二階のその部屋は、日中でも午前がいい。窓の外は、隣家のよく手入れされた庭園である。小鳥が木々をつたって、えさを啄ばむ姿が見える。いつかどこかで見た借景である。冬でも陽光が大きなガラス戸を通してやわらかく入ってくる。ガラスが二枚重ねのせいか密閉が高度に保たれて、温度が柔らかいばかりか音までが静かである。二十畳の広さの床は、単層フローリングで薄茶色の明るい光沢を持っている。三面ある壁のひとつは、広さいっぱいに本棚とし、細かく区切ったラックにいろんなものが載っている。書籍のほかにパソコンの液晶ディスプレイやプリンターもある。
 畳一枚ほどの大きな机が、書架を背に据えてある。一見豪華だが、キャスターの付いた二つの書棚に三十ミリの頑丈な合板を載せただけの可動式テーブル。椅子も長時間の作業に耐えられるように、手元のレバーでリクライニングと高さの調整は、自由自在。基調は黒で背もたれはメッシュ仕立て。部屋の間仕切りは、ワンタッチの電動カーテンウオールによって可能だ。書架の反対側、机の前方に壁いっぱいのスクリーンが広げられる。夜ライトを消せば、音響設備の整った映画館。大きな二つのスピーカが用意され、サラウンドステレオになる。カーテンウオールで書架を隠せば、観葉植物の園。窓際に並んだ植栽プラントにグリーンを基調に色とりどりの花が植わる。廊下と区分する中扉が部屋の入り口。外の音や声が漏れるのを防ぐようにどっしりとしたドアである。
 書斎として、ちょっと変わったところといえば、バーがあることだ。ドアを開けると右手に、長さ一間半ほどの木製のバーが取り付けられている。机を書架にくっつけて広さを確保すれば、バレーのレッスン場にも早変わりする。天井壁は単調に仕上げられクリーム色。ライトはその存在があまり出ないように、数箇所に配置され自然色を演出する。部屋の隅に、小さな三角テーブルがあり、その上に漆黒の香立がある。時には伽羅、沈香、白檀など香りが四囲を浄め、一種壮厳な世界を醸す。
 昨年の三月に長年勤めた会社を六十歳で定年退職した。退職後は、贅沢を言わなければ、もう勤めなどに出ずとも、何とか妻と二人で生活をできるようにと前から計画していた。定年を迎えて、一番先にやろうとしたことは、ひねもす身をやつす場所を確保することだった。書斎というほどではないが、最低机と椅子が欲しい。安楽椅子もあったほうがいい。以前、インターネットカフェというのに入ったことがあるが。あれは、機能的でいいが、ただ鶏のケージみたいで狭すぎる。もっと空間と無駄が欲しい。年中妻と鼻を突き合わせるのでは、先方もつらいだろう。お互い不干渉主義を貫ける程度の物理的と心理的な距離があるといい。妻にも日常の仕事があるだろうから、一階のリビングの占有を許そう。僕は二階を自由に使う。幸い三人の子供は、すでに巣立ち、彼らが使った部屋は空いていた。ただ少し狭いので、壁を抜いて広くする必要がある。家を出た息子や嫁いだ娘たちの了解を取り付けた。バレー教室を都内に持つ娘の一人は、実家に帰ったときにも練習ができるように、硬いフローリングとバーの取り付けを要求した。僕が飲んだ要求はそれだけで、あとは予算の確保だ。退職金の一部を取り崩すことにした。


 僕にとっての書斎という概念は、いつどこで形づくられたのだろうか。少し、思い当たる節がある。もう四十年以上も前になるが、高校三年の夏休み、夏期講座を予備校で受けようと、一ヶ月ほど母方の大伯父の家に寄宿したことがあった。家は、成城のまだ緑の残る奥まった高級住宅地にあった。大伯父というのが、田舎でも苦学力行の士として東京帝大を卒業し、立身出世の鏡と称えられていた母の伯父に当たる人物だった。逓信省の局長を務めたのち、ある私立大学の学長などを歴任し、当時は隠居の身と聞いていたが、飛騨の山中から出てきた山猿の僕には、それがどれくらい偉いのかよく分からなかった。頭髪が薄くて、ほとんど禿げていたが、立派な白ひげをつけて、妙に威厳があり、八十歳を過ぎてなお矍鑠としていた。

 

大伯父は、若い頃フランスとドイツに留学の経験もあり、いまだに書の虫だった。ときどきクラシック音楽など楽しんでいた。モーツアルトが好きだといっていた。モーツアルトの音楽は、オペラから宗教音楽、声楽曲、交響曲、室内楽、ピアノ曲さらには管楽器、グラスハーモニカまでほぼ全てのジャンルをカバーしているからと。一方で田舎が懐かしいのか、田舎のことが知りたいと幾度か書斎に招じ入れられた。書斎は離れの洋館にあり、書架の蔵書は洋書が多かった。ウエストミンスターの英々辞典など重さが十キロは十分あったろう。大理石の暖炉の上には、百号の油絵があった。日本人画家の手によるもので、番の孔雀が庭でえさを啄ばむ絵で重厚さがあった。大伯父は、大机の前の立派な椅子に腰掛け、僕をスツールに座らせて、僕のなまりのある田舎の話を聞いていた。話はたわいのないもので、ほとんどが田舎の屋号で分かる村人たちの近況などだった。コーヒや紅茶を馳走し、時には、机の引き出しから、チョコレートやチーズなども出してくれた。