急いで、代わりの手段を捜さないと、年始から計画していたことがおジャンになります。
まず、妻がスマホで見つけたのが、夜、10時、今治発ー博多行き、高速バス。乗ってる時間は10時間。
私は、人間がヤワなので、バスの中ではほとんど眠れない。
それに、今治まで、JRで行くのは、無駄に思えて、却下。
次に、翌日の博多行き、飛行機を捜します。
朝、9時の便があります。それだと、10時には博多に着いています。
問題は、料金。 船賃は、1万円ちょっとだが、飛行機は、23,400円。
松山―博多便は、日航しかないので、安くならない。
でも、背に腹は代えられない。
妻が、スマホで、大急ぎで航空券を予約。
船の欠航で、私と同じことをしている人が、他にもいるはずだから、急がないと。
なんとか、自分の席を確保したら、その時点でその便は、満席に。
危ういところでした。
同窓会ののようなものは、昼の2時からなので、博多でまず尋ねてみたかったのは、ここ。
今治の漢方・針灸の師匠のところに、博多から通っておられた、長末さんのお店。 マルシン薬局。
今治の先生の所で、月に1回、第3土曜日に、泊りがけの勉強会で、ご一緒でした。
長末さんの患者さんが、こちらにいる実家のご両親を、私の所に紹介してくれたりもしました。
博多の中心街、天神の南のビルの1階に、さっぱりして気持ちの良い、漢方薬局を開かれています。
去年、8月に亡くなった先輩のこと、いまはどんな勉強をしてる?、「温病論」は分かる? など、漢方仲間にしか話せないことを、急いで話して、お店を後にしました。
マルシン薬局から、地下鉄の天神駅まで、長い地下街を歩いて、地下鉄で2駅、中洲川端駅の「アジア美術館」へ。
開館25周年だそうですが、1999年にこの美術館が出来たときは、やはり博多商人は、目の付け所が、東シナ海の向こうを見てるなと、感心して、いつか訪ねる機会があればと思っていました。
博多リバレインという9階建ての施設の、7、8階が、アジア美術館。
4,5階がアンパンマンミュージアム、3階が大塚家具、他に「博多座」という芝居小屋が入っていたり、面白い建物。
ポスターになった作品は、90年代の改革開放から、経済主義に向かって走り出すころの、中国人の自己像を象徴する、有名な作品です。
韓国人、李禹煥の作品 「線より」 かなり薄味ですね。
ベトナム人、ディン・キュー・レ のアニメーション作品
この作品をもっとも長く見ていました。
軍用ヘリが、つぎつぎと海に墜落します。日本でも、最近、自衛隊のヘリやオスプレイが、海に落ちましたよね。
ベトナム戦争でも、映画『地獄の黙示録』のように、軍用ヘリが活躍しました。
これはベトナム人から見た、ベトナム戦争 でしょう。
美術館を出て、地下鉄2駅の博多駅の同窓会場に向かいましたが、博多駅を出る向きを間違えて、スマホのグーグルマップを見ながら、20分も遅刻してしまいました。
会場は、頤和園(いわえん)という中華料理店。
路面店だと思ってたら、大きなビルの11階でした。
12人のうち、4人は3年まえに会っていますが、残りの人は40年ぶりの再会でした。
「同窓会のようなもの」、という言い方をしていますが、全員が熊本大学にいた人たちです。
しかし、学年も8年くらい開きがあるし、学部学科も別、部活も別です。
全員が、学生運動をしていた仲間です。
所属は、私ら4人は文科系サークル団体=文化部会の役員、教養部自治会のメンバーが4人、他は大学生協の理事など。
しかしこれが、ただの大学生協や、自治会なんかと違って、訳ありです。
熊本大学=国は、熊大生協を学内の施設から立ち退きを求める裁判を起こしていました。
その中で、潰れていた教養部の自治会と文化部会を、生協が人を出して、再建の途上にありました。
私が熊本大学に入った、1976年、3月.。
熊本地裁は、大学=国の訴えを退け、大学側が敗訴。
国側は、生協と交渉する振りをしながら、控訴して、結局は、10年ちかく後に訴えを取り下げ、生協とは和解となります。
私は、探検部でしたから、2年生から、文化部会の再建を、もう一人の美術部の仲間と担当しました。
一度、潰れてしまった組織を、みんなの信頼を取り戻して、再建して軌道に乗せるのは、大変な労力を要します。
それから2年間、無償のボランティア活動に励み、ほとんど授業や実習に出ませんでした。
そういうギリギリのところで、やりやった仲間だから、40年たっても、心から信頼して、モノが言える気がします。
上の写真のメンバーから、40年前の写真が送られてきました。
熊大探検部、1977年、7月ころ。
ここは石垣島の船着き場。これから、西表島行きの船に乗るのか、それとも西表島から帰ってきたところか。
ここの軒下が広いので、2泊くらいしました。
右上の写真。 平屋の建物の周りが、水浸しになっています。
これは、西表島、星立集落の公民館。
小型で強力な台風が、島の上を通過、近くの測候所の風力計は、風速70メートルを記録して、壊れたと。
集落の藁屋根の家屋の半数は、壊れました。
高波が押し寄せて、あたりは水浸しに。
私らはこの建物に避難させてもらいました。
それから、1週間、私らは、集落の後片付けに協力して、島を後にしました。
これらの写真。私は何度か引っ越ししたりするうちに、とうに無くしてしまっていましたが、一緒に西表に行った仲間が、大事に取っておいてくれました。
私は大学のうち、毎年、探検部の夏合宿で、4回、西表島に行きました。 観光旅行でないから、重たいリュックを背負って、自分たちでご飯を炊いて、テントや軒下で寝て、2週間で5万円くらいの費用です。
いま写真を見ると、毎年、こんな所に行ったから、いまはこんな商売をしているんだなあと、つくづく思います。
その晩は、カプセルホテル。
個室カプセル、というよく分からないもの。
アコーディオンカーテンで仕切られた、個室っぽいスペースに、ベッドが付いて、5380円。
ここは博多駅まえなので、アパホテルでさえ、1万7千円もします。
それを思えば、5千円台は、探検部のテントより、うんと快適。
昼から、文化部会を共に担った、美術部の日暮君の案内で、海辺の牡蠣小屋で、焼き牡蠣をごちそうしてくれました。
夕方、博多市内にもどって、日暮君がやっている都市計画コンサルタント会社の事務室に。
グローバル・ライフ・サポート とは、大きく出たもんだ。
日曜日で誰もいませんが、7人の従業員さんがおられるそうで、実は、3月は、役所の仕事の年度替わりで、40ほどの案件を、徹夜もしながら、こなさないといけないらしい。
彼としてみれば、3月に同窓会を入れらられたり、日曜日を1日、私に取られたりは、避けたかったでしょうに。
機嫌よく、1日、遊んでいただきました。
夕方、高速バスで、博多から小倉に向かい、松山行のフェリーに乗ります。
これがフェリーの2等船室。
この広い部屋に、お客は4人。
船全体なら、20数人?
こんな何の仕切りも無い空間で、誰とも知らない人とゴロゴロ寝て過ごす、という旅行に、いまの人は耐えられないのでしょう。
フェリーだから、トラックなどの車を載せる人はいるでしょうが、この航路の存続が心配です。
四国と九州という、田舎どうしを結ぶ路線は、選択肢が限られています。都会の大阪や東京に行くのなら、飛行機の便は、1日に、10本はあります。
この船が無くなると、飛行機か、10時間かかるバス、になってしまいます。
夜、寝ている間に着くのは、安くて便利だと思うのですが。