永年住み慣れた東京を離れ、故郷の百姓屋を<終の棲家>とすべく、東日本の大震災の年に帰ってきた。この春は、なんといっても、僕をビビらせたのは、頻繁な余震と計画停電だった。こんなことをいうと、被災地のみなさんから顰蹙を買いそうだが、お許しをいただこう。



地震の後、しばらくは、ガソリンを買うのに3時間もかかった。飲料水は、コンビニで売り切れ、お米を買うにも長蛇の列である。水が飲めない、エアコンは贅沢だと女房に言われる。夜は、計画停電とあって、テレビも思うにまかせなかった。くわえて、電車もバスも間引き運転、ホームは薄暗い、エスカレーターは休止、電車の中は、この寒い春の初めでも暖房はなしときた。都会は、便利さがウリモノのはずだったが、シルバー世代にとっては、不便この上もない無機質な人工空間になってしまった。


そうだ、田舎へ引越しをしよう。



こんな時期、都会を脱出するのは、卑怯だと思った。内心忸怩たるものがあった。ただ、僕の場合、一時期的な疎開ではない。腹を据えての<終の棲家>とするための引越だ。両親が生きている間は、年に2,3度は帰省したものだ。僕は意を決して、連休を待たずに、引越しを敢行した。


本格的な生まれ故郷の住人になるのは、半世紀ぶりである。今や、浦島太郎である。村人と会っても、誰が誰だかわからない。なにしろ、50年近く時間が経っているのだから。昔の海辺の家々は廃れ、500メートルも海辺から山側へ上り、新しくモダンな家並みを形成している。このあたりも、今や屋号など使わないから、誰の家だか、かいもく見当がつかない。村人は、我が家と僕を結び付けるから、僕を<何のたろべえ>か知るのは容易であろう。我が家といっても、ほんとうに百姓屋で、雨露をしのぐだけの陋屋という風情である。

だから、都会から引越ししてきて、1ケ月というのに、親しく口を利くのは、二人だけである。一人は、隣の50代後半の大工の奥さん。もう一人は、家の裏のビニールハウスで、ひがな一日苗床の世話をする80歳手前の婆さんである。二人は、僕が最近始めた菜園の先生たちである。女房は、はじめ引越しを躊躇した。村人との付き合いを煩わしいと考えたからである。しかし、それは杞憂というものであった。村人は、ハイカラである。今や歩く人とて少ない。立派な車で、我が家の門前を往来する。めったに口を利くこともない。僕は、<平成の浦島太郎>である。