おいのやま公園の「山神」の謎!
↓ 香椎台5丁目の「おいのやま公園」にある「山神」の謎に迫ります。
おいのやま公園の大槇の木 山神
↓ 新宮から香椎近辺までの地図を、弥生時代から古墳時代初期までの地形に戻してみました。
当時の新宮・和白間には「三苫水道」があって、玄界灘と博多湾はつながっていたのです。
①が香椎宮 ②が阿曇族本拠地?
↓ (左写真)香椎・千早方面から見た立花山は三つの峰だが、(右写真)新宮方向から見ると二つの峰になる。 立花山を成す三つの主峰(井楼山●=367m、松尾山●=337m、白岳●=314m)が見る位置によっては重なってしまうから・・・。
香椎・千早方面から 新宮から
貝原益軒の「筑前国続風土記」には、この山が、もとは「二神山(ふたがみやま)」と呼ばれていたことが記されている。 山そのものが、麓の人々が古代から信仰してきた「神奈備(かんなび)山」であり、「二神」とは、「イザナギ」と「イザナミ」の二柱だと言われている。
新宮町に「夜臼(ゆうす)・三代(みしろ)地区遺跡」(地図 ②)がある。 弥生時代から古墳時代を主とする当時は海辺だった遺跡で・・・うっちゃんは、ここが阿曇族の居住本拠地だと考えています。 理由は外来系の遺物・・・岡山・山陰地方の土器、南海に住むゴホウラ貝の腕輪、朝鮮半島原産の石で作られた勾玉、或いは韓式土器です。 これだけの広い範囲での交易を可能に出来るのは、海人(あま)の阿曇族のみです。 そして立花山(二神山)を「神」として祭った神祭りの場所と考えられる多くの遺物が発見されている・・・。
玄界灘・博多湾一帯を自由に航行していた阿曇族が、新宮の本拠地に戻る時に目印にしたのが、立花山(二神山 ●・●・●印)だった。 見える山の形(三峰或いは二峰など)によって、船の位置を確認していた。 航海時の目印であると同時に、阿曇族が航海の無事を祈る神(信仰の対象)とした山でもあった。
紀元前、志賀島の勝馬を基点としていた阿曇族の首長は、紀元1世紀には新宮に拠点を移し、福岡平野方面に勢力を拡大した・・・その後・・・「仮説 ①」は、近隣を統一し奴国王となった。 「仮説 ②」は、奴国のナンバーツー勢力として、奴国王の政治に君臨した。 紀元57年、奴国は漢の光武帝から金印(漢委奴国王)を授かった。 その時の奴国の使者は、阿曇族の最も優秀な航海士が操舵する船に乗って対馬海峡を渡った・・・これは、うっちゃんの仮設(浪漫)です。 だって、紀元57年当時に、丸太船では対馬海峡は渡れないでしょう。 それなりの準構造船を造る技術と、それを操舵出来る航海技術を持ち合わせていたのは、海人(あま)の阿曇族だけです。
時代が過ぎて、奴国・邪馬台国に何が起きたのかは不明だが・・・5世紀後半から6世紀前半には、この地(新宮・香椎)は筑紫君磐井(ちくしのきみ いわい)の支配下にありました。 しかし、筑紫君磐井は西暦527年の「磐井の乱」時に、物部氏・大伴氏の大和朝廷軍によって滅ぼされます。
「磐井の乱」後、大和朝廷は物部氏の一族である舂米(つきしね)氏を下向させ、粕屋郡(評)一帯を統治させたのです。 この地は筑紫君磐井の支配下にあった時でも、まだまだ阿曇族の力は強大でした。 舂米(つきしね)氏は阿曇族の二神山(立花山)信仰に理解を示しつつ・・・いつの日からか、自らも二神山(立花山)を神として祀るようになります。
天智2年(663年)の白村江の戦いでは、阿曇族の首長・阿曇 比羅夫(あずみ ひらふ)が大和水軍の将軍として、新羅・唐の連合軍と戦いました。 しかし、この戦いに大敗し・・・以後、阿曇族は全国各地に散らばります。 この頃、舂米(つきしね)氏は二神山を、自分の祖「二神大明神」としてお祭りするようになっていました。 粕屋の役所からほど近い香椎で、二神山(立花山)を遥拝出来る小さな山を見つけ、その山の山頂に「二神神社」を建立します。 その小さな山が、香椎宮の東にあった「御飯の山●」でした。
御飯の山 山頂 北に二神山(立花山三峰)が見える
そして、約50年後の和同3年(710年)に平城京(奈良)遷都・・・国家の事業として「香椎廟(宮)」②が創建されます。 舂米(つきしね)氏が祀る「二神大明神」は、地方の信仰ですから、国営の「香椎廟(宮)」の末社(二神山の遥拝所)として祀られることになりました。 この時、御飯の山●は香椎廟(宮)の神領地となり、山の麓の大槇の木は「二神神社」のご神木となったのでしょう。
香椎宮編年記 (「古代・中世の香椎」より転載)
「香椎宮編年記」によると、「香椎廟(宮)」の鎮座に合わせて「二神大明神(二神神社)」が末社として記されています。 その場所は「東六町」とあり、香椎宮の東にあった「御飯の山●」だったことが分かります。 そして、「舂米(つきしね)氏ノ祖」と書かれていることも確認出来ます。
鎌倉時代・室町時代・・・舂米(つきしね)氏の豪族としての統治は無くなり、「二神山」も人々の心の中から「神奈備(かんなび)山」としての信仰心が消えて行きます。 室町時代に「二神山」の山頂にお城が築かれると、山の名前も「立花山」と呼ばれ・・・「二神山」の遥拝所だった「御飯の山」の「二神神社」も荒廃し、山頂には立花城の支城として砦が築かれます。
更に幾つもの時代が過ぎ・・・「二神神社」の名前も忘れ去られようとした時、香椎宮の神官が御飯の山の神木・大槇の木の根元に、「山神」と刻んだ石を祭ったのでしょう。 「御飯の山」無き今は、「山神」の石碑と神木の大槇の木だけが、「二神神社」の記憶を残しています。 「山神」の「山」とは、御飯の山ではなく、古代の立花山(イザナギ・イザナミ)を指します。
参考文献:「古代・中世の香椎」 長洋一 先生・森田隆明 先生 の著文
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