一年ほど前、新型コロナウイルスによる感染がまん延し始めた頃のことです。
地元の自治会の広報誌を作成する際、文面にそれまで使われていた“安全・安心”を使うのか、それとも、そのころから使われ始めていた“安心・安全”を使うのかを議論したことを覚えています。
それまで使われていた“完全・安心”の考え方は、『安全が確保されて初めて安心して行動することができる』と、いうものでした。
ところが、新型コロナウイルスによる感染拡大が始まってからは、この安全から安心に至るまでの過程が難しくなってしまったのです。
それは、新型コロナウイルスの感染を完全に収束させることが難しく、安全が達成されない状況では安心に到達することができないからです。
そんな背景があるからなのか、そのころから“安心・安全”という表現が使われ始めたように記憶しています。
安全には科学的なエビデンス(証拠)が不可欠です。
しかし、安心は心情の問題であるため、『完全に安全とは言えませんが、それほど心配する必要もないので、まずは安心して行動して下さい』と、いったニュアンスでの使われ方をしているのです。
確かに、いくら新型コロナウイルスやその変異株が強力だと言っても、もしある地域の住民全員が2週間の間、外出はせずに家の中に閉じこもっていれば、その地域での新型コロナウイルスの感染は終息してしまうのです。
たとえ、家に閉じこもる直前に感染したとしても、2週間後には体内にウイルスに対する抗体ができ、もう他人には感染させない状態になっています。
つまり、この新型コロナウイルスの最大の弱点は、新たな感染者の中でしか存続できないことなのです。
ですから、あまりにも感染拡大が広がって、それこそ『緊急事態』を越えた『非常事態』になったとしても、2週間の全員隔離を実行すれば、それでこの問題は解決してしまうのです。
きっと、こんな観点から考えることで、『それほど心配する必要はなくて、まだ安心』と、いった内容のコメントが生まれて来たのではないでしょうか。
2003年の『サーズ』では、感染拡大の初期の段階において“感染=死”という構図ができていました。
そのため、私を含めた周りの多くの人達がサーズの感染の恐怖に震えあがっていたのです。
そんなとき、韓国の医師が日本に旅行に来て、帰国後にサーズに感染していたことが判明したのです。
すると、その医師の日本での滞在先や旅行経路のほとんどで徹底した消毒作業が行われ、この内容が詳しく報道されていたのです。
サーズの感染恐怖はそれほどのものだったのです。
これに比べると、今回の新型コロナウイルスでの死亡率はそれよりもはるかに低く、この点では多少なりとも安心という心情に近いのかもしれません。
しかしながら、新型コロナウイルスに関しては、行動につながるような心情的な安心はまだ誰にも得られていないのです。
だからこそ、どうして安心なのかを丁寧に説明して納得してもらわなくてはなりません。
それなのに、そんな説明を省いてしまった最近の“安心・安全”という言葉の使われ方には少し疑問を持ちます。
具体的な内容を一つも説明せずに、頭ごなしに『安心・安全に務める』と、言われても、誰も安心することなどはできないのです。
東京オリンピックに関しても、『安心・安全な大会にする』と、言った説明を良く耳にします。
『安全は担保できないが、それでも安心して下さい』と、いった使われ方です。
今が安全でないことはほとんどの人が知っています。
それでも安心しろと言うのですから、それが安心である理由をもっと丁寧に説明して納得してもらう必要があるはずです。
そんな説明さえないままに、一年ほど前に私達を悩ませた“安心・安全”という言葉の使われ方だけが、勝手に一人歩きしているように思えて仕方がありません。
〔カーネル笠井〕