「ヘイゴ、日本でトイレット・ペーパー騒ぎのとき、あなたの家族はどうしましたか」とか「日本の職場で、不要になった人間は、窓の近くに座らされると聞きますが、それはなぜですか」と質問された。
1987年にボクは英語も下手なのに、英国のオックスフォードのテンプルトン・カレッジに1ヶ月半ずつ3年にわたる短期留学を命ぜられた時の授業のひとコマである。ボクに質問した先生は、白髪の女先生でいくらかでっぷり肥っていたが、品のいい顔立ちで脚だけはカモシカのようにすらりとしていた。若かりしころは、美人だったに相違ない。

 

カモシカ
 

トイレット・ペーパー騒ぎというのは、それから遡ること14年前の1973年の秋のオイルショックの際の出来事だった。石油がストップするというので、油断などといわれ、紙がなくなってしまうという風評すら流れた。実際に、トイレット・ペーパーがなかなか手に入らず往生したものだ。ボクのところは、まだロール紙でなく、普通のちり紙でよかったから、問題はなかった。まさかそれを、50人もいるクラスメートに説明するのは、至難の業である。もちろん現在のようなお尻の洗浄装置はおろか、水洗トイレの普及も進んでいない、まだポットントイレの頃である。とっさにトイレット・ペーパーに話を持ってゆくべきでないと思い、すぐさま鼻紙の方向へ転じ、「私の家族が、なるべく風邪などひかぬように、外出時など鼻にマスクなどつけて、冬を過ごしました」と逃げた。美人の英国の先生の前で、日本の和式トイレの話など出来そうにもない。冷や汗ものであった。

 

トイレット

 

正月に久しぶりに家族が集まった。アメリカから休暇で家族と帰国した息子だが、ボクや家内と会うのは、1年半ぶりである。ボクらの関心事のひとつは、息子の英会話能力にある。彼には、手強い試験官が居並んでいる。義兄の一人は、生粋のアメリカ人だし、今一人の義兄は、最近TOECの点数が900点だとか。
「ボクだって、10人の部下は、みんなアメリカ人だよ。ちゃんと通じているよ」と息子は嘯いていたが・・・

 

次の窓際族についても、説明には苦労をした。窓際族とは、出世ラインから外れた中高年サラリーマンのこと。実質的な仕事は与えられず、遊軍的な存在として揶揄した言葉である。今の時代なら、とてもそんな余裕はないから、別の職場に配置転換だろうが、当時は、閑職におかれたものだ。これをみんなに説明するとなると存外難しい。しかも、ボクの英語力では、真実を伝えるには及びもつかない。

だから、こう言った。
「仕事にあぶれたわけで、窓の傍に座って今までの越し方など反省しつつ終日、窓越しに仕事を探してるんです」と。

 

窓際族


1987年というのは、石油ショックを克服し、日本経済の成長が著しく、やがてバブル経済に入ろうとしたころで、すこぶる景気がよかった。世界でもアメリカだけでなく、欧州の連中も日本経済の好調ぶりを羨望の眼差しで見ていたころである。だから、もっと日本から学びたいという機運があった。その日の授業は、日本のビジネスや生活スタイルを知ろうと、カモシカ脚の先生が、この話題を取り上げ、日本から参加のただ一人のボクに質問を投げかけたのだった。
 

みんな、初めて触れる東洋の習慣である。その後、なんだかんだとボクのところにやってきて、日本のことを聞きたがったものだ。その日の講義は、日本企業のたとえば、トヨタの「カンバン方式」や「カイゼン」について、事例を交えての話だった。ボクにとってもなかなか興味深い講義で、外国人からみる日本を始めて学んだ。四半世紀前のことである。


息子一家も楽しい正月を過ごして、アメリカへ戻って行った。試験官は、息子の英語にどうやら合格サインを出したようだった。子や孫を心配するボクにとって、心配の種は尽きない。心配は息子のみならず、孫にもある。アメリカの現地の学校に通っているというが、イジメに遭っていないか、遊び相手がいるかなどである。日本におれば、手伝えるものを、異国では手は出せぬ。今や完全な窓際族のボクは、窓外の雪景色を見ながら、息子の家族を想っている。