最近、山から人里に下りて来て住民とトラブルを起こしている野生の熊達、このような熊達を“アーバンベアー”と呼ぶのだそうです。

『アーバン』とは『都会でくらす』という意味のようです。

実は、私も一度だけ野生の熊と出くわす体験をしたことがあるのです。

 

小学生高学年のころ、毎年の春と秋とに一度ずつ、クラスメイトの仲良し四人組で山歩きを楽しんでいました。

山歩きの当日は、予定の登山口から家が一番遠いメンバーが最初に家を出発し、次に遠いメンバーの家に寄って声を掛けて合流していくという方式でした。

私は三番目だったので、二人のメンバーが呼びに来るのを待っていればよかったのです。

持ち物はお茶の入った水筒と母に作ってもらったおにぎりのお弁当です。

 

私達の住む地域は東側から南側までが山に囲まれていて、連なる山々の尾根近くまで車も走れる林道が整備されていました。

そこで、私達の山歩きは、まず道の無い山の斜面をどこからか上り始め、ほぼ真っすぐに上ってその先にある林道を目指すというものでした。

林道まで辿り着くと、後はこの林道を歩きながらお弁当を食べる景色の良い場所を探します。

お弁当を食べた後は、遠回りにはなりますが、大きく迂回している林道を通って帰って来るというものでした。

 

山歩きの楽しみは、気の合う仲間と一緒に一日を過ごせることでした。

もちろん景色の良い場所で仲間と一緒に食べるお弁当も楽しみでした。

そして、秋だと野生しているアケビを見つけることも山歩きの楽しみの一つになっていました。

アケビはツル性の植物で日当たりを好みます。

ですから、森林の中よりも、むしろ林道の脇に生えている茎の細い木の枝に巻き付いて成長し、林道からも良く見える頭上に実を付けているのです。

薄紫色の外果皮がパックリと割れて、中にある真っ白な果肉を見せているアケビを見つけたときには、何か説明のつかない感動を覚えました。

 

秋の山歩きでは、たいてい三、四個のアケビを見つけることができました。

この地域の山で見られるアケビは、薄い紫色に白が混じったまだら模様で、見た目がとても愛らしく魅力的なものでした。

多くの日本画の題材としても取り上げられているアケビのような色合いのもので、薄い紫色というよりも、有毒な銅のさびの緑青(ろくしょう)でないと出せないような色合いのものでした。

頭上にある実を取るのはいつも大変でしたが、外果皮が縦にパックリと割れて美味しそうな果肉を見せているアケビを取らずにあきらめてしまうことはできませんでした。

長い木の枝を探してくるなどして、あきらめずに必ず収穫していました。

収穫したアケビの味はというと、甘みの少ないバナナのような味というのが一番近い表現だと思います。

ただ、表面が粉雪のように真っ白でやわらかな果肉の中身のほとんどが黒い種子でした。

そのため、味わえる果肉はほんのわずかで、吐き出さなくてはならない種子の方が圧倒的に多かったのです。

それでも、枯葉の増えた秋の山道で目にするアケビの印象は、とても気持ちを高揚させてくれるものでした。

 

林道の道端にはスイコと呼ばれるフキのような植物も生えていました。

これを見付けたときには、茎を折ってやわらかい茎をかじります。

すると、甘みは少なかったのですが、苦みのない酸味が効いた汁が口の中に広がり、多少なりとものどの渇きを癒してくれるものでした。

 

野生の熊と出くわした秋の山歩きは、林道を歩きながらお弁当を食べる景色の良い場所を探しているときでした。

歩いていた林道のすぐ横に樹木の切り取られた山の斜面が尾根まで続いている場所が見つかりました。

この斜面を尾根まで上れば、そこからの見晴らしはとても良さそうです。

そこで、その尾根で昼食を摂ることを決め、すぐに上り始めました。

その斜面にはまばらな低木と下草だけしか生えていなかったため、難なく尾根まで上ることができました。

 

上り切ってみると、尾根の先には背の高い樹木が林立しており、うす暗くなった根元にはクマザサがびっしりと生えていたのです。

その辺りで、座って昼食を摂れる景色の良い場所を探し始めていたときのことでした。

突然、そのクマザサの中を黒い塊が『ザッザッザッザッザー』という大きな音を立てながら、すごい勢いで駆け抜けて行ったのです。

「クマの子かな?」

「すぐに、逃げた方がいいよ!」

恐怖からか、四人とも血の気が引いたような顔色になっていました。

子熊がいると近くには親熊がいるからとても危険であることを大人達から言い聞かされていたからです。

その場から離れるために、四人はあわてて少し前に上って来た山の斜面を駆け下り始めていました。

そして、二十分程かけて上って来た山の斜面を、わずか二、三分で駆け下りていたのです。

このとき、普段なら大汗をかいている状況でしたが、誰一人として汗一つかいていませんでした。

やはり、それだけみんなが恐怖を感じていたのだと思います。

 

この日の私の記憶の中に、どこでお弁当を食べたかの部分が欠けているのです。

ただ、林道を歩いて帰る途中、たまたま道端の雑木林の奥に明るく光る光景を見付け、その明るさの原因を調べるためにその雑木林の中に入ってみたのです。

すると、雑木林はすぐに途絶え、そこから先は深い谷へと続く崖になっていました。

そして、深い谷を越えた対岸の崖が昼下がりの明るい日差しを浴びて明るく光っているのが見えたのです。

その崖にはむき出しになった地層のしま模様が見えていて、その地層の至る所に紅葉したヤマツツジが生えていました。

赤色や黄色や茶色の地層のしま模様が作り出すグラデーションとそこに点在する赤く紅葉したヤマツツジが作り出す光景がとても鮮やかで、沈み込んでいた私達の気持ちを高揚させてくれたのです。

 

この明るい紅葉の光景が原因なのか、本来は恐怖の体験として記憶されるはずの山歩きが、恐怖感とも高揚感とも言えない不思議な感覚の記憶として、今でも頭の中にくっきりと残っているのです。

                          〔 カーネル 笠井 〕