借りる時の地蔵顔、返す時の閻魔顔 -2ページ目

借りる時の地蔵顔、返す時の閻魔顔

金を借りる時は優しいにこにこ顔をするが、返すときには不機嫌な顔をすること。

前代未聞の恐ろしい殺人事件のあった家……四人の無疵の死骸に護られた室……その四人を殺した不可思議な女の霊魂の住家……奇蹟の墓場……恐怖の室……謎語の神殿……そんな感じを次から次に頭の中でさまよわせつつかちかちと歯の根を戦かしていた。
 その時に私の背後を轟々たる音響を立てて、眼の前の硝子窓をびりびりと震撼して行くものがあった。それは中野から柏木に着く電車であった。その電車は、けたたましい笛を二三度吹きながら遠ざかったが、あとは森閑としてしまった。……間もなく、
「……柏木イ――……柏木イ――イ……」
 という駅夫の声がハッキリと冷たい空気を伝わって来た。
 私ははっと吾に帰った。同時に、おそろしい悪夢から醒めたような安心と喜びとを感じた。
 ……今まで見たのはこの世の出来事ではなかった。死人の世界の出来事であった。死後の執念の芝居であった。死人の夢の実現であった。
 けれども私は依然として生きた私であった。生きた血の通う人間であった。電車が通い、駅夫が呼び、電燈が明滅し、警笛が鳴る文明社会に住んでいる文明人であった。……そうして眼の前に展開している死人の夢の最後の場面……四つの死体に飾られた私の室も、やはり、科学文明が生み出した日本の首都、東京の街外れでたった今起った一つの異常な事件の残骸に過ぎなかった。それは当然私が何とか始末しなければならぬ目前の事実であった。
 私はこの時初めて平常の狭山九郎太に帰る事が出来たのであった。
 ……構うものか……這入ろう……。
 と思った。それと同時に青年時代からこのかた約二三十年の間影を潜めていた好奇心が、全身にたまらなく充ち満ちて来るのを感じた。
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