児島を感じるために、奈良時代を歩く!
令和元年にちなんで、「大伴旅人と遊行女婦(うかれめ)児島」の短編物語を個人の趣味の範囲で、ブログに書いています。 現在、①・②・③は投稿済み、④を悩みながら執筆中。 「面白くない」と思われている方も多いでしょう。 でも、歴史の浪漫を追い求めているうっちゃんは、本を読み、資料などを取り揃え、結構真面目に書いているのです。
大伴旅人と遊行女婦 児島
二人のこと、特に遊行女婦(うかれめ)児島については、水城での別れの時にそれぞれが詠った歌が万葉集の中に4首残っているだけです。 この4首の歌だけで、二人の出会いから別れまでの物語を書く訳ですから、無謀と言えば無謀なんですけど・・・逆に想像は無限に広げることができます。 筑前国司の山上憶良、万葉集を編纂した旅人の嫡男・大伴家持が同じ時代の同じ時間に、大宰府と言う同じ舞台の上に居た・・・このことが物語の展開を広げてくれました。
それにしても、大伴旅人と児島がどんな情景の中で惹かれ合っていったのか?・・・今や、大伴旅人は「令和」のヒーローですから、悪いイメージの人物像には描けません。 物語の展開の中でその辺に悩みました。 「大伴旅人と遊行女婦(うかれめ)児島」の短編物語①~③までは、何とかそれなりに書けたのですが・・・最終完結の④で足踏みし続けています。 5~6行のストーリーが半日考えても書けないのです。 現地に行って考えよう! そんな訳で6月20日からの一週間で、2回も太宰府に行って来ました。 2回目は観光案内所で薦められた「歴史万葉の散歩道」を歩いてみたのですが・・・↓ これが、地図でも分かるように、本道から外れた田舎道を歩いて、結構楽しめるのです。
歴史万葉の散歩道
太宰府天満宮の参道(●印)から、水城の東門(●印)まで、寄り道しながら約5kmを歩いて来ましたので紹介します。 今は少し暑いですが、晩秋の季節に歩くと紅葉が映え、最高だと思います。
↓ 延寿王院前の参道鳥居が「歴史の散歩道」のスタートです。 毎回、同じことを書きますが、相変わらず参拝客の殆どが外国人です。
↓ 参道はいつ見てもゴミ一つ落ちていません。 参道両側のお店のスタッフが毎朝掃除しているのでしょうが、ユニークなゴミ箱の設置も参道の美化を促しているのでしょう。
↓ 貸切バス専用の大駐車場を抜けると、川沿いの遊歩道を歩きます。 右の川は「御笠川」の本流です。
↑ 観光案内所の地図だけで「歴史万葉の散歩道」を歩けるのかどうか不安だったのですが、「歴史万葉の散歩道」は30~50m毎に、矢印↓のようなタイルが道路に埋め込まれています。 これを辿って行けば大丈夫です。 先の白川橋を右に渡れば「朝日(旭)地蔵」です。
朝日(旭)地蔵
↑ 福岡市千代町の黒田家菩提寺・崇福寺(そうふくじ)が開山された地は太宰府でした。 戦国時代の兵火で焼失した崇福寺を黒田長政が千代松原に再興したのです。 朝日地蔵は、鎌倉時代に太宰府に崇福寺を創建した随乗坊 湛慧(ずいじょうぼう たんえい)禅師のお墓と伝えられ、厚く信仰されています。
↑ 「歴史万葉の散歩道」には、標識も分かりやすい場所に立っています。 万葉のまほろばを歩く・・・いいですね! 大伴旅人も遊行女婦・児島もこの古道を歩いたのかな・・・。
日吉神社
↑ 全国に3,800社あると言われている日吉神社の一つです。 鳥居の扁額は「山王宮」となっています。 天台宗の開祖・最澄が比叡山に延暦寺を建立した時の守護神です。 仏教の天台宗が全国に普及するとともに、同時に信仰された神社となります。
観世音寺
↑ 観世音寺は斉明天皇の冥福を祈るために、朝廷によって建てられました。 香椎宮が官営の神社ならば、観世音寺は官営の寺院になります。 よって、香椎宮の宮司(廟司)も観世音寺の別当(住職)も、奈良本朝の人事によって赴任して来ます。
観世音寺の梵鐘
↑ 現存する梵鐘としては、京都の妙心寺の鐘と兄弟鐘とされ、日本最古です。 妙心寺の鐘銘に「糟屋評造舂米連廣國」と彫られ、糟屋郡多々良で鋳造されたと伝えられています。 糟屋の評造(こおりのみやつこ)であった舂米(つきしね)氏の名前が、香椎宮編年記の中にも見えることから、うっちゃんは浪漫を広げている最中なのです。
坂本八幡宮
↑ この日は平日の午前中で、まだ訪問客は少ない。 「令和の発表前は一日に10人未満の参拝客が、5月1日は1万5千人が訪れた。現在で延べ20万人を超えた」 こう語ったのは、6月23日、福岡市総合図書館で開かれた市民歴史講座の講師を務められた芦刈 茂氏です。 芦刈氏は前太宰府市長。 ここは、「令和」の典拠となった万葉集の「梅花の宴」が開かれた大伴旅人の邸宅跡ということですが・・・うっちゃんは少々解せない気持ちを持っております。
旅人の歌に「我が岡に男鹿来て鳴く・・・」とあることから、邸宅は岡(丘)にあったとして、坂本八幡宮付近ではないか、と指摘したのは故九州大学のK・T教授。 それが、即、観光パンフレットに記されたんです。 1986年に、九州歴史資料館が周辺を発掘調査しましたが、それらしき遺構は見つかっていません。 そして、そのまま2019年4月1日の「令和」発表を迎えたのです。 この数ヶ月で既に「令和」の聖地になってしまいましたから、それはそれで良しとしましょう。
大宰府政庁付近 太宰府市教育委員会パンフより)
うっちゃんは「大伴旅人と遊行女婦(うかれめ)児島」の物語の中では、大伴旅人の邸宅を政庁東側の月山(●印)付近としています。 ここも岡(丘)になっていますし、南側の官衙(かんが・役所 ●印)に近いので、政務を執りやすいと思うのです。 ここでは、幾つかの遺構が見つかっており、「大野城 心のふるさと館」の赤司善彦館長(九州歴史資料館のOB)も、ここの方が可能性が高いとみておられます。
坂本八幡宮から筑前国分寺跡に向かう歴史万葉の散歩道
この古道も趣があります。 奈良時代にタイムスリップしたような浪漫を感じます。
筑前国分寺跡 七重の塔(10分の1復元模型)
↑ 天平13年(741年)、聖武天皇は平和で豊かな国家を目指そうと、諸国に国分寺を建設しました。 よって、諸国の国分寺の総本山は奈良の東大寺になります。 創建は大伴旅人、山上憶良の時代より少し後になります。 金堂、講堂、七重塔、回廊跡などの遺跡が残っています。 左は七重塔の礎石、右は七重塔の1/10復元模型。
↓ 筑前国分寺跡から水城の東門跡に設けられた「水城館」まで徒歩約10分で到着。
水城館
↑ 「水城館」は、政庁跡に建っている「大宰府展示館」の分館となります。 展示資料やDVD映像などで水城の歴史を学ぶことが出来ます。
「大伴旅人と遊行女婦(うかれめ)児島」の物語の④は完結章で、この水城が物語のハイライトになります。
大伴旅人 遊行女婦・児島
水城での二人の別れと和歌4首を、どのように表現したらよいのか・・・悩みます。
水城大堤之碑
↑ 水城館の横に、水城跡を示す「水城大堤之碑」が建っています。 その後ろが水城の堤で、展望台になっています。 上るとかなりの展望が開けます。 博多の方を向いて目を閉じ、児島の気持ちになって情景を想像してみました。
水城から博多方面への官道ルート(水城館資料)
↑ 水城には東門と西門があって、西門からの官道は筑紫館(ちくしのむろつみ=鴻臚館)に至り、東門からの官道は粕屋町にあった夷守(ひなもり)の駅家(うまや=休憩・宿場=現在の日守神社付近)に至ります。
(太宰府市教育委員会資料)
旅人と児島の涙の別れが、どちらの門だったかは、「大伴旅人と遊行女婦(うかれめ)児島」の物語④の完結章でお答えします。
それから、6月23日、福岡市総合図書館で開かれた市民歴史講座で、前太宰府市長の芦刈 茂氏は「遊行女婦(うかれめ)児島の博多人形が、もう一体ある」と話されました。え~ッ、本当ですか? 元太宰府市教育委員長であり、福博の郷土歴史研究家であられる岡部定一郎氏が個人的に所有されているらしい。 もし、本当であれば、岡部さん! 期間限定でも構いませんから、大宰府展示館か水城館で公開して頂けないでしょうか? 一度、その児島を見てみたい・・・いや、会ってみたい。 ワクワクします。 美人なんでしょうね。
うっちゃんのまち歩き